第19話 寄る辺ない人々
旅が始まってから九十日と少しが経った。
ルシルたち、聖女の一行はもうすぐ大きな街へ入る予定だ。
城塞都市エーベルブルク、ここスピナリザ王国でも有数の人口と興隆を誇る街。
隣国との国境に近いことから、街全体がぐるりと高い石壁で囲まれているのだそうだ。
道の先から、先行していた騎士たちが戻ってきた。
先日の魔物の襲撃や暗殺未遂を思い出し、落ち着かない心地になる。
隊の速度が落ちていって、やがて全ての馬車が停止した。
「皆、話を共有するから集まってくれ!」
隊長のレナルドの大きく低い声が響き、各々が馬や馬車を降りて彼の近くへ集まっていく。
外からドアを開けてもらい、騎士の手を取って馬車を降りたルシルも、集まりの後ろの方へと加わった。
隣にはいつの間にかクロードが立っていて、軽く目線だけ交わす。
「速やかな集合に感謝する」
レナルドが短い礼の後で、説明を始める。
声と表情はいつもよりやや固い。
現在、スピナリザ王国と北西で繋がる隣国のカウザレイスト帝国で内部紛争が起きている。
帝国は周辺の小国や、国とも言えない部族の土地を強引に併合してきた歴史があり、どうやらその過程で溜まってきた軋轢が蓋を破り表面化したのだそうだ。
戦禍で焼け出された人々が難民となり、各地へ流れる。
その一部が山や森を越え、彷徨の末この地へたどり着き、エーベルブルクの街の外に住み着いているとのこと。
そのため街の周辺は、治安や衛生が非常に悪くなっている。
もう少し進んだ先で街の衛兵と合流し、一緒に馬車を守り街へ入る話がついているそうだ。
周りがざわつく中、どこか心細い気持ちになった。
隣のクロードに手を繋いで欲しいと思ったけれど、流石にそれはまずいだろう。
さり気なく一瞬だけ、手の甲を彼の手に触れさせる。
気遣わしげなクロードに曖昧な微笑みを返した。
解散した皆が馬や馬車に乗り直し、隊列が再度動き出す。
しばらく行くと、街から来たと思しき兵士たちが護衛騎士の外側を囲み、足並みを揃えた。
「あまり見ない方がよろしいかと思いますが……」
馬車に同乗する、世話係のクロエの言葉を聞き流す。
なぜだか、見なければいけないと思った。
何が起きているのか、知らなくてはならない。
エーベルブルクの街は小高い丘の上にあり、そこへ向かう坂道はまっすぐではなく、ジグザグと折り返す形になっていた。
道の周りは木々に囲まれている。
馬車の中に、鼻を刺すような臭いが入ってくる。
クロエが表情を強張らせたので、窓を閉めた。
血や汗や糞尿、そしてきっと――死んだ人間の臭い。
道から少し離れた所に見えるのは、木々の間に紐を渡し、そこへ木の枝や葉、ボロ布を掛けただけの粗末なテントの数々。
その下に力無く座る人たちは、皆痩せ、疲れ、困り果てたような顔をしていた。
元の色が分からないほど汚れて破れた服とも言えない襤褸を着て、小さく身を寄せ合っている。
テントの近くの木々は、低い所の皮が剥がれ、白っぽい内側が露出していた。
他方では、街の兵たちが一様に暗い顔をして、地面に穴を掘っている。
難民たちはその様子をじっと見ていた。
坂の途中、荷車を引く一行とすれ違う。その荷台には死体が積み重なっていた。
老若男女隔てなく、それでも老人が多いように見える。
体力のない子供が少ないのは、大人たちが僅かな食料を回したのかもしれない。
時間が経っているのだろう。
周りには蝿がたかり、黄色く濁った瞳はただ虚空を映していた。
向かう先はおそらく、さっき掘っていた穴なのだろう。
飢えて乾き、死んでいく多くの人たちがすぐ近くにいる。
聖女に選ばれた自分は、快適な馬車の中、そんな彼らをただ見ている。
口の中がカラカラで、苦くなった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
やがて白茶けた石の城壁にたどり着き、堀に架かる跳ね橋を越え街へと入った。
馬車はそのまま中央通りを進み、周りより一層大きな白い建物の前で停まる。
ここは庁舎という施設で、住人に選ばれた代表者たちで街のルールや発展の計画を決めたり、行政の事務処理を行う場所なのだそうだ。
ルシルたちが庁舎の応接室に通されると、すでに中で人が待っていた。
この街の市長だと挨拶をしてくれた男性は、五十台半ばくらいだろうか、白が多く混じった茶色の髪を撫で付けている。
背が低く痩せぎすな体躯に、ややつり上がった細い目は、どこか神経質そうな印象を感じさせた。
「聖女様、よくぞいらっしゃいました。我らは貴方がた御一行を歓迎いたします。どうぞごゆるりとご滞在ください、と申したいところなのですが……」
市長が困ったように眉を下げる。
「すでにご覧になったかと思いますが、現在、壁の外には隣国からの難民が溢れており、良い状況ではありません。早々に次の地へ発っていただくのが良いかと存じます」
応接室にいる旅に同道する人間は、司祭のシメオンと護衛隊長のレナルド、それにルシルが住んでいたイスマルファ王国の文官が数人。
皆が同意を示すように、軽く頷いたりしている。
――ぐっと腹に力を入れ、場の流れとは違う方向の質問をする。
「市長様、こちらの持ち出しで炊き出しや、怪我の治療などをしても良いでしょうか?」
市長はすぐに答えず、さらに困った顔をする。
後ろに立っていたレナルドが代わりに口を開いた。
「聖女様、施しを与えれば、一時的に体力をつけた彼らが蜂起して街を襲う可能性もあります」
「そんな……」
「食べるため、家族に食べさせるため、追い詰められた人間は刹那的な行動を取ることも多いものです」
いつもは「嬢ちゃん」と呼んでくれる隊長が、「聖女様」と呼ぶ。
市長たちがいる場なので当たり前なのだけれど、なんだか呆れられ、突き放されてしまったような気がした。
市長が話を続ける。
「それに彼らは隣国の、帝国の民です。下手に手を差し伸べれば、民を奪ったと言いがかりを付けられるやもしれません。そうなれば、話は国と国との外交問題となります」
隊長や市長の言葉は、正しいのだと思う。
これまでにも、住んでいた街や旅で通ってきた街の裏路には困窮した人たちがいた。
王都にいた頃、貧困街で教会の炊き出しを手伝ったこともある。
けれど、その時の自分はどこか他人事だったのではないか。
そうして今度は看過できないと騒ぎ立てる。
さっき、たくさんの死体を見たからだ。
誰を救い、誰を見放す。
その線引きをする権利は誰が持つのか、責任は誰が負うのか。
この世界は、皆が笑って暮らせるようにはできていない。
彼らの言っていることは、現実を生きてきた大人の理屈。
自分の主張は、綺麗ごとを振りかざすだけ、砂糖のように甘い子供の夢物語だ。
――浮かれていたなあ。
旅の中、毎日のようにおいしいものを食べている時、飢えた人たちが木の皮を剥がし食べていた。
きれいな景色にはしゃいでいる時、弱っていく子供の最期に、ただその手を握ることしかできなかった夫婦がいたのかもしれない。
『今回の人生はおまけみたいなものかな』
過去の自分の言葉が、呪いのようにへばりついてくる。
そんなことを言う人間に、他者の命を慮る資格はないだろう。
――ダメだ、この考えは行き止まりで、何も生まない。
今この時にも、壁の外では人が死んでいる。
できることはないか考えろ。
自分にできること、差し出せるもの、何かないか。
たとえちっぽけだとしても、せめて何か――。
ルシルが何も言わず下を向いているので、重い沈黙が部屋を満たしている。
途方に暮れていると、不意に、冷たくなった指先ごと手を包み込まれる感触と温もりを感じた。
見ても手を握るものはいない。
けれど、この温度を間違えることは決してない。
そうして、彷徨う暗闇の中、頼りない一筋の光が見えた気がした。
俯いていた顔を上げると、周りの皆が心配そうにこちらを見ていた。
「市長様、差し出がましいことを言ってしまい申し訳ありませんでした。これにて失礼いたします」
周りがほっとする空気が、伝わってくる。
だけれど、続けた言葉で再度、皆が困った表情になった。
「また後ほど、再度のご面会をお願いすることは可能でしょうか?」
「……もちろん構いませんよ。私は日中のほとんど、この建物におりますので」
市長はどこか警戒するような固い声で答えた。
ルシルは庁舎を出たあと、街の教会に案内された。
そこの会議室を借り、旅の同行者たちに集まってもらう。街の教会の上位神官たちも都合がつく人は呼んでもらった。
「お疲れのところ、集まってもらいありがとうございます。学のない私は世の仕組みを知らず、皆さんの知識や知恵をお借りしたいのです」
針子をしていた自分は、これまで生きてきた小さな世界のことしか知らない。
前世のものを加えても、百年前の素朴な日々があっただけ。
共同体の行動選択や他との利害調整など、いわゆる政治と呼ばれる分野についてはまったくのお手上げである。
知らないことは、知っている人に聞こう。
「聞きたいことは二つです。一つ目、壁の外の人々に手を差し伸べることは、本当に無理なのでしょうか?」
部屋が一瞬ザワとして、一同が困った顔を見合わせる。
しばらくして部屋に重たい空気が満ちるころ、一人がためらいがちに手を挙げた。
旅に同行する外交役の文官で、国境の関所で対応したり、先程の市長との挨拶でも同席していた壮年の男性だ。
あくまで予測だと前置きした上で、男性が話す。
街の様子や規模から見て、備蓄を放出し、商人の尻を叩いて食料をかき集めれば、数ヶ月はなんとかなるだろう。
それでもその後、状況はずるずると悪くなり、最悪は街が難民と共倒れになってしまうかもしれない。
応接室での話のように、難民の蜂起や、隣国との国交に影が差す可能性もある。
そして何より、最も根本的な部分。
「難民を救うことによって起こる様々な困難に直面するのは、この街でありこの国です。どう対応するかはこの地に住む人々が決めることであり、結果に責任を負わない人間が横から口を出すのは間違いでしょう」
ぐうの音も出ない、完全なる正論。
自分にも理解できるよう、それでもなるべく柔らかく伝わるよう配慮してくれたのが伝わった。
ぐっと奥歯を噛みしめ、呼んでもらった街の教会の神官たちを見る。
「教会も、国の間で争いが起きそうな場合には仲裁に入ったりすることはありますが、基本的に政への干渉はご法度ですな」
年嵩の神官が静かにそう告げる。
「……分かりました。難民についてこれ以上は言いません」
そう言うと、一同が分かりやすく安堵した。
「では、聞きたいことの二つ目です。――――――――――?」
ルシルを除く、部屋の誰もが同じような表情をした。
もし目が言葉を発するなら「え?」と言い、口がその形のまま声を出せば「は?」とでも言うのかもしれない。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「市長、聖女様から面会の申し入れが来ています。というか、ご本人がすでにいらっしゃっています。再度、応接室にお通ししましたが……」
庁舎二階の執務室、入ってきた職員が書類に目を通していた市長にそう報告する。
市長は顔を上げ、首を後ろに傾け疲れた目元を揉んだ。
「ああ、そういえばそんなことも言っていたな。まさか、こんなにすぐ来るとは思わなかったが……」
やれやれ、難民のことを蒸し返すような話でなければいいが。
そんなことを考えながら階段を降り応接室に入った市長は、数時間ぶりに再会した聖女と呼ばれる少女から、まるで想定外の言葉を聞いて、思わずポカンと口を開けた。
「この街のさらなる発展と皆様の安寧を願い、植樹の許可を頂きたいのです」