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01 陽の当たる庭

「この立地でこの陽当たりは信じられないでしょう? ちょっとした奇跡ですよ」

 武藤という若い不動産屋の従業員は白いワンボックス車のドアを威勢良く閉めると、周辺のビル群を見上げ我がことを自慢するように勢いこんだ。

 それぞれのビルが周囲への日照権に配慮して建てられたせいもあるのだろうが、高い建物に囲まれた土地で空がこうも広いのはたしかに彼の言うとおり奇跡と言うべきなのかもしれなかった。

「ハッキリ言って、かなりの優良物件ですよ」

 駐車場からその住宅へ続く小路を歩きながら武藤は振り返って力説する。

 商売柄そんな表現しかできないのだろうが、耕司がここを訪れたのは不動産を求めてのことではない。

 叔母の遺産なのだ。

 叔母が武藤の会社に管理を任せていただけのことである。

 武藤の誉め言葉を鵜呑みにするなら叔母がこの土地を買ってここに家を建てたのは慧眼であったかとあらためて感心する。

 敷石を辿ると突き当たりに背丈ほどの青い金網フェンスがあった。フェンスは中途半端に切れてその向こうは生垣が申し訳ていどの目隠しとなってぽつぽつと続いている。

「ここまではそこのビルの裏口とかを利用する人がたまに入って来ちゃうんですよね。だからかな、昔はこっちの垣根だけだったんですが、あとからフェンスを作ったみたいです」

 と、ひけらかすような調子で言う。

 生垣沿いにしばらく進むと奥まった旗地に建物の玄関が現れた。平屋建てであるせいか一軒家というよりは長屋のような印象だ。その要因となっているのが南に面した大きな縁側だった。築六年のまだ新しい家なのに時間の流れから取り残されたような古めかしさだ。縁側に面した広い庭にはよく手入れされた植物が青々と育っている。

「まさに都会のオアシス、って感じで、ちょっとビックリでしょう?」

「まあ、そうですね」

 武藤はこの家に相当な思い入れがあるらしかった。他人の家をことさら自慢したがるのは不動産屋の性なのだろうかと耕司はおかしな感想をもった。

「専らウチの塚田が管理に来ていたんですけど。ボクもね、たまには様子を見に来ていたんですよ。庭木に水をやったりとかね」

 玄関の鍵を開けつつ武藤が振り返る。

「それは、ありがとうございます」

 立場としてはこちらが礼をのべるべきなのだろうと耕司はそう合わせておいた。

「どうぞ」

 武藤はどこから取り出したのか上がり框に簡易的なスリッパを並べた。それをつっかけて廊下を進む。

 居間は板敷の広い空間だった。部屋の一角がダウンフロアになっており、外観からはとても想像できないモダンなリビングであった。東側の隅には畳敷きの小上がりも設えられていた。

 亡き叔母のこだわりが随所にあるのを感じて取れる。

 叔母が使っていた箪笥やテーブルなどの家財もそのまま、大きなシートで覆われていた。

「十二日に清掃が入りますから、シートはそのときに撤去します。お引越しは十四日でしたよね」

「あ、はい」

「それまでにはガスや水道も使えるようにしときますんで」


 耕司がこの家に転居する決意をしたのは会社を退職する決意をしたのと同時だった。もともと健康に不安のあった体が過労と栄養失調でついに悲鳴を上げた。入院治療を余儀なくされたころには精神的にも切羽詰まって、会社にとうとう辞表を提出した。辞表はすんなり受理された。どうやら会社も休みがちな耕司を快く思っていなかったようだとその時に気づいたのだった。幾許かの退職金を貰っておよそ七年間勤めた会社を離れることになった。背中を押したのは叔母が自分に遺してくれたこの家の存在だった。

 耕司には身寄りと呼べるものが叔母しかなかった。大学も卒業間近のころに耕司は事故で両親を亡くしている。なんとか卒業だけはしたが、たいした就職活動もできぬまま幼少の頃から住み慣れた賃貸マンションを出て安アパートを借り、小さな会社に勤めはじめたのだった。その耕司をことあるごとに気にかけてくれていたたった一人の肉親が叔母のひかるだった。その光も先日ひっそりと息を引き取り、耕司は天涯孤独となった。多忙のあまり同じ都内に居ながらずっと疎遠になっていたのだが、そんな耕司に光はこの家と財産の一部を遺してくれたのだった。

 光は塩田しおだ雅太朗まさたろうという資産家と結婚して、いっとき都心で豪奢なマンション住まいをしていた。ところがその夫も四十六歳という若さで鬼籍に入っている。夫妻に子供はいなかった。まもなく彼女はマンションを出てこの郊外の土地を購入し小さな家を建て一人暮らしをはじめた。約六年の間ここで生活し、先日五十二歳でみじかい生涯を終えた。

 光は夫の遺産のほとんどすべてを夫方の親戚に分配し自分のものだけを持ってここに越してきたとのことだ。それでも遺言執行人から見せられた書類にはちょっと驚くほどの額が記載されていた。その一部を耕司が相続し、残りは夫の遺族である塩田家が引き継ぐことになった。耕司の手に余る面倒な相続はすべて塩田家に託された。耕司にとって必要なものだけが理想的な形で遺る、気の行き届いた分配だった。光に遺子がいれば当然相続権など発生しようもなかった耕司である。塩田家にたいして自分の取り分など主張するつもりは毛頭ない。以前に夫の遺産を光が放棄したこともあって、塩田家の方からも異存が出ようはずもなく、すべてが丸くおさまった。

 耕司はこの家でしばらく静養しながら体に負担の少ない仕事を探そうと決めていた。勤労意欲はあるがいかにせよ体が言うことをきかない。亡き叔母に頼ることになり申し訳ない気持ちでいっぱいだが、とにかく今は健康を取り戻すのが先決だと自分に言い聞かせた。


 耕司が引っ越したのはまだ暖かい日射しが残る初秋の日だった。アパートから持ってきた持ち物もさほどなかったので、午前のうちに簡単に済んでしまった。

「さて」

 と、周囲を見回したところですることがない。清掃は完璧に済んでいたし、収めるべきものもあらかた収めてしまった。遺品――と呼ぶべきか、この家には叔母の使っていた日用品の類いがそのまま残されていたので何一つ困らない。光の愛した調度はどれも良いもので、耕司がアパート暮らしをしていたときなどよりよほど豊かな暮らしができそうだった。

 耕司は歩いて十分ほどのところにあるスーパーマーケットへ食料や生活用品を買い足しに出た。ふうふう言いながら重い袋を下げて戻り、おもむろに昼食を作り始めた。

 耕司にはこの料理というものがどうも億劫で仕方がない。しかし体のことを考え外食ばかりだった生活は改めるべきだと誓って、退職以来よほどのことがない限り自炊することにしている。

 勝手のわからない厨房でフライパンと格闘しているとき、ふと庭のほうへ視線がいった。庭先で何か動くものがあったからである。

 この家の敷地はいわゆる『旗地』であり一番奥まった土地にこの家がある。縁先には叔母の作った菜園と花壇、その先には芝生がある。庭の向こう、南側は通りに面する小さいビルが建っている。ビルは上階の北側の端が斜めにカットされており、おかげで庭の大部分と、そして母屋には日中、陽が降り注ぐ。このビルとその東側に建つもう一つのビルの間に細い通路があるのだが、その路も含めて叔母から譲り受けた私有地である。不動産屋の武藤も言っていたが、フェンスは後から設けたもので、東側にのビルに面した僅かな距離を仕切るのみであとは途切れている。フェンスを回り込んで垣根の間から庭に立ち入るのは容易である。その芝生に誰かがこちらに背を向けて座り込んでいる。

 耕司はガスの火をいったん止めると縁側からサンダルをつっかけて出た。

 叔母が亡くなってから耕司がここへ来るまでの間、屋敷はしばらく空家になっていた。その間不動産屋が管理していたとはいえ四六時中目を光らせていたわけではあるまい。不審者でも入り込んでいたのだとしたら問題だ。

 物騒な考えが頭をよぎるのを振り払い後ろから近づいて声をかける。

「あのう……うちに何かご用ですか」

 耕司の問いかけに、ひやぁっ、と飛び上がったのは相手のほうだった。相手は驚いた拍子に持っていた弁当箱・・・を頭上高く放り上げた。中身が散乱し無残にも箱がポトリと土に伏せて落ちた。

「あ……」


「す、すみません。ビックリさせてしまって……」

「いいえ、勝手にお宅に入り込んだわたしがいけなかったんです」

 そう言って謝ったのは事務員服姿の若い女性だった。耕司が事情を話したところお線香を上げさせて欲しいというので、家の中に招き入れたのだった。

 真新しい位牌が置かれた仏壇を前に正座して女性は手を合わせた。傍らには生前の塩田雅太朗氏と光の写真が小さな額に入れられ並べられていた。雅太朗の写真は光が、光の写真は耕司が、そこに並べたものである。

「僕は叔母……この家を建てた塩田光の甥で、磯谷いそがい耕司こうじといいます。叔母からこの家を遺産として譲り受けて今日から住むことになりました。よろしくお願いします」

「こ、こちらこそ……」

 と頭を下げた女性はフェンスの向こうのビルに入っている『ふたば企画』という会社の社員で、島田しまだ紗那さなと名乗った。

 ビルの裏口から通じているこの家の庭が格好のランチ場所だということで彼女は昼休みに垣根の間から芝生へ入り込み持参の弁当を広げていたのだった。

 ビルの利用者がたまに入って来る――不動産屋の武藤がたしかにそんなことを言っていた。この庭はどうも立地的、景観的にいって周囲をとりかこむビル達の中庭のようになってしまっているのではないか。もしかすると彼女の他にもこういった人がいるのかもしれないと耕司は思った。

 紗那は一見して古風な面立ちの美人であった。叔母とは似つかない目鼻立ちをもつ彼女にどこか共通点を見つけようとしていることに気づいて耕司は戸惑った。

「光さんがまさか、亡くなっていたなんて……」

 その様子が光のことを心から悼んでいるようで、また生前から親交があったような口ぶりだったので、

「叔母とは、親しくしてもらっていたのですか」と問いかけた。

 紗那は正座を崩さぬまま耕司に向き直って、

「特に親しかったということでも……。たまに顔を合わせてご挨拶するくらいでした。でも、わたしがいつもお昼にお弁当を持ってそこの公園まで出かけて行くことを知って、あるとき『うちの庭で食べてもいいよ』って言ってくださって」

「そうでしたか」

 しかしながら『光さん』と名前で呼ぶくらいだからそれなりの付き合いがあったのではないだろうか。耕司の知る限り光は人見知りで滅多に自分から他人に声をかけることはない。晩年は多少人間不信ぎみでもあり人付き合いは意識して避けていたのにと少々不思議に感じた。

 耕司は食卓に二人分の食事を用意した。

「こんなものでよければ召し上がっていってください。お昼を台無しにしてしまったせめてものお詫びに」

 初対面の女性に自分のつくったものを一緒に食えなど、いいのだろうかという気もしたが、滅多に怒りえないこんな状況下においてはどうするべきかさっぱり判らない。やはりこうするのが正解であるように思えた。

 紗那の言を信じるのなら庭に立ち入ることを光に許可されていたという彼女に非はない。むしろ詫びるべきは不用意に声などかけた耕司のほうである。

「そ、そんな。申し訳ないです。すぐそこにコンビニがありますから」

 と、紗那も固辞する。

 彼女の昼休みがいつまでなのかは知らないが、たいていの場合一時間かそこいらだろう。買い物に走っている時間などすでになかったし、彼女の言うコンビニはすぐそこ(・・・・)とまで言える距離ににないことも耕司は知っていた。

「でも、もう用意してしまいましたし……」

 言ってから、自分の食事は後にして彼女の分だけにすればよかったのだ、とあらためて気づくがもう手遅れだ。そこへきて紗那の腹がぐうと鳴った。

「恥ずかしい……」

 紗那は顔を真っ赤にして俯いた。

 耕司は申し訳なさそうに、

「本当に、お嫌でなければ……」

「とんでもないです。では……お言葉に甘えさせていただき……ます」

 消え入るように小さな声で彼女はそう言った。


 この家で過ごす初めての夜は幻想的だった。空には見事な月が出ていて、月明りの庭には木々の影がさしている。

 こんなに明るい月のもとでは影がくっきりとできることを耕司はあらためて知った。

 叢のどこかで虫たちの囁きが聞こえる。

 耕司は酒を嗜まないが、いわゆる晩酌というものに憧れだけはあって、たまにつまみ(・・・)らしきものを作って麦茶やジュースで真似事をすることがあった。すぐにつまみになるようなものが何もなかったので昼間スーパーで買ってきて使わなかったほうれん草を茹で、お浸しにして麦茶のボトルを抱えて縁先に出た。

 こんな癖がつきはじめたのはいつからだったろう。おそらくはなんとなく体調がおかしくなりはじめたころだ。多忙な日々のふとした隙間に、いくぶん感傷的になって物思いに耽る時間を持ちたかったのがはじまりだったように思う。

 そしてこの家の縁側はこういうことをするのにもってこい(・・・・・)の場所だった。

 縁先には光がやっていた家庭菜園がある。今は見る影もなく雑草が生い茂っている。ここをふたたび拓いて自分も野菜を育ててみようか、などという考えが頭をよぎる。もしかしたらほうれん草くらいなら作れるかも知れない。

 つれづれに耕司は昼間の出来事を思い返した。

 島田紗那と名乗ったあの女性事務員は、耕司が適当に作った何の変哲もない野菜炒めを美味しい美味しいと言って食べてくれた。そのたった一言がとても嬉しく思えたのだった。ならばこれからは料理にもう少し凝ってみよう。今まで料理なんて見向きもしなかったが、褒められると俄然関心が向く。料理ばかりではない。耕司はいままで何事にも無関心すぎた。

「でもあれはきっとお世辞だったんだろうな……」

 とりとめもないことが次から次へと思い出されるが、耕司はその流れに思考を委ねた。今となっては時間が十分あるのだし、こうすることが今の自分には必要なのだと思われるのだった。

 叔母の光もこの縁側でこうして一人で物思いに耽ることがあったのだろうか――。

 月が雲間に隠れ急に辺りが暗くなった。

 そして今さら気づいたが、空にはほかの星も浮かんでいたのだった。

 耕司は南の空を見上げた。

 この時季に南の空に浮かぶあれは何という星座、何という星だったか。

 ――ペガスス座、そしてフォーマルハウト。

 学生のころはいろいろな星や星座を覚えていたのだが、ほとんど忘れてしまった。

 そう、そのきっかけも光だった。

 耕司に星のことを教えてくれたのは叔母だった。

 あれは幾つの頃だったか。たしか十二歳かそこいらだったと思う。

  母の実家の祖父母の家へ行った時のこと。

 光はすでに社会人になっていたが、まだその家で祖父母と一緒に暮らしていた。

 その日はとても寒かったのに彼女はいきなり部屋の窓を開け放ち、空を指した。

 ――ほら耕ちゃん、あれがオリオン座だよ。

 光は他にもいろいろな星の名前を教えてくれた。

 そんなことがあってまもなく耕司も天文部へ入ったが、結局すぐに幽霊部員になってしまった。もともと星になど興味はなかった。動機が光と話をあわせたいからというだけだった。

 耕司は光が憧れだったのだ。

 間もなく彼女は塩田という実業家と結婚し都心のマンションに引っ越してゆき、それきり会いづらくなってしまった。

 十九歳も上の叔母だったが、それが耕司の初恋だったのかもしれない。

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