第21話 そうあれかし
少女が運ばれて去った後、残された人々は聖樹なのだという樹を見上げたまま、息を呑んで静まり返っていた。
聖樹が街に発生しただけなら喜びに沸いたのだろうが、付けられたその名前が問題だった。
「ねぇ、おかあさん、はくあいって何?」
まだ場の空気を読むことを知らない幼女が、母親のスカートを掴んで下に引く。
「そうね……全ての人を平等に愛するってことかしら……」
スカートの位置を直しながら答えた母親の声はけして大きくなかったけれど、静かな広場で不思議と響き、多くの人の耳に届いた。
博愛――聖女と呼ばれた少女がそう名付けた意味、込めた願い。
人々の脳裏には共通に、壁の外で苦しむ人たちの姿が浮かんでいた。
幼女はもう一度母親のスカートを引っ張って、「びょーどーって何?」と聞いた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
街の住民が、続々と樹の近くへ集まってきている。
青々とした葉を茂らせる樹の天辺を見上げながら、市長は怒りで拳を握った。
――小娘め、やってくれたな!
難民のことで落ち込んでいたようなので、そのくらいで慰めになるのならばと、軽い気持ちで植樹の許可を出した。
これを植えますと、よく分からない枝を見せられたので、可愛いものだとすっかり油断していた。
ならば中央公園の特定区画にと告げると、今度はそこに人が一番集まる時間はいつなのだと聞いてきた。
どうやら自分が植樹する様子を、なるべく多くの人に見せたいらしい。
浅ましいことだ――そんな風にさえ思い、内心で嘲った。
それが一体どうしてこうなったのか、今、目の前にはそそり立つ聖なる樹。
聖樹について詳しくはないが、それでもはっきり分かるほど、周囲の空気が清浄なものへと変わっていく。
神官たちが跪き、樹へと祈りを捧げている。
少し話をしたが、この後は中央教会から調査員がやってくるのだそうだ。
調べた内容について奇跡認定の審議を行い、それが通ってはじめて正式に聖樹として認められるとのこと。
今回は挿し穂とした枝が、聖樹『天鹿』のものであること。
聖女の祈りで根付き育ったものであることから、間違いなく最速で認められるだろう、とのことだった。
自分は決して敬虔な信徒ではないが、そんな認定などなくても、この樹の前に一度立てば本物であることは疑いようがないだろうと思う。
『博愛』、そう名付けられてしまった。
新たな聖樹誕生の話はありがたい奇跡譚として広まり、永く残るのだろう。
そしてその美しい話をシミのように汚す、樹の名にそぐわない、困り果てた人々を見捨てた冷たい街。
このままでは、後世にそのように伝わってしまうのかもしれない。
軽挙に植樹を許可した結果、街は思わぬ岐路に立たされることになってしまった。
自身に対しても、ルシルと名乗った少女に対しても、腸が煮えくり返る思いがする。
――だが。
市長が庁舎に戻ると、半ば予想していたとおり、街の住民たちが雪崩を打つように詰めかけていた。
「色が悪くなっちまってもう売れないんだが、食べるにはまったく問題ないんだ。この野菜を壁の外の連中にやってくれないか?」
「着れなくなった子供の服がたくさんあるの。ばらして布にしてもいいし」
「昼休憩の時間なら手伝えるのだけど、何かできることはないかしら?」
次々と協力の声があがり、対応した職員が困った顔をしている。
難民を助けた結果、街の税が上がり、商店の品数が減ったり価格が上がったとしても、その時、彼らは同じことを言うのだろうか。
それとも、手のひらを返し一斉に糾弾するのだろうか。
考えるまでもなく、後者に決まっている。
――だけれど。
「なんで他の国の連中のために、俺たちが割りを食わなくちゃいけないんだ」
「失敗するのが目に見えている。受け入れるならこの街の政府は無能だ」
「壁の中には絶対に入れるなよ! 娘があいつらになにかされたらどう責任を取るつもりだ!」
反対の声もあがる。当たり前だ。
余剰分を回して間に合うのなら、まだ計算もできる。
しかし、相手は他国から流れてきた難民。
内戦がいつ終わるのか、これから彼らの数がどれくらい増えるのかも分からない。
自分は住民に選ばれたこの街の長であり、なにより優先すべきはこの街と壁の内側に住んでいる人々だ。
下手をすれば一緒に沈むような危険を冒すべきではない。
――それでも、大義名分ができた。
聖樹『博愛』、それが立つに相応しい街であれ。
そうあれかしと。
すぐに門を開き、難民たちを壁の内側に受け入れるのは無理だ。
とても現実的ではない。
まずは壁の外で炊き出しと、生活物資の配給。それと病人や怪我人の治療。
街の金庫と倉庫を開け、商人たちからはこれまでの価格で物資を供出させる。
長い目で見れば救荒作物の作付けや、近くにある町村の協力も不可欠だろう。
町村の協力には領主の号令が必要になる。
難民が他国の民であることと、聖樹の存在を秤にかけ、領主はどちらをとるだろうか。
この街は国からある程度の自治権を認められている。
そして領主は当然、それを面白く思っていない。
普段は意に従わず、困ったときは頼るのかと嗤われるだろうか。
床に頭を擦るくらいで済むならば、別にたいしたことでもないが。
悪くすれば、国と国との問題になるかもしれない。
埋め合わせに賠償がもらえるのならいいが、民を奪ったと難癖をつけられる可能性もあるだろう。
いくら綿密に計画したとしても、こちらの手が届かないところでの状況次第で、成否がひっくり返る極めて難しい事案。
一歩間違えば収拾がつかない事態になるだろう。
これからのことを想像するだけで、胃の辺りがキリキリと悲鳴をあげる。
そして、いよいよ立ちいかなくなるならば、その時はやはり冷たい判断をしなければならない。
すなわち、一度伸ばした助けの手を引っ込めて突き放す、悪魔のような所業。
その決断を下すべきは、きっと自分なのだろう。
今年で任期が終わるため、妻とは娘が嫁いだ隣町に引っ越して、孫の面倒をみて過ごそうかと話していたが、どうやらご破算のようだ。
こうなってしまっては、次の市長に手を挙げる者もいないだろう。
何年かかるだろうか、少なくとも状況が落ち着くまで、毎日孫の顔は見れそうにない。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「――備蓄を解放して炊き出しと配給を行う。準備を急げ! こうしている間にも人が死んでいるぞ」
「――それぞれの課の長と、商会の会頭たちを呼べ。一刻後、集まった面子で緊急集会を開く」
「――暴れる難民がいるようなら、外の牢へ入れろ。ただし、水と食料は渡せ」
「――怪我人に治癒魔法を施すよう、教会に依頼を出せ」
「――領主様へ遣いを出せ。最速で面会をもぎ取ってこい」
執務室に戻ってきた市長が次々と指示を出し、職員たちは慌ただしく走り回る。
職員の一人が、廊下で顔を合わせた同僚にヒソヒソと耳打ちをした。
「なんだか市長、うれしそうだったな」




