第18話 魔法都市スモールメ⑦ 頼りになる振る舞い、近づくその日
広場に差し込む陽ざしが気付けば橙の滲むものになっており、不定期に肌寒い風が吹くようになっていた。日の入りまではまだ少し時間があるだろうが、満足に照らされることのない周辺一帯はすでに暗闇へと近づいている。生い茂る草木、錆びた魔動車、落書きにまみれた壁やごみの散乱する地面は徐々に不気味さを増し、ここが権威ある魔法都市であることを思わず忘れそうになる。
「そろそろ戻らないと、泊めてくれてる家主が心配するんじゃないの」
フィリア―ナが薄暗くなった自分の周りを見渡して言った。それを聞いたレイランは「たしかに」と頷くも、まだこの場を離れようとする様子を見せない。
「フィリア―ナさんはどうするんですか」
リミィナは心配そうな表情を浮かべてフィリア―ナに問いかける。レイランに捲し立てられた手前、カイエの家に同行させるという案は提示できない。今晩はこの広場で待機するというレイランの案を採用するか否か、それを改めて確認する。
「人の家は無し、宿は無理、となれば外で待っているしか選択肢はないわね。変に動き回って誰かに見つかる可能性を高めるくらいなら、この場に留まっていた方が危険は少ない。レイランの言う通り、隠れていれば見つからずに済むかもしれないわ」
フィリア―ナは特に迷うこともなくそう答えた。
「あと何時間もしないうちにここは真っ暗になると思います。フィリア―ナさんは一人でここにいるの大丈夫なんですか」
なおも心配そうな表情を崩さずリミィナがそう聞くと、フィリア―ナはむっとした顔になりリミィナを軽く睨む。
「なによ、あんたもわたしを子ども扱いするの? 暗いところなんて平気よ」
リミィナは慌てて首を振って「違います!」と否定した。
「先の見えない不安を抱えたまま、暗い場所で一人でいるのは苦しいことだと思うんです。フィリア―ナさんは、その……怖くないのかなって」
俯きがちにぽつりと言うと、フィリア―ナは口をつぐんで黙った。レイランは小さく目を見開いてリミィナの方を見る。まるですでに経験したことがあるような、否、実際に経験したことがあるのだろう。いつまで無事に命を繋いでいられるのか、いつまで未来の見えない人生を歩み続ければいいのか、そのような不安を抱え続けながら孤独に生きていた少女なのだから。
「……まあ、不安でいっぱいなのは本当のことね。こんな目に遭うなんて少し前までは思ってもみなかったし」
少しの沈黙の後、フィリア―ナが呟くように言葉を発する。
「故郷なのにみんな敵だし、逃げ場のない場所を必死に走り回らなきゃいけなかったし。正直、絶望に押しつぶされるのも時間の問題だったわ」
困ったように笑った後、ちらっとレイランの方に視線を向けた。
「でも、レイランとリミィナが来てくれた。わたしは今、孤独なんかじゃない。それだけで希望は持ち続けられるわ。一晩暗いところに隠れ続けるなんてへっちゃらよ」
はっきりとそう言ってみせたフィリア―ナに、リミィナは息を呑んだ。頼もしい人物を見るような、一種の憧れのような視線をフィリア―ナに向けている。
「勇者一行に恥じない度胸だな。リミィナが尊敬の眼差しを送るのも無理はない」
レイランが大げさに頷いて、からかうような口調でそう言うと、フィリア―ナは胸を張って得意げな顔になった。
「わたしを敬うなんて見る目があるわね。わたしはこれでも、一度世界を救った大魔法師なんだから」
威張るようにそう宣言し、ばっちりと決まりそうになった直後、フィリア―ナの腹から再び間抜けな音が鳴った。
「……」
フィリア―ナは胸を張ったポーズのまま硬直する。
「もう少しで格好良く決まるところだったのに、惜しかったな」
レイランがにやっとした顔で言う。
「緊張が解れて身体が正常な反応を思い出したんでしょう。何日も食べないで動いていたならお腹空いて当然ですよ」
くすっと笑ったリミィナが冷静にフィリア―ナをフォローした。年齢の変わらない少女に励まされ、フィリア―ナは顔を赤くしながら胸を張ったポーズを解くと、「しょうがないじゃない」とレイランの耳にぎりぎり届くほどの小さな声で言い訳をした。
レイランは苦笑しながら持っていた荷物袋を地面に下ろすと、中に手を入れてごそごそと探る。そして、目当ての物を感触で探り当てると、中から引っ張り出した。
「今持ってるのはこれくらいだ。明日、カイエさんの酒場にある料理を持ってくるから、今日は悪いけどこれで飢えを凌いでくれ」
レイランの手に収まっているのは透明な瓶だった。中には、干して乾燥させた果実が充分な量で入っている。立寄所で購入した、所謂保存食というものだ。手元に食べ物がない時に摂取するためのもの、まさにうってつけだ。
「充分よ。ありがとう」
フィリア―ナは目を輝かせて瓶に入った乾燥した果実を凝視している。涎が止まらないのか、口をぎゅっと結んで喉をごくりと鳴らしていた。
レイランが瓶をフィリア―ナの方へ差し出すと、彼女はそそくさと奪うようにそれを受け取り、蓋を開けて中身をいくつか手に取るとすぐに口に放り込んだ。小動物のように口を動かして咀嚼し、「んっんっ」と噛むタイミングに合わせて可愛らしい声を漏らす。そして、あっという間に飲み込んでしまった。
「空腹は最高のスパイスというのは誰が言い始めた言葉かしら。保存食がご馳走に感じるもの」
頬に手を当てて心底幸せそうにするフィリア―ナを見て、レイランは「ははっ」と愉快に笑った。
「明日、カイエさんの料理を食べた時にどんな顔をするのか楽しみだな」
「ええ。楽しみにしてる」
フィリア―ナが極限の空腹状態から脱したところで、三人はふと真面目な顔に戻る。ミラーファはそんな彼らを見守るように腕を組みながら上空を漂っている。
「今後のことを詳しく話すのは明日にしよう。憲兵に見つからないように行動する作戦、結界の対策、どちらもすぐに決められることじゃないからな」
レイランが荷物袋を背負いなおし、上を見上げる。浮かんでいるミラーファと、かなり暗くなった空が視界に入った。
「本当は一緒にいてやりたいところなんだが、実はカイエさんの母親が病気で寝込んでいてな。良く効くらしい薬草を飲んで安静にしてるけど容態が気になる。今日のところは戻らせていただくよ」
フィリア―ナは「へえ」と意外そうな顔をした。
「あんただって大変な状況だろうに人助け中だったんだ。勇者の肩書は伊達じゃないわね」
「完全に成り行きではあるけど、ちょっと負い目を感じるきっかけがあったからね」
レイランがばつの悪そうな表情で答えた。ならず者の拘束が甘かったせいでカイエの抱えていた薬草が燃えてしまったことを思い出していた。レイランが悪いわけではないが、防げたかもしれない事態だったということが罪悪感として少なからずレイランの中に残っている。
「……何かやらかしたの?」
「いえ、不測の事態が起こっただけでレイランさんは悪くないんです。むしろレイランさんは奇跡のような精霊術で問題を解決してみせたんですから」
目を細めてフィリア―ナが尋ねると、リミィナが慌ててフォローに回る。植物がみるみるうちに成長していくレイランの精霊術はリミィナにとって奇跡の力のように見えていた。一度その力によって、過ちを犯した自分や荒廃した集落を救っているのを目の当たりにしたのだから当然なのかもしれないが。
「リミィナは気遣いができる良い子ね。気苦労をかけるわ」
彼らの頭上から、ミラーファのため息交じりの声がリミィナに掛けられる。フィリア―ナやレイランをフォローする健気な様子に感心しているのだ。
「……まあいいわ。今日のところは解散しましょ。わたしはレイランの言う通り魔動車の中に隠れておくから、精霊術で隠してくれるかしら」
リミィナの言葉を聞いてとりあえずそこまで大ごとなことにはなっていないのだろうと判断したフィリア―ナは、詳細を聞き出すことはしないで魔動車の方に身体を向けた。フィリア―ナにとって、レイランの精霊術は見慣れたものだ。魔動車を植物によって幕を被せるように隠すのだろうと予想済みであるし、それを可能にするレイランの精霊術に対する疑いも驚きもない。
「改めて、こんな状況になっちゃったけどまた会えて嬉しいわ、レイラン。リミィナも、経緯はまだ良く知らないけど協力してくれてありがとう。ミラーファ、あんたのことは姿を見ることも声を聞くこともできないけどここにいるのよね。再会できて良かったわ」
一人一人の顔と、ミラーファがいるであろう上空を順番に見まわしながらそう言った後、魔動車の扉を開いてひらひらと手を振った。
「また明日ね」
フィリア―ナが挨拶を述べる。レイランは苦笑いをして手を振り返した。
「そうやって畏まって挨拶しながら別れるのは良くないぞ。二度と会えなくなるジンクスだと昔に物語を読むのが好きだったやつに教えられたことがある」
純粋なリミィナが「えっ」と一気に不安な顔になるも、フィリア―ナは肩をすくめてくすっと笑った。
「こういう感謝とか抱えてる気持ちとかは素直に言葉にして伝える方が良いってものよ。こんな状況になって尚更そう感じるわ。それに、そういうジンクスは実際に言葉に出しちゃえば起こらなくなるって孤児院の友達が言ってたわよ」
不安がるリミィナを落ち着かせるように彼女に向かってウインクを一つすると、「じゃあね」と言ってそのまま魔動車の中に入っていった。ぎぎっと錆びた扉が重々しく閉じられていき、やがてばたんと閉じられた。魔動車には中を覗くことのできる窓も付いているが、錆びや老朽による曇りによって車内を確認することが難しい。一目では中に人間が隠れているとわからないであろう。
レイランはそれを確認すると、目を閉じて手を魔動車の方へ翳した。その手が光を発し、辺りに不可視の力が纏い始める。
「なるべく自然に、だけど誰にも見つからないように徹底的に」
自分自身で最終チェックをおこなうように独り言を呟き、そして開眼した。刹那、周囲の植物がまるで意思を持ってるかのように動き出し、成長を始めた。魔動車を覆うように植物が纏わりついていき、その外側を包むように草木が重なっていく。魔動車はまるで何十年も前から朽ちていたかのように辺りと一体化して、車内を確認しようなどと思えないほど植物に取り込まれてしまった。気付けば生い茂っていた草たちはリミィナの身長を超え、レイランの頭より少し低い高さにまで成長したところで止まった。草木や土の匂いが辺りに充満する。
リミィナが息を呑みながらきょろきょろと辺りを見回しているうちに、レイランの手が発光をやめた。
「こんなところか」
ふうっと息を吐いてレイランが腕を下ろす。頭上ではミラーファがひと仕事を終えたとでも言わんばかりに満足感のある表情を浮かべている。
「……これじゃあ、誰もこんなところに人がいるなんて思わないよ」
リミィナが目を丸くしながら魔動車の方をじっと見ている。相変わらず「凄いものを見た」というような驚いた顔をしながら呆然と言葉を発した。彼女は自分よりも背の高くなった植物たちに囲まれてしまい、ふと勝手に動いたらレイランたちとはぐれてしまうかもしれないほど視界が塞がっている。レイランはそっとリミィナの手を取り、導くように草をかき分けて歩き出すと、背の高い植物が生えていない地帯まで出た。
レイランたちが広場に入ってきた入り口ともう一方の出口を繋ぐ直線上は地面が目視できるほどしか植物が生えておらず、人間が通ることによってできた自然の道に見える。植物や虫の研究家でもない限り、この道を外れて茂みに身を投げ出したりなどしないだろう。カモフラージュは完璧だ。
「さて、この道を踏み歩いて跡を作ったらカイエさんのところに戻ろうか」
レイランが軽く回りを見て一度大きく頷くと、リミィナとミラーファに視線を移しながらそう言った。ミラーファは「そうね」と返事をしつつも人間界の大地を踏みしめることはできないので、変わらず空中を漂っている。リミィナはすっかり景色の変わった広場に圧倒されながら、「わ、わかった」と慌てて答えた後に道の上で足踏みを始めた。
◇
建物はすでに魔法による照明で明るく照らされており、窓から覗くことのできる店内には和気あいあいと楽しんでいる人々が確認できた。開店時間はとうに過ぎており、常連客たちは今日もまたここへ通っているようだ。
「いらっしゃいませ……あ、レルトシアさんにリミィナさん。お待ちしてましたよ」
扉を開けて中に入ると、エプロンを身に着けた明るい笑顔のカイエがレイランたちを出迎えた。手には空になったジョッキが数杯分抱えられており、すでになかなかの量の酒を摂取している客がいるのだろうということが伺える。
「すみません、観光していたら遅くなってしまいました。まだ席は空いていますか」
レイランが"レルトシア"としてのキャラクターを自身に降ろして店内に入ると、カイエはくすっと笑って店内の奥を指し示した。昨日と同じ席である。
「もちろんです、レルトシアさんたちの席はいつでも空けていますから」
レイランが感謝を述べながら軽く会釈してそちらへ歩き出し、リミィナもぺこりと頭を下げてそれに続く。用意されていた席に辿り着くと、早速カイエがそちらへ歩み寄った。
「昨日と同じものをいただけますか」
レイランがそう言いながらリミィナに視線を向けると、彼女も同意の意味を込めて軽く頷く。カイエは「承知しました」と元気に返事をするとカウンターの方へと戻っていった。
「なんだか、昨日よりも元気だね」
リミィナがカイエの背中を目で追いながら不思議そうに呟くのを聞いて、レイランは「確かに」と頷いた。
「――なんでも、母ちゃんの病気が落ち着いてきてるらしいぜ。ほっとしてるんだろうなあ」
突然、レイランとリミィナの死角から声がした。二人が驚いてそちらに目を向けると、見覚えのある顔の男がいつの間にかレイランたちの卓に肘をついていた。肘をついていない方の手には溢れそうなほどの量の酒が入ったジョッキを持っており、顔はすでに真っ赤になっている。開店直後から飲み続けているのか、相当な量のアルコールを摂取済みのようだ。
「こんばんは。昨日ぶりですね」
若干引きつらせながらも笑顔で挨拶をするレイラン。昨夜、今回と同じように突然声をかけてきた酔っ払いだ。酒癖はどうか知らないが性格は悪くなさそうなため邪険には扱えないものの、こうした絡まれ方がレイランは苦手である。世界中から狙われて他人に疑心暗鬼になっていることも原因の一つではあるが、そもそも素面の状態で酔っ払いに声を掛けられるのが苦手な人間というのはそう珍しいことではない。レイランもそのうちの一人というだけだ。
「すっかりあんたたちも常連か? カイエと仲が良いんだもんな」
「お世話になっている方のお店ですので居心地が良いんです。あくまで旅人の身ですので、あまり長くは通えませんが」
「――そうですよね、残念です」
丁度、レイランとリミィナの酒を持って来たカイエが眉を八の字にして笑っていた。酒をテーブルに置いた後、「サービスです」と言って魚を焼いたつまみの乗った皿も差し出す。
「おや、すみません、ありがとうございます」
レイランが礼を言う横では、男が目を丸くしてカイエの方を見ていた。
「おいおい、珍しいこともあるもんだ。常連のおれたちだってサービスしてもらったことなんてないのに」
不満げなわけでも不機嫌になっているわけでもなく、純粋に驚いている様子だ。
「そうなんですか?」
「そうさ。もともとここはカイエの母親が経営してるんだが、その母親が絶対にサービスしないって宣言していてな。もちろん当然のことだし不満はないんだけど、初めてのことにびびっちまったんだ」
カイエははにかんだ笑いを浮かべて「内緒ですよ」と人差し指を口の前で立てた。
「実は、母の体調が少しずつ回復していまして。それも全部レルトシアさんのおかげなんです。なので、少しでもお礼がしたかったんですよ」
男は「へえ」と意外そうな視線をレイランの方に向けた。
「ネイラの病気は治らないって聞いていたが……なら、カイエと仲良くしてるのも納得だな。あんたひょっとして、実は只者じゃなかったりするのか?」
ネイラというのはカイエの母親の名前だろう。「全部レルトシアさんのおかげ」と大げさに言われただけでなく、只者じゃないのではと痛いところを突かれたレイランは、内心少し動揺しつつも苦笑いを浮かべてかぶりを振った。
「薬草を手に入れたのはカイエさんですし、私は何もしてないですよ。むしろ、少し危険な目に遭わせてしまって罪悪感でいっぱいです」
「危険な目?」
男が訝し気な表情になると、カイエが慌てて手を振った。
「違うんですよ、レルトシアさんはまったく悪くなくて。私が変な人たちに絡まれているところを助けてくれたんです。レルトシアさんとリミィナさんは凄いんですよ。火魔法で攻撃されても一瞬で消しちゃうし、飛び火で燃えてしまった薬草も一瞬でなおしてしまったんです」
しまった、とレイランは思った。精霊術とは思われていないもののレイランたちがカイエに見せた力が酔っ払いに知られてしまった。こういう酔っ払いは口が軽い。この場にもしも精霊術に詳しい人物でもいたら、レイランの正体を看破できるような人物がいたら、一気にまずい展開になってもおかしくはない。リミィナも警戒したのか、今まで酔った男になるべく絡まれないようにちびちびと自分の果実酒を飲んでいたが、ジョッキに口を付けたまま目を細めて成り行きを見守っている。
男はリミィナの喜々とした報告を聞くとぎょっとした顔になってレイランを見据えた。
「並の魔法師じゃねえなそりゃ。特に、焼けた薬草をなおす魔法なんて聞いたことがない」
ここで「実は精霊術です」と白状してもいいが、力のある精霊術師といえば勇者レイランを想像することにそこまで難しくない世界である。レイランは自分の名を知らない人間などいないと自負するほど自信過剰な性格ではないが、客観的に考えて今この場で精霊術師であると告白することは、自身の素性が知られてしまう危険が大きいと感じていた。 魔法に囲まれた都市の住民だからか、スモールメの人間たちはレイランの力を見て例外なく魔法と勘違いしている。精霊術だと微塵も思われていないのであれば、わざわざ事実を教える必要などない。レイランは頭を回転させて慎重に話す内容を整えた。
「私とリミィナはここから遠く慣れた場所の出身なのです。そこで身に着けた力なので、もしかしたらスモールメの方が聞いたこともない魔法なのかもしれませんね。自覚はありませんが」
「ほお。そこも魔法が発展した場所なのか? なんて名前のところだ」
男は興味津々な様子だ。深掘りされるのは避けたいが、この流れで出身地を濁す動きを見せるのは不自然だろうか。
――まあ、不自然だろう。レイランは自分から、遠く離れた出身地で身に着けたと言ってしまったのだ。そうなれば、出身地が気になるのも当然である。
レイランは(たしか……)とリミィナが検問の時に言っていた地名を思い出しながら、彼女の方を一瞬ちらりと見る。リミィナはジョッキから口を少しだけ離し、レイランが答えられないなら自分が代わりに答えるという意思をもってレイランの目を見返した。レイランはリミィナにだけ伝わるように僅かにかぶりを振ると、すぐに男に視線を戻した。
「マルリという場所です。おそらく知らないかと」
不自然に感じないほどの時間差でレイランが回答すると、男はふむと顎に手を添えて目線を上げた。
「すまんが知らないな。一応これでも人よりは魔法や魔法の発展した地名に詳しいつもりだが、マルリという名は聞いたことがない」
顔を真っ赤にして酔っぱらっている姿しか見ていないレイランだったが、実は目の前の男が知見のある賢い人間なのではないかと少し警戒を強くした。思い返してみれば、フィリア―ナや結界のことも結構詳細まで知っていそうだったし、魔力探知についてレイランたちに教えてくれたのも彼だ。スモールメの住民だから知っていて当然だと何も不思議に思わなかったが、こんな治安の悪い地域で開店直後から酒をあおっている人物にしては、心なしか知性に溢れている気もする、とレイランは偏見たっぷりながらも評価を改めた。
飲んだくれだと思って気を抜いて下手なことを喋ってしまえば、何かのきっかけでレイランに疑いの目を向けるかもしれない。ただの噂好きや自称評論家の可能性もなくはないが、注意しておくに越したことはない。
「だが、カイエの話によれば枯れた薬草を元に戻したんだろ? 生命に干渉する魔法だとしたらそんなん下手しなくても研究対象に抜擢、そして表彰間違いなしだぞ。魔法の最先端と言われてるスモールメでも、生命を操る魔法なんてものは前例がないんだ」
治癒魔法というものはあるが、それはあくまで傷を修復する魔法なのであって、命に干渉しているわけではない。また、精霊術の界隈で言えば、聖女スイが最も治癒に秀でた精霊術師だと言われているが、こちらも魔法と同様に生命に干渉した術は使えない。
「……私は治癒魔法師ではないので、人間の治癒はできません。植物関連が少し得意だというだけですよ」
話が大ごとになりかけてきて、内心焦りを隠せないレイラン。植物を回復させたのはカイエの証言があるため否定することはまずできない。精霊術だと白状すれば、生命の干渉が云々という話は一旦納得させることが可能だろう。精霊術は精霊の力が大きく関わっているため詳しいことがほとんど解明されていない。ただし、ここで精霊術と明かすのは先述の通りリスクが伴う。
「――マルリの信仰では魔法という呼称じゃなくて、祈りって呼ばれてるの。もしかしたらまだ見つかってない魔法かもしれないし、魔法じゃないのかもしれない。逆に、私たちがまだマルリにいた時は魔法なんて名前知らなかったもの」
そこで、リミィナが助け舟を出すように口を挟んだ。事実でないことをまるで本当のことのように、自然に聞こえるようにあっけらかんと話してみせる。
「祈り、か。まあ場所が遠く違えば信仰も文化もそりゃあ大きく違うよな」
リミィナの言葉を聞いて納得したように男は頷く。突っ込もうと思えばいくらでも突っ込む点があるだろうが、アルコールで思考が鈍っているのか、酒の場で難しい話を長く続けるのが面倒なのか、今の時点で大きな疑念を抱いている様子はない。
もしくは、信仰の違いを仄めかされて大人しく引き下がったのかもしれない。検問官といい目の前の男といい、スモールメに住む人格者は多様性に寛容だ。
ふと、カイエは別の客に呼ばれてレイランたちの卓から離れていった。もう少し話を聞いていたい様子だったが、彼女は店の従業員として勤務中だ。特定の客にばかり付き合っている暇はない。
カイエの背中を目で追っていたレイランを男はじっと観察するように眺めていたが、ふとレイランの顔のあたりで視線を留めて「そういや」と口を開いた。
「あんたの仮面はまあいいとして、珍しい耳飾りしてるよな。紅い太陽と青い雫か? スモールメでそんなのが売ってるのは見たことがないが、それもマルリとかいうところの触媒なのか?」
やはり、スモールメでは仮面よりもレイランの耳飾りの方が珍しいようだ。故郷の村にて豊穣を祈るために毎日祠に通い詰めていた際、神父から譲渡されたものだ。謎の古代文字が書かれているとか、伝説の素材が使用されているとか、特にそういった特別な何かがあるわけでもないし、神の眠る大地から出土したとか大層な歴史の逸話があるといったことも神父は言っていなかった。ある日レイランが覚醒でもしたら何かが起こる可能性もあるが、彼は別に英雄の血筋でもなければ悪魔の末裔でもない。
「スモールメの皆さんはよくこの耳飾りを珍しいと評しますが、そんなにでしょうか。スモールメにはまわりきれないほど多くの装飾品店が並んでいるようですが、私が身に着けているようなものはまったく無いのですか」
レイランはずっと気になっていたことを男に聞いてみる。
「隈なく探していればもしかしたらそういうのを扱ってる店が少しくらいはあるかもな。まあコアな魔法師しか買わないだろうが」
「それは、何故」
男が「そうだな……」と呟いてすっと目を細めた。顔は赤いままだが、真面目な話が続いているからか表情からは酔いの気配が薄まってきている。
「実用的な理由としては、あくまでも魔法を使うための触媒だからだな。魔法師はいろいろな魔法を使うから汎用性のある触媒を使いたがる傾向が強い。何かを型取った触媒ってのは、要はその何かを象徴した触媒だから、専門的な効果になりやすいんだ。あんたの触媒で例を挙げるのなら、炎の形の触媒を介するのであれば火の系統の魔法が使いやすくなるってことだな」
「それに何か問題が? それとも火の魔法しか使えないと?」
「いや、そんなことはないんだが、火専門の触媒を使って例えば水の魔法を使うとなると上手く扱えないとされている。まあ、所詮は感覚でしかないが、火の触媒から水魔法って意味わからんだろう? 魔法は自身のイメージに大きく左右されるってのはどっかの権威ある魔法師が言った格言みたいなものだが、大方正しいと言える」
レイランは魔法師ではないが、そのイメージなら感覚的にはわかる。火の触媒から水を発生させるのは効果が大きく損なわれる気がするし、逆に水の触媒から火を起こすのもまた然りだ。汎用的な、つまり固定のイメージが湧かない装飾品が好まれるのは、どのような魔法であっても同じくらいの効果を生み出せるようにするため、といったところだろう。
魔法とは、魔力を生まれつき持った人間が、自身の魔力を操作することで発現させる技術だ。セオリーのようなものは存在するものの、理論的に「こうすれば必ずこういう結果になる」ということはない。運動神経などの概念が似ているだろうか。それならば、魔法師自身の感覚が優先されるのは仕方のないことなのだろう。
「それにしたって、各々得意な魔法は持っているでしょうし、火が得意な魔法師なら火の触媒を持ったほうが力を最大限に活かせるような気もしますが」
レイランが疑問を口にすると、男は困ったように苦笑した。
「魔法師っていうのは生まれてからずっと魔法ありきの生活に馴染んでいるのさ。たとえいかに火が得意な魔法師だって、火と同じくらい水魔法も風魔法も使わなくちゃならんだろう?」
火だけ起こして日々を生きるのであれば話は別だが、そんな生き方をする人間はいない。レイランはスモールメを歩いている中で、魔法を使って花の水やりや荷物持ちをしている光景を何度も見てきた。日常生活で魔法が欠かせないとなると、やはり特定の魔法に偏ってはいられないのだろう。
「なるほど……。まあつまり、イメージが大切な魔法を使う上で、特定の何かをつい想像してしまうような触媒は普通好まれない、ということですね」
レイランが頷くと、「そういうこった」と男はにっと笑った。
「魔法師ならみんな同じ常識だと思っていたが、文化が違うと考え方も違うんだな。あんたは火と水の魔法が得意だからそれを付けているのかとも思ったが、別にそういうわけではないらしい」
レイランは魔法師ではないが、それはもう否定する気もない。
「これは故郷でとある方からいただいたものであって、本来は触媒として選んだわけではないのです。火も水も使いますが、専門というわけではありませんし」
「貰い物でも使い慣れたやつが一番だ。手練れの剣士でも訓練自体から愛用してる初心者用の剣をずっと使っているやつはいる」
うんうんと首を縦に振る男。酔っ払い特有の高いテンションが収まってきて警戒心を弱めたのか、今度はリミィナが自分から声をかけた。
「そういえば、実用的な理由って言ったけど、ほかにも理由があるの?」
やっと自分から話しかけてくれたか、と喜びを滲ませた笑顔でリミィナを見ると、男は「まあな」と答えた。
「魔法師の中では共通認識っていうか――まああんたたちは違うらしいが。魔法師ってやつは魔法に大きく依存している場合がほとんどなわけで、自分の魔法を精神的支柱にしているやつが非常に多い」
過去にはフィリア―ナも、触媒となる装飾品を失くした時にはひどく狼狽えていた。魔法が使えないという状況は魔法師にとってこの上なく心細いことなのだろう。
「自分を自分たらしめているのが、己のなかで自身のある魔法というわけだな。だから、それを他人に見せびらかすのは気が引けるってことだ。自分の強みを知られるということは、自分の弱みを握られることと大差ないからな」
何かに特化した触媒を持っているということは、その何かがその者にとって最も自身のあるものであるということだ。もしも魔法師同士が戦うことになった場合、当然相手の手の内がわかっていた方が有利になる。
もちろん、魔法は戦うためだけの技術ではない。しかし、自身の手札をあからさまに公開する行為に対してどうしても抵抗があるというのは魔法師に限った話ではない。
「魔法のイメージに、精神的支柱、かあ……。魔法師は心を強く持っていないといけないんだね」
魔法の行使には思考や心理状態が大きく関わっているようだ。自分の知らなかった魔法師事情を聴いたリミィナは、純粋に感心した様子で呟く。
「その通りだ。道具に頼ると言うと聞こえが悪いが、ある程度のクオリティを保つためにみんな触媒を使っているって背景もある。理論的には触媒を使わなくても魔法は使えるらしいんだが、そんな芸当ができるやつは誰一人としていない。あの大魔法師フィリア―ナだって、触媒無しでは魔法が使えないというからな」
早く捕まってほしいとは思いつつも、フィリア―ナを高く評価している男。魔法の最先端に位置するスモールメにおいても、フィリア―ナの実力は折り紙つきの様子だ。
「魔法師の強さは心の強さと深く関係している、と。貴重なお話が聞けました」
レイランが満足感溢れる表情でそう言うと、男はにやっと笑った。
「耳飾りのあんたは心に余裕があって冷静そうだからな。凄い魔法師と言われても納得できる」
「過大評価ですよ。あなたこそ、自信に溢れているように見えますが実はなかなかの実力者なのでは?」
「はは、世渡り上手でもあるようだ」
そして、男は自分の持っているジョッキがしばらく空のままであることにようやく気付いてはっとした顔になった。
「しまった、おれとしたことが酒場で真面目な話を長々と……すまねえ、付き合わせちまったな」
「何を言いますか。こちらこそ、せっかくお楽しみだったのに質問攻めしてしまい申し訳ありません。カイエさんに追加をもらいましょう」
バツの悪そうな顔になった男にレイランは微笑みを浮かべてかぶりを振る。
「そうだな。おれはそろそろ向こうの卓に戻ろう。――そっちの嬢ちゃんもすまなかったな」
男がリミィナに一瞥くれて謝罪する。リミィナはふるふると小さく首を振って応じた。
「興味深い話が聞けて良かった。ありがとう」
リミィナの言葉を聞いて嬉しそうににっと笑うと、男はカウンターの方に歩いていった。話を聞くことに夢中になっていたレイランのジョッキの中、麦とホップの酒はすっかり泡を無くしており、麦色の少しぬるまった液体と化していた。レイランは顔をしかめながらそのジョッキを手に取ると、ぐっと一気に飲み干す。美味しさの薄まった酒が舌と喉を通過し、思わず眉間に皴が寄る。
「おれも新しいの貰ってこようかな」
レイランがぼそっと呟くと、リミィナは苦笑するようにくすっと笑った。
「――ずいぶんと酒の場を楽しんでいるわね」
ふと、不機嫌そうな声が頭上から届いた。二人が顔を上げると、天井付近の少々出っ張った木材部分に腰を掛けるように佇んでいるミラーファと目が合う。
「仮面で顔が隠れているからって、絶対にばれないとは限らないのよ。精霊術師と勘付かれないか何度もひやひやしてたんだから。それとも、絶対にばれないくらい影が薄いって開き直っているのかしらね」
呆れたように首を振るミラーファに対して、レイランは肩をすくめてみせた。
「手厳しいな。ミラーファを放って酒を楽しんでいることを妬んでるのか?」
「そんな嫉妬を感じるのは人間くらいのものでしょう。今日の君はいつにも増してテンションが高かったから、酔いも相まって変なことを口走らないか心配してたってことを言ってるのよ。フィリに会えて嬉しかったのかしら」
「それは否定しないけど、おれだって警戒はずっとしてるさ。情報収集の一環だよ。おかげでいろいろなことが聞けただろ」
レイランがふっと笑って、卓上にあるカイエがサービスしてくれたつまみを一口、口に運ぶ。リミィナもなんとなくそれに続いて同様に一口ほど食べた。「美味しい」と嬉しそうに言って頬を赤らめる。そんなリミィナの様子を見たミラーファは肩をすくめながらもくすっと笑った。
「まあ、厄介なことにならない限りは良いわ。レイランもリミィナもリラックスできる時にはしっかり休んでおかないといけないしね。人間にとって休息は大事なことだろうから」
そう言って、ミラーファはふわりと身体を浮かせて酒場から出ていこうとした。
「どこに行くつもりだ」
怪訝な顔でレイランが問うと、ミラーファは腰に手を当てくるっと身体を回した。
「フィリの様子を見に行くわ。大丈夫だとは思うけど、レイランたちはしばらく酒場にいるでしょう? ちょっとした暇つぶしよ」
フィリがちゃんと休めているかどうか見に行くのか、はたまた本当にただ退屈で動きたくなったのか。ミラーファは軽くウインクをして、ふわふわと店から出ていった。精霊は扉など通る必要がないため、壁を貫通するようにして姿を消した。
レイランたちはその後、新しい酒や食事を注文しつつ、素直に酒場の雰囲気を楽しんだ。遠くない未来にスモールメから抜け出すために行動を起こさねばならないのだから、休める時に休んでおこうという方針である。カイエの母――ネイラの病気が快復するのを見届けるまではカイエの家に世話になるつもりだが、フィリア―ナがスモールメを出れるようになった時にはすぐにでも発つつもりだ。今回は正体を明かすことなく休息をとれる場所を運よく確保することができたが、今後はいつこのような拠点を見つけられるかわからない。
食事を終えた後、レイランがカイエに一人分の弁当を作ってくれないかとお願いしてみたところ、彼女は快くそれを引き受けた。誰のためにとか何のためにとかは何も言わなかったが、カイエは理由を特に気にする様子を見せなかった。レイランは丁寧にお礼を述べた後、酒場を後にしてカイエに貸し与えられている居住スペースへと帰った。
部屋に戻る前に、一度ネイラの部屋を訪れることにした。リミィナを先に部屋に戻し、レイランは一人でネイラが眠る部屋の扉の前に立っていた。数回ノックをしてみるが、中からの返答はない。寝ているのだろうと判断し、音を立てないように静かに扉を開けて中に入った。
相変わらず清潔に保たれた部屋の奥、同じく綺麗にされているベッドの上でネイラはすうすうと眠っていた。穏やかな表情で、苦しんでいる様子は見られない。カイエの言う通り、順調に回復へと向かっているらしい。ネイラが患っている病についてレイランもリミィナも詳しいことは何も知らないが、カイエや酒場にいた男、薬屋のメルベルの言い方から察するに、治癒魔法師でさえも治療法のわからない不治の病らしいことはレイランたちは感じ取っていた。それにもかかわらずここまで著しく体調が良くなってきているということは、それだけあの薬草が貴重かつ優秀なものであるということだろう。
万病に効くものなのか特定の病に強く効くものなのかは定かではないが、前者だった場合は治癒魔法師いらずの革命的な薬草ということになる。生息地すらほとんど解明されていないということで現状は最後の手段、「もし手にはいれば」という観測的希望に過ぎないが、現にこの薬草を手に入れているメルベルの伝手は恐るべしともいえるものだろうし、実際に母のためにそれを入手できたカイエは凄まじい強運の持ち主なのだ。
「……カイエ?」
考え事にふけっていたレイランに、ふと声がかかった。気付けばいつの間にかネイラは目を開けており、寝た姿勢のまま天井を見つめていた。初めて会った時に視界が鮮明でないと言っていたが、未だに焦点は合いにくいらしい。
「カイエさんではなく、ここ数日お世話になっているレルトシアです。起こしてしまったようですみません」
病人の身体に障らない様に柔らかい声を意識しながらレイランが返事をすると、ネイラは「ああ」と声を出した。
「娘を助けていただいた方ですね。おかげさまで体調は良くなっています。私からも改めて感謝を」
「いえいえ、以前も言いましたが薬草を入手したのはカイエさんですよ。そう改まって感謝されるようなことは何もしていません」
ネイラは天井を見つめながら僅かに首を横に動かした。
「カイエから少し聞きましたが、悪い人たちに囲まれていたところを救ってくださったそうじゃないですか。薬草の件はもちろんそうですが、カイエの母親である私としては娘を暴力から助けていただいた方に大きく感謝しているのです」
拘束が甘くカイエが危ない目に遭いかけたことや、そのせいで薬草が燃えることになってしまったことは一旦置いておくとして、ならず者の集団からカイエを助けたことは確かに紛れのない事実である。レイランは大人しく肯定することにした。
「正直、治安が良いとは言い難い地域です。何事か起こってしまう前にカイエさんを見つけることができたのは幸運でした」
少女が一人で出歩くには不安の絶えない地域だとレイランは感じている。この先同じようなことが起こらないとは限らない。
ネイラは落ち込んだような声色になって口を開く。
「……本当はこの地域を一人で歩かせるようなことはしないのです。人の多い場所までは大人と一緒に行動するよう言いつけてあるのですが、なにぶん私が不甲斐ないばかりに……」
こういった場所に住んでいる以上、対策は練ってあったらしい。本来、カイエが一人でここら一帯を歩き回ることはなかった。しかし、母が大病で動けなくなり、唯一の治療法と思われる薬草が薬屋に入ったとなれば、カイエは一人ででも取りに行ってしまうだろう。カイエが愚かだったとも、ネイラの監督不行き届きだったともレイランは微塵も思わない。
「病気は仕方のないことです。今回は例外のケースだったということもわかりました。今回、結果的にカイエさんは無事だったし、あなたの病気も回復に向かっている。喜ぶにはまだ早いかもしれませんが、良い方向に向かいつつあることを嬉しく捉えることとしましょうよ」
レイランが微笑みながらそう言うと、ネイラは微動だにしないながらも申し訳なさそうな、あるいは安堵したような様子を見せた。
「旅人であるあなたにご心配をおかけしたうえ、ここまで親切にしてくださったことは感謝してもしきれません。お察しの通りこの辺りは治安が良いとは言えない場所ですが、スモールメに滞在される間はゆっくりしていってください」
そして、少し時間を空けて再びすうすうと寝息を立て始めた。体調が良くなってきているとはいえ、まだまだ療養が必要であるようだ。囁くように「失礼します」と声をかけ、レイランは部屋を後にした。
翌日、要望通りに用意しておいてくれたカイエの弁当を手にしたレイランは、リミィナと共にフィリア―ナが潜伏している広場にやってきた。あれからフィリア―ナの合図と取れるような出来事は起こらなかったため、無事に見つかることなく一夜を明かすことができたのだとレイランたちは信じていたが、それでも心配が勝ったことで早朝の活動開始となった。朝日が顔を覗かせた頃には既にカイエの家を発っており、空がネイビーからオレンジへと塗り替えられる前には広場にたどり着いていた。
昨日と変わらず、レイランの精霊術によって大きく成長した草木たちが朝の肌寒い風に揺られており、反対側の出入り口まで人が通れそうな道が通っている。普通であれば生い茂った草をかき分けてまでその道を外れようとは考えないであろうが、レイランは目的地に向かって何の躊躇もなく茂みに進入していく。リミィナは自分の身長を超えた草木がひしめく茂みに入っていくということで若干顔をしかめたが、すぐにレイランの背中を追ってかき分けて入った。
少し進んでいくと、植物に覆われて見るからに朽ち果てた魔動車が視界に入る。レイランたちはその目の前まで近づくと、窓を軽く数回叩いて「よう」と声をかけた。
数分もしないうちに車内で何かが動く音が聞こえ、やがて重い音を立てながら扉がゆっくりと開く。寝起きなのかひどく仏頂面な少女が顔を覗かせ、目をくりくりと擦る。
「……おはよう?」
魔動車の屋根の下から顔を出して上を確認し、植物の間から伺える空がまだ暗いのを視認して首をかしげるフィリア―ナ。
「まだ日の出から間もないが、朝と言っていい時間ではある。おはようで合ってるぞ」
レイランが苦笑しながら返事をすると、フィリア―ナは「うう」と呻き声を上げた。そして、車内でこじんまりとしつつも身体を伸ばして大きく欠伸をした。
「熟睡できたかはわからんけど、爆睡はしていたようだな」
「寝床はともかく、屋根の下でちゃんと寝れたのは久しぶりだった気がする。最高の宿だったわ」
皮肉か本心か判断しがたい表情のフィリア―ナに、心配そうな顔でリミィナが声をかける。
「快適とはお世辞にも言えないでしょうけど、しっかり休めましたか?」
フィリア―ナは眉を八の字にしながら小さく笑った。
「落ち着いて眠れただけでも充分休息になったわ。すっかり元気になったもの」
ここ数日の間、フィリア―ナは満足に睡眠をとることはできなかった。瞼が重すぎて限界だったことは何度もあったが、すぐに怒声や足音が聞こえてきて移動せざるをえなかったのだ。完全に安全な状態とはいえないが、何かあっても仲間が近くにいるというのはそれだけで安心感を覚えることができる。
「ほら、これ約束の」
レイランが、丁寧に包まれた弁当をフィリア―ナの方へ差し出すと、彼女は目を幼い子供のように輝かせた。同時に、フィリア―ナのお腹も反応して音を鳴らす。
「ありがとう。作ってくれた人にお礼を言いたいものだわ」
受け取りながらそう言うフィリア―ナ。当然、のこのこと顔を出すわけにはいかないので叶わぬ望みではある。
「もし、今おれたちが置かれている状況が全部良い方向に変わる時が来たら、今度はみんなでカイエさんの店に行こう」
我慢できずにすでに弁当に手を付け始めているフィリア―ナに微笑みを向けながら、レイランが決意に満ちた声色で宣言した。小動物のように頬張りながら瞬く間に弁当の中身を減らしていくフィリア―ナを見て目を丸くしながら、リミィナは首を傾げる仕草をした。
「今日からどうするの? フィリア―ナさんのためにはやくスモールメを出れる方法を見つけないといけないよね」
レイランは腕を組んで「うーん」と唸り声を漏らす。どう動くかは決まっていないが、とれる選択肢はすでに昨日提示されている。どれも実現の難しい危険な選択だ。荒事に発展することは避けられないだろう。
「結界を破るのは無理だろうから、魔法省に潜入して結界を解くか、監獄に忍び込んで封魔具を奪ってくるかしか思いつく方法はない。だけど、おれは魔法師じゃないから結界の扱い方を知らないし、まさかフィリを連れて魔法省に行くわけにもいかない。そうなると――」
リミィナが顔をしかめながら重々しく口を開く。
「監獄に入って封魔具を取ってくるしかない……?」
フィリア―ナは可愛らしくもぐもぐと口を動かしながらも、その小動物のような雰囲気には似つかないほどの鋭い眼光でレイランを見据えている。今のところ何か意見を口にすることはしないが、思うところはあるという様子だ。
「おれが何となく作ったレルトシアというキャラクターだが、まだ失いたくない。だから、監獄への侵入は勇者の一人レイランとして行動することにする。そうすれば、レルトシアと一緒にいるリミィナという少女が関与を疑われる心配も少ない」
レイランが心配するなとでも言いたげな微笑でリミィナに言うと、リミィナは大きく目を見開いた。
「レイランさん、一人でやるつもりなの? そんなの危なすぎるよ!」
昨日も同じような口論があったが、今日のレイランは前と異なり冷静である。ストレスを発散するような態度でもなく、自暴自棄になっているような様子でもない。
「どのみち、実行できる方法というのは限られている。そのなかでも今後に影響が少なそうで、かつ成功する見込みも少しはあると思われる提案をしているつもりだ。大丈夫、今日のおれは冷静だよ」
レイランが真面目な表情でそう言うと、リミィナは口をつぐんだ。反対したいが、レイランの言っていることには納得できてしまうからだ。この期に及んで楽に安全に進めることのできる作戦などあるはずがない。そうであれば、リスクがあることは前提としていかに今後への悪影響を少なく、かつ成功の目途が立てられるかで方針を判断せざるを得ない。
レイランに昨日と同じような提案をされていることには変わりないが、今回は感情的にではなく現実的に提示された作戦だ。リミィナも感情的に反論するわけにはいかない。
「わたしはどうすればいいの」
口の中の物を全て飲み込んだフィリア―ナが、レイランの提案を反対することなく質問する。
「おれが封魔具を無事に手に入れるまで、悪いが逃げていてくれ。今回はリミィナと一緒にだ。精霊とのコンタクトも取れるし動物とコミュニケーションを交わせる力もある。頼りになるはずだ」
「いつまで逃げてればいいの」
封魔具を手に入れるまで、というのを聞いていなかったわけではない。レイランが封魔具を獲得できたとして、それをどのように知ればいいのか、その後はどこへ向かってどのように合流すればいいのかを聞く意図を含んだ質問だ。言葉少なな問いだが、レイランはそれを理解している。
「ミラーファには申し訳ないが、彼女に連絡役となってもらう。おれとリミィナは精霊と会話できるし、ミラーファはおれもリミィナも何となく場所を察知することができるらしい。何か動きがあれば伝言しよう」
見える場所にミラーファはいないが、文句を言いに現れる様子がないところを見ると特に反対の気持ちはないようだ。
「……もし、レイランが失敗したり、わたしが先に憲兵に捕まったりした場合は?」
最悪のパターンも想定しておくべきだ。フィリア―ナの問いに、レイランは睨みつけるような鋭い視線をフィリア―ナに返す。
「万が一そうなった場合は――悪いがフィリを助けることはできない。おれ抜きで脱出する方法を探してみるのもいいが、そんなことができるならとっくにフィリはスモールメから出てるだろうからな。諦めて捕まってくれ」
「ちょ……!」
リミィナが慌てたように口を挟もうとするが、フィリア―ナは有無を言わさないといった早いタイミングで「わかった」と頷いた。
「リミィナはわたしの正体を知らずに逃げる手伝いをしていたか、わたしが脅して無理やり案内させていたことにするわ」
「ああ、そうしてくれると助かる」
レイランの気持ちを汲み取ったフィリア―ナに、レイランは若干申し訳なさそうな眼差しを浮かべながらも淡々と頷いた。
当然、リミィナは怒って声を荒げる。
「私のことは気にしないでいいよ! もしもの時は私が囮になってでもフィリア―ナさんを……」
「リミィナは指名手配になっていない。もしおれたちの仲間だと認識されたらきみだって世界中に居場所がなくなるかもしれないんだぞ」
レイランが諭すように言うが、リミィナは食い下がった。
「もう居場所なんてないようなものだよ。レイランさんたちの力になれたら私も前を向いて生きていけると思ってゴドライを出たのに、全部失敗して私が一人で逃がされたとしても、私は何事もなかったように生き続けることなんてできない」
「おれたちの事情は充分承知してるだろ。いつ最悪な場面にぶつかるかわからないんだ。もしもの時には悪いけどリミィナにも覚悟してもらわないといけないんだよ」
「覚悟はとっくにしてるよ。だからこそ、私は最後までレイランさんたちのために行動したいの。レイランさんたちにもしものことがあって私も危険な目に遭うのだとしたら、それは仕方のないことだと割り切れる心構えはもうできてるんだから!」
レイランが思わずたじろぐような勢いで、リミィナは意志の固い表情で言い放った。
「私のこと、仲間だって言ってくれたよね。だったら、最後まで逃げずに一緒に戦いたい。足は引っ張らないようにするから」
リミィナがレイランたちの足を引っ張ったことなどない。むしろ、彼女の機転や特技に助けられたことの方が多い。共に行動するようになってからまだ長い時間は立っていないが、すでにリミィナは頼りになる仲間としての立場を確立していた。気まぐれな精霊であるミラーファにも気に入られ、先日は部屋にて仲間として認められていた。レイランも何も反対することなくそれを受け入れている。
ただ、リミィナは勇者に関する騒動にはまったく巻き込まれていない身だ。利害の一致というわけではないが、成り行きでレイランたちに同行しているに過ぎない。同行するように誘ったのもレイランの方からだ。リミィナが指名手配に追加されて世界中から狙われるようになることを、レイランはリミィナ以上に恐れている。
逡巡しているレイランをちらっと見たフィリア―ナは、「はあ」と大きくため息をついた。
「ごめんねリミィナ。レイランは優しい人間ではあるんだけど、不器用というか、デリカシーがないというか、頼りない部分も意外と多いのよ。こうやってうじうじするところも、勇者の一人としては情けないわよねえ」
レイランが不機嫌な顔でフィリア―ナの方に視線を向けると、フィリア―ナは睨みつけるような瞳で視線を返した。
「レイランはネガティブに考えすぎなのよ。最悪のパターンを想定しておくことはもちろん大事。だけど、『まあ成功させるから安心しろ』とか『勇者の腕の見せ所』とか、少しは希望のあることを言ってみせたらどうなのよ。もしもの時はとか、最悪な場面とか、不安を煽るようなことばかり言うからリミィナだって心配しちゃうでしょ。リミィナが『レイランさんならきっとできるよね』って堂々と待てるような態度を取ってみたら、彼女だってちょっとは安心するでしょうに」
捲し立てるように話され、レイランはぐっと口をつぐんだ。フィリア―ナは一歩詰め寄るようにレイランに顔を近づけると続ける。
「さっき、もしもの場合はリミィナを逃がすって約束した。これは嘘じゃないけど、そう約束することでレイランの懸念が少しでも減ると思ったからという理由もあるの。今のわたしは何もできないに等しいから、目一杯にリミィナを頼って逃げ続けるつもり。もちろん、レイランは無事に封魔具を取ってきてくれるって信じているから、それまで何としてでも逃げ切ってみせるわ。今回は人任せにして逃げることになっちゃうけど、今回は素直に借りとして持っておくから、今度はわたしが何かしらでレイランとリミィナを助けると誓うわよ」
効果的に動ける者が動き、力になれなそうな者は素直に退く。魔王討伐の旅の時から勇者一行は一貫してこの方針に沿って行動してきた。今も変わらない。動けるレイランとリミィナに任せ、現状のスモールメでは思うように行動できないフィリア―ナは大人しくしておくのだ。代わりに、今後レイランやリミィナが困った際にはフィリア―ナが率先して動く。集団で動くときには適材適所、そして助け合いの精神が重要なのだ。
「……」
レイランは黙ってフィリア―ナを見つめ、そしてリミィナに視線を移した。リミィナはきゅっと口を結んでレイランの視線を受け止めている。レイランは「ふう」と一息吐くと、困ったように肩をすくめた。
「フィリを助けに来たはずなのに、なんでおれが責められてるんだ」
そして、にっと笑うと拳をぎゅっと握った。
「今回はおれが主導で動く。だけど、封魔具が手に入るまで逃げなきゃいけないフィリア―ナとリミィナも危険であることには変わりないわけだ。なるべく早く持ってくるから少しだけ待っててくれ」
リミィナは一瞬迷うような表情を見せたが、決心した顔で力強く頷く。
「レイランさんなら上手くいく。それまでは私がフィリア―ナさんを守るよ」
「まあ本当にどうしようもなくなったら背水の陣の覚悟で魔法をぶっ放すわ。そうなったらもう隠れて逃げることはできなくなるけど、すぐにスモールメから出られるんだったら少しの辛抱ってもんだしね」
胸を張ってそんなことを言ってみせるフィリア―ナにレイランは苦笑した。
「おれたちを取り巻く全部の問題が解決したとして、おれたちはスモールメを出禁になるかもな。監獄に盗みに入る精霊術師と、街で魔法を使って大暴れする大魔法師」
「命まで取らなきゃどうとでも言い訳できるわよ。わたしたちが置かれている状況を考えれば、これからちょっと揉め事を起こしたとしても些細なことだわ」
冗談めいた声色であながち冗談でもないことを言いあう二人を、リミィナは頼もしそうな表情で微笑みながら見ていた。決意が固まり、全員の意志が前向きに揃ったことで、三人は希望に満ちた顔になった。なんだかんだ上手くいくと楽観的になっているのでは決してなく、自分たちならこの困難を乗り切ることができるはずだと奮い立たせているのだ。不安が払拭されたわけではないが、これからのことを悲観的に考えている者はすでにいなくなっている。
「それで、いつから動くの?」
フィリア―ナが問う。レイランは腕を組んで少しの間黙ると、「そうだなあ」と呟いた。
「今日は噂の監獄を見に行こうと思ってる。中に入ることはできないだろうが、少しでも前情報を仕入れておきたい。まああまり悠長にはしてられないだろうから、最速だと明日から実行かな」
一番早くて明日。それを聞いたフィリア―ナとリミィナはぴりっと緊張した面持ちになった。一度作戦が始まってしまえば、もう穏やかな時間はなくなる。無事に成功してスモールメから出るか、失敗して監獄に入るか、はたまた即刻処刑されてこの世を去るか。一世一代の大勝負とはこういう時に使う表現なのだろう。
「フィリはなるべく休んでおいてくれ。ここでいつまでばれずに隠れ続けられるかはわからないけど、今日はリミィナを一緒にいさせるから、何かあったら頼ってほしい。――リミィナは、フィリをサポートしてやってくれ」
リミィナは自分の胸の前にぎゅっと握った拳を合わせ、「任せて」と頷いた。今回、フィリア―ナの身に何かあれば何があろうと作戦は失敗となる。そんな彼女をサポートするというリミィナの役割はかなり重要であり、まさに作戦の要というものだ。
レイランは「頼りにしている」と言ってリミィナの頭を軽く撫でてやる。リミィナはほんのりと頬を赤くして、再び強く頷いた。フィリア―ナは若干じとっとした目でその光景を見ていたが、特に何も言わずに流すことにした。
旅の途中、フィリア―ナも時折レイランに頭を撫でられていた。曰く、妹がいたらこんな感じなのだろうか、と。フィリア―ナはそれを馬鹿にされていると感じて不機嫌そうな顔を隠していなかったが、リミィナはというと嬉しいのか照れているようである。まあ感じ方は人それぞれよね、とフィリア―ナは静観を選んだのであった。




