胎動
──そこは、世界ではない。
名を持たぬ空間。
詩律の外。因果の外。時間の外。
神語は沈黙し、法は腐り、祈りは失せる。
けれど、ただ一つ──
“それ”だけが、在る。
虚の胎。
幽血種の原初にして終末。
真祖の姫を封じる、神域の異界。
黒曜の大地。
反転した空。
光のない光景。
空間は、そこにあるだけで異様だった。
石造の神殿が浮かび、朽ち果てた墓標が天に逆さに並ぶ。
空は深海のように澱み、星の骸が微かに腐っては落ちていく。
何もないはずのその場所に──ただ一つ。
石棺。
白。純白。圧倒的な異物。
そこに眠るは…
血の眷属たちすら近づけぬ、「彼岸の象徴」。
本来、何者たりとも立ち入れぬこの領域に、
誰かの──世界の外から零れ落ちた、微かな「音」。
「ふうん──誰?」
それは詩ではない。
祈りでも、呪いでもない。
もっと──醜くて。
もっと──
──あぁ、久しいな。
こういうの。
虚の胎がうねった。
石殿が軋み、空が歪む。
天に突き立つ逆さ墓標が、ざらりと微動する。
世界の底が、不穏に鳴った。
石棺の中。眠る少女──ミュゼリアは、まだ瞼を閉じたまま。
けれど、唇だけが、わずかに。
愉悦と退屈の混じる、歪な弧を描いた。
「……来たのね。」
その白い指先が。胎へと触れる。
──反響。
世界の外殻が、音もなく、罅割れる。
虚ろの胎が、応える。
少女の唇が僅かに動く
ひび割れろ、《ト・シュンボラティア》
滲め、《フォーネー・エンゲグラフェ》
滴れ、《テュラネ・エク・ガストロス》──王胎よ
ささやき声にもならないその詠唱に空間が軋る
震動──胎大地が赤黒に脈打つ
逆さ墓標が呻き、胎界に禍々しい紋様が浮かぶ
呼べ、《エピカレイオー》
濛れ、《ネフォス・ケノン》
咲かぬ荊、《アナントス・アカントス》、穿て
歪曲──虚空が裂け、腐霧と荊棘が生まれる
墓標の影がねじれ、天空が泡立つ
腐れ、《ピュオ・アポレウサ》
滴る骸、《ネクロス・ウパトゥス》を孕め、《フォーネー・アグノートス》
侵蝕──詩律が朽ちる
音が泣き、存在境界が侵される
世界の輪郭がぼやけ、因果が裂ける
土と肉、《ゲー・カイ・サークス》
螺じ戻れ、《ガストール》
──還れ
胎動──天空に浮かぶ禍環
石棺を中心に、闇と光と腐爛が螺旋を描く
腐爛せよ、《ミアスモス・ウーラニオン》天蓋。
反響──虚空全域に黒い花弁状の歪み
空はひび割れ、逆さ墓標が爆発的に膨張し
瞬時に腐り落ちる
──そして。
沈黙
虚ろの胎は、再び沈黙する。
ただ、少女だけが、確かに。
微笑する。
「ふふ……やっぱり。」
「腐る音……壊れる世界……」
「──最高に、気持ちいい。」
その声は、甘やかに。けれど、底冷えするほどに。
「待ってなさい。」
「アタシが外に出るときは……」
「この空全部、腐らせてあげるから。」
それが──幽血の真祖。
虚ろの姫、ミュゼリア。
世界がもっとも関わってはならぬ、眠れる災厄。
まだ、その瞳は、閉ざされたまま。
けれど、その名が刻まれた瞬間。
世界の詩律は、確かに軋んだ。
それは、ほんの序章にすぎない。
終わりの始まりすら、まだ遠いというのに──。




