第1話 今代の聖女
『イスマルファ王国、アンデの街、故デールとリリアーヌが娘、ルシルを今代の聖女とする』
教会が公布を出した。
ルシルは聖女として選ばれたのだ。
聖女――それは二十年に一度、このイスマルファ王国の国教であるレイダ聖教の主神に嫁ぐ尊い役目。
そういえば聞こえがいいが、その実は命を捧げる神への生贄、いわゆる人身御供である。
五歳で洗礼を受けた際、教会には適正のある魔法属性や魔力量が記録される。
そして聖女を選定する時期になると、条件にあう女性たちの家へ教会から打診があるのだ。
――聖女になりませんか、と。
聖女の条件は、十五から二十歳で未婚の乙女であること。
聖属性魔法の適正があること。
また、教会に所属する女性は対象にならない。すでに神の下僕という立場なので、妻になるには不適切ということらしい。
「はい、なりたいです!」
十五歳になったばかりのルシルは条件を満たしており、勢いよく手を挙げた。
――それが一年ほど前のこと。
針子として働いていた服飾工房には暇をもらった。
教会の口利きもあり、選定に漏れた場合はすぐに復職できるのだそうだ。
そうして近隣の希望者たちと共に、住んでいたアンデの街の教会施設へと集められ、聖女の選定が始まった。
条件を満たしていることはもちろん、これまでの素行や家族の犯罪歴など、色々と調べられるのだろう。
選定は、他の大きな街の教会でも同様に行われているとのことだった。
「――そうして旅の終わり、神の御座す世界と繋がった聖なる湖に入り、花嫁として主のもとへ上っていただきます」
教会の中にある講堂、並べられた長机に向かって座る選定対象の女性たちへ、担当の神官がさらりと告げた。
口元に僅かな微笑みを浮かべるその表情からは、感情が伺えない。
広い部屋が水を打ったように静まり返る。
数拍置いてから、周りの女性たちが一斉にざわめいた。
――え、それって死ぬってこと? と、隣と目を合わせ、ヒソヒソ囁きあう。
きっと教会の奥で毎日を祈って過ごす、窮屈かもしれないけれど、それでも優雅な暮らしを想像していたのだろう。
幸いにも辞退は簡単にできる。
次の日、昨日までいた女性たちはほとんど残っていなかった。
人は誰しも体の内に魔力を持つが、それを変じ魔法として発現できるのはほんの一握りである。
ルシルも魔法の使い方などまるで知らなかったけれど、選定の中で教わり練習するうちに、やがていくつかの聖属性魔法が使えるようになった。
そうして周りの候補者が日々減っていき、最後はルシルが今代の聖女に選ばれたのだと伝えられた。
選ばれなかった女性にはルシルより信心深い者も、聖属性魔法に長じる者もいた。
けれどルシルには特別な事情もあった。
聖女とは、正式には主神のもとに行ってから、つまりは死後に初めて認められる肩書きだけれど、慣例として選定された時点からそう扱われることになる。
聖女と呼ばれるようになって半年、ルシルは王都の教会に居を移し、日々忙しくしていた。
アンデの街に残してきた家族とはもう会えない。
聖女に選ばれ、最終的な意思確認をされた時、そういう契約を交わしていた。
その代わり最後まで務めを果たせば、家族は祝い金という名目で多額の弔慰金が受け取れる。
家族とは最後に抱き合って、泣いて別れた。
だからそれでいい。
体の弱い母は働かずに療養できるし、弟妹も学校に行ける。
父はしばらく前に病気で亡くなった。
ルシルは毎日朝早く起き、沐浴して身を清める。
それから主神像に祈り、聖女について教わり、傷ついた人々を魔法で癒やした。
大きな教会は事業の一環として、教会堂の敷地内に孤児院や酒の醸造所のほか、治療院を併設していることが多い。
そうして治療院を訪れた患者に怪我の治療や解毒などを施しながら、少しずつ聖属性魔法に精通していった。
神というものは、あまり信じていなかった。
もし本当に存在するのだとしても――二十年ごとに新しい奥さんとは、さすが良いご身分ですね。
そんなふうに思っていた。
それでも、礼拝堂の奥に鎮座する主神像に毎日祈っているうち、頭の奥で何かと繋がるような不思議な感覚を持つようになった。
祈っている間、体感の十分が実際の一時間になったり、その逆になったりした。
教会の歴史や聖女としての作法の教師は、厳格な老修道女だった。
いつも固い表情をしており、習ったことを間違うと容赦なく短鞭で手を叩かれる。
それでも、ルシルは彼女のことが嫌いではなかった。
彼女が夜、その日ルシルを叩いた数だけ、自身の背を打っていることを知っているから。
王都の教会に来たばかりでまだ精神的にきつかったころ、年嵩の神官に助言を受け、夜中にこっそり彼女の部屋を覗いてみたことがある。
ランプが小さく灯す薄暗い部屋、枯れ木のような老女が上半身をはだけ、鎖で自分の背中を打っている。
表情は昼と同じく固いまま。
それは血が凍るような恐ろしい光景だったけれど、なんだか不思議と心が軽くなった気がした。
授業で決して間違えられないという重圧は増したが。
平民のルシルは身の回りのことはもちろん自分でできる。
けれど、それでは聖女として外聞が悪いからと世話係をつけられた。
クロエという三歳年上の教会に所属する女性で、今回の旅にも着いてきてくれるそうだ。
栗色の髪をなびかせ、優しい物腰の彼女とは、すぐに仲良くなれた。
「ルシル様、こちらの地図はどうされるんですか?」
王都の教会堂の奥、与えられた自室で壁に掛けた地図を睨んでいると、クロエが不思議そうに聞いてくる。
「うん、旅の途中で寄ってみたい所とか、色々書き込もうと思ったんだけど、さすがにこんな立派な地図が来るとは思わなくて……」
決まった給金はもらえなかったけれど、それでも聖女の予算は潤沢に確保されているようで、欲しいものがあればすぐに最上のものが用意されるし、求めれば現金だって言うだけもらえた。
「大陸の地図が欲しいです」と伝えた二日後には、精緻な金細工の額縁に収められた、庶民でも一目で超高級だとわかる品が届き、しばらく固まった。
――教義だと「清貧を尊ぶべし」とかいってなかった?
これは多分、貴族様のお屋敷で応接室とかに飾ってあるようなやつだ。
後で丁重にお返ししよう。
そんなことを考えながら、机に肩幅より大きいくらいの白紙を広げる。
そして壁の地図を見ながら、ペンで白紙に地図を書き写していった。
なるべく紙いっぱいに大陸の形を書き、その中に山や大きな川、国の名前やその境界線を足していく。
多少は歪んでいるだろうけれど、どうせ元々が大雑把なものだろう。
大体で合っていれば問題ない。
そしてその上に、今回の旅の予定ルートを書き込んでいく。
『神婚巡礼』――途中にある聖地などを巡りながら、主神に嫁ぐための最後の地を目指す巡礼旅。
特に決まったルートがあるわけではなく、その時、聖女を出す国を出発点として、それほど回り道をしない範囲で柔軟にルートが決められる。
聖地を巡礼することで魂の段階が上がり、より主神の妻にふさわしくなるそうだ。
ルシルにはピンとは来なかったけれど。
地図の一件で学んだルシルはたまに休みがもらえると、数枚の硬貨を握り王都の図書館へ通った。
目的はこれから巡るだろう国やその地方の旅行記や見聞録。
それらに片っ端から目を通しながら、他では見られない景色や、そこでしか食べられない料理などをメモしていく。
そして図書館から帰ってくると、それらを整理し吟味して、旅程に組み込めるものはないか教会と調整するのだ。
「神父様、少し遠回りになるのですが、西にあるこの町に寄れませんか? この辺りでしか食べられない郷土料理がありまして……」
「ふむ……その程度でしたら問題ございませんよ。聖女様の御心のままに」
対応するのはシメオン司祭。
この旅における教会の責任者である。
四十を過ぎたくらいだろうか、髪に白いものが混ざっているが、まだまだ溌剌と若々しい男性である。
希望を出しながら、もちろん無理な場合は引っ込める。
ルシルと教会が半歩ずつ譲歩しあって衝突を避けながら、当初の旅程にいくつかの寄り道が追加された。
そうしてそれらを書き加えくるりと丸めると、ルシル渾身の旅地図が完成したのだった。
「綺麗な景色をたくさん見て、美味しいものをいっぱい食べるぞ!」
最後は生贄として命を捧げる、帰路のない片道旅。
それでも、ルシルの胸に哀切はなかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
出発の日が近づいてくる。
旅の準備はほぼ終わっている、といっても、必要なものはほとんどクロエたちが手配してくれていた。
ルシルが自分で用意したのは、替えの下着に水筒、地図や筆記具、あとは愛用の針箱くらいのものだった。
そうして今日は旅の護衛隊との顔合わせである。
二十年ごとに、聖教が広く布教している国々が持ち回りで聖女を出す。
その時々の時勢や教会との関係にも左右されるけれど、今回は国から護衛隊を出すことになった。
教会施設の大部屋に入ると、すでに十数人の人たちが待っていた。
騎士服を着た人が十人ほど、それと魔術師然としたローブを纏った人が三人。
その中で、ひときわ体の大きな騎士服の男性が一歩前に出る。
「聖女様、この度の護衛隊長を務めます、レナルド・アンベールと申します」
大きな男性は慇懃に騎士礼をしながら、低く落ち着いた声で挨拶をした。
三十代の半ばくらいだろうか、経験に裏打ちされた自信と、まだまだ衰えない覇気が同居していると感じた。
――所作が洗練されているし、名字もある。この人は貴族だ。
ルシルは習った礼を返す。
「アンベール様、どうぞよろしくお願いいたします。私はルシルと申します。ただの平民の娘ですので、気安く扱ってください」
男性が礼を解き、じっと目を覗いてくる。
まるで胸の内まで見定められているようで、思わず落ち着かずムズムズとした心持ちになる。
やがて男性は破顔して、ガハハと豪快に笑った。
「分かったよ、嬢ちゃん。いつもは護衛任務といったら、相手は王族や高位貴族様だからな。どうやら身構えちまったみたいだ。長い旅になるからな、お互い気疲れしないようにいこうぜ」
そう言って、器用に片目を瞑る。
その場が明るくなるような、人好きのする笑顔だった。
「はい、よろしくお願いしますね、隊長さん」
そう言ってみると、「よろしくな」と機嫌良さげにバンバン肩を叩かれた。
もし足元が柔らかい土だったら、少しめり込んでいたかもしれない。
それから護衛隊の一人ひとりの紹介が始まった。
ルシルの平凡な記憶力では、残念ながら一度に全員を覚えることはできない。
旅の道中、おいおい覚えていこう。
騎士は男性がほとんどだったけれど、一人だけ女性がいた。
半分以上が名字持ちだったので、貴族に連なる人が多いのだろう。
一連の騎士の紹介が終わり、次は魔術師の面々に移る。
「こいつは王宮魔術師のクロードだ。まだ若いが、いい腕をしている――」
紹介を続ける隊長の声は、まるで耳に入ってこなかった。
髪や目の色、顔立ちさえまるで違うけれど、近くで目があった時から確信している。
違えることなど決してない。
――こんなこともあるのね。
クロードと呼ばれた青年、彼は前世の夫の生まれ変わりだ。