第15話 百年前(2)
それからエリクはリーゼの両親に赦しをもらい、冬を越した春に二人は結婚した。
村の集会場を借りて挙げた式では、皆が祝福してくれた。
近くの町から来てもらったレイダ聖教の神父が、誓いの言葉を述べる。
「――その命ある限り、互いを愛し、敬い、助け合い、真心を尽くすことを誓いますか?」
「はい」
「誓います」
エリクとリーゼがそれぞれ答える。
エリクはシャツにいつもは付けないネクタイをして、グレーのジャケットも普段より数段上等なものだけど、痩身の彼では肩の部分が落ちてしまっていた。
ブカブカのズボンはサスペンダーで吊っている。
ここは辺境の村であり、結婚式の度に恋人たちが新しい衣装を用意できるわけもなく、村で共有する数着から好みやサイズが合うものを選んで着ることになる。
リーゼは袖のない白いドレスを纏い、後ろ髪をシニヨンで結われた頭にはレースのベールをかけている。
ドレスは直しができる範疇が広いので、幸いにリーゼにピッタリのものにできた。
採寸の後、やたらとバスト部を詰められたときは、窓から遠くを見たけれど。
「では誓いの口付けを」
神父の言葉でエリクがリーゼのベールを上げ、唇にそっと口付けをした。
わっ、と会場が湧く。
リーゼはなんだか胸がいっぱいになって、溢れた分が嬉し涙として頬に一筋流れた。
そうして夫婦となった初めての夜。
場所は実家から近い空き家をエリクが買い取り、秋冬のあいだに改修した新居である。
家具はまだ揃っていないけれど、寝室には二人で寝られる大きさの新しいベッドが露骨に置いてあった。
リーゼはいつでも来いやと思っていたけれど、それでもいざ獣と化したエリクが跳び掛かってくると、怖くなって体が竦んだ。
ベッドに押し倒され、情欲の炎を灯した余裕のない目で覗かれる。
思わずギュッと目を瞑った。
……。
…………。
……………………何も起こらない。
胸の上に頭の重さが落ちてきた。
ぐえっとなり目を開くと、大量の鼻血を出したエリクが失神していた。
興奮しすぎて血が一気に上ったのかもしれない。
「…………」
頬をつついたりつねったりしてみたけれど、白目を剥いたままピクリとも動かない。
鼻からは滔々と血が流れ続けている。
死んでいたらどうしようと怖くなったけれど、息はしているようだ。
布の端切れを鼻に突っ込み、血を拭いて、瞼に手をやりスッと閉じる。
彼の体をベッドの半分に転がして、残り半分に収まった。
そうして、我慢できずに「ブフッ」と笑いを吹き出した。
痩せすぎだけれど顔立ちが良いエリクは、村の女性陣によく格好いいと言われるけれど、もちろんそうでない面だってある。
線引きの内側に入れ心を許してくれているのだと思うと、それはそれで幸せな気分がして、その日はぴったり体を寄せて寝た。
次の日の早朝、リーゼが村共用の洗濯場に血のついたシーツをこそこそ持っていくと、あっという間に村の女性たちに囲まれた。
「おめでとうリーゼ……って、ちょっと血が多すぎない? あんた大丈夫なの?」
この洗濯場は村の女性たちが、かなりあけすけにする場所だ。
おかげで、小さな頃から通うリーゼも随分と耳年増になってしまった。
その代わり、ここで聞いた個人的な話は決して男連中には漏らさない――それが鉄の掟である。
「う、うん大丈夫……これは私のじゃないの」
皆にとても心配されたので、つい正直に事情を話してしまった。
ふんふんと真剣に聞いていた女性たちだったが、最後は揃って爆笑された。
大きな笑い声を聞きつけ、なんだべと顔を出した村のおっさんは冷たく追い払われた。
『初夜にシーツを鼻血で赤くした男』――エリクは不名誉な二つ名を得てしまった。
話が早く風化することを願うばかりである。
ちなみに二日目の夜は、前日の反省を生かしたエリクが工夫を凝らし、ようやく夫婦として結ばれることができた。
詳細についてはまた新たな二つ名がついてしまうため、墓まで持っていくことにする。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
結婚後、リーゼは家事をしたり、義実家になった道具屋の店番をしたり、収穫期には実家の畑の手伝いをして日々を過ごした。
義実家の道具屋は、町からやってくる商人や、村の各種職人たちに店の棚を貸し、棚の貸出料や商品が売れた際の手数料をもらっていた。
いわゆる、委託販売というやつである。
それとは別に、庭で育てたり森や山で摘んできた薬草を煎じ、独自の配合で混ぜて延ばし、様々な用途の薬として売っている。
止血、化膿止め、解熱、鎮痛、胃腸剤、防・殺虫、避妊、その他諸々。
どれも効能は抜群で、けれどもほとんど無料みたいに安価だった。
おかげで村の皆は悩まずに薬を使用でき、健康でいられる。
リーゼは、それで店の経営が成り立つのがずっと不思議だったが、町からきた商人が商品を置いた帰りしなに薬を高値で買っていくのだそうだ。
「外に売る薬を増やせば、もっと贅沢に暮らせるんじゃないの?」
そう尋ねると、エリクは少し間を置いてから、困ったように眉を下げた。
「まあ、そうだろうな。薬草の栽培や採取を村に任せれば、町で優雅に暮らすこともできると思う」
「なんでそうしないの?」
「爺さんのそのまた爺さんぐらいの昔に、俺のご先祖様はどこか別の国から逃げてきたんだそうだ。何をやらかしたのかはもう分からないけど、この村に辿り着いた時は死にかけてたらしい。そして村は先祖を救って受け入れてくれた。だから、子孫の俺たちは村に尽くすんだ」
そういう事はもっと早くに教えてくれよと思いながら、じろっと抗議の目を向ける。
「薬を外でたくさん売れば、村を今より豊かにできるかもしれない。だけどその場合、製法を盗みにくる間諜が来たり、利益に目をつけた貴族なんかに絡まれる危険もある。でもお前が望むなら、俺の代で方針を変えるのは構わないよ。さすがにもう、もらった恩は返しただろう」
なにか恐ろしいことを言われた気がして、首を高速で横に振った。
疑問に思っていたから聞いてみただけで、別に都会で贅沢な暮らしをしたいわけではない。
今の自分は十分に満たされている。
倹しいけれど生活には困らず、日々するべき仕事があり、周りの人たちは親切で、愛する夫さえいる。
まるで、嘘のような幸せだ。
「方針は変えなくて大丈夫よ。ごめんね、前から気になってたから聞いてみただけなの。あと、他にもそういう話があったら、事前に教えてね」
エリクはうーんと唸った後、「特にないと思う」と言った。
毎日が充実して幸せで、だからリーゼは頭のどこかで、こんな日々は長く続かないだろうなと思っていた。
人によって幸福の総量が決まっているのなら、すぐにそこへと達してしまいそうだ。
そうしてある日ふっと全てを取り上げられても、それはきっとそういうものなのだろう。
そんな詮ない事は、誰に言うでもなかったけれど。