七十二話 遠き日の思ひ出
──翡翠の少女は、故郷の里が大好きだった。
そこにいる人たちは血の繋がりのある、同じ一族の親戚や家族。長老やお偉いさんは難しい顔をしているだけだったが、それ以外のご近所さんは皆優しい人だった。
「カナタ、今日も鍛錬だ。あとで狩にも行くから、それまで頑張ろうな」
「えー昨日もそう言って詰め込まれたもん! まだ行きたくないぃ……」
毎朝かけられる、鍛錬への誘い。
ためになることは知っているが、それでもやりたくないものはやりたくない。
駄々を捏ねるカナタの背後に、ゆらりと人影が仁王立ち。父が目を瞬いて、困ったように笑った。
「こら!」
「あだっ!」
「おおちゃくしたらいかんよ、カナタ! えらいかもしれんけど、頑張ったら母さんがあんころ餅作ったるから」
「うぅ……はぁい……」
両親は少女の憧れ。厳しいながらも賑やかで明るい。
二人が直接技を叩き込んでくれており、主に身体的な鍛錬は父が、魔法や精神的な鍛錬は母が教えてくれた。
──「違う! そこはもっと低く! ……そう、そのまま崩さず、下から!」
──「体力作りは武術に必須。今日は三つ目の山まで行こう」
──「カナタ。魔力を纏うためにはな、まず精神力を鍛えないかんよ」
──「今日は早うできたなあ! その調子で明日も頑張ろうな!」
嫌がったり逃げようとしても両親は根気よく見守り、できるようになったらたくさん褒めてくれた。
鍛錬以外の時間も少女のことを尊重して、やりたいことだけをやらせてくれた。
「あんたが伸びやかに生きれるんなら、それでいい。今のうちは、家のことなんて気にしてかんよ」
母が何度も口にした、少女を思っての言葉。
その言葉があったからこそ、常に自然体で過ごすことができた。
「そこまで。今日はもう終わりにしよう」
陽が落ちる頃、父の合図で鍛錬を終える。家に帰っておやつをもらってくると、両親はどこかへ出掛けて行った。
誰もいない時間。
少女は密かな楽しみのために、廊下を走って庭へ向かう。
「いた……!」
いつものように儚げな色合いをした人が座っている。
少女の大好きな、もう一人の家族。
「姉さん!」
「わっ……!」
驚いて振り返ったのは、白い髪と淡い翡翠の瞳を持つ姉、ミツキ。
図形やヘンテコな文字が並ぶ本を開いており、自分には理解できない小難しい魔法を勉強している。少女の尊敬する姉の姿であった。
「カナタ、毎度言っているけど、飛びつくのはダメだよ。私はカナタみたいに丈夫じゃないんだから」
「えへへ、姉さんいるとくっつきたくなっちゃうんだ! しょーがないよ!」
「もう……くっつくのはいいから、今度は勢いを抑えて」
「はーい」
何気ないやり取りだが、これが少女にとっての幸せ。隣に身を寄せて、姉の読む本を覗き込んで静かに待っている。
やがて、キリの良いページまで読み終えると、姉は一緒に遊んでくれた。
「姉さん! 昨日みたいなの、もっとやって! きれいなやつ!」
「それじゃあ……今日は水の魔法にしよっか」
巧みな技術で水飛沫を操る。
魚や珊瑚を描いては、本物のように泳がせた。
「わあ! すごいすごい! やっぱ姉さんは天才なんだ!」
「……それは違うよ。天才はカナタみたいな子のことだから」
微笑んだ姉は、はしゃぐ少女の翡翠に目をやる。
天性の才という観点で見れば、炎を持つ彼女が天才だから。
「あたしも天才なの? けど、姉さんの方が魔法使えるじゃん」
「ふふ、ありがとう。私は……カナタと違う才なら持ってるのかも」
「……?」
その時も、今も、言葉の意味は分からなかった。
ただ、それから誘拐されるまでの日が、少女の記憶の中で最も大切となった。
◇◆◇
十回、二十回、三十回、……何十回。
切られて、断たれて、屠られて。
未だ刀の先までしか踏み出せない両足は、音もなく飛ぶ水に再び蘇生する。
「……」
無表情で無言。ただ勝つためだけに切り刻まれていく。
幸いなのは、さほど痛みは感じないことだろうか。
『紫雲蓮水』は、まさに水のような技を磨いたもの。狙われた者に、狙われたことすら気づかれないためである。
「……そろそろ諦めたらどうですか? 勝てない証明は十分したはずですが」
「まだ! あたし、魔力だけはたっくさんあるから! つまり、シスイはあたしの魔力に負けてるんだ!」
こじつけだが、勝負には勝っても負けてもいない。
精一杯の時間稼ぎを目的として、ここから動くために隙を窺う。
「屁理屈ですね。そこまで言うのなら、いくらでも相手してあげますよ」
ただ、打開策などありもしないことは、カナタも分かっていた。
なんせ、シスイは分身すら使っていない。そんな状況で動けたとして、即座に分身にやられるのは予見できること。
それでも、諦めるわけにはいかない。止められるのは、自分しか残っていないのだから。
「ね……ね、シスイ!」
「なんですか?」
力で敵わないのなら、まずは話しをしてみようと試みる。
「言っておきますが、私から話すことは何もありませんよ」
「えっ、ケチ! ちょっと喋るぐらい良いじゃん!」
まさかの一刀両断に慌てるカナタ。
その見え透いた魂胆に、シスイは呆れて嘆息する。
「そのための決闘でしょう? ここで話したら意味がない」
「そ、そうだけど……でも、お試しの情報ならアリ! 少しだけだから!」
「それは私が決めることですよ。貴女は黙って負けてくれればいんです」
「やだ! 負けるとしても、騒いでからにする!」
緊迫した空気だったはずだが、このやり取りで瓦解してしまった。まるで、昔に戻ったようである。
しばらくねだる意を込めて、カナタは熱心に視線を送る。
本当に敵だったら通じない手法。だが、従妹に甘いシスイは無言ののち、少しだけですよ、と話をしてくれることになった。
「やった!」
「質問は答えられる範囲から三つまでです。何が聞きたいのですか?」
「えっと……」
何を聞けばいいのだろうか。きっと目的や理由を尋ねても教えてくれない。
「……うーん……あっ!」
思いついて顔を上げる。そして、待ってくれているシスイに一つ目の質問をした。
「そういえば、シスイ! 一個嘘ついたでしょ!」
「……ええ、つきました」
「やっぱり! 父さんと母さんは無事だよね?」
「よく気がつきましたね。……カナタにしては」
ぼそっと失礼なことを言っている気がするが、両親が亡くなっていないことに安堵する。
今さら再開したいとは思えないが、それでも過去の記憶は忘れられない。ひとまず生きていることにだけ、カナタは喜んだ。
「でも、なんで嘘ついたの?」
「二つ目の質問ですね。嘘をついた理由は、まあ、そうした方が分があると思ったからですね」
「分がある?」
「かなり衝撃を受けたでしょう? それを狙っていたのです」
不安を煽ったところで、崩すために介入する。
そういうつもりだったのだが、カナタには心強い味方がいるため、思ったよりも立ち直りが早かった。
「友人に恵まれたようですね。私でも敵いそうにない人もいますし、クリアマーレの女皇様が負けた理由もよく分かりました」
「えへへ、みんなすごいんだよね。上手くやれないあたしのことも応援してくれるんだ」
仲間を褒められて嬉しいカナタ。
大剣を思うがままに振れるのは皆のおかげだ。かけがえのない仲間の存在が、カナタの心を強くする。
「おかげで私は簡単に手を出せないのですが……さて。最後の質問ですが、何にしますか?」
「最後……じゃあ、みんなは……父さんと母さん以外の人も、生きてる?」
「……」
期待を込めた眼差しで、全てが嘘だったと認めたいカナタ。
だが、シスイの口から告げられた事実は、無情にも変わらなかった。
「いえ、里を滅ぼしたのは嘘じゃありませんよ。貴女のご両親がいない間のことですから」
「え……お、叔父さんと叔母さんは……? まさか、自分の手で……」
「そうですね。それから長老方や傍系の方達も順に回りました」
ぴくりとも表情を動かさず、何も感じていないようにシスイは答える。
それが、カナタの知る従兄とは違った。その言葉が紛れもなく本当だと思い知らされた。
「で、でも、どうやって? 叔父さん達も、長老も、シスイより強いじゃん……」
「ああ、それはカナタも知る方法ですよ。『相殺炎』。それを用いて火をつけたのです」
「……っ!」
その炎の名は、聞いたことがあった。
『翠生泰火』と『紫雲蓮水』への対策のためだけに作られた、魔法の炎。
この炎の近寄れば、翡翠の炎も紫雲の水も使い物にならなくなる。
家宝の一つであった『相殺炎』だが、シスイは厳重な管理をものともせず持ち出したようだ。
「まあ、仕方ないですよね。そろそろ人で慣らさないとだとか、魔法の才があるだけ幸いだとか、初めは手伝いだけやらせればいいだとか。……加担させれば逃げられないとでも思っていたんでしょうね。頭が真っ白になって、気づいた時には火を放っていました」
「そんな……」
叔父たちの心無い言いように、カナタは絶句する。
騙して技術を身に付けさせたというのに、さらに知らない内に殺人に加担させようとしただなんて。
あの優しかった叔父と叔母の言葉と思えない。本当に家業のためだけに、そんなことを口走ったのだろうか。
「じゃ、じゃあ、父さんと母さんは? 叔父さん達とおんなじだったの……?」
「それについては答えませんよ。約束通り、質問は三つまでですから」
一番気になるところを残して、会話をする時間は終わってしまった。
刀を構えるシスイ。今度はやられてばかりではいられないと、カナタも大剣に翡翠の炎を纏わせる。
「先手は譲ってあげましょう。その代わり、私も出し惜しみはしないことにします」
諦めないと知ったシスイは、やっと本気を出すようだ。
分身を増やすのかと警戒したカナタは、直後、身の毛がよだつ気配を感じた。
その正体は、初めてのぞかせたシスイの眼。
花のような薄い紫だった眼が、ギラギラと鋭利な光を放っていた。
「何それっ……!」
刃物に似た視線に、カナタは身をすくめる。
明らかに何かが変わった。
眼だけではない。底が見えていたはずの落とし穴が、急に奈落になったみたいな感覚がする。
「な、なんか強くなった……?」
「ふふ、そうですね。最後に両親から手解きを受けた、殺人鬼のなり方ですよ。実践形式で教えてもらいました」
シスイは皮肉げに答えると、分身をいくつも出して紫水の睡蓮を描く。
シスイの最も得意とする、『紫雲蓮水』の上位魔法『微睡咲』。
「ほら、カナタも構えてください……! 諦めない分、がっかりさせないでくださいよ……!」
先手を取った瞬間、水の花弁が一斉に向かってくる。
それを覚悟の上で、カナタは唯一の呪文を唱えた。
『ククニソハ』
燃え広がり続ける、炎の海。一対一の状況下でなら、多少は効いてくれるはず。
「……驚きました。呪文があるのですね」
「あたしだって、昔のままじゃないもん!」
強く踏み込んで、一気に間合いを詰める。
一歩も動かず迎えるシスイを狙──わずに、横へと力いっぱい剣を振るった。
「……?」
狙いを逸らしたことに、怪訝な顔をするシスイ。
やがて、静かに弾けた音に、反射的に飛び退いた。
「……! なるほど。そういうことですか」
カナタが狙ったのは、床や服への着火。
水に触れたにも関わらず生き続ける炎は、まるで炎自らが蘇生しているようであった。
「これなら、ちょっとは面倒くさいと思う!」
「そうですね。なかなか面白そうです」
お披露目した、新しい魔法。
これに賭けてみるものの、シスイは動じていない。これでも足りないのだ。
火のついた分身のみを消して、シスイは描いた睡蓮を散らせる。
特に勢いがあるわけでもない花弁は、風に吹かれるが如く命火を絶った。
「うっ……避ける間もなかった……」
「先ほどの炎は対処しきれませんね。消すことができない……早く片をつけた方が良さそうです」
圧倒的な優位を誇っているシスイでも、『抱薪救火』は放っておけないらしい。
それに喜ぶカナタだったが、魔法と蘇生を同時に使えば消耗は早くなる。
「手も足も出せなさそうですね」
「う、うっさい! あたしは、まだ勝て──」
「本当にそう思っていますか?」
「……っ」
睡蓮の花弁を止ませて分身も消す。
シスイは再び一対一での対面に切り替え、流水のような動きで瞬く間に一閃する。
魔法を使わない、剣術のみの純粋な手合わせ。
それでもカナタは従兄に遠く及ばなかった。
得意だったはずなのに、ゾッとする瞳のせいか、ちっとも太刀打ちできる気がしなかった。
「前より、上手くなってる……その眼があるから?」
「ええ。昔はいい勝負でしたが、今では圧倒できる自信があります。なんせ、殺しのための魔法ですから」
「……」
目を細めて笑う従兄は、本当に殺人鬼になり切ってしまった。
そう痛感した。
家族への憎しみで人を殺め、それに絶望して闇へと足を踏み入れる。
それが、魔術と呪いに手を染めた、従兄の姿。
もう完全に変わってしまった。手遅れなのかもしれない。
それを、まざまざとカナタに知らしめてきている。
突き放して、今までをなかったことにしようと望んでいる。
(あ、また……まただ……怖い、なんか、すっごい怖い……)
立ち直ったはずなのに。
再び思い出させられた感覚は、胸の内の暖かさを消してしまおうとする。
あの恐ろしく冷たい睡蓮に、生命火は葬られそうになる。
「さあ、そろそろ諦めてください。もう分かってくれてもいいでしょう?」
指は震え、足から力が抜ける。
色を失ってしまった思い出。
それも、やがて端から粉々になって、なかったことに……。
ならば、ここで戦う意味などないのではないか。
もう、負けたことにしても良いのではないか。
せめて、残った蝋燭の炎だけを見つめていれば良いのではないか。
「……わ、わかっ」
──わかった、もう止める。
弱気な決断で、負けを認めてしまおうとした。
もし、それを遮るものがなかったならば。
「えっ……? 何これ……」
言葉の続きを放置して、率直な困惑が口をついて出た。
目の前に現れたのは、虹色の輝き。
チカチカと瞬いて、その奥に揺れる灯を映し出した。
その光に引き寄せられるように、カナタはそれを手で包み込む。
すると、不思議なことに、カナタは起きたまま短い夢を見た。
──夕焼けの綺麗な故郷の丘。こっそり鍛錬を抜け出して、心ゆくまで喋って遊ぶ。
優しくて、賢くて、魔法の上手な人。
そして、最も会いに行きたい大切な大切な家族。
『また遊ぼうね』
約束をして、帰ろと振り返って微笑んだのは──
「……そうだ」
自分は、何をしに家を出たのか。
何のために旅をしているのか。
「そうじゃん。あたし、負けられないんだった」
思い出は、まだ生きている。
わずかながらも、色を失っていない日々がある。
「姉さんを……姉さんを探さなきゃ。こんなところで、姉さんを見つけられなくなるなんて嫌だ!」
こんな怖さがどうだって言うんだ。
ひと時の感情に呑まれて、本当に願うものを捨てる方がよっぽど恐ろしい。
「まだ、やるのですか」
「やる! 諦めるだなんて、バカなこと考えるとこだったけど、そんなのダメなんだ!」
殺気の込められた瞳を見返して、その恐怖を全身で受け止める。
まだ、カナタにもやれることが残っていた。
習うより、慣れろ。
散々言い聞かせられた、父からの教え。
それをカナタは忠実に守ってきた。
だから、理解することはできなくても、マネすることなら不可能ではない。
つまり、打開策はただ一つ。
シスイと同じ、『殺人鬼のなり方』を身につければいい。
「えっと、こう……じゃない。こうして……戦うことだけイメージして……」
「……! まさか……!」
カナタのやろうとしていることに気づいて、シスイが攻撃に転じる。
「冥手……鬼……身体が強くなる……」
カナタの魔力はみるみるうちに削られていく。
ただ、何度も何度も蘇生する最中、カナタは一度も集中を絶たずにいた。
そして、掴んだ目覚めの感覚。
「できた」
カナタの持つ翡翠の瞳は、爛々とした輝きを宿す。
髪は炎をなびかせ、三角帽子は鬼の角のように翡翠を纏った。
これが、代々伝わる殺人者──冥手のなり方。
けど、何よりも強く燃える生命火だった。
「真似が、上手いですね。ですが、そのくらいでやられる私ではありませんよ」
やっと同じ土俵に立った。相変わらず何もかもシスイが上回っている。
それに対してカナタは、すでに満身創痍。
だが、立ち向かう気力は何故だか持っていた。
「分かってる。けど、あたしは姉さん見つけるまでくたばってらんない。だから、シスイはあたしが倒したる!」
最後の決め台詞は、少しだけ母の口調を真似ての宣言だ。
すると、大剣の重みが軽くなったようだった。
魔力の残りは四分の一。
翡翠の炎と蘇りの魔力を携えて、カナタは短期決戦に挑む。




