第26話 最後の聖女
翌日、まだ陽が昇り始めたばかりの早朝。
未明から起きて身を清めたルシルは、シメオンを含めた数人の神官たちと霊峰を登り始めた。
神官たちに先導される山道は険しく、急な斜面では岩肌に鎖が打ち付けられ、狭い足場では木板が渡されていた。
空腹で足がフラフラとしたけれど、これで最後だと歯を食いしばる。
ひたすら登るにつれ、空気が澄んで冷たくなってくるのがはっきり感じられた。
樹木の背が低くなり、草花は減って代わりに岩石が多くなる。
幸いに風はそれほど強くない。
やがて、雪が降ってきた。
ひらひらと、大きくて軽い雪が灰のように宙を舞う。
静寂の中、自身の呼吸と、山靴が踏みしめる音だけが聞こえる。
厚く着込んでいるので体は寒くないけれど、露出している顔は冷たく、吐いた息は白く凝った。
ほんの数日前には水着で海に入っていたことを思い出し、なんだか可笑しくなる。
そうして太陽が中天を過ぎた頃に、山の七合目あたりにある湖へと辿り着いた。
ここが『神婚巡礼』の最終目的地。
神の住む世界に繋がっているとされる、凍った湖。
湖には途中まで木の橋がかけられ、その先の氷はあらかじめ割られていた。
そこへと身を投げるのだろう。
外套と上衣を脱ぎ、靴も脱ぎ、肌着のような白くて薄い祭服となった。
胴には長い縄が括られる。体は後で縄を引いて回収するそうだ。
薄着の恥ずかしさもあるけれど、とにかく寒い。
神官の一人が長い棒を持っている。あれは一体何に使うのだろうか……?。
「聖女様、旅の間たくさんの奇跡を拝見させて頂きました。主の御許へ行かれた後も心安らかであることを祈っております。今回ご一緒できたこと、間違いなく私の生で一番の僥倖でありました」
シメオンがそんなことを言ってくる。
感情を内に抑え、わずかに口端を上げて微笑むような、そんな聖職者の顔。
「神父様、私の方こそ大変お世話になりました。その……最後に一つお願いがあるんです」
「伺いましょう」
「私はここで終わりです。それで……今回の儀式の予算っていうんですかね? その中で私が自由にできるお金が残ったのなら、一部でも難民の人たちを救うために使ってもらえないでしょうか」
さすがにこの場でまったく新しい話を出さないくらいの常識は持っている。
島に渡る前に、予めシメオンには同じことを伝えていた。
そうして彼から、この頃合いでもう一度言ってくださいと返されたのだ。
聖女の最期の言葉は公式に記録されるものであり、もし現実的な範疇の願いであれば、教会はそれを叶えるため尽力するのだそうだ。
最期が金の話なのはどうかと思うけれど、それで助かる人たちがいるのなら何も問題はない。
「……確かに承りました。通例であれば余剰分は次回に繰り越すのですが、今回は聖女様の強いご希望であったと上申いたします」
そう言ったシメオンが後ろの神官たちに振り返ると、彼らは頷きを返した。
拗れそうになった場合は、証人になったり、後押しをしてくれるという意味なのだろう。
「ありがとうございます。街に渡すのがいいのか、街の教会に渡すのがいいのか、お金ではなく物に変えた方がいいのか、その辺は私には分からないので、すいませんがお任せします。ち、ちなみに、私が湖に入った後は、すぐに撤収ですか?」
「いえ……半刻ほど祈りを捧げますが……」
「な、なら良かったです。もしかしたら何か起こるかもしれません。で、では神父様、どうかお元気で。――さようなら」
寒さで歯を鳴らしながら最後の別れを告げると、哀惜か憐憫か、そんな色が一瞬だけ彼の瞳を揺らした気がした。
事ここに至って逡巡はない。橋の先まで一息に行く。
下を覗き込むと、水は怖いくらいに透き通っていて、それでも深いところは暗く底はまるで見えない。
覚悟は昨日のうちに済ませた。
橋からひょいと跳び、凍れる湖に足から入る。
冷たさなど通り越し、全身を刺すような痛みがあったけれど、そんな感覚もすぐに消えた。
ゆらゆらと体を水の好きにさせていると、視界が暗くなってくる。
そうして闇に浮かんだのは、二人の男性。
前世のエリクと、今生のクロードだった。
なんだか二人とも顔をくしゃくしゃにしているから、思わず両手を差し伸ばす。
それぞれが片手ずつ、甘えるように顔を擦り寄せるから、今度は届いて良かったなと思った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ルシルが湖に入った後、シメオンはとっくに波紋も消え、鏡のように静かになった水面をじっと見ていた。
――躊躇うこともなく、逝ってしまった。
彼女は明らかに神と通じていた。
語った神は、自分たちが崇めるものとは随分と違っていた。
どうやら前世の記憶さえ持つらしく、明らかに一線を画す境地に立っていた。
それでいて、その辺にいる普通の娘のようだった。
そんな唯一無二の生を終わらせてしまった。
いや、そんな彼女だからこそ主の花嫁として相応しいのか。
そもそも死病で長くはなかった。
それでも――
そんな堂々巡りをしていると、地響きの低い音と共に、山が揺れだした。
湖を覆っていた氷が大きく割れ、やおら立ち上がる。
板状のそこへ、ピキピキと高い音を立てながら複数の文字が同時に刻まれていく。
神代文字、使われなくなって久しい古の文字。
線の長さや跳ねの有無で、似たような記号がまるで違う意味を持つ。
同じ文字でさえ前後の文脈で意味が大きく異なるので、解読の難易度が非常に高い。
そして、レイダ聖教の原典を編んだ文字でもある。
しばらくして揺れはおさまった。
やれ奇跡が起きたと歓喜しながら、消えてしまわぬうちにと必死に文字を書き写す神官たちを尻目に、シメオンは肩を揺らしククッ、と喉で笑った。
「聖女様、あなたを測ろうなど、私としたことがまったく浅慮でありました」
雪はいつしか止んでおり、湖には雲間から数条の光が射していた。
彼には、それが天へと続く階のように見えたから、今度は空を仰いでそこに少女を探した。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
後日、神官たちが書き写した神代文字を教会付きの言語学者たちが解読し、結果は全会一致。
教会に都合の良い解釈をするには文が短かすぎた。
『満足した。贄はもういらぬ』
贄の部分を別の言葉に変えられないか、何度か議論がされたが成果なく終わり、結局はその訳のまま奇跡禄へと記載がされた。
ルシルは死後、聖女として教会から正式に列聖された。
旅の間に多くの逸話を残した彼女はとても人気があり、建立された廟には日々、多くの巡礼者たちが供えた野花が飾られたという。
――以降、神婚巡礼の儀式が行われることはない。




