第16話 百年前(3)
二人が結婚してから二年が経った
子供はまだできない。
リーゼは授かったなら嬉しいけれど、と思いながらも、まだ若いしとあまり気にせずエリクと二人の生活を楽しんでいた。
そんなある日、朝起きると胸の奥になんだか違和感があった。
数日は様子見したけれど、違和感は鈍い痛みに変わっていき、小さなシコリができた。
エリクに打ち明けると、しつこいぐらいに調べられた後、泣きそうな顔をされた。
村では識者として知られるエリクの父親にも胸を診てもらい、いたたまれない気持ちになった。
そして、エリクと義父の意見は一致した。
「家で扱っている薬では治せない。医者に診てもらおう」
辺境のこの村には、当たり前に医者などいない。
高額な学費を払い、医学を修めた彼らは希少な存在であり、大抵は国や貴族、裕福な商人などに専属として雇用されている。
けれどたまにもの好きがいて、市井で医院を開き、庶民の相手をしていたりもする。
怪我は教会の治療院で治してもらえるため、医者の職分はもっぱら病の治療と骨接ぎである。
骨接ぎについては、大きく折れた骨にそのまま治癒魔法を施すと骨が変形してしまうため、前処置として元の位置に整復する必要があるのだった。
リーゼはエリクに連れ添われ、評判のよい医院のある町まで移動した。
一週間ほどで町についたころには、シコリは皮膚の表面に現れ、黒い痣になっていた。
「『黒鱗病』ですな……。とても珍しい病です。……大変残念ですが、まだ治療法はありません。余命は長くて三年でしょう……」
年嵩の医者の言葉を聞きながら、身体の末端から心臓に向かって冷えていく感覚がした。
隣で一緒に聞いていたエリクの顔を見ると、どこかでそれを取り落としたみたいに一切の無表情だった。
「先生、私はこの先どうなるのか教えて下さい」
実感はまだ遠く、どこか他人事のように冷静な声が出た。
絶望や恐怖といったものは、後から追いかけてくるのかもしれない。
医者によると、黒い痣は鱗のように固くなりながら、体中に広がっていくのだそうだ。
そうして痣の内外に強い痛みを与えながら罹患者を弱らせ、黒い痣が全身を覆うころに死ぬ。
最後までもたず、日々増える痣と痛みに狂死してしまう場合も多いとのこと。
幸いにも、他者へ伝染する病ではない。
祖父と孫ほども年の離れた医者は、重たげに言葉を続けた。
「痛みを和らげる薬を出しますが、体が慣れると効き目が悪くなるでしょう。あくまで気休めだと思ってくだされ。それと……もう一つ、薬を出します。これは苦しみを終わりにするものです。よく考えてから使ってくだされ」
エリクが医者の胸ぐらを掴んだが、こういった事にも慣れているのだろう。
動じた様子もなく、医者はリーゼへと向けた目を逸らさない。
「どうか内密に。毒を処方したと知られれば、医師の資格は剥奪され、下手をすれば縛り首ですからな」
それを聞いたエリクが、掴んでいた細腕を力なく下ろした。
この人は危険な橋を渡ってまで患者に寄り添ってくれる。
とてもありがたい、良い医者だ。
「先生、どうもありがとうございました。最後の薬を使うかは、考えたいと思います」
感謝の気持ちで頭を深く下げる。
顔を上げると医者と視線が真っ直ぐにぶつかった。
「……このような爺がなお生き、あなたのような年若い娘が死病に罹る。まったく世とは道理に合わぬものですな」
「…………」
何も言えなかった。彼も何か言葉を返して欲しかったわけでもないのだろう。
理不尽など、その辺の石ころのようにいくらでも転がっている。
なるべく躓かないよう気をつけながら、どうしようもない場合だってある。
濁流のような不条理に押し流されてしまうことだってあるだろう。
できることといったら、向き合い方を決めるくらいだろうか。
どのように心を持つか、猶予があるならどう振る舞い何を残すのか。そして、どう終わらせるのか。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
村に戻ると、エリクから泣きそうな顔で一日ベッドにいるよう言われた。
エリクは甲斐甲斐しくリーゼの世話をしながら、その他の時間は調薬用の小屋に籠もるようになった。
新しい薬を創っては自分で試し、リーゼにも使った。
そうして痣の状況を確認しては、肩を落とし小屋に戻っていった。
リーゼはベッドの上で、たまに家族や友人の見舞いを受けながら、ずっと考えていた。
――残った時間で、私にできることはなんだろう?
うんうんと悩んで考えをまとめ、ある夜、エリクに向き合った。
「ねえエリク、私、色々と考えたんだけどね……」
リーゼはエリクに話した。
体が動くうちはベッドの住人ではなく、なるべく以前のように過ごしたいこと。
医院でもらった痛み止めの効果が薄れてきたので、もっと効果が強いものを作ってほしいこと。
黒鱗病に対する創薬については、変わらず協力すること。
夜もろくに寝ていないのだろう。
エリクの目の下にはどす黒いくまがあり、とても疲れた様子だった。
それでも真剣に話を聞いてくれた。
最後は「押し付けてすまない」と謝ってきた。
結婚した頃からだろうか、思っていることがあった。
――私が、エリクを縛り付けているのかもしれない。
エリクは正真正銘の天才である。
一度見聞きしたことは決して忘れず、一を聞けば十を知り、零から一を生み出す。
その気になれば、どんな知識領域でも極め、果ては世を変えることさえできるのではないか。
そんな彼が、小さな辺境の村に収まって満足そうにしている。
自分がそう望んだからだ。
どこまでも遠くへ飛んでいける大きな翼を持っているのに、自分が足かせとなり、地に繋ぎ止めてしまっている。
残念ながら自分はどこにでもいる、ただの村娘だ。
胸を張って彼の隣に立てるような、特別な何かを持ってはいない。
自分がいなくなれば、彼は解き放たれるのではないだろうか。
行きたい場所へ行き、やりたいことをやれるのではないだろうか。
そしてその隣には、彼の深淵を一端でも理解して、力になれる女性がふさわしい。
子供を残してあげられなかったことを申し訳なく思うけれど、かえって身軽で良いのかもしれない。
そう考えれば、少しは救いもあるのではないだろうか。