第11話 荒野の襲撃(1)
旅が始まってから六十と幾日が経った。
ポカポカと陽気の良い中、聖女の一行は荒野を拓いて通された街道を進む。
ルシルはハンカチに針を刺していた。
舗装された道、それでも多少は揺れる馬車の中で、器用にチクチクとやっていく。
これでも住んでいた街では、腕の良い針子として通っていたのだ。
旅のはじめの頃はよく指の血を舐めていたけれど、最近はすっかり慣れた。
こつは座席に深く腰かけず、膝に遊びを持たせることである。
区切りがついたので糸を切り、凝った首と肩を回しながら窓の外を見る。
青い空には白い雲がのんびりと浮かんでいた。
馬車を囲む護衛騎士たちも、温かな日差しの下、跨った馬と共にどこか心地よさげな表情をしている。
そんなどこか緩んだ空気は、先行隊の一騎が戻ってきたことで引き締められた。
普段から三人ほどの護衛騎士が本隊から離れて先行し、道の先に危険がないか警戒したり、休憩場所を探したり、関所などがあれば予め話を通したりする。
先行の騎士が戻ってきたとしても、馬車の脱輪で渋滞が起きているとか、道が部分的に狭くなっているとか、そんな平和な報告がほとんどである。
だけれど馬は駈歩であったし、得てして悪い予感は良く当たる。
道の先、魔物に襲われている隊商を発見。
隊商付きの護衛に先行隊の騎士が助太刀に入り、現在魔物と交戦中とのこと。
空気がもう一段、ぴんと張り詰めたものとなった。
隊長のレナルドが戻った騎士から詳細を訊きながら、取り得る選択肢と、その利や危険度を素早く天秤にかけていく。
そうして迅速果敢に指示を飛ばすと、騎士たちの半分が馬で駆けていった。
レナルドがその背中を見送りながら、ルシルの乗った馬車に馬を寄せる。
「嬢ちゃん、魔物の数は大したことないようだし、応援も送ったから心配はいらない。もう少し進んだら開けた場所があるから、そこで討伐完了の報せがあるまで馬車を停める。残った護衛で囲むから、窓を閉めて、合図があるまでは絶対に外に出ないでくれ」
決して荒げてはいない、落ち着いた低い声。
それでも、いつも近所のおっさんのように気安くしてくれるその声に、今は有無を言わせないものを感じる。
「分かりました。ご武運を」
なるべく短く返事をすると、レナルドは頷いて、隊の前方へと離れていく。
馬車の中、同乗するクロエは気丈に振る舞っているけれど、膝の上で握った手は小さく震えていた。
向かい合った席を立ち、彼女の隣に座り直す。
そうして肩を寄せ合って手を繋ぎ、全てが上手くいくように祈った。
馬車が停まってから、十五分ほど経っただろうか。もしかしたら五分も経っていないのかもしれない。
ルシルが息をひそめるようにしてクロエとくっついていると、静かだった外がにわかに騒がしくなった。
外から馬車のドアがノックされ、「もう大丈夫です」と声がした。
どうやら魔物の討伐は上手くいったようだ。
戦闘した騎士の中に、大きな怪我を負ったものはいないという。
これから襲われた隊商のところまで行き、殺した魔物の後始末をするのだそうだ。
馬車がいつもよりゆっくりと進みはじめ、しばらくしてまた停まる。
窓からは、恰幅のいい中年男性が騎士たちに何度も頭を下げている様子が見えた。
仕立ての良い服を着ているし、おそらくはあの男性が隊商の主なのだろう。
周囲の安全が確認できたとのことで、馬車を降りる。
鎧戸まで閉めた馬車の中、不安で気詰まりしていたので、気分を変えたかった。
見知った騎士たちの顔を眺めながら何度か息を吸って吐くと、ようやく人心地がついた。
少し離れた場所に三台の幌馬車が止まっている。
隊商の馬車なのだろう。
幌はところどころ鋭い刃で切り裂かれたように破れ、地面には商いの品が入っていると思われる木箱が散乱していた。
そしてその近くに合わせて十人くらい、隊商の構成員と思われる人たちがどこかぼんやりとした顔で地面に座り込んでいた。
差し迫った危機から命を拾った時、人はこうなるのだろう。
転がった荷箱を積み直したりと再び動き出すには、もう少し時間が必要そうだった。
隊商に雇われた護衛だろう。革鎧を着けた数人の男性が別で集まって輪になり、皆悔しげに顔を顰めていた。
「クソッ、なんでこんな所で魔物の群れに襲われるんだ」
「なんか様子もおかしかったよな」
「ああ、なんか狂ったみたいに最初から捨て身で跳び掛かってきた」
そんなやり取りをしている彼らに声をかける。
「お邪魔してすいません。私は治癒魔法が使えるのですが、怪我をした人はいますか?」
男性たちはポカンとした顔をしたが、すぐに意味を理解したのだろう。
「ありがとうよ、お嬢さん。俺たちはかすり傷だから大丈夫だ。他の連中にも確認してくるから、ちょっと待っててくれるか」
男性たちが散らばっていき、それぞれ隊商の人員に怪我がないかを確認していく。
しばらくして、ルシルのもとへ戻ってきた。
「一人、浅くない怪我をした女性がいる。馬車から降りて逃げる途中、転んで切ったそうで足から血を流している。命にかかわるような傷じゃないんだが、良ければ治してやってくれないか?」
「分かりました。案内してもらえますか」
話を聞いていたのだろう、近くにいた護衛騎士の顔を見ると、頷きを返される。
そうして騎士を伴い案内された先は、隊商の人々が集まっている場所からは少し離れた草地。
三十代くらいの女性が転がっている石に座り、赤く滲む布で足を押さえていた。
彼女は一つ前の街からの同行者で、次の街まで送っていくことになった隊商には属さない客分なのだそうだ。
女性の体に傷が残るのも忍びない。
痛みで顔を歪める女性のもとへ、治癒魔法をかけようと足早に駆け寄った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
クロードは隊商の護衛たちと話すルシルを目の端に捉えながら、離れた場所で魔物の死骸を魔法で燃やしていた。
死骸から流れた大量の血が魔力を淀ませさらなる魔物を招き寄せないよう、隊長からの指示である。
魔術師の放つ魔法は強力で、上手く嵌れば十人で千や万の戦局さえ覆す。
だけれどそれは遠距離から広範囲を炎で焼き払うといった感じで、一般的には大雑把なものだと思われている。
実際のところ、優れた魔術師は精密な制御で一点を突くこともできるのだが、それでもいざ背後から魔法を撃たれると前衛はどうしてもぎくりとしてしまう。
そのため、今回の護衛任務では戦闘が発生した場合、よほどの戦力差がない限り、先ずは騎士が対応し、魔術師は戦闘に参加せず指示を待つことになっている。
その代わり、魔術師は魔法で水を補給したり、魔法なしでは沢山の人手が必要な作業を振られることになる。
土魔法で掘った穴の中、赤い炎と黒い煙を上げながら、魔物の死骸が炭のようになっていく。
魔物の肉は食べられるし、皮や骨、その他の部位も加工品の素材として安くない値が付く。商人はしきりに残念そうな顔をしていたが、助けられた身では反対もできないのだろう。
――ビュウ、とそれまでとは向きを変えた一陣の風が吹いた。
焼け焦げる臭いが流され清々としたけれど、風が運ぶ別のかすかな匂いをクロードの鼻が拾った。
希少な植物から抽出した数種類のエキス、それらを混ぜ合わせた独特の甘い匂い。
前世でも扱ったことがある。
間違いない、これは魔物寄せの匂いだ。
通常は魔物が一ヶ所に増えすぎた場合などに罠をはった上でおびき寄せ、一網打尽にするために使用される。
中身が漏れると大変なことになるため、完成品を保存したり持ち運んだりすることは禁じられ、現地で最終調合して使用するように厳しく定められていた。
凄まじい悪寒が、ぞわりと背中を駆け上る。
ルシルは大声を出せば聞こえるくらいの距離で、こちらに背を向け膝をつき、女性の怪我の具合を診ているようだった。
女性の腕が不自然に、ゆっくりと上がっていく。
――魔物は人為的に呼び寄せられた。これは罠だ。
声を出せば、それが引き金になるかもしれない。
魔法を撃とうにも、ここからだとルシルが射線に重なる。
集中して制御すれば女性だけを射抜くこともできるだろうが、こうしている間にも――
――クソッ!
ギリ、と歯噛みしながら。
クロードはできうる限りの速度でルシルのもとへ飛んだ。