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運命共同死 (前篇)

作者: 合雲チカラ

「あっ、亜美……また、そんな怖い本読んでるの?」

 真美は、休憩室に入るや否や、亜美の手にしている本を見て呆れた顔で小さく溜息を漏らした。休憩室とは言っても立派な部屋などではなく簡素な会議室にあるような長机とパイプ椅子、そして古びたロッカーしかないような、さして広くもない殺風景な部屋だった。

 「えっ?ま、まあね。そ、それより遅かったじゃない」

 不意に真美が部屋に入って来て驚いた亜美は慌てて本を閉じるとサッと自分の脇に置いた。真美は、そんな亜美の動きを見逃さなかった。

 この今井亜美と林真美は、この四月から共に伊藤病院で新人看護婦として働いていた。看護学校からの同期でもあった二人は互いに何でも言い合える親友でもあった。そんな真美も、ただ一点、亜美に革めて貰いたい事があった。それは亜美の趣味、すなわち大の心霊好きという点であった。

元々、そんな現象を全く信じていない真美にとって亜美の趣味は単なる悪趣味にしか映らなかった。看護学校当時から亜美の心霊好きは有名だったが、この病院に来て働き出してからはパッタリと幽霊話をしなくなっていた。真美は、すっかり安心していた。しかし、一ヶ月程前から亜美の寮室の様子が変わって来ていた。それまで本棚にたくさんあった医療関係の本が、いつの間にか机の横に積み上げられ、代わりに心霊物の本が本棚に並び始めていた。

この病院に来て四ヶ月。亜美も最初のうちは必死に頑張って勉強していたが、段々と慣れて余裕が出てきた為だと真美は気付いていた。それでも最初のうちは個人の趣味だと特に何も言わなかったが、最近は病院にまで、そのような本を持ち込むようになっていた。真美はそれが気になっていた。真美が亜美の趣味にこだわるのは、まさに看護婦という人の生死に関わる職業だからだ。死という物に対して、そんな間違った知識を持つべきではない、というのが真美の考えだった。

 「あのね、亜美、何度も言うようだけど……」

 真美は自分のロッカーへと歩きながら亜美をチラッと見て、そう言葉を続けると、

 「分かってるって。こんな本を病院で読むな!でしょ。分かってます」

 亜美は、うるさそうに真美の言葉を遮った。

 「ほんとに分かってる?」

 真美は念を押してそう続けると、今度はニコッと笑って真美に頷いて見せた。その顔を見て『分かってないな。この子は』心の中で呟くと今度は大きな溜息を吐き、それ以上、話を続ける事を止めた。最近は、いつも最後は、こうだった。親友である亜美の笑顔を見ると、何故だか、それ以上言えなくなってしまう。『時間をかけて、分かってもらうか』いつものように真美は諦めると、また一度小さく頷き、色褪せたロッカーから弁当を取り出した。そして、長机を4個くっ付けただけのテーブルの、亜美の前に座った。パイプ椅子が古くてバランスが悪くカタカタ鳴った。

 「ところで真美。どうして遅かったの?お昼休みが終わっちゃうかと思ったわよ。何かあったの?」

 亜美はそう尋ねると、真美の顔も見ずに自分の弁当箱を広げて嬉しそうな顔をしていた。真美は、すぐに話題を変えただけだと気付いたが、一応、亜美に説明する事にした。

 「田中さんをリハビリ室から病室に連れて帰るのに時間が掛かったのよ」

 真美も冷たくなった自分の弁当を広げながらブッキラボウに話した。

 「田中さんって、先月、脳溢血で運ばれて来た人よね。でも、よくあそこまで回復したわね」

 亜美が口にご飯を頬張りながら言うと、

 「まあ、確かにそうよね。伊藤院長もダメだと言ってたぐらいだから。そう考えると島田先生は凄いわよね。あんな複雑な手術をやったんだから」

 真美は感心したように箸をとめて、何度も頷いていた。すると、亜美も同調するように急に箸をとめ、

 「さすが島田先生。凄腕の先生だわ」

 ウットリとした顔で、口だけを動かしながら真美をボーっと見詰めていた。『ヤレヤレ。また始まったな』真美は、そう思うと無視するかのようにご飯を口に入れた。

 この島田という男は若くして、この伊藤病院の外科医のエースだった。その腕は、院長の伊藤ですら舌を巻くほどの凄腕の持ち主だった。

そもそも、今の伊藤病院が有名なのも、院長の伊藤と島田の二人が築いたものと言っても過言ではないほど、その評判は近隣に轟いていた。だからといって島田は決して、それを鼻に掛けるような人間ではなかった。むしろ、島田にとっては普通の事をしているに過ぎなかった。だから、世間で自分の事をどう良く評価されようと全く気にもしていなかった。ただ純粋に医療を追求する外科医の一人、という感覚しかなかった。

そして、それにも増して島田にはもう一つ、他の人間には無い物を持っていた。それは、容姿だった。島田は俗に言う『男前』だった。スラリとした長身に整った顔立ち。天は二物を与えずというが、島田は天から二物を与えられた、珍しい男でもあった。故に、当然のごとく島田は伊藤病院のアイドル的存在として看護婦にも人気があった。遠方から島田の容姿の評判を聞き、訪れる若い女性患者も少なくなかった。つまり、島田は知らず知らずのうちに病院の患者獲得にも貢献していた。

しかし、当の島田は、そんな女性陣の人気すら意識する事は無かった。誰に対しても気さくに声を掛け屈託の無い笑顔を見せた。この自然さが、より一層女性の心を掴んでいた。亜美も、そんな島田に憧れる女性陣の一人だった。

真美はウットリとしている亜美を見て、ふと思い付いた事があった。

 「ねえ、亜美、知ってる?噂なんだけどさ、島田先生って、スッゴク怖がりらしいのよ。だから、オカルト好きの人は嫌いかもよ」

 真美はそう言って亜美の顔をいやらしく覗き込んだ。すると、途端に亜美の顔付きが変わった。

 「えっ、本当……に?」

 亜美は眼を丸くして一言そう言うと後は力無く俯いたまま何も言わなくなった。逆に驚いたのは真美だった。いつもなら、何かしら反論して来る亜美だったがさすがに、この一言は効いたようだった。真美は焦った。お灸を据えるつもりだったが、まさか、こんなに簡単に落ち込んでいくとは想像もしていなかった。

 「あ、い、いや、亜美、あのね……」

 真美が声を掛けても亜美は俯いてご飯を少しずつ口に運んでいるだけだった。嫌な時間が流れた。どうしたものか、と真美が考えていると休憩室の扉が微かに軋む音を立てながら開いた。

 「あら。誰もいないのかと思ったら、今井さんと林さん、いたんだ」

 驚いたように同僚の森下が中へ入って来た。森下は、すぐに二人の雰囲気が、いつもと違う事に気が付いた。普段は気にもならない床を歩く自分の靴音が妙に響いていた。

 「どうしたの?二人とも。いやに静かじゃない」

 「あ、あの、森下先輩……」

 真美は直ぐに立ち上がって森下の所に行き、耳元で事情を話し、助けを求めた。森下は、真美の話を聞くと急にクスクス笑い出して俯いて黙々と食べている亜美を見た。

 「なるほど。そういう訳だったのね」

 森下は一度小さく頷くと、自分のロッカーに向かって歩きながら、何気なく亜美に話し掛けた。

 「あのね、今井さん。島田先生は、確かに怪談は嫌いだけど、怪談好きの女性まで嫌いだ、なんて話聞いた事ないわよ」

 少し笑いながら明るく言うと、亜美は急に顔を上げ森下を見詰めた。

 「先輩、本当ですか!本当に?」

 森下は亜美を見て微笑むと、

 「そうよね。林さん」

 直ぐに、話を真美に振った。

 「へへ。ごめん、亜美。ちょっと、冗談……きつかった?」

 真美は作り笑いを浮かべながら少し頭を下げた。

 「ひどい、真美。本当の事かと思ったじゃない。ひどいわ!」

 亜美は真美をキッと睨んだ。

 「だ、だって、亜美があんな本ばかり読んでいるから、ちょっと、懲らしめてみようかと思って……」

 「まあまあ、二人とも、そう言わないで。ね」

 森下も、少し曲がって開きにくくなったロッカーの扉を開け、中から弁当を取り出すと、ゆっくりとパイプ椅子に腰を掛け笑顔で亜美と真美を交互に見た。

 「まあ、今日のところは、ちょっと林さんのやり過ぎかな。でも、今井さんも少し反省しなきゃね」

 諭すように言うと、二人とも照れくさそうに頷いた。

 「ところで、今井さん、そんなにオカルト物が好きなの?よく聞く都市伝説ってやつ?」

 森下が弁当を広げながら聞くと、亜美の表情が一変して嬉しそうに、

 「ハイ。大好きです!」

 元気よく答えた。

 「先輩からも言って下さい。そんな本読むな!って」

 横から、すかさず真美が言うと、

 「いいじゃない。別に真美に迷惑掛けてないでしょ」

 亜美は直ぐに言い返して来た。これがいつもの亜美だった。性格は意外と単純だった。

 「まあ、確かに趣味は個人の自由だからね。私も昔は好きで読んでいたわ」

 「そんなあ。森下先輩がそんな事言ったら、よりひどくなっちゃいますよ」

 焦って真美が話すと、

 「ほらっ。先輩も好きだって言ってるじゃない」

 勝ち誇ったような顔で亜美がすぐさま言い放った。

 「あ、いや……でも、あまり、そんな物に興味を持たない方が……いいわよ。ロクな事が無いから……」

 そう言う森下の顔が一瞬曇ったのを亜美は見逃さなかった。咄嗟に何かあったんだ、と直感した。

 「ロクな事が無いって……何か、あったんですか?先輩」

 亜美の質問にビクっとすると森下は言葉を詰らせ、

 「あ、い、いや……そんな事は……」

 嫌な事を思い出したのか、急に顔を伏せると、ゆっくりとご飯を口に運んだ。そのよそよそしさに、さすがに真美も何かあると感じた。

 「あのう、森下先輩。もし、何かあったんなら教えて貰えません?ここは病院だし、色々な事があったんじゃありません?」

 亜美は長机に身を乗り出して、興味津々に言った。真美も森下の表情に妙な胸騒ぎを覚えたが、同時に妙な興味も湧いて来て、敢えて、亜美の質問を止めなかった。

 「……」

 最初、森下は何も答えず、黙々と口を動かしていたが、急に意を決したようにパタンと箸を置くと、

 「分かったわ。どうせ黙っていても、いつかは聞くと思うから」

 真剣な眼で二人を交互に見詰めた。その森下の眼つきに真美は思わず生唾を呑み込んだ。

 「私が話したって事は内緒にしてね」

 森下の、この言葉は、二人にとって妙に真実味がある話のような前振りに聞こえた。亜美がソッと真美を見て頷くと、真美も黙って頷き返した。

 「さっきも言ったけど、私も昔はそういう心霊現象とか好きでよく本を読んでいたの。でも、ある事がきっかけで止めたのよ」

 「ある事?」

 「ええ。実はね、この病院には設立当時から伝わる奇妙な噂があるのよ」

 森下は眉間に皺を寄せた。

 「噂……ですか?」

 真美はそう聞き返すと、持っていた箸をソッと音を立てずに机に置いた。

 「その噂とはね、夜の十一時ちょうどに地下にある姿見に、自分の名前もしくは誰かの名前を縦に書き、その下に✕というようにバツを書くとその人が死ぬという物なのよ」

 「ええっ!で、でも、それは単なる噂なんでしょ?」

 真美は顔を引き攣らせて森下を見詰めたが、森下は真剣な顔付きで首を横に振っただけだった。

 「えっ、ま、まさか……」

 真美は絶句してしまった。

 「ちょっと待って真美。先輩、地下と言えば霊安室のある所ですよね?あそこに姿身のような、そんな大きな鏡なんてありました?」

 亜美には、森下の言う大きな鏡が何処にあるのか想像出来なかった。

 「あなたたちはこの病院に来てまだ四ヶ月でしょ。知らないだけなのよ。実は……あるのよ」

 森下はそう言うとグッと亜美に顔を近付けた。思わず、亜美は身体を後ろにのけぞらした。パイプ椅子が小さくカタンと鳴った。

 「で、でも、何処にあるんですか?そんな大きな鏡?」

 真美も同じ様に地下を想像していたが、やはり、亜美同様思い当たる所が無かった。

 「よく思い出してみて。地下の様子を」

 森下にそう言われ、亜美は眼を閉じ、地下の様子をもう一度思い出して真美にも確認できるよう声に出してみた。

 「た、確か、エレベーターを降りて左に曲がれば、その先には上に上がる階段。右に曲がると正面に霊安室が見えますね。その霊安室の前を更に右に曲がると霊安室の横に変電施設の大きな部屋。斜め前には倉庫。それだけしか……」

 亜美はそう言うと目をパッと開け、森下を見詰めた。真美は亜美の言葉に何度も頷いているだけだった。森下も亜美の言う事に何度も頷いていた。

 「その先よ。その先に更に廊下があり右へ伸びていて、奥にもう一つ部屋があるのよ」

 「ええっ。あの先には、もう何もないと思っていましたけど」

 真美が驚いて亜美を見ると、亜美も驚いたように目を丸くして頷いていた。

 「それは霊安室からは見えないだけなのよ。霊安室の前の通路を右に曲がって進むと、更に右に曲がる通路があるのよ。曲がって暫く進むと扉があるわ。その扉の横に大きな姿身があるのよ」

 森下は何度も頷いて二人を見た。真美は何だか森下と眼を合わすのが怖くなり、敢えて視線を反らした。そして、亜美の方を見ると、ここ最近、仕事でも見た事がないような真剣な眼差しで熱心に森下の話を聞いていた。

 「先輩。さっき、確か、真美が噂だと言った時、首を横に振りましたよね。という事は……」

 森下は一度だけゆっくりと大きく頷いて、

 「現実に死んでるのよ」

 声を押し殺し、亜美を睨むように眉間に皺を寄せ見詰めていた。真美は、もはや聞きたくないというように俯いて眼を閉じた。

 「どうして、それが噂ではなく、現実の事だと?」

 「三年前に、私がその死んだ人、山田さんという看護婦を発見したからよ。地下の、あの鏡の前……でね」

 真美は森下に背を向け、両手で耳を塞いだ。

 「えっ?ど、どういう事ですか?」

 「実は……」

 森下は一瞬、言葉を詰まらせたが、直ぐに気を取り直して話を続けた。

 「実は、私も、その件に関係があったのよ」

 「もし良かったら、話して貰えませんか?」

 亜美は内心ワクワクしていた。本で読む文字からは決して恐怖は伝わってこない。しかし、人から生で聞く話はリアルさがあって恐怖が充分伝わって来るからだ。亜美は森下の話に日常では味わえない刺激を求めた。

 「三年前のある日、私と死んだ山田さんと、あと、成田さん、木下さんという、ちょうどあなたたちと同じ様な新人看護婦と一緒に休憩室で話をしていたのよ」

 森下は、まるで当時を思い出すようにソッと眼を閉じた。

 「すると、誰が言い出したのか、地下の鏡の話になったのよ。私も以前に聞いた事があったけど単なる噂だと思ってたの。ちょうどその日、四人とも当直だったから確かめてみよう、ってなったのよ。肝試しよね」

 「先輩も行ったんですか?」

 「ううん。私はちょうど、受け持ちの患者さんが発作を起こして、それで行けなかったんだけど、あの三人は実際に十一時ちょうどに例の鏡に自分の名前を書き、その下にバツも書いたらしいの」

 「それで、何が起きたんですか」

 亜美は再び、身を乗り出して来た。古いパイプ椅子がさっきよりもカタンと大きな音を出した。

 「その場では何も起きなかったの」

 森下の言葉に期待した亜美は少しガッカリしたように椅子に腰を下ろした。

 「でも」

 森下の表情が険しくなった。亜美の期待度が再び高くなった。

 「でも、夜中の二時前になって、皆、山田さんがいないって事に気付いたの。勿論、看護婦総動員で捜したわ。でも、見付からなかった」

 森下はここまで言うと残念そうに俯き、頭を左右に振っていた。

 「その時、ふと思ったのよ。もしかして、噂に関係があるんじゃないかって。急いで、私と成田さんと木下さんで地下に行ってみたら……そうしたら……」

 森下は言葉を詰まらせた。亜美はゴクリと唾を飲み込むと、机の上に置いた森下の拳が微かに震えている事に気付いた。

 「そうしたら、山田さんという人が倒れていたんですよ、ねっ」

 亜美が確認すると、森下は黙って頷いた。

 「もし……もし、あの時、私が肝試しを止めていたら……あるいは、山田さんは……」

 森下の言葉には後悔が滲んでいた。亜美は話を聞き終わると一呼吸置いて、

 「でも、先輩。誰も何も見てないんでしょ?それに、成田さん、木下さんという人も無事だったんでしょ?だったら、それは単なる偶然じゃ」

 優しく、森下を気遣うように言うと、

 「違うのよ!私は見たのよ!あの山田さんの苦しそうな死に顔を!あれは、何かに怯えるような、何かの恐怖におののく様な顔だったわ!」

 急にガバッと立ち上がり亜美を睨んで言い放った。森下の椅子が後ろに大きく傾き倒れそうになったが、もち直すとガタンガタンと大きな音をたてて鳴った。その音に、真美は急に驚いて森下を振り返った。森下の眼は微かに赤く充血していた。  しかし、直ぐに冷静になったのか、ゆっくりと椅子に腰を掛けると、

 「ご、ごめんなさい。確かに、今井さんの言う通り偶然かもしれない。でも、やっぱり、私には、あの噂は本当のような気がするの。その時から、心霊現象という物を否定出来なくなったの」

 普段の、亜美も真美も良く知っている温和な森下に戻っていた。二人とも暫くは何も言えず、ただ、黙っていた。

 「今井さん」

 森下は黙って俯いている亜美にソッと声を掛けた。

 「何故、私がこの話をしたと思う?それは、あなたが心霊好きだと分かったからよ。あなたなら、この噂を聞くと、きっと確かめたくなるでしょ」

 亜美は心を見透かされたようで、一瞬ドキッとした。確かに、森下の言う通りだった。

 「でもね。あの鏡にだけは近づいてはダメよ。分かったわね。約束して」

 亜美は渋々頷いた。森下は、亜美の頷く様子を見て少し安心したのか、もう冷たくなったご飯に再び口をつけた。

 と、突然、休憩室の薄汚れた扉が外れるかと思うほど、けたたましく開くと、体格の良い、中年看護婦が顔を覗かせた。

 「あなたたち!いつまでお昼を食べているんですか!もう、休憩時間、一〇分も超えてますよっ」

 その声に、三人共ビックリして飛び上がらんばかりだった。今までの沈んだ雰囲気が一瞬にして変わった。

 「い、今矢婦長!」

 「婦長じゃありません。早く持ち場に戻りなさい」

 「す、すみませんっ!」

 亜美と真美が謝るのも聞かないうちに扉を強くバタンと閉めて立ち去って行った。休憩室のロッカーが微かにビリビリと震えていた。

 「ホントだ!お昼、いつの間にか終わっちゃってる」

 亜美は壁の時計に眼をやった。

 「今矢婦長、凄く怒ってたわよ。どうしよう?」

 真美は、森下の怖い話など一瞬にして忘れ、今現実にある今矢の恐怖におののき、狼狽し始めた。

 「とにかく現場に戻りましょ」

 森下の言葉を合図に、皆、一斉に食べかけの弁当をロッカーに片付け、急いで廊下に飛び出した。

 「私は直接病室に行くから。あっ、それと、さっきの話、私が話したって事、内緒よ、ねっ」

 森下は、亜美と真美に、そう釘をさすと二人とは反対に廊下を走り出して行った。

 「いいなあ、先輩、病室で」

 亜美は羨ましそうに森下の背中を見ていた。

 「ちょっと、亜美。早くナースステーションに戻らないと、また、婦長から雷落とされるわよ」

 真美はそう言うとサッサと走り出した。

 「あ、待ってよ」

 亜美も一人置いて行かれまいと必死に真美を追いかけた。

 「でも、今日のお昼は最悪ね。お昼が食べられなかったうえに、婦長から怒られて」

 亜美が息を切らせながら真美に言うと、

 「だから先輩も言ってたじゃない。怪談なんて好きになると、ロクな事は無いって」

 真美も走りながら軽く笑い、そう答えた。

 「それとこれとは関係ないって」

 二人は全力でナースステーションを目指し駆けて行った。



 「戻りました」

 亜美は夜間の巡回から戻ると、真美の正面にある、自分の席に疲れ果てたようにドカッと座り込んで小さく溜息をついた。

 「遅かったわね。また、捕まったの?」

 真美が書類に眼を通しながら、いつもの事のように何気なく尋ねると、亜美は小さく頷いた。

 「沢田のお婆ちゃんよ。また、息子の嫁の話をするのよ。それも、三〇分も。もう、聞き飽きたっていうの」

 膨れっ面でそう話す亜美をチラッと見て、真美は微笑んだ。

 そもそも、入院患者、全てが重症という訳ではない。ましてや、亜美と真美が担当する一般病棟には寝たきりの重症患者など一人もいなかった。となると、日常の退屈な入院生活でする事と言えば、食べる事と嫌になるほどの睡眠ぐらいであった。そのような患者が、夜九時の消灯時間を過ぎたところで急に眠れる筈も無い。いわば、亜美たち看護婦の夜間巡回は、眠れぬ患者たちの話し相手をする、という事がメインになっていた。亜美は内心、こういった刺激の無い巡回に飽き飽きしていた。

 「今井さん、そんな事言うもんじゃありませんよ」

 不意に亜美の後ろから声がしてビクッとした。その声の主は容易に推測出来た。亜美は急に姿勢を正して、

 「ハイッ」

 活舌良く凍り付いたように前を向いたまま返事をした。今矢は亜美の右肩にソッと手を置くと、

 「患者さんは、皆、不安で寂しいのよ。その不安や寂しさを取り除く事も、私たち看護婦の大切な仕事よ」

 優しく諭すように話し掛けた。亜美は、また、愚痴を言った事に雷を落とされると思っていたので、逆に今矢の優しい言葉遣いに戸惑ってしまった。

 「あ、ハ、ハイ。そうです……ね」

 真美は、亜美の緊張した顔が可笑しくて思わず、パソコンの陰に隠れ、くすくす笑ってしまった。

 「林さん。あなたもですよ。分かりましたか」

 今矢の眼が、突然、真美を捕らえた。まさか自分にまで問い掛けられると思っていなかった真美は、今矢と眼が合うと、咄嗟に立ち上がり、

 「分かりました!」

 広いナースステーション全体に響くほどの大きな声で答えてしまった。他の看護婦が何事かと真美を振り返っていた。周りの視線に気付いた真美は急に恥ずかしくなって顔を赤くした。今度は、亜美がそんな真美を見て吹き出した。

 「元気があってよろしい」

 今矢は満足したように微笑むと何度も頷いた。

 「さあ、そろそろ、あなたたち二人は休憩時間じゃない?昼間の時のように遅れないでよ。時間厳守ですからね」

 「ハイ。分かりました」

 亜美と真美は揃って声を出すと、急いでナースステーションから出た。ソッと扉を後ろ手で閉めると、亜美は声を殺して、

 「良かったあ。今矢婦長、機嫌が良くて。また、怒鳴られるかと思ったわ」

 ホッとしたように大きな溜息をついた。思わず真美も頷き、

 「ホント。一時はどうなるかと思ったわ。確かに普段はいい人だけど、仕事の事になると鬼のように怖いからね」

 二人でこっそりと笑いあった。

 「さあ、亜美、休憩に行こう。今度時間に遅れたら、雷どころじゃ済まないかもね」

 真美はそう言って廊下を歩き始めると、

 「ねえ、真美」

 徐に後ろから亜美が妙なトーンで声を掛けて来た。

 「えっ?何?」

 振り返って亜美を見た途端、ギクッとした。やけにニヤニヤした顔をして、少し上目遣いで真美を見ていた。大体、こういった顔をしている時はロクな事を考えていない。昔からそうだった。不気味に感じた真美は、直ぐに無視するように歩調を速めて歩き出した。

 「待ってよ、真美。あのさあ……」

 「何よ!早く休憩、行くわよ!」

 廊下を足早に並んで歩きながら、真美は無愛想に答えた。

 「昼間の、森下先輩の話、覚えてる?」

 「えっ?」

 真美の足が止まった。

 「あ、あなた、もしかして、地下にある鏡の所へ……」

 亜美は急に周りを気にして、自分の口に人差し指を当てた。

 「ねえ、あの話、どう思う?」

 「亜美!先輩と約束したんじゃないの?」

 「私は単なる偶然だと思うのよ。確かに、山田さんという人が現実に死んだとしてもよ。だって、私たちの勤務形態を考えてよ。中には過労死する人だっていると思わない?」

 「い、いや、そういう事じゃなくて」

 「あっ、もしかして、真美、本当は怖いんじゃ」

 挑発的な顔をして、今度は亜美が真美の前をゆっくりと行ったり来たりして歩き始めた。

 「ち、違うわよ」

 とは、答えたものの、確かに亜美の言う通り怖いものがあった。元々、幽霊の存在など信じてはいなかったが、ただ、森下の話には何故か自分でも良く分からなかったが気味の悪い物が感じられて仕方がなかった。それが、一種の恐怖として頭の中にあったのだ。

 「だったら、鏡だけでも確認しに行かない?だって、そんな所に鏡があるなんて知らなかったんだもの」

 ニコニコしながら真美を振り返った。

 「えっ、い、嫌よ!そんなの!」

 「あ、やっぱり。いつも、私には幽霊なんていないって言ってるのに、本当は……」

 「こ、怖くなんかないわよ」

 いつも、亜美に幽霊など存在しない、と言い続けている手前、引っ込みがつかなくなり、思わず強がってそう答えてしまった。亜美は『シメタ!』という顔をした。

 「じゃあ、行こう!」

 待ってましたとばかりに、真美の腕を引っ張ってエレベーターの前に連れて行った。

 亜美自身も本当は幽霊の存在など信じてはいなかった。ただ、そういった読み物が面白いから興味を持っていたに過ぎなかった。

しかし、今回の森下の話には、さすがに恐怖を感じて一人では行く気になれなかった。かと言って、興味は充分あった。『所詮は噂に過ぎない』亜美は軽く考えていた。

 エレベーターが到着すると乗り込み、亜美が地下のボタンを押した。真美も、『所詮は噂よ。何も起きる訳はない』と覚悟を決めた。     

 エレベーターが地下に到着し、降りると、直ぐに扉が閉まり、エレベーターが上に上がって行った。真美は、何だか地下に置いて行かれたような気がした。亜美も、時々来る、この霊安室のある地下だったが、いつもにも増してヒンヤリとして空気が違うような気がしていた。所々汚れて薄いネズミ色になった壁すら、何故だか眩しいくらいに白く見えていた。まるでいつもとは感覚が違っていた。来る目的が違うと、こうも感じ方が変わるのか、と自分でも不思議に思えた。

首を右に振って霊安室の扉を見ると、

 「行こう」

 静かに真美に告げた。真美は息を飲んで亜美の後ろに着いた。いつもなら気にもしない靴の音が、今は二人の歩調が少しずれているせいで大勢の足音のように反響して異様に聞こえていた。

二人揃って霊安室の扉の前に立つと、右に曲がって十五メートル程伸びている廊下の先を見詰めた。

 「あの奥に、更に廊下が右に曲がってるって言ってたわね。でも、真っ暗で突き当たりに見えるけど、本当に……」

 亜美の言葉に、ただ、真美は頷くだけだった。

 「行ってみよう」

 亜美がゆっくりと歩き出すと、真美は、まるで魔法にでもかかったように、気持ちとは裏腹に足が前へ進んだ。途中、変電室の前を通り過ぎると中からブーンという高圧電流の音が微かにした。ここから先は、二人には未知の所だった。嫌な汗が滲んで来た。段々と進むにつれて、確かに真っ暗な廊下が右に曲がっているようだった。

 「ホントだ。確かに廊下がある」

 真美は恐る恐る口にした。突き当りまで来て、右を見ると確かに真っ暗な廊下が続いていた。

 「どうして、ここだけ真っ暗なのかしら?廊下なのに」

 亜美が天井を、目を凝らして見上げると廊下に付いている筈の蛍光灯が全て外してあった。

 「見て。真美。蛍光灯が無いわ」

 「これじゃ、霊安室の所からは、廊下が在るのか無いのか、分からない筈よね」

 真美がしみじみと言うと亜美は大きく頷き、そして、暗い廊下にまるで吸い込まれるかのようにゆっくりと進み始めた。

 「えっ?亜美。行くの?」

 「当然よ。鏡を見に来たんだもの」

 ここから先に進む事に、真美は躊躇した。しかし、亜美は先にと進んで行った。何時しか未知の場所に対して、亜美は恐怖心より好奇心がまさっていた。

 「あるわ!扉!その横に姿見も!」

 真美は何だか一人立っている事が怖くなり、亜美の元に近づいた。真美には、まだ恐怖心がまさっていた。

 「この鏡の事ね。本当にあったんだ」

 亜美は嬉しそうに鏡を覗き込んでいたが、さすがに真美は鏡を見る気にはならなかった。

 「もう見たでしょ?さあ帰ろう」

 真美はソワソワしながら周囲を気にしていた。

 すると亜美は、真美の声も聞こえないのか、暗い中、自分の腕時計を凝視し始めた。

 「十一時五分……か。まあ、いいか」

 「まあ、いいかって……あなた!何考えてるの?まさか……」

 「そうよ。この鏡に名前書くの」

 「ちょ、ちょっと待ってよ!先輩は……」

 亜美はニコニコしながら首を横に振った。

 「大丈夫よ。私も色々な所へ肝試しに行ったけど、何か起きたって事一度も無いから。それに、先輩の話だと十一時ちょうどでしょ?ほら五分も過ぎてるし」

 亜美はそう言いながら、早速、指で鏡に自分の名前を縦に書き、その下に✕と書き入れた。鏡は誰も拭く者もいないのか、薄っすらと埃が付着していて、指でなぞった跡がはっきりと残った。

 「やめなよ、亜美」

 「大丈夫だって。真美も書いてご覧よ。真美の言う通り、幽霊なんていないって証明にもなるじゃない」

 アッケラカンとして言う亜美を見ていると、何だか亜美の言う通りの気がして来た。『確かに、自分は一体何を恐れているのだろう?所詮は噂話。現実に何かが起きる事などあり得ない』そう考えると、一気に恐怖心が薄らいで来た。

 「わ、分かったわ。でも、これで、帰るわよ」

 真美はそう言うと、鏡に亜美の名前の横に同じ様に縦に自分の名前と、その下に✕を書いた。二人とも、書き終わると、暫く鏡の前で佇んでいた。しかし、何の変化も無かった。

 「やっぱり、ただの噂だったのよ」

 亜美は少しガッカリしたように言うと、鏡の隣にある、扉のノブを回してみた。鍵が掛かっていた。

「何だあ、この部屋にも入れないわ。でも、この部屋は何だったのかしら?」

ブツブツ言う亜美の横で、真美も、やっぱり単なる噂か、と思うと内心ホッとした。

 その時、一瞬、暗い廊下の突き当りから緑色の物が光ったように見えた。

 「な、何!今、何か光らなかった?」

 真美が慌てて亜美の腕にしがみ付き、震える声で聞くと、

 「う、うん。確かに……」

 薄暗い廊下で、亜美の顔も引き攣っているのがわかった。二人とも、光った廊下の先をじっと眼を細めて見詰めた。

 「あっ、何かある!何か、薄っすらと見えるわ!」

 亜美は、そう言うと再び吸い寄せられるように一人進んだ。

 「あ、亜美」

 真美も眼が暗さに慣れて来て、薄っすらとではあるが亜美が言う何かが段々と見えるようになって来た。

 「来て、真美。これ、扉よ」

 亜美が手招きをしていた。

 「ほ、本当だ。確かに扉よね。でも、この扉って、何処に出るのかしら?開くの?」

 真美の質問に亜美は首を振った。

 「ほら、よく見てよ。このノブ」

 そう言われて、暗い中、ノブをジッと見ると針金が何重にも巻き付けられていた。

 「これじゃ、開けられないわね。じゃあ、さっきの光は何処から?」

 「たぶん、これじゃないかしら」

 そう言って、亜美は扉の横にある四角い物を叩いた。その衝撃で緑色の光が点いた。真っ暗といえる空間の中で、今度はその緑色があまりにも明る過ぎて、二人とも瞳孔が瞬時に縮んだ。

 「これ、看板よ」

 それは『非常口』と書かれた案内板だった。

 「何だ、ビックリするじゃない。非常口の案内板じゃない」

 真美は忌々しそうに言うと、案内板がスッと消えた。今度は真美が叩いてみると、また、パッと点いた。

 「接触、悪いんだ。でも、これって妙に雑よね」

 「そうね。市販されている物じゃなく、誰かが作ったって感じね。それに、普通横書きで書いてない?これって縦書きに『非常口』って書いてあるのよ。変よね」

 緑色に照らされた亜美の顔が笑っていた。

 「という事は、この扉が非常口?でも、意味無いわね。開かないんだから。余計な時間費やしただけね」

 同じく緑色になった真美の顔が笑いながらそう言うと、何かを思い出したのか、咄嗟に亜美の顔付きが変わった。

 「……時間……?」

 慌てて、亜美は自分の緑色に照らされた腕時計に眼をやると、

 「マズイ!」

 一言そう言って、眼を丸くして真美を見詰めた。現実には緑色に照らされた顔色だが、亜美の心の中では真っ青に変色していた。

 「ど、どうしたのよ?」

 真美は急に不安になった。

 「今、ちょうど、休憩が終わりの時間なのよ」

 「ええっ!」

 亜美の言葉に真美は恐怖で足が震えた。今度時間をオーバーすると、どんな雷が今矢から落とされるか分かった物ではなかった。

 「ど、どうしよう?」

 うろたえたのは、亜美も同じだった。

 「とにかくダッシュよ!ダッシュでナースステーションに戻りましょ!」

 言うや否や、真美は暗い廊下を走り出した。

 「あ、ズルイ!待ってよ」

 亜美も猛烈に走り出した。二人のケタタマシイ足音が四方八方から響き渡って来た。まるで自分の足音に追い立てられるような錯覚に陥った。それでも二人はただ走るしかなかった。しかし、真美は、暗い廊下を抜けて、明るい変電室の前に差し掛かった時、突然立ち止まった。

 「キャッ!どうしたのよ!急に立ち止まらないでよ、危ないじゃない!」

 亜美はもう少しで真美の背中に追突するところだった。

 「い、今、私の名前……呼んだ?」

 真美は不思議そうな顔でゆっくりと振り向き、亜美に尋ねた。

 「えっ?そんなの呼ばないわよ。それよりダッシュよ!怒られるわよ!」

 亜美は呆然と立ち尽くす真美を追い抜いて、脱兎のごとく階段を目指した。エレベーターを待つより、階段を駆け上った方が早いと考えていた。

 「そ、そうよ……ね。呼ばないわよ……ね」

 真美は、誰かが自分の名前を呼んだ気がして仕方なかった。しかし、現実には、この地下に自分と亜美しかいない。もし、亜美が呼ばないのなら……それは間違いなく自分の勘違いだと決め付けた。真美は気を取り直して亜美の後を追いかけようと階段の方に向き直ると、今度は微かに『カチャ、カチャ』と音が聞こえた。まるで扉のノブを回そうとする音のように聞こえた。途端に意味もなく急に血の気がサッと引いた。

 「う、うそ……だ、誰なの?」

 真美の脳裏には、何故だか自分でも良く分からないが、鏡の横にある扉のノブが動く様子が浮かんでいた。全身に鳥肌が立ったかと思うと、直ぐにジワッと嫌な汗が再び滲んで来た。『早く、ここから出なきゃ!』そう思った途端、階段の所から、

 「何やってるのよ、真美。先に行くわよ」

 亜美の呼ぶ声が聞こえた。その声にハッとすると、一目散に階段目がけて走り出した。その勢いは凄く、あっという間に亜美を追い抜き、階段を一人で駆け上がって行った。

 「ちょ、ちょっと、どうしたのよ!置いていかないでよ」

 必死の形相で追い抜いて行った真美の顔を見て、亜美も負けじと後を追った。

 一気に三階まで駆け上り、長い廊下を走って、まるで扉を蹴破る勢いで二人同時にナースステーションに飛び込んだ。あまりのけたたましさに、その場にいた看護婦全員が驚いて二人を見た。その場には今矢もいた。

 「ど、どうしたの、あなたたち?」

 今矢が驚いて、肩で息をする二人に声を掛けると、亜美が、

 「すみません!また、遅れました!」

 大きな声で今矢に謝った。

 「な、何が遅れたんですか?」

 今矢の問い掛けは、怒られる事を覚悟した亜美にとって意外だった。

 「え、だって、また休憩時間を超えてしまいまして……」

 「何言ってるの、今井さん。休憩時間が終わるまで、あと一分あるじゃない。あなたたちは十一時三〇分まででしょ」

 今矢は壁の時計を見ながら亜美に話した。

 「えっ?」

 亜美は驚いて壁の時計を見た。

 「あ、本当だ。あれ?じゃあ、私の時計は?」

 亜美が自分の腕時計を見ると、時刻は十一時三十四分を指していた。

 「あ、ごめん、真美。この時計…五分進んでる」

 「え~っ!ちょっと、亜美」

 真美は急に力が抜けて床に座り込んだ。その場にいた全員が笑い出した。亜美は顔から火が出るぐらい恥ずかしくなって、真美の手を引っ張り上げると直ぐに自分たちの席に座り、滴り落ちる汗を密かにハンカチでセッセと拭いた。

 「亜美、ちゃんと時間ぐらい合わせといてよ」

 真美は周りには聞こえないぐらいのムッとした小さな声で亜美に注意すると、

 「そう怒らないでよ。当直、明けたら何かおごるからさあ」

 申し訳なさそうに真美に向って両手を合わせた。

 「でも、変よねえ。確か、六時の休憩の時は、ちゃんと合ってたんだけどなあ……」

 亜美はハンカチで顔を拭きながら、腑に落ちない、という顔で一人ブツブツ言うと首を傾げていた。そんな亜美を目の前にして、笑顔でいた真美も本当のところは首を傾げていた。それは、地下を出る時に聞いた、あの扉のノブを回すような音が耳に残っていたからだった。『あの音は一体……』しかし、それを打ち消すように『単なる勘違いよ』無理矢理自分を納得させるように、それ以上、もう考えない事にした。そうする事でもう一度笑顔に戻れた。



 「ちょっと、今井さん」

 亜美が書類の整理をしていると、後ろから不意に、今矢が声を掛けて来た。

 「あ、ハイ。何ですか?」

 「林さん、何処に行ったか知らない?とっくに巡回から帰ってもいい時間なのに、いないのよ」

 今矢は心配そうに尋ねた。亜美は、そう言われて壁の時計を見てみた。午前二時を回っていた。

 「そういえば、遅いですね」

 予定時刻よりも一時間も過ぎていた。

亜美は自分の仕事に追われていて、真美が帰ってこない事に気が付いていなかった。よく考えれば、真美が、これほど遅いのは不思議な事だった。深夜にも拘らず、眠れずに起きている患者は沢山いる。だから、巡回に出れば、どうしても、そういった患者の話し相手になるのは仕方のない事だ。しかし、真美は、亜美と違って、その辺は上手だった。だから一〇分や一五分の遅れは日常的だったが、一時間も遅れた事は今まで一度もなかった。理由は良く分からないが、何となく嫌な予感がした。

 「私、捜して来ます」

 亜美は、仕事を置いて立ち上がった。

 「じゃあ、頼むわね」

 今矢はそう言うと、また、別の看護婦の所に行って、真美の事を聞いていた。

 「どうしたんだろう、真美」

 亜美は不安な気持ちでナースステーションを出た。一般病棟のある、この三階のフロアのトイレ、病室、全てを覗いて見たが何処にも見当たらなかった。

 「おかしいな?上は院長室と会議室があるだけだし、下は小児病棟だし……」

 亜美が廊下で考えていると、ちょうど、一人の患者が男子トイレから出て来た。行方を尋ねても知る訳もないと思いながらも、念の為に尋ねてみようと考えた。

 「あ、西岡のお爺ちゃん。ちょっと聞きたい事があるんだけど」

 「は、何ですか?」

 「あのね、真美を、あ、いや、林看護婦を見ませんでしたか?」

 「林看護婦?」

 老人は暫く考えていたが、急に思い出したのか、

 「ああ、あの看護婦さんか。見たよ」

 ハッキリとした口調で言った。

 「あ、いつ、何処で、ですか?」

 亜美は覗き込むように老人の顔に近づいた。

 「確か、薬を飲む前にトイレに行こうと、ここに来た時だから……一時前かな?そこのエレベーターの前に立ってたな」

 「一時前に、エレベーターの前で?」

 亜美は不思議に思った。一般病棟は、この三階だけなのに、真美はエレベーターに乗って、一体何処へ行こうとしていたのか?普段の真美には考えられない行動だった。

 「あ、ありがとう、お爺ちゃん。もう、遅いから早く寝てね」

 「ああ。おやすみ」

 老人患者は、点滴のついたスタンドをガラガラと引きながら自分の病室へと戻って行った。

 「エレベーターに乗ったという事は、もしかしたら、この病院から出た可能性もある訳だ」

 亜美は、もっと広範囲に探す必要があると思ったので、一先ず、婦長の今矢に報告しようとナースステーションに向かい掛けた。ちょうど、その時、廊下を森下が歩いて来た。

 「あ、今井さん。林さん、見付かった?今、手の空いてる看護婦全員で捜してるのよ」

 「あ、いえ。でも、真美を見たという患者さんがいました」

 「え、いつ、何処で見たの?」

 「一時前に、そこのエレベーターの前で」

 「えっ!一時前?エレベーター?」

 途端に森下の顔付きが変わった。

 「どうしたんですか、先輩。だから、真美はもしかしたら病院から出て……あ、先輩、森下先輩」

 亜美の呼びかけに、ハッとしたように顔を上げた。深刻な顔付きだった。

 「あ、あの、今井さん。変な事聞くようだけど……」

 森下は、一瞬、尋ねる事に躊躇しているようだった。亜美は一層不思議に思った。

 「昼間に私が話した、あの噂。まさか、林さんと二人で行った……なんて事、ないわよ……ねっ?名前、書いたりして……ないわよ……ねっ?」

 森下は引き攣った笑顔でたどたどしく尋ねた。

 「えっ?あ、あ、い、いや……」

 亜美は、森下との約束を破った事を言い出せずに俯いた。しかし、言葉を詰らせた亜美を見て、森下は確信した。急に眼を大きく見開くと亜美の両肩を強く掴み、

 「どうして?どうして行くのよ!あれほど約束したじゃない!」

 悔しそうに何度も揺すった。

 「そうだ!こんな事してる場合じゃないわ!早く助けに行かなきゃ!」

 森下は亜美を突き放すとエレベーターへと走った。

 「先輩!ちょっと待って下さい!確かに私達行きましたけど、それが何だというんですか!所詮は噂じゃないですか!」

 確かに約束を破った自分は悪いとは思うが、かといって自分が責められる理由はない。所詮は噂!そんな物に右往左往する方がどうかしている。亜美は内心そう思っていた。森下はエレベーターを待ちながら、

 「あの時と同じなのよ!山田さんの時と……同じなのよ!」

 前を見詰めて気忙しく地団駄を踏んでいた。

 「え、ま、まさか……」

 亜美は俄かに信じられなかったが、森下の真剣な横顔を見ていると、『もしかして……』そんな思いがよぎったのも事実だった。

亜美は息を飲んだ。エレベーターが到着すると、森下は急いで乗り込んだ。亜美も森下に付いて乗り込んだ。亜美は、『単なる噂であって欲しい』いつしか弱気な考えに変わっていた。

一言も話す事無く、エレベーターは地下に着いた。森下は懐中電灯を点けると、迷う事無く鏡のある部屋の方へと一目散に走り出した。森下のけたたましい靴の音が廊下いっぱいに響きわたった。

亜美はエレベーターを降りると、そこで足が止まった。『万が一、真美が……』そう思うと怖くて前に進めなかった。そして、亜美の嫌な予感は的中してしまった。

 「は、林さんっ!林さんっ!」

 奥から森下の悲しい声が、狭く、冷たい廊下に響いた。まるで言葉が空気鉄砲のようになって亜美に向かって来たようだった。亜美はビクッとすると、

 「ま、真美……真美―っ!」

反射的に声のする方へ叫びながら走り出していた。霊安室の前を通り、変電室の前を過ぎて右に曲がると、そこに森下が呆然と佇んでいた。森下の持つ懐中電灯の丸い光の中に、倒れて動かない真美が照らされていた。

「う、嘘よ……嘘よね。ま、真美、冗談は……やめて……」

亜美は、そう涙声で呟くと一気に膝から崩れ、今度は這って真美の所に寄って行った。亜美の這った跡には、小さな水滴が点々と落ちていた。真美の顔は眼をカッと見開き恐怖で歪んでいるようだった。亜美はダメと分かっていながらも脈を取った。勿論、反応はなかった。眼をソッと閉じてやると、冷たくなった体に涙を落としながら何度も何度も擦った。ただ、言葉はなく、嗚咽に咽ぶだけだった。

「山田さんの時も……こうだったのよ……」

森下は諦めたようにポツリと呟くと、トボトボと皆を呼びに行った。

やがて、バタバタと足音がして今矢と島田がやって来た。二人とも、この光景を見て呆然となった。

「山田君の時と、全く、同じだ……」

島田は眼を丸くして、そう言うと、まだ、真美にすがり付いている亜美をソッと引き離し、真美の腕を触った。勿論、医者の眼から見れば死亡している事は一目瞭然だった。しかし、島田は敢えて真美に触れた。

「この冷たさだと……死後、一時間から二時間ぐらいは経っているな」

島田はそう言って自分の腕時計を見た。

「と、すると、島田先生。死亡時間は午前一二時半から一時半頃の間……だと」

今矢の質問に黙って頷くと、すっくと立ち上がった。

「死亡時刻まで、山田君の時と同じだとは……一体どうなっているんだ……」

島田も今矢も、この時、埃の付着した鏡にはっきりと残る亜美と真美の名前を見ていた。

「先生、とにかく警察に」

「そ、そうだな。一応変死という事になるからな。警察に連絡を」

「……変死?」

亜美は目を見開き、島田の言葉をポツリと反復すると、再び、冷たくなった真美の身体にすがり付き、

「い、いやだーっ!ま、真美っ!ねえ、起きてよ、真美!……ま……」

声の続く限り叫ぶと、急に意識が薄れて来た。



「ううっ」

亜美は眩しい光に思わす眼を細めた。

「こ、ここは、何処?」

呟くと、直ぐに答えが返って来た。

「気が付いた?ここは三〇五号の病室だよ。誰も使ってないから、ここへ運んだんだよ」

島田の声だった。

「えっ、島田先生……病室?」

亜美はガバッと起き上がった。はじめて自分が意識を失って、このベットに寝ていた事に気付いた。

「わ、私、意識を失って……そうだ、真美よ。真美は?先生、真美は」

島田を振り向くと、島田は亜美の視線を避け、まだ、真夜中の真っ暗な町を三階の窓から見詰めた。

「林君は……警察が運んで行ったよ」

亜美は肩を落とし俯いた。

「やっぱり……夢じゃ……なかったんですね……本当に、真美は……」

窓ガラスに映る亜美に、島田は掛ける言葉がなかった。

その時、病室の扉が静かに開いた。

「今矢婦長……森下先輩……すみませんでした。ご迷惑かけて」

亜美がベットから降りようとすると、

「そのままでいいわ。そこで聞いて」

今矢の顔は険しかった。

「森下さんから聞いたわ。あなた、噂の話を確かめに行ったのね。まあ、新人だから仕方ないけど、この事は他言無用よ。いいわね」

今矢の態度は威圧的に映った。よく見ると、その横で立っている森下の顔は、今矢とは対照的に落ち込んでいた。禁を破って話した事を今矢に、かなり責められたのだと分かった。亜美は森下に申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

「ちょっと待って下さい。今矢婦長」

島田は今矢の態度が気に入らなかった。

「今、そんな話をする時じゃないでしょう。人が、あなたの同僚が死んだんですよ。何とも思わないのですか!」

今矢の眼が島田を睨んだ。

「島田先生。よく考えて下さい。こんな話が外に漏れたら、当病院は幽霊病院だと評判になって、忽ち患者数が激減しますよ」

島田は人間の感情すら感じない今矢の言葉にムッとした。

「あなたはそれでも看護婦ですか!人の命より評判の方が大事なんですか!」

今矢は島田の言葉にも全く動じなかった。

「さっき、院長に電話しました。いいですか。これは院長命令です!島田先生。今井さん。院長命令ですよ。分かりましたね!」

今矢は高圧的な態度でそう言い放つとサッサと病室を出て行った。

「なんて人達だ。また緘口令(かんこうれい)を敷くつもりか」

島田は吐き捨てるように言うと悔しそうに壁を叩いた。

「森下先輩、すみませんでした。私のせいで……」

亜美が森下に頭を下げると、森下は優しい顔で、

「いいのよ、今井さん。私があんな話をしたから、いけなかったんだわ。そのせいで、林さんを……」

そこまで言うと、俯き黙り込んだ。

「そんな、先輩は悪くありません。私が……私が、約束を破って鏡に名前を書いたから……」

亜美の声はドンドン小さくなっていった。

島田は横で二人の会話を聞いていて、どうにも納得出来なかった。

「待てよ二人とも。君たちは本当にあの噂話を信じているのか?君たちの話を聞いていると、まるで、その通りにしたから林君が死んだみたいに聞こえるぞ」

「だって、先生もおっしゃったじゃありませんか。山田さんの時と同じだって。やっぱり、あの噂は本当なんです」

森下は眼を真っ赤にしながら島田に訴えた。

「た、確かに、同じだとは言ったが、僕は信じていないぞ。すると、森下君、君は幽霊を信じるのか?」

森下は何も言わず島田を見詰めていた。

「僕は医者だ。人の生死に何度も立ち会っている。でも、ただの一度も幽霊なんか見た事もないぞ。僕は、そんな非科学的な物など信じないぞ」

「信じる、信じないは……個人の自由です」

森下は静かにそう言って島田に頭を下げると部屋を出て行った。

「あ、オイ、森下君!……全く、ここの看護婦はどうなっているんだ!」

島田は再び吐き捨てるように言った。

「先生は信じないんですか?」

亜美が弱々しい声で尋ねると、

「当り前だ!僕は医者だ!何処の医者が死亡診断書に幽霊と書くバカがいるんだ!心停止を起こしたという事は、必ず、何か原因があるんだ。それを解明しなければ、また、繰り返される」

島田は、亜美に分かって貰おうと必死に訴え掛けた。

亜美は島田の気迫に驚いた。普段の島田は自分の感情を決して露わにしない人間だったからだ。

「これで……林君で三人目だ」

「えっ、二人目ではなく、三人目……」

山田という看護婦、そして、真美。その他にも、まだあと一人、この病院に伝わる噂の犠牲者がいる。『これは、単なる根も葉も無い噂だと言い切れない。きっと、何かある』亜美は、島田とは違う観点で、この噂を解明しなければ、という気がして来た。

「あと一人、誰なんですか?」

「谷口という看護婦が八年程前に、今回のケースとよく似たケースで死んだそうだ」

「そうだ……って言う事は」

「ああ。僕がこの病院に来たのが六年前だよ。だから、人伝に聞いたんだよ」

島田は、やり切れないというように首を振った。

「三年前、山田君が死んだ時、僕は調べ出したんだ。だけど、直ぐに院長たちに邪魔され、諦めた。今は、それを後悔している!今度は絶対調べてやる」

島田の決意は本物だと亜美は思った。亜美自身、このままでは真美に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。今、せめて、真美にしてあげられる事といえば、二度と犠牲者を出さないよう、噂の真相を究明する事だ、と考えた。

「島田先生。私にも手伝わせて下さい」

亜美は真剣な眼差しで島田を見詰めた。

「今度、もしバレたら職を失うかもしれないよ。それでも……」

「私、知りたいんです。何故、真美が死ななければいけなかったかを。そして、二度と真美のような犠牲者を出したくないんです」

亜美の決心は変わらなかった。島田は亜美の眼を見ると力強く頷いた。

「分かった。今度は僕も覚悟を決めている。二人なら必ず出来るさ」

島田は優しく微笑んだ。その顔は、亜美の良く知っている普段の島田の顔だった。

「だったら、今井君。詳しい状況を教えてくれないか?」

「では、地下に行きましょう。あの鏡の前に」

「えっ、起きて大丈夫?」

島田の心配をよそに、亜美は直ぐにベットを降りた。島田は、もう何も言わなかった。亜美の決意の表れだと感じたからだ。

用心深く扉を開け、周囲を確認すると、二人して階段に走った。誰にも気付かれぬよう一気に階段を使って地下へ向かった。

地下に着いた時、亜美は妙な事に気が付いた。それは温度だった。さっき、真美と来た時、この地下は冷蔵庫の中にいるのでは、と思うほど寒かったのに、今は、そんな寒さを感じない。『どうしてだろう?それとも、私の思い違い?』足を止め考えていると、島田はサッサと歩き出していた。

「あ、先生。待って下さい」

亜美は小走りに駆け出した。二人並んで霊安室を右に曲がると、立入禁止の看板が置かれているのが見えた。直ぐに、今矢が用意した物だと分かった。二人は全く気にする事無く鏡の前に立った。薄っすらと埃の付着していた鏡は警察の検証が終わった為か、誰かが綺麗に拭き取って薄汚れた鏡が新品のようにピカピカと光っていた。

「この鏡に真美と一緒に名前と、その下に✕を指で書いたんです。時間は、十一時五分……あっ、違います。私の時計は五分進んでいたから……えっ!ちょうど、十一時だ!」

「十一時ちょうど……か。噂通りの時間だな。この時間に何か意味があるのかな?」

島田は腕を組んで鏡の前で考えていた。

「もしかして、この鏡に何か毒のような物が塗ってあって、それを指で触ると」

亜美はそう言って、今は綺麗になった鏡を撫で回してみた。島田は思わず吹き出した。

「そんなバカな。それに、もし毒が塗ってあれば今井君も死んでるよ。それに時間の意味が分からない」

亜美は、そうか、と思いながらも、まだ、この鏡に秘密があるのでは、と丹念に調べていた。その時、亜美は鏡の上の方に何かが映っている事に気付いた。

「ん?何かしら、あれは?」

そう言って後ろを振り向いた。

「今井君、何か見つけたのか?」

「ええ。先生、あれは何でしょう?」

亜美は、鏡の正面にある壁の上の方から突き出した、細く短い小さな棒のような物を指差した。島田は、亜美が指差した辺りを懐中電灯で照らしてみた。

「あれは釘だな。しかも、錆びてる。かなり古い物だよ」

「どうして、あんな所に一本だけ釘が打ち付けてあるのかしら?」

「さあ、僕には分からないよ」

島田はアッサリと言うと、また鏡を見詰め始めた。

「他に何か、なかった?」

「あとは、あの突き当りの非常口を見に行ったぐらいです。そういえば、あの非常口は何処に出るんですか?」

「あの非常口は病院の外からは見つけられないよ。裏はコンクリートで固めてあるから。事実上、あの扉は飾りのような物さ」

「飾り?じゃあ、何故、あの扉は取らないのかしら?あんな看板まで残して」

亜美には、あの扉を残す意味が全く分からなかった。

「話によると、どうせ使わないなら防犯上裏を塞げば良いという事らしい。もっとも、普段誰もいない、この地下に非常口は必要ないからね」

島田は、さして不思議に思っていないようだった。

「もっと、他にはない?」

「いえ、もう……あ、ひとつだけ。確か、この廊下を走っている時、真美が変な事を尋ねて来たんです」

「変な事?」

島田は興味を強く示した。

「ハイ。急に、私に、名前を呼んだか、って聞いて来たんです。勿論、私は真美の名前なんか呼んでないのに」

「名前……か。今井君は、その声を聞いたの?」

亜美は首を振った。

「よく分からないなあ。本当に林君は声を聞いたんだろうか?」

島田は今更考えても分からないと分かっていても考えざるを得なかった。どんな事でも情報として欲していた。

「ところで、先生も調べたって言ってましたけど、何が分かったんですか?」

亜美は島田が調べたという、その結果に何かヒントがないか、期待した。

「当時、山田君と一緒に名前を書いた成田君と木下君から話を聞き出そうとしたんだが……」

そこまで言うと島田は頭を掻き始めた。

「今と同じく緘口令が敷かれてて、結局、何も話してくれなかったんだよ。それで、僕もここへ来て、色々、何かないかと調べているところを今矢婦長に見付かって、あとは院長にしぼられたって訳さ」

島田の話を聞いて、亜美はガッカリした。事実上、島田は何も知らないに等しかった。ならば、今度は自分がその成田という人と木下という人に会って何とか話を聞き出そうと考え、

「その成田さんと木下さんは、今、どうしているんですか?」

尋ねると、島田は小さく首を振った。

「あの後すぐに、二人とも病院を辞めて、どこかに引っ越したんだ。だから、今どこにいるのかも分からないんだ」

島田は残念そうにポツリと口にした。

亜美は全ての手掛かりを失ったような気がしたが、直ぐに、もう一人いる事を思い出した。

「そうだ!確か、谷口さんという人も死んだんですよね。その人の事を知っている人は今、病院にいますか?」

「いるのは、いるけど……」

島田は言い難そうだった。

「誰ですか?その人から、何とか説得して聞きだしましょうよ」

亜美は期待を込めた眼で島田を見詰めた。

「無理だと思う。だって、古くから、この病院に残っているのは、院長と今矢婦長だけだから」

亜美は言葉をなくした。確かに、その二人が話してくれる訳がない。再び、手掛かりを無くしたような気がした。

「あ、ある!まだ、方法がありますよ。調べる方法が!」

亜美は急に思い出したように走り出した。

「あ、ど、何処に行くんだ?今井君」

島田は急に一人にされて怖くなった。幾ら幽霊を信じないと言い切っても、やはり心のどこかでは、そういうものを恐れる事を本能として持っている。島田は急いで亜美の後を追った。

「何処に行くつもりだよ」

「事務所です。この病院は、過去にいた人も含めて職員名簿をデータベース化して残してあるんですよ」

亜美はエレベーターの前に立ち止まるとボタンを押した。

「こんな早朝に行っても誰もいないぞ。それに、誰も協力してくれないよ」

「違いますよ。私がパソコンを開けるんですよ」

「えっ?どうやって?IDとパスワードが必要な筈じゃあ」

「私、IDとパスワード知ってるんです」

亜美は嬉しそうに言った。

「えっ、どうして事務員でもない今井君が知ってるの?」

「え、あ、そ、それは……」

亜美は返事に困った。確かに島田の言う通り、本来なら事務員でもない亜美がIDやパスワードを知っている筈はなかった。にも拘らず、亜美がIDやパスワードを知っている理由は、将に島田に関係があった。   

 亜美は、密かに憧れていた島田の事を、もっとよく知りたくて色々調べようと思った。その為には、まず、住所とか電話番号とかを知りたかった。そこで、事務の人と仲良くなり、職員名簿のパスワードを内密に聞きだしていたのだ。勿論、それを知ったところで、何をする訳でもなく、ただ単に、憧れている人の事を他の人よりも多く知りたいという、いわば、一種のファン心理のような物だった。しかし、本当の事を島田にいう訳にはいかない。暫く考えた末に、

「あ、わ、私たち新人看護婦は病院の仕組みとかも覚えなければいけないという事で、研修の時、事務も、ちょっと、やったんです。その時、IDとパスワードを憶えて……」

焦りながらも、そう誤魔化した。

「そうなんだあ。今の看護婦って大変だなあ」

意外とアッサリ納得したようだった。亜美は、島田に分からないようホッと小さく息をついた。

「さ、さあ、行きましょう」

再び微笑んで島田を見ていると、不意に島田の顔がピクっとして、凍りついたようになった。

「どうしたんですか?」

不審に思った亜美が尋ねると、

「……今……何か聞こえなかった?」

「いえ、何も。何か聞こえたんですか?」

亜美は島田の顔を覗き込むように見た。

「あ、そ、そう。僕の勘違いかな」

島田はそう言って眼を反らすと、明らかに作り笑いと思えるような笑みを浮かべていた。亜美は首を傾げた。

島田には、微かではあるが、確かに扉のノブをカチャカチャと回そうとする音が聞こえていた。

しかし、なまじっか、幽霊など信じない、と言い切った為、その事を亜美に言えなかった。微かに、膝が笑っている事に自分でも気付いた。

「来ましたよ。さあ、警備員が来る前に事務所に行きましょう」

亜美がそう言うや否や、島田は、亜美より先にサッとエレベーターに乗り込んだ。早く、この場所から離れたかった。

一階のロビーに着くと、外は微かに紫がかっていた。夜が明け始めていた。昼間の騒々しいロビーと違って、今は物音一つしない。さすがに看護婦をしている亜美も夜の病院は気味が悪いと改めて実感していた。

「先生は、ここで警備員が巡回に来ないかを見張っていて下さい」

「えっ!」

亜美は島田をひとり残すと、受付カウンターの後ろに回って事務所の中に入って行った。

島田は、今まで自分の職場を怖いと感じた事はなかったが、さっきのノブを回そうとする音がどうしても耳から離れず、気味悪さを感じていた。と、不意に、自分たちが乗って来たエレベーターが地下に動き始めたのがエレベーターの表示板で分かった。

「な、何故だ。今乗って来たばかりなのに……地下には誰もいない筈なのに……急に動き出したって事は、地下で誰かがボタンを押した、という事に……」

島田は得体の知れぬ恐怖に耐えられなくなり、思わず走り出すと事務所に飛び込んだ。

「……島田先生……誰か来たんですかっ!」

ビックリして目を丸くした亜美は慌ててパソコンを体で隠した。

「い、いや、そうじゃなくて……」

島田の声は震えていたが、亜美はそれに気が付かなかった。

「何だあ。脅かさないで下さいよ。でも、ちょうど良かった。ほら、見付けましたよ」

亜美が嬉しそうにパソコンを指差すと、島田はガクガクする足で亜美に近づき、画面を覗き込んだ。笑顔で話す亜美の顔を見ると、今、見た事を話す気になれなかった。

「三年前に死んだ山田真由美さん、そして八年前に死んだ谷口早苗さん。この二人ですよね」

「た、確かに山田君は合ってるけど、谷口という人に関しては分からないなあ。それに、この人だとしても、死んでいるから話を聞く事も出来ないよ」

島田は自分が震えている事を亜美に悟られないよう、なるべく平静を装った。

「そうです。そこで、この鈴木広子さんという人が何かを知っている可能性があると思うんです」

島田は、初めて聞く名前にキョトンとした。何故、この鈴木という人間が谷口と関係があったと思えるのか、全く分からなかったからだ。

「どうして、そうだと」

「理由は、ですね」

亜美は画面をスクロールさせ始めた。

「まず、三年前、山田さんが死んだ一週間後に、この成田さんと木下さんは退職してるんです。その七月に退職した人は他にはいません」

亜美は画面の退職年月日の欄を指差して示すと、また、画面をスクロールさせた。

「今度は、ほら。谷口さんの死んだ後に、この鈴木さんという人が一週間後に退職しているんです。さっきと同じく、この月に退職した人はいません」

「……つまり……」

島田は眼を丸くして亜美を見詰めた。亜美はソッと頷いた。

「この人たちは辞めたのではなく、辞めさせられたんですよ。病院は口封じの為、当事者を追い出したんですよ」

「でも、森下君は?森下君は、まだ病院に残ってるぞ」

「森下先輩は直接鏡に名前を書いていなかったからじゃないですかね」

「……なるほど。そうだったのか」

島田は、さっきの恐怖も忘れ、ただただ、病院のやり方に憤りを覚え始めた。

「そんなに評判が大事なのかよ」

ポツリと呟くと、忌々しそうに拳を握り締めた。

亜美はパソコンを終了させ、電源を切るとスッと立ち上がり、

「早く真相を究明しなければいけませんね。私にも時間がなさそうだし……私も、鏡に名前書いた当事者だから……」

寂しそうに口にした。すると、突然、島田は亜美の肩を力強く掴み、

「やろう!二人なら、きっと出来るよ!」

微笑みかけた。亜美も力強く頷いた。

「と、なると二人でいるところを目撃されるとまずいな。よし!当直が明けたら、午前十時に駅前の喫茶店で。そこで打ち合わせをしよう」

二人は、互いに確認しあうと用心深く事務所を出た。

亜美が病室に戻ろうとエレベーターに近づくと、島田は慌てたように、

「あ、い、今井君」

走って来て、亜美の腕を掴んだ。

「か、階段で上がった方が良いよ」

「えっ?どうしてですか?エレベーターの方が楽だし」

「ち、違うよ。そのう……そう!運動を兼ねて階段を使った方が体に良いんだよ。だから、な」

半ば強引に階段を使うように進めた。亜美も敢えて拒否する理由もないので、

「あ、わ、分かりました」

そう答えると、島田は安心したように、

「そう!じゃあ、僕はここから直接戻るから。じゃあ、十時に」

言い残して廊下を小走りに走って行った。

「島田先生、変ね。まあ、いいか」

亜美は階段を上り病室に戻った。病室に戻ると窓からは朝日が差し込み始めていた。亜美は眼を細め、眩しそうに朝日を見ると、

「真美、どんな事があっても、きっと原因を究明してあげるね。きっと」

拳をソッと握り、決意を、昇り始めた太陽に告げた。



当直勤務を終え病院を出ると、蝉がうるさい程鳴いていた。空には雲一つなく、眩しいほどの太陽が容赦なく地面を照らしつけていた。午前中にも拘らず、照らしつける太陽の熱でユラユラ揺らめいて見えるアスファルトの道を、亜美は駅前の喫茶店へと急いだ。

島田と約束した喫茶店を見つけると、その前に立った。

その店は、外観はタイルではなく本物の赤いレンガで出来ていて、そのレンガにも緑色の苔が付着し、かなり古めかしく見える建物だった。今流行りのレトロ風ではなく本物のレトロだった。

良く通る道沿いにあるにも拘らず今までは全く気が付かなかったのが不思議なくらい周りの建物とは明らかに違った造りの店だった。

亜美は少し呼吸を整え、そして、扉を開け、店内に入った。人が入店した事を告げる鈴がカランコロンと鳴った。中にはスーツ姿のサラリーマンが何人かいた。皆、外の暑さとは対照的な涼しさを堪能するように静かに座っていた。

その中を通り亜美は一番奥の窓側の席に座った。亜美も他の人と同じ様に店内に微かに流れる心地良いクラシック音楽を聞きながら、滲み出る汗をハンカチで押え、窓から外をボーっと見ていた。

暫くすると、扉を開け、島田が入って来た。亜美は何も言わず、サッと手を上げた。島田はそれに気付き、周りを気にするようにキョロキョロとして近付き、亜美の前に座った。

「ごめん。待った?」

島田は小声でそう言いながらも、まだ、周囲を気にしているようだった。亜美は、そんな島田の態度を見て、直ぐに分かった。

「この中に、病院関係者はいませんよ」

亜美は軽く笑って言った。島田は内心、この喫茶店を指定した事を後悔していた。もし、女性と二人っきりでいるところを目撃されたら、どんな冷やかしを受けるか分からない。島田はそういうのが苦手だった。とは言っても、決して女性が嫌いな訳ではない。単に、一対一で女性といる事が恥ずかしい、という、まるで、少年のような心の持ち主だったのだ。

「私といるのが……嫌ですか?」

亜美は、敢えて、悪戯っぽく、首を傾げ島田を見詰めた。

「えっ、あ、い、いや、そういう訳じゃ…」

島田は急に顔を赤らめ、うろたえた。そして、まるでそれを隠すかのようにサッと手を挙げ店員を呼ぶと注文した。そんな島田を見て、亜美は、小さく吹き出した。しかし、亜美の本当のところは、冗談半分、本気半分のつもりだった。

島田は話題を変えるように、

「そ、それより、これから、どうする?」

問い掛けられると、亜美も真剣な顔になった。

「ええ。やっぱり、鈴木さんから話を聞くしかないと思うんです」

「え、でも、どうやって話を聞くの?」

亜美は徐に鞄から小さなメモを取り出した。

「鈴木さんの住所は控えてあります。ほら、意外と近いでしょ。先生が家に帰られる途中の駅ですよ」

メモを島田に差し出した。

「ああ。そうだな。えっ、でも、どうして僕の帰る方だと知ってるの?」

今度は亜美が顔を赤くした。

「えっ!い、いや……」

亜美は、かつて二度、島田のマンションの前まで行った事を言えなかった。

「それは……それは、森下先輩に聞いたんです!」

「え、森下君に?そんな事、森下君に言った事、あったかなあ?」

島田は思い出そうと考え込んだ。亜美はすかさず、

「そ、そんな事より、行ってみましょうよ」

そう言って、視線を合わさないように、眼の前のストローに口をつけた。

「まあ、そうだけど。でも、この住所、八年も前のものだろ?今、ここに居ないんじゃ……」

「念の為、緊急連絡先っていうのも控えておきました。おそらく、これは実家だと思います。もし、これでダメなら諦めます」

「そうだな。どうせ、他に手掛かりもないし、ダメ元で行ってみるか」

島田が残っていたアイスコーヒーを一気に飲み干し立ち上がると亜美も続けて立ち上がった。そして、亜美が伝票に手を伸ばすと、ちょうど同じように手を伸ばして来た島田の手と触れた。思わず、二人とも同時に手を引いた。

「あ、あ、あの、今日はいいよ。僕が出すから」

島田は恥ずかしそうにしながらも伝票をサッと手にすると逃げるようにレジに向かった。

「あ、ありがとうございます」

亜美も少し俯いたまま、消え入りそうな声で呟いた。亜美は、真美に申し訳ないと思いながらも、島田と二人でいる時間が嬉しかった。

島田の後を追って店を出ると、一気に熱気に襲われた。充分冷えた体には、立眩みがする程の暑さだった。

「今日も暑いなあ」

島田は眩しそうに太陽をチラッと見ると、前の信号機に眼をやった。

「あ、信号が変わるよ」

そう言って、ごく自然な事のように亜美の手を掴むと、横断歩道を駆け出した。

「あ、ハイ」

亜美もシッカリと手を握り返すと同じく駆け出した。横断歩道を渡り切り、島田は亜美の手を握っている事に気付きハッとして、、

「あっ、ご、ごめん」

そう言って、顔を赤くしながら、ゆっくりと亜美の手を放した。

「あ、い、いえ。いいんです……」

亜美も俯きながら、ポツリと言うと、二人とも無言のまま改札に向かった。

電車に乗り、二つ目の駅で降りると目的のマンションを探し始めた。

「住所的には、この辺だよなあ」

「そうですね。もう近い筈ですよ」

陽炎揺らめく路上を二人してキョロキョロしていた。島田の額からは汗が流れ出していた。その汗を島田は手で拭っていた。

「先生。これを使って下さい」

亜美は自分のハンカチをソッと差し出した。

「あ、いいよ。汗臭くなるから」

亜美はニッコリとして首を振った。

「じゃあ。ありがとう」

島田も微笑むと、今度は素直に受取り、そのハンカチで早速、汗を拭った。そのハンカチからは心地良い香りが漂って来た。

「あ、ありました。先生、このマンションですよ」

亜美はそう叫ぶと、急いでエントランスに入っていった。しかし、直ぐに、

「ありませんねえ。やっぱり、引っ越したのかしら?」

残念そうに出て来た。

「まあ、八年も前の住所だからな。仕方ないよ」

島田は汗を拭き取った顔を、まだ丹念に亜美のハンカチで拭いていた。

「緊急連絡先に電話してみます。それでダメなら仕方ないですね」

亜美は携帯電話を取り出した。

「先生。分かりました。鈴木さんは結婚して、今、名字が村田に変わったんです。転居先は、ここです。ここから近いですよ」

手掛かりは途切れなかった。まだ、糸は繋がっている。そう思うと亜美は嬉しかった。

島田と二人、再び捜し始めた。

「確か、白いマンションだと言ってたから……あ、あれじゃないかしら!」

亜美が指差した先には六階建ての白いマンションがあった。

「よし!行こう!」

エントランスに入り、郵便ポストを確認し始めた。

「あ、あった!この部屋ですよ!間違いないです」

島田も喜んだ。今度こそ真相に近づける。そんな気がして来た。二人でエレベーターに乗り込み五階へと向かった。廊下をキョロキョロして部屋を探すと目的の部屋は直ぐに見付かった。期待が高まる中、部屋の前に立つと、意を決して島田がインターホンを押した。

「ハーイ」

女性の声が聞こえ、暫くすると扉が少し開いた。中から三十代前半だと思える女性が顔を出した。

「ハイ。どちら様ですか?」

「僕たち、伊藤病院の者ですけど、少し聞きたい事があって来たんです。鈴木さん、ですよね?」

「はい……確かに、旧姓は鈴木ですけど……」

女性は怪訝そうな顔をしながらも玄関に入れてくれた。

「申し遅れました。僕は伊藤病院で医師をしている島田といいます。こっちは、看護婦をしている今井です」

亜美はペコリと頭を下げた。

「私も昔、伊藤病院に勤めてましたけど……何か?」

島田は亜美の顔を見て頷いた。

「八年前に亡くなった谷口さん、谷口早苗さんの事について聞きたいんです」

亜美が徐に口を開くと、途端に不機嫌な態度になった。

「えっ、早苗ちゃんの……帰って下さい!もう思い出したくないんです!」

そう言って島田と亜美を玄関から押し出そうとした。

「ちょっと待って下さい、村田さん!」

亜美も必死だった。ここまで辿り着いたのに、ここで追い返されては何も分からないまま終わってしまう。どんな小さな情報でもいいから何かを聞き出さなくては!亜美も必死に抵抗した。

「じ、実は、私の親友も死んだんです!昨日、あの噂のせいで」

亜美の言葉に村田の動きがピタッと止まった。驚いたように眼を丸く見開いて亜美を見詰めると、

「ほんとなの?ほんとに?」

急に全身の力が抜けたようになった。亜美は村田の言葉に一度だけ小さく頷いた。

「……そう……そうなの。まだ、あの噂は生きていたのね」

残念そうに呟くと、急に態度を変え、スリッパを二つ玄関に置いて、

「どうぞ。あがって下さい」

奥のリビングに二人を通してくれた。白い壁紙が映える、綺麗に片付いたリビングの真ん中に壁紙と同じく白いソファーとお揃いの白いローテーブルが置いてあった。亜美と島田はソファーにソッと腰を下ろした。

「今でも、あの時の早苗ちゃんの眼が忘れられないのよ。恐怖に怯えた、あの眼が。もし、私が、噂を確かめに行こうなんて誘わなければ……」

亜美は、八年経った今でも後悔している村田に自分をオーバーラップさせていた。

「私も、そうです。もし、真美を誘わなければ、と思うと、全く村田さんと同じ気持ちです。でも!でも、後悔しても友人は戻って来ません」

亜美は力強く訴え掛けた。

「私には、この噂が単なる噂には思えないんです。きっと、何かがあるような気がするんです。だから、知りたいんです。本当の事を」

亜美の眼からは涙が溢れそうになっていた。島田は横で、そんな亜美を見て、掛ける言葉がなかった。

「もう、真美のような、谷口さんのような、山田さんのような人を出したくないんです!」

亜美の言葉に村田は再び驚いた。

「まだ、あとひとり……いたの?」

亜美と島田は静かに頷いた。

「分かったわ。私はこの記憶を封印していたの。でも……でも、もし、何かの役に立つのなら。もう、早苗ちゃんのような人は作りたくないものね……」

寂しそうに答えた。

「何から、話したらいいのかしら?」

「あの噂はいつ頃からあったんですか?」

島田が先陣を切って尋ねた。

「伊藤病院は今から十年前に開院したの。私は開院と同時にあそこの看護婦になったんだけど、開院当時は鏡の話の噂じゃなかったの。でも一年ほど経った時ぐらいかしら」

「えっ?ちょ、ちょっと待って下さい!という事は鏡の噂の前に、既に何らかの噂があったんですか?」

驚いた島田の問い掛けに村田は頷いた。

「開院当時から白い看護服の幽霊が出るって噂があったのよ。何人か見たという人もいるわ」

「白い看護服の幽霊?」

島田と亜美は同時に声を上げた。『あった!やっぱり、あったんだ。新情報だ。元々、あの病院には何かがあったんだ』亜美は、この噂こそが、全ての発端のような気がしてならなかった。つまり、この話を掘り下げれば、今の、鏡の噂の原点に辿り着くのでは!そう思うと、この話に期待せざるを得なかった。

「その白い看護服の幽霊って頻繁に目撃されたんですか?」

亜美は身を乗り出した。

「ええ。病院中で目撃されたみたいですよ。私は見た事がないんですけど。特に、深夜、地下にあった更衣室の辺りが一番目撃されたみたいですよ」

「えっ、地下の……更衣室?」

亜美は島田の顔を見た。島田も、初耳だという顔を返して来た。今の更衣室は三階の休憩室だ。亜美は考えた。『地下に更衣室だなんて……』その時、亜美はふと思い付く場所を見つけた。

「もしかして、その更衣室って、あの鏡のある……」

村田は静かに頷いた。

「そう。開院当時は、あそこが更衣室だったの。でも、あまりに幽霊の目撃が多くて、皆、気持ち悪くて使わなくなったの。それで、南館の三階になったのよ」

村田の話を聞いて、亜美は、何故、あのような不自然の所に大きな姿見があったのか理解出来た。一つ、疑問は減った。しかし、まだ、疑問は残っていた。

「その白い看護服の幽霊は、その後も目撃され続けたんですか?」

亜美が質問すると、村田は不思議そうに首を傾げて、

「それが不思議な事に、三階に休憩室を移してからは、パタッと目撃されなくなったのよ。私たちも何故だか分からないのよ」

心底、見当がつかないようだった。

「じゃあ、その後に、あの鏡の噂が広がったという事なんですね」

「ええ。だから今では、あの更衣室は使ってない筈だし、廊下の扉も塞いであるでしょ」

「ひとつ、教えて欲しいんですが、あの扉の横に粗末な非常口の看板がありますよね。あれは、一体誰が?」

村田は思い出すように考え込んでいた。

「ああ。あれね。そういえば、あの看板も不思議よね。あそこが更衣室として使われていた時には無かったのよ。でも、使わなくなった後に設置された物なのよ」

「えっ?どういう事ですか?更衣室として使わなくなった後も、あの扉は非常口として使っていたんですか?」

島田の質問に村田は首を振った。

「いいえ。使わなくなった後、あの扉は針金を巻いて開かないようになってたわ。だから、誰が、いつ、何の為に設置した物か、誰にも分からないの。気が付けば、あったのよ」

『わざわざ使用不可にしておきながら、非常口を表示する意味が何処にあるのだろう?』使えない非常口の場所を誰に教えているのだろうか、島田には、どう考えても分からなかった。

島田とのやり取りを黙って聞いていた亜美は、ひとつ謎が解けると、また新たに生まれる謎に、噂では済まされない、もっと大きな何かを予感し始めていた。

「鏡の噂と、開院当初からの噂に、関連性は、あると思います?」

唐突ではあるが、亜美は聞いてみた。亜美の中では、確実に関連はある!と思っていた。それを敢えて、村田の口から確認したかった。

村田もこの質問は想定していたようだった。

「あると思います」

キッパリと言い切った。

「午後十一時ちょうどに、あの鏡に名前とその下に×を書くと、暫くすると白い看護服の人が現れ、連れて行かれる、と言われていたからです」

「えっ、白い看護服の幽霊に!」

島田も亜美も確実に関連性があると確信した。村田は話を続けた。

「連れて行かれる先は、あの鏡の前です。そして、鏡の中から白い看護服姿の女性が出て来て、呪い殺すのだ、と」

村田は顔を顰めて話した。

「ある時、何人かの看護婦が面白半分に鏡の所に行ったそうです。その時、鏡に、『もう愛は嫌!』と書かれていたそうです。思わず、気持ち悪くて帰って来たという話もあります」

「もう愛は嫌って、どういう意味なんでしょう?」

亜美の問い掛けに村田はソッと首を振った。

島田は、思わず息を飲んだ。

「先生。この噂には、私たちが知らない話があったんですね」

亜美の問い掛けに、島田は暫く俯いていた。島田には、どうしても理解出来ない点があった。それを素直に話し始めた。

「確かに、今井君の言う通り、僕たちの知らない話が、かつてはあった。でも、よく考えると、この話、変だと思わないか?」

島田は訴え掛けるように二人を見た。亜美も村田も、島田が何を言おうとしているのか分からず、ただ、島田を見詰めた。

「例えば、村田さん。あなたは谷口さんと一緒に名前と×を書いたんですよね。その後、谷口さんから、白い看護服姿の幽霊を見た、と聞きましたか?」

島田の質問に一瞬戸惑った。

「あ、い、いや」

「では、あなた自身は、その白い看護服姿の幽霊を見ましたか?」

「いいえ」

村田の答えに、満足したように島田は頷いた。

「今度は今井君だ。同じ質問をするが、どうだ?」

「た、確かに、私も見てませんし、真美からも聞いてません」

「ほら、変だと思わないか」

亜美も村田も、互いに顔を見合わせ、首を傾げた。

「気付かない?もし、この話が本当なら、見た人は死んでるんだよ。じゃあ、一体、誰がこの話を伝えるんだ?誰も真実を伝えられない筈だろ」

島田の顔には笑みが浮んでいた。

「……つまり、どういう事なんですか?」

「病院、学校、ホテル。これらは、全て昔から怪談に登場する定番の場所だ。つまり、開院当初からあった話は誰かが作った物だよ。でも、それが消滅する。そして、新たに、それをベースにした話が生まれる」

島田は諭すように話した。

「昔から伝達というのはこういった物だよ。最初の話に尾ひれ背びれがつき、或いは、またシンプルに変化する。伝言ゲームのような物だよ」

「でも、三人も死んでいるんですよ」

亜美には島田の説明が納得出来なかった。

「確かに、死んだのは不思議だと思う。でも、十年の歳月を考えれば、そんな偶然もあるかと思う。僕が言いたいのは、幽霊の存在ではなく、死んだ彼女たちに、もっと医学的な原因があったんじゃないか、という事なんだ」

「先生。村田さんの話だと、開院当初、その白い看護服姿の幽霊を目撃した人もいるんですよ」

亜美が再び口を聞くと、島田は笑い飛ばした。

「今井君。一般的に、看護婦の制服の色は何色を連想する?」

「え、し、白です」

「村田さん。開院当初の制服の色は?」

「薄いピンクです」

「そう。伊藤病院は今でも薄いピンクだ。つまり、病院で白といえば看護婦、医師を連想する色なんだよ」

島田は得意気に話した。

「怖い、怖いと思えば、白いカーテンだって人に見える物なんだよ。ほら、昔から言うだろ。『幽霊の正体見たり、枯れ尾花』って。全ては根拠の無い、作られた話なんだよ」

島田は是が非でも幽霊の存在を否定したかった。そうする事で、自分自身が地下で聞いた音や、不自然に動いたエレベーターの事を否定できる気がした。

亜美は、必死になって否定する島田の話には、やはり納得出来なかった。『三人も、偶然に同じ場所で死ぬかしら?』

「村田さん。谷口さんの死亡時刻は知ってますか?」

亜美は、島田に、それは違うという意味を込めて村田に尋ねた。

「はい。確か、午前一時頃だと」

「ほら、先生!偶然に、同じ場所、同じ時刻に死にますか!」

「あ、い、いや、だから、十年という時間を考えれば……」

島田自身、確かに偶然で済ますには無理がある事は承知していた。しかし、幽霊を否定したい意志が強かった。島田はもう一度、自分自身を納得させる意味も込めて、分かって貰おうと口を開けようとした瞬間、村田が、

「さっき、根拠が無いとおっしゃいましたよね。でも、根拠になる話は……あったんです」

ポツリと呟いた。

「えっ?」

島田は口を開けたまま、村田を振り向いた。亜美は興味を示した。

「それは、どんな話ですか?」

亜美が食入るように聞くと、村田はソッと立ち上がり隣の部屋に入って行った。暫くして、一冊のアルバムを持って戻って来た。

「これを見て下さい」

アルバムを開けると、一枚の写真を指差した。

「この写真は、伊藤病院が開院する一ヶ月前にホテルの会場を借りて全員でパーティを開いた時の写真です」

亜美は、その写真を見て、知っている人間を捜したが、伊藤院長と今矢婦長以外分からなかった。そして、全体として妙に看護婦の数が少ない事に気付いた。ただ、今は、そんな事は関係ないと思い、敢えて口にはしなかった。

「この中に、ひとりだけ、開院直前に失踪した人がいるんです」

「えっ、失踪?」

島田も亜美も写真を見詰め、誰がその人物かを推測した。

「この人です。土田さんという人です」

村田はひとりの人物を指差した。

「若くて、綺麗な人ですね」

亜美は写真の顔を見て、思わずそう漏らした。

「何か、この人について知っている事ってあります?」

亜美が続けて聞くと、村田は首を振った。

「パーティで会って少し話しただけですから。知っている事といえば、この人は南城大学病院から来たという事ぐらいです」

「えっ、南城大学病院!」

今まで、静かに写真を見ていた島田が突然、大きな声で叫んだ。亜美も村田も驚いて島田を見た。

「あ、ご、ごめん。でも、どうして、それだけで幽霊話の根拠になるんですか?」

島田には不思議だった。若い女性の失踪というのは、決して珍しい事ではない。にも拘らず、失踪イコール幽霊はあまりにも飛躍しているように感じたからだ。

村田には、島田が感じている事が分かったように力強く頷いた。

「確かにそうですね。でも、開院した直後に、土田さんのお母さんが来て、娘は事件か事故に巻き込まれて死んでいる、だから捜してくれ、何か情報を教えてほしい、と叫んでいたのを聞いたんです」

「死亡が確認された訳じゃないんですよね。それが、どうして根拠だと?」

亜美も島田と同じ疑問が残っていた。

「お母さんは、こうも言ってました。娘が連日、夢に現れて助けてくれと呼んでいる声を聞く、と」

「夢?それこそ非科学的な……」

島田が思わず口走ると、村田はキッと島田を睨んだ。島田は急に黙り込んだ。

「その南城大学病院の看護婦の制服が……白色なんです」

村田は完全に信じていた。島田は、その眼を見ると何も言えなかった。島田は何かを考えるように俯いた。そして、暫くして急に立ち上がると、

「ありがとうございました。大変参考になりました。今井君。そろそろ行こうか」

そう村田に礼を言うと、亜美の肩を軽く叩いた。

「えっ?あ、は、はい……」

急に出て行こうとする島田を不思議に思いながらも、そう返事した。二人揃って玄関に向かって行くと、後ろから、

「島田さん。今まで色々と話をしましたが、でも、やっぱり、早苗ちゃんは、本当に白い看護服姿の幽霊に殺されたんでしょうか?もし、そうだとしたら、私……」

涙声で話し掛けて来た。

「幽霊の存在は、僕の中では半信半疑です。でも、ひとつだけ言える事は、村田さんは何も悪くないという事だけです。その理由を証明して見せますよ」

島田は振り向くとニッコリ笑って答えた。初めて村田の顔が綻んだ。島田の言葉で、この八年間、心に深く刺さった棘が取れたようだった。

亜美と島田は深々と頭を下げると、マンションをあとにした。陽射しはさっきよりも強かった。アスファルトは相変わらず、陽炎で揺らめいていた。しかし、今の島田はそんな暑さも気になっていなかった。

「先生。今の話をどう思います?土田という人が何らかの理由で亡くなり、伊藤病院への思いだけが強くなって彷徨っているんでしょうか?」

どんどん先に歩いて行く島田に尋ねると、

「正直、僕にも分からない。ただ、もし幽霊なら、何故、同じ事をしながら君や村田さんは死ななかったのか?それに、噂を確かめに行ったのは、君たち三組だけじゃなく、もっといる筈だ」

島田は大通りに出ると、急に歩みを止め、亜美を振り返った。

「だけど、死んだのは三人だけだ。祟りや呪いなら、全員が死んでも不思議はない。或いは死んだ三人と土田という人には共通する医学的原因があるかもしれない」

亜美は島田が非科学的な物を信じないのは良く分かっていた。しかし、それでも良いと思っていた。それは観点が違うだけで、真相の解明という二人の最終目標は変わらないからだ。むしろ、島田の方が合理的なものを見付けるような気がしていた。

「今井君。今何時だ?」

「え、二時過ぎですけど」

島田は頷くと、行き交う車をキョロキョロと見始めた。そして、一台の車に目を止めると、サッと右手を上げた。

「先生、もしかして……」

「ああ。南城大学病院へ行く。ここからだとタクシーで、一〇分ほどで着くよ。今井君も考えていたんだろ?」

「ハイッ!」

亜美は元気良く答えると、島田と二人タクシーに乗り込んだ。

「さっき、村田さんが大学病院の名を言った時、先生は驚いたような声を出しましたよね。何かあるんですか?」

亜美は気になっていた事を尋ねてみた。

「ああ。以前は院長も今矢婦長も南城大学病院で勤務していた筈なんだ。それが気になってね」

「という事は、院長も婦長も土田という人の事は昔から良く知っているんですね」

「そう考えると、何だか一本の線になっていくだろ?」

島田は揺れる車内で亜美を見詰め、意味有り気に頷いた。『もしかして、伊藤病院の歴史に何かヒントがあるのでは』そう思った亜美は、

「そういえば、写真を見た時、看護婦の数が今の三分の一ぐらいしかいなかったんですが、あれは?」

写真を見た時に思った疑問を口にした。島田は眼を丸くして亜美を見詰めた。

「あれ?今井君、研修の時、聞かなかった?病院の沿革について」

「えっ?あ、すみません……寝てました」

亜美が恥ずかしそうに俯くと、島田は笑い出した。

「今井君らしい答えだな」

憧れの島田にそう言われ、益々体が小さくなるようだった。

「じゃあ、僕が説明してあげるよ」

島田は優しく優等生らしい言葉を掛けると、説明を始めた。

「元々、伊藤病院は、南城大学病院の外科部長をしていた前院長の伊藤雄一教授が古い病院、確か…ナタロシス病院っていう名前だったと思うが、買い取って改築し開院した物なんだ」

「ナタロシス病院?…変わった名前ですね」

 亜美は名前に違和感を感じ、それを単純に口にした。

「ああ。たぶん外人の名前か何かじゃないかな。僕もその辺は良く分からないんだ。ただ…」

 そこまで言うと島田は眉間に皺を寄せた。島田の表情から何かあるんだと亜美は思った。

「どうも……いわくのある病院だったらしい。内容は誰も口にしないから分からないままだけど。まあ、単なる噂だけど」

「……いわく……ですか」

 亜美は非常に気になり島田の次の言葉を待った。

「でも古い話だし、それにあくまでも噂だから。まあ、今回の件とはあまり関連があるとも思わないけどね」

 島田はそう言うとさっきまでとは違う表情で軽く笑顔を見せた。さして島田は気にはしていないことが分かった。亜美は腑には落ちなかったが、島田の言う通り古い話で今更調べようも無かったので諦めるしかなかった。『先生の言う通り今の噂とは繋がらないかも。逆に妙な噂があったおかげで病院を安く買えたのかもね。やはり、出発点は土田さんの件からよね』亜美もさらりと聞き流す事にした。亜美が軽く頷くと島田は病院の話の続きを始めた。

「当時の建物が現在の南館で例の鏡の部屋や、ナースステーション、一般病棟、院長室のある、僕たちのいる所だよ。でも、開院して直ぐに前院長が亡くなり、今の院長である伊藤院長が就任した。そして、僅か三年で北館を増設し、現在の姿になったんだよ」

亜美は話を聞いて感心した。

「凄いですね。僅か三年で、南館の二倍ほどもある北館を建てるなんて」

「確かに院長の腕は凄いよ。当時、僕は医大生だったが、その噂は聞いていた。だから、僕は院長に憧れ伊藤病院を選んだんだ。でも……」

突然、島田の顔が曇った。亜美は、どうしたのかと不審に思った。

「普通、三年であんな大きな病院になると思う?」

急に、島田が尋ねて来た。

「え、あ、いえ」

「普通じゃ絶対無理だ。院長は町の有力者や金持ち層だけを診るようになっていた。伊藤病院に入って初めて分かったよ。院長は医者というより経営者だったよ。ガッカリしたよ」

揺れる車内で小さく何度も首を振っていた。

「医者は金の為に働くのではなく、かけがえない命の為に働くべきなんだよ」

悔しそうに呟いた。島田こそ本物の医者だ!純粋に医療だけを追求している!亜美はそう思うと同時に、少し、寂しさも感じていた。それは、裏を返せば、医療以外関心がないという事に繋がる。つまり、女性に対しても、だ。亜美は複雑な気持がした。

「着きましたよ。大学病院前です」

運転手の声に二人ともハッとした。

「あ、ありがとう」

二人は病院の前に降り立った。

南城大学病院は、この辺りでは一番大きな大学病院で、もちろん、亜美も名前だけは知っていたが、実際に来たのは初めてだった。

「大きな病院ですね」

亜美には、この巨大な病院が、まるで白い大きな要塞のように見えていた。

亜美はキョロキョロしながら玄関へと向かった。中に入ると、たくさんの病院関係者とたくさんの患者が、迷路のように縦横無尽に伸びた廊下を、まるで働き蟻が巣のあちこちに忙しく動き回るように歩いていた。島田は、その迷路を迷う事無くスタスタと歩いて行った。

「先生。この病院に来た事あるんですか?」

「昔、二回ほど、研修に来たよ」

アッサリと答えると、急ぎ足で階段を上がった。二階に上がると長い廊下の先にガラス張りの大きな部屋があった。島田は、その部屋を目指していた。入口には大きな表示で『ナースセンター』と書かれていた。

島田は躊躇する事無く、扉を開けると、一番傍にいた看護婦に、

「ここの看護婦さんで、一番古い方、おられますか?」

声を掛けると、看護婦は不審そうな眼でこちらを見ながらも、

「少々、お待ちください」

そう言って、一番奥に座っている看護婦の所へ行った。二人が何か話したと思うと、その一番奥に座っていた看護婦はこちらをチラッと見て立ち上がり、ゆっくりと歩いて来た。体格の良い中年の看護婦だった。亜美は、咄嗟に今矢を連想した。何だか急に意味も無く怒られそうな気がして、思わず島田の後ろにサッと隠れた。

「私が、ここのセンター長をしている河合という者ですが、何の御用でしょうか」

表情は険しく、威圧的な話し方だった。亜美の眼には、やはり、今矢の姿がオーバーラップしていた。

「申し遅れました。僕は伊藤病院で医師をしている島田といいます。こっちは、同じく看護婦をしている今井です」

島田が自己紹介を終えると、急に河合の顔付きが変わった。

「まあ、あなたが島田先生!噂は兼ねがね今矢さんから伺っていますわ。噂通りの男前の先生ですね。それで、今日は何か?」

さっきまでとは、まるで別人のような話し方だった。亜美は、『お節介な近所のおばちゃん』のように思えて、あまり良い印象が持てなかった。島田もあまりの豹変ぶりに戸惑っていた。

「あ、ありがとうございます。それで、今日は少し聞きたい事があって、それで来たんです」

「まあ、何でしょう?何でも聞いて下さい」

河合は終始ニコニコして島田を見詰めていた。島田は引き攣った笑みを浮かべながらも、視線を河合から外した。

「あの、一〇年程前に、ここで勤務していた、土田さんの事を教えて貰いに来たんです」

「土田?土田……土田……あっ、思い出したわ!土田由美さんの事ね!彼女、見付かったの?」

河合は驚いた顔をした。

「いや。それは、まだです。それで、僕たち、ある事で土田さんの事が知りたくて来たんです」

「そう……。あの時は驚いたわ。だって突然失踪したんですもの。特に、今矢さんはショックだったと思うわ」

「えっ?どうして今矢婦長がショックを受けるんですか?」

亜美は思わず、島田の後ろから顔を覗かせ声を出した。

「だって、当時新人の土田さんを一番可愛がっていたのは、今矢さんだったから。かなりのショックがあったと思うわ」

河合はしみじみと言った。亜美は、そんな河合を見ると、少し印象が変わり、島田の後ろからゆっくりと出て来た。

「あの、失礼ですが、今矢婦長と河合さんは、どういった?」

亜美の質問にニコッとすると、

「今矢さんは私の一年先輩になるのよ。仕事には、かなり厳しいけど、根はとても良い人よ。あなたも、頑張って今矢さんについていってね」

優しく答えた。亜美も笑顔を見せると頷いた。

「それで、土田さんの事ね。だったら、私より立花さんの方が詳しいわ。確か、彼女は土田さんと同期だったから」

そう言うと、河合はひとりの看護婦の所に向かった。なにやら、その看護婦の耳元で話をすると、河合はこちらを振り向き、軽く会釈をして自分の席に戻って行った。代わりにひとりの看護婦がやって来た。

「立花といいます。それで、由美の事を聞きたい、とか。一体、どういった話でしょうか?」

立花という女性は、あまり話したくないような様子だった。河合に言われ、嫌々来たような感じだった。

「土田さんが失踪するまでの事を聞きたいんです」

立花は小さく笑いを漏らすと、

「今更、そんな事を聞いてどうするんですか?」

半ば、投げやりな態度を取った。亜美は真剣な眼差しで立花を見詰めた。立花は、それに気付くと、

「いいわ。じゃあ、お話しましょう。でも、ここでは」

そう言うとナースセンターを出た。何処に行くのかと島田と亜美は、ただ黙って立花の後ろを歩いた。長い廊下を越え、非常口の扉を開けると、そこは外階段の踊り場だった。生暖かい風が微かに吹いていた。立花は階段の手すりに腕を置くと、亜美たちとは逆の外を眺めた。

「由美はどうせ、この世にはいないわ」

突然、衝撃的な言葉を吐いた。島田も亜美も驚いた。何故、親友が死んだなどと言い切れるのか、亜美には理解出来なかった。

「どういう……事ですか?」

島田が聞くと、立花は外を見詰めたまま、

「常識で考えたら、それ以外何があるの。大の大人が一〇年も連絡一つ寄越さない、という事は、そう考えるのが普通じゃない」

開き直っていた。確かに、立花の言う事は正論なのかもしれない。しかし、仮にも親友が死んだ等と、軽々しく口にする事ではない!亜美は、そんな立花に激しい憤りを覚えた。

「あなたは間違ってる!もしかしたら、どこかで生きている可能性だって……」

亜美が声を荒げると、急に、立花は振り返った。その眼は真っ赤になっていた。思わず亜美は言葉が詰まった。

「あなたに何が分かるのよ!私たちがどれだけ由美を捜したと思ってるのよ!」

立花も声を荒げた。

「由美が行方不明になった時、誰も本腰を入れて捜してくれなかったじゃない!あの今矢さんですら、必死になってくれなかったじゃない!」

立花の眼から、一筋の雫が頬を伝って、生暖かい踊り場の鉄板の床に落ちた。

「警察だって、失踪と決め付けて捜してくれなかったじゃない!それを、一〇年も経って、今更、由美の事を教えてくれってどういう事ですか!」

立花は、この一〇年間の悔しさを二人にぶつけた。亜美の思い違いだった。立花は誰よりも土田という女性を思い続けていたのだ。  亜美には立花の気持ちが痛いほど分かる気がした。

「す、すみません……あなたの気持ちも知らずに偉そうな事言って。親友を亡くした気持ち、私にも分かります。実は、私も昨日、親友を亡くしました」

「えっ?」

逆に、立花が驚いた。亜美は、親友である真美を亡くした経緯、つまり、伊藤病院に伝わる鏡の噂の事、そして、そのベースになっている話が土田に関係している可能性の事、等を全て立花に話した。立花に困惑した表情が見られたが、直ぐに、納得したようだった。

「そうだったの。ごめんなさいね。私こそ事情を良く知らないまま、あんな事言って。分かりました。でも、一つだけ約束して欲しいんです」

立花は島田を見詰めた。

「必ず、由美を見つけてくれるって」

島田は力強く頷いた。立花は、島田の態度に安心したのか、小さく頷くと寂しい笑みを浮かべた。

「失踪する前、土田さんの様子はどうでしたか?変わった様子はありましたか?」

島田の質問に立花は首を振った。

「私は由美が失踪したとは思えないんです。だって、由美は伊藤病院に行く事を喜んでいましたから。私としては、あまり行って欲しくなかったんですけど」

「それは、やっぱり、親友と別れたくないという事で、ですか?」

亜美は、立花を自分に置き換えて考えていた。亜美自身、看護学校の親友だった真美と離れたくないが為に、一緒に、伊藤病院を選んだからだった。しかし、立花の考えは違っていた。

「そうではなくて、伊藤教授にあまり良い評判が無かったからです」

「というと、それは?」

「ええ。噂では、いろいろな製薬会社や医療メーカーから、多額の金を貰っているという噂でした。ある人に言わせると、伊藤病院設立の費用も多くの関係業者が出したのでは、との事でしたから」

島田は、その言葉に何だか頷ける気がした。確かに、伊藤病院には、ごく限られた製薬会社の薬や医療機器しかなかった。伊藤病院では、昔から納入業者を決めるのは院長だった。院長が全ての権限を有していた。だから、島田が、どんなに良い新薬が出ても、なかなか院長の許可が下りず、何度も断念した経験があった。納得できる話だった。

「だから、殆んどの人が伊藤教授について行かなかったんです。私も、そうでした」

「で、結局、何人が、この南城大学病院から伊藤病院へ行ったんですか?」

「三人です」

「えっ?たったの……三人ですか」

これだけ大きな大学病院で、これほど多くの医師や看護婦がいる中で、たったの三人しかついて行かなかったという事は。亜美には、前院長である伊藤雄一という人が如何に評判の悪い人か、容易に想像できた。

「その三人とは、誰ですか?教えてもらえます?」

亜美が聞くと快く答えてくれた。

「井山先生と今矢さん。そして、由美です」

亜美は、聞いた事も無い名前を言われて考え込んだ。

「先生。井山先生って人、伊藤病院にいました?退職された先生ですか?」

尋ねると、島田は、

「何言ってるんだよ、今井君。井山っていうのは、伊藤院長の旧姓だよ」

呆れた顔で笑っていた。

「旧姓って事は……伊藤院長は婿養子だったんですか!」

亜美は、てっきり、前院長の息子だと思い込んでいた。亜美にとっては新しい発見だった。

「ただ、井山先生と今矢さんが伊藤教授について行くのは分かってました。でも、どうして、由美が一緒に行ったのかが、今でも分からないんです。ただ、思い当たる点といえば、今矢さんを慕っていたからかな、というところですね」

立花も分からないというように首を振った。島田は不思議に思った。何故、そんな評判の悪い人間に、伊藤と今矢がついて行く事が分かっていたのか?その点を聞いてみた。

「井山先生が医大生の時、お母さんが癌でこの病院に入院したそうです。その時、治療費と莫大な学費を密かに援助していたのが伊藤教授だったそうです」

「何故、伊藤先生が援助していたか、知っていますか?」

「ハッキリとは分かりません。ただ、井山先生は、南城大学医学部では成績は常にトップだったそうです。だからじゃないですか」

『そういう事か!前院長は優秀な医学生だった伊藤院長に恩を売ったんだ!後々使えると思って!』そう島田は理解すると、ひとり頷いていた。

「じゃあ、今矢婦長は、どうしてですか?」

今度は亜美が尋ねた。

「今矢さんの場合は……」

立花は何だか言い難そうだった。

「今矢さんの場合は、これは噂なんですが、伊藤教授の愛人だったらしいんです」

「えっ?愛人!」

亜美は、あまりの驚きで、思わず声が大きくなった。今の今矢からは、とても愛人という言葉が想像できなかったからだ。立花は、亜美が何を想像したか分かったようで、取り繕うように、

「私も一年程前に駅で見かけたけど、昔は細身で、綺麗な人だったのよ」

そう付け足した。そう言われ、亜美は村田の家で見せてもらった写真を思い出した。『そう言えば、確かに、写真の中の今矢婦長は、若くて、細かったわね』その頃の今矢を想像すると、納得できる気もした。『月日は人を変貌させるんだ』亜美は、漠然と自分に置き換えてみると何だか恐ろしい気がした。

「だから、二人は伊藤教授について行くと思ったんですね。何となく分かる気がします」

島田は納得していた。

「今から、考えれば、伊藤教授も大学病院を辞めざるを得なかったんですよ。大学内で、癒着の件がかなり問題になっていましたから」

「じゃあ、肝心の土田さんですが、例えば、付き合っていた男性がいたとか」

島田が質問すると、亜美は神経を耳に集中させた。

「さあ、それは分かりません。私にも話してくれませんでしたから。ただ、私は、いたんじゃないかと思いますけど。名前とかは分かりませんが」

立花の答えはあやふやだったが、亜美にも島田にも十分興味深い話だった。

「そう思う理由ってあります?」

「ええ。実は由美はいつも小さな赤い表紙の手帳を持ち歩いていたんです。日記を書く習慣があったんです」

「日記……ですか」

亜美と島田は互いに顔を合わせた。

「いつも、覗いても怒らなかったんですが、ある時から覗くと嫌がるようになったんです。それで、てっきり、彼氏の事が書いてあるんだと思って聞いてみたんです」

「どうでした」

二人同時に声を出した。

「首を振りました。でも、その顔がとても嬉しそうだったんで、彼氏が出来たな、と思ったんです」

亜美も立花と同じく、彼氏の存在を確信した。女の直感だった。

「その日記には、どんな内容が書かれていたんですかね?」

「それが不思議なんです」

立花の顔付きが急に変わった。立花自身、よほど不思議に思っていたようだった。

「最初のうちは、当り前ですが、日本語で書いてあったんですよ。ところが、私に隠すようになってから、一度横から覗いて見たんですよ。そうしたら」

「そうした……ら?」

亜美は、立花の話に引き込まれた。

「全て、英語かローマ字か分からないんですけど、スペルばかりで書かれていたんです!」

「スペルで?」

島田は考え込んでしまった。『何故、日記をスペルばかりで書くんだろう?その理由は一体なんだろう?』何度考えても答えを見つける事が出来なかった。

「じゃあ、内容は……」

「ええ。全然分かりません。日本語なら、チラッと見ただけでも読める文字はありますが、英語かローマ字か分からない状態だと、無理ですね」

今の立花の言葉で、亜美には何となく、その理由が分かる気がした。

「あっ、そうだ」

立花は突然、思い出したように大きな声を出した。

「今、日記の話をしていて思い出したんです!一度だけ、日記を書いていた由美が変な言葉を呟いたのを聞いたんです」

「変な言葉?それは」

島田も亜美も、次に言う立花の言葉に期待度が高まった。

「確か……え~っと」

立花はその言葉を必死で思い出していた。亜美は、立花が思い出してくれる事を祈った。

「もう……もう愛……そう!もう、愛は嫌って呟いたんです!」

「えっ!それって……」

亜美は驚いて島田を振り向いた。島田も亜美を見て頷いた。

「間違いないよ!村田さんが言ってた言葉だ」

島田は、立花に、その言葉が鏡に書かれていたという話をした。それを聞くと、立花は寂しそうに俯いていた。

「もしかして、土田さんは失恋したんじゃありませんか?それで……」

島田が言葉を続けようとすると、立花は顔を上げ、島田の言葉を遮り、

「それが失踪の動機なんてあり得ません!」

キッパリ言い切った。『失恋は失踪の立派な動機になり得る。では、どうして、こうも言い切れるのかしら?』亜美はその理由を待った。

「その言葉を聞いたのは失踪の一ヶ月も前の事なんです。実は、私、失踪の三日前に由美にあってるんです」

立花は強く否定した。

「その時の由美は、以前同様明るくて、新しく行く伊藤病院の事を楽しそうに話していたんです。そんな人が失踪だなんて考えられません」

『もし、立花の、その時の印象に間違いがなければ、失恋したとしても立ち直ったと考えるべきだ。とすると、失踪の動機としては弱いな』島田はそう考えた。

「先生、私、何だか土田さんがつけていた日記帳が気になるんです。それに何か、重大なヒントが書かれているような」

「残念ながら、それは見付かりませんでした。おそらく、由美が鞄に入れて持って出たんだと思うんです」

亜美は重大な手掛かりを無くしたようで愕然とした。

「部屋のどこかに隠してある、という事はないですか?」

島田は、まだ諦めていなかった。島田も、この手帳が重要な手掛かりだと感じていたからだ。しかし、立花は、期待を裏切るように小さく首を振った。

「由美のお母さんと一緒に、由美の部屋を隈なく探したんですけど、やっぱり、ありませんでした」

「じゃあ、部屋から無くなった物は、その手帳を含め、鞄一式という事ですね」

島田は半ば諦めかけていた。

「いえ。無くなった物は、由美のお母さんに言わせると、もう一つあるらしいんです」

「えっ!そ、それは?」

島田の眼が光った。

「私は見た事もないんですけど、由美のお母さんの話では、いつもは由美の机の上に小さな赤くて細長い箱があったらしいんです。でも、それも無くなっていたらしいんです」

「中身は何だったんですか?」

「中を開けた事がないらしくて。でも、由美は大切にしていたそうです。もしかして、彼氏からのプレゼント、例えばネックレスとか、だったのかもしれませんね」

亜美は、立花の顔が、最初会った時の印象と違い、今まで立花自身が感じていた事も含め話す事で、清々しい顔に変わって来た気がした。

「私と由美のお母さんで、捜せる所は全て捜しました。でも、結局は由美を見付ける事は出来ませんでした。あの時は誰も協力してくれなかった」

立花は、階段の手擦りに凭れ掛かると、

「でも、今は何だか嬉しいんです。だって、理由はどうあれ、由美を捜してくれる人がいるんですもの」

島田と亜美に微笑んだ。島田も思わず微笑み返した。

「ありがとうございました。大変参考になりました」

「島田先生。今井さん。必ず由美を見つけてやって下さい!お願いします!」

立花の眼には涙が溢れかけていた。島田は力強く頷くとソッと手を出した。立花は、その差し出された手を強く握った。もう、言葉は無かった。生暖かい風が、微かに立花の髪を揺らしていた。その光景に、亜美も心を打たれた。『真美の為にも立花さんの為にも、この不可解な噂の真相を解明しなければ!』亜美は固く心に誓った。

二人は丁重に頭を下げ、別れを告げると、大学病院を出た。陽射しは幾分か和らいでいた。しかし、それでも照り返す熱で、まるでサウナの中にいるような錯覚を覚えた。本来なら、涼しくて楽なタクシーを使うところだが、島田はどういう訳かタクシー乗り場には向かわず、歩く事を選んだ。一分でも長く、亜美との会話の時間を取ろうと考えていたのだ。

「今井君。率直に言って、今の立花さんの話を聞いて、どう考える?」

亜美は嬉しそうに島田に寄り添いながら歩いていた。

「私は、白い看護服の幽霊は土田さんに間違いないと思います」

「やっぱり……幽霊はいる、と考える?」

島田は歩きながらチラッと亜美の横顔を見た。

「完全に信じる訳じゃないけど、でも、そう考えた方がスムーズに考えられるんです」

亜美の言う事は、島田にも分からないでもなかった。しかし、まだ、幽霊の存在を信じたくなかった。

「僕は、誰かがお膳立てしているような気もするんだ。というのも、ほら、鏡に、『もう愛は嫌』だなんて幽霊に書ける?」

島田に、そう言われ、亜美も少し自信が無くなって来た。

「あれは実際に誰かが書いたんじゃないかな。もっと言えば、噂、そのものも誰かの情報操作によって広がったのかもしれない」

「だとすれば、一体、誰が?」

「それが分かれば苦労はしないさ」

もっともだ、と亜美は吹き出してしまった。

「でも、実際に土田という人が行方不明になっているんですよ。もしかして、先生は土田さんが生きている、と。そして、三人を殺した、と」

亜美は、もしや島田はそう考えているのでは、とハッとして島田を見詰めた。

「いや、それはないと思う。悪いが、土田さんは死んでいるよ。ただ、全ての発端は土田さんに関係ある何かだと思うんだ。やっぱり、あの手帳に答えがあるのかもしれない。それに、何故、わざわざスペルで書いたのかも不思議だし」

「あ、それは、私、何となく分かります」

「えっ?」

島田は足を止めた。亜美はわざと島田を置き去りにして、ゆっくりと前へ進んだ。

「土田さんは、本当は彼氏の事を言いたくて仕方が無かったんじゃないかしら?でも、何らかの事で言う事が出来ない。でも、やっぱり、誰かに気付いて欲しかった……」

亜美は背中に島田の視線を感じながら話を続けた。

「本当に知られたくないなら、日記を読まれたくないなら、わざわざ人のいる前で書きませんよ。家で書きますよ。そんな物ですよ。女心って」

亜美はそう言うとクルッと振り向いた。

「女心?」

「そうです。女性心理学!立派な学問ですよ。先生も学べば、医療に役立ちません?」

嬉しそうに言うと、また、足早に歩き出した。

「女性心理学……か?学ぶ価値は……あ、今井君!」

島田は慌てて亜美を追い掛けた。

長い道のりを歩き、ようやく駅に着いた。しかし、亜美には、暑さも距離も、少しも苦にならなかった。むしろ、楽しい時間だった。

「ようやく着いたな。やっぱり、タクシー乗った方が良かったかな?」

さすがに、亜美に借りたハンカチは汗でボトボトになっていた。

「いえ。健康の為、歩いた方が良かったです」

それを聞くと、島田は思わず笑ってしまった。亜美も悪戯っぽく舌を出した。

「七時からだったな、林君の通夜。何だか寂しいよ」

急にしんみりとした口調で島田は呟いた。

「そうですね」

亜美も急に現実に戻った気がした。二人は暫く、駅の改札で佇んでいた。

「今井君。二人で、必ず、謎を解こう!」

「ハイッ!」

島田に笑顔が戻った。

「さあ、帰ろうか?僕は一旦、家に帰って、それから通夜に行くよ」

「そうですね。先生の家なら、ここから三〇分ほどですものね。十分お通夜に間に合いますね」

「え、今井君、どうして家までの時間、知ってるの?」

「えっ、あっ、それは……そんな気がしたからです!じゃあ、私はこれで失礼します!では、また、お通夜の時に。お疲れさまでした!」

亜美は、顔が赤くなったのを知られないよう俯き加減で急いで改札を通り抜けた。一瞬、島田の声が聞こえたような気がしたが、構わず、エスカレーターに飛び乗った。

島田は、急に、自分から逃げるように走り去った亜美を眼で追いながら首をかしげた。

「ああいった行動も、女性心理学に書いてあるのかな?」

呟きながら、反対側の改札をゆっくりと通って行った。

ホームに上がると、ちょうど電車が入って来た。

亜美はその電車に乗ると、すぐに反対側のホームに眼をやった。島田の姿が見えた。亜美はドンドン小さくなる島田を見続けて、やがて、その視界から消えた。と同時に、再び現実がやって来た。『真美と本当にお別れなのね』そう思うと、今までの事が次々と蘇って来た。思わず、唇を噛み締めた。『ごめんね。私だけが、幸せを感じたりして。でも、必ず、真美の仇を取ってあげる!必ず!』揺れる車内で、亜美は、ようやく傾き始めた太陽を潤む眼で見詰めていた。



いつもの朝に比べて、今朝は妙に事務の人がバタバタと廊下を走り回っていた。

「忙しそうね。何かあったのかしら?」

気になった亜美は、ちょうど走って来た仲の良い事務の女性を見付けて、声を掛けた。

「白石さん!」

「あ、亜美さん。おはよう」

「珍しく忙しそうですね。何かあったんですか?」

「そうなのよ。再来週に、アメリカから医師団が来るって話があったでしょ?あれが、突然、今週末に変更になったのよ。だから準備の前倒しで大変なのよ」

クーラーが効いているにも拘らず、少しふくよかな体形の白石の額には汗が浮き出していた。白石に言われても、確かに、そんな話があったなという程度しか、亜美の記憶には無かった。というのも、アメリカから見学の為に先生方が来たところで、応待するのは院長、医師、良くて婦長までだ。自分たちが応待する事は、まず無い。だから、亜美にとっては、どうでもいい事だった。

「そうですか。でも、準備って何を準備するんですか?」

「各部屋に掲げてあるプレートを取り替えるのよ」

「えっ、どうして、そんな事を」

「だって、相手はアメリカ人じゃない。漢字読めないでしょ。だから、日本語と英語の併記した物に取り替えろって言われているのよ」

理由は分かるが、たった一日程度の見学に、無駄な費用を使うものだと思った。『まあ、それだけ、院長は気合が入っているという事か』亜美にすれば、やはり、どうでもいい話だった。

「それから、全職員の名札も変わるわよ。今、名簿を各部署に確認して貰ってるのよ。それで、私も走り回ってるのよ。ホント言えば、迷惑な話よね」

白石は亜美の耳元で囁くと笑いながら、

「じゃあね」

また、廊下をドタドタ走って行った。

「関係の無い私たちの名札まで変える必要はないと思うんだけどなあ」

亜美は一人ブツブツ言いながら、職員の女性たちとは対照的にゆっくりとナースステーションに向かった。

いつものように朝礼を終えると、亜美は配置に付こうとしていた。そこへ、今矢が険しい顔で亜美を見ながら近付いて来た。亜美は嫌な予感がした。

「今井さん!ちょっと、院長室まで」

『来た!とうとう辞職勧告だ!』亜美はそう思いながらも素直に今矢に付いて行った。足は(おもり)がついているように重たかった。

「失礼します」

今矢が院長室の扉を開けた。院長室には既に島田もいた。亜美が中に入り、扉が閉まると、早速、今矢が口を開いた。

「あなたたち、昨日、南城大学病院に行ったわね。河合さんから聞きましたよ。何を調べているの!」

今矢の口調は刺々しいものだった。院長の伊藤はゆったりとソファーに座って黙って聞いていた。今矢の問いに、島田も亜美も、何も言わなかった。

「じゃあ、私が言いましょう。あなたたち、土田さんの事を聞きに行ったんでしょう。何故、今更、土田さんの事を調べているの!答えなさい!」

黙っていた島田は意を決したように口を開いた。

「この病院に伝わる噂の件です」

「噂?何の噂ですか?当病院に噂なんてありませんよ!」

「鏡にまつわる幽霊の噂です。今矢婦長!あなたも知っている筈だ!」

堪えきれず島田は今矢を睨んだ。しかし、今矢は動じなかった。

「島田先生。先生は幽霊などという非科学的な物を信じているんですか。良く考えて下さい。そんな根も葉もない噂が広がったら、当病院のイメージダウンになります!」

今矢の全身は怒りで小刻みに震えていた。伊藤は、相変わらず、ソファーに腰を掛け、時折、鼻を触っていた。伊藤には鼻を触る癖があった。亜美は、その癖が好きになれず、怒られているにも拘らず気になって仕方無かった。

島田に対する今矢の不満は、まだ続いた。

「仮にもゴールドメスを授与された先生が、そんな事では困ります!もっと病院のイメージを大切にして下さい!」

『何?そのゴールドメスって?』亜美は初めて聞いた言葉に気を取られた。

島田は今矢と話しても埒があかないと思い、院長である伊藤に直接訴え掛ける事にした。

「院長!もう、三人も死んでいるんですよ!どうして調べないんですか!おかしいと思わないんですか?このままにしておく方がイメージダウンじゃないですか!」

島田は伊藤に迫った。

「島田君。君は何か勘違いをしているようだな」

ようやく口を開いた伊藤の話し方は今矢と違い、紳士的で穏かだった。

「医者なら、死因となる原因を調べる事に努めるべきで、決して、その人間の身辺調査をする事じゃないだろ?どうだね、違うかね?」

伊藤は下から上目使いに覗き込むよう島田を見ると煙草を一本取り出し、静かに火を点けた。

「確かに、そうですが……しかし、これに関しては」

島田が反論しようとすると、後ろから、また今矢が口を出して来た。

「島田先生!院長のおっしゃる事が、まだ分からないんですか!」

「まあ、今矢君、落ち着いて。話せば分かってくれるよ」

伊藤が今矢を制止した。今矢はムッとした。

「しかし、院長!今度、もし、こんな事があれば」

「分かっている!君は、もう現場に戻りなさい!後は、私が話をする!」

伊藤は煙を吐き出すと、少しイラついたように今矢に言い放った。今矢は伊藤の言葉に納得できないのか、まだブツブツ言っていたが、やがて諦めたように渋々部屋を出て行った。伊藤は今矢が出て行ったのを確認すると、

「島田君。冷静に話をしようじゃないか」

妙な笑みを浮かべながら、鼻を触った。亜美は、言いたい事はあったが、今ここで自分が発言すると、何だか島田が責められるような気がして、ただ、黙って俯いていた。

「君は優秀な医者だ。こんな事でつまずいて良いのか?それに、中田院長の娘さんの事もある」

「えっ?院長、その件は、キッパリとお断りした筈じゃ……」

島田は慌てて声を出した。『えっ、中田院長の娘さん?……誰?その人?……』亜美は思わず、顔を上げ、島田の横顔を見た。島田も亜美の視線を感じたのか、チラッと亜美を振り向いた。

「まあ、私に全て任せておきなさい。悪いようにはしないから」

伊藤は機嫌よさそうに、不気味な笑みを見せては鼻を触っていた。

「本来なら君たち二人は処分対象になる。私の命令を聞かなかったんだからね。しかし、島田君、私は君を失いたくないんだよ。分かるね?」

伊藤は島田に同意を求めて来た。島田は暫く黙っていたが、やがて、

「……分かりました」

力無く呟いた。その言葉に亜美は驚いた。『まさか……先生……』急に見捨てられたような気がした。島田の言葉を受け、気を良くしたのか、続けて、伊藤は亜美に、

「今井君。君の場合は、今矢婦長から、優秀な看護婦になると聞いている。よって、今矢婦長に委ねる事にした。今矢君に感謝すべきだな」

そう淡々と告げた。亜美は信じていた島田に裏切られたような気がして許せなかった。その矛先を島田ではなく、伊藤に向けた。

「私は嫌です!たとえ、クビになっても、たとえ一人になっても、この噂の真相を」

そう怒鳴りながら、伊藤に迫った。島田は伊藤の顔が険しくなったのを見ると、慌てて亜美の前に立ちふさがり、

「今井君!僕たちは間違っていたんだ!院長の言う通りだ!幽霊なんていないんだよ!だから、こんな事をしても、何も解決には向かわないんだよ!」

亜美の肩を強く掴んで制止した。

「そ、そんな……先生……」

亜美の眼に涙が浮んだ。島田は伊藤を振り向き、

「院長!今井君は、僕が説得します!」

そう言い切った。亜美は全身の力が抜けていくのを感じた。伊藤は、島田の言葉を聞くと、満足したように頷いていた。

「頼むよ。私は、今週末に来る外国人医師団の準備で忙しいんだ。だから、こんな、くだらない事に時間を掛けたくないんだよ。分かるね?」

「分かりました!では、失礼します!」

島田は答えると、半ば、亜美を追い出すように無理矢理背中を押して一緒に部屋から出た。廊下に出された亜美は涙声で、

「ひどい!ひどいです!そんな人だとは思いませんでした!信じてたのに!」

そう言って島田に背を向けた。

「仕方が無いよ。院長の言う通りなんだから。院長の言う事の方が正しいよ。あっ、待てよ、今井君!」

島田が歩き出した亜美の腕を掴むと、

「離して下さい!」

島田の手を振り解き、今度は廊下を走り出した。

「今井君!」

島田は後を懸命に追い掛けた。そして、階段を下り始めたところで亜美をもう一度捕まえた。

「いや!離して!」

必死に逃げようとする亜美に、

「今井君!今井君、聞いてくれ!」

何度も話し掛けた。それでも亜美は、子供のように首を振って嫌がった。

「聞いてくれ!僕が本心であんな事を言ったと思っているのか!」

「えっ?」

島田の言葉に驚き、急に、亜美の抵抗が止まった。

「今、僕が言った事は全て本心じゃないよ」

島田は亜美の耳元で声を殺して言った。

「えっ、だって、院長室で……」

「シッ!」

島田は口に人差し指を当て、周囲を気にした。

「院長も今矢婦長も、この噂の事は知っている。にも拘らず、この話を潰そうとしてるんだよ。病院のイメージの為にな」

意味が分からない亜美は、島田の眼をただジッと見詰めるしかなかった。

「そんな人間に反論を繰り返しても埒はあかない。下手に反抗を続ければ即クビになるだけだ。そんな事になれば、これ以上調べる事は不可能になってしまう」

「じゃあ……じゃあ、先生は!」

亜美は涙を拭った。笑顔が戻って来た。

「ああ。諦めてなんかいないよ。必ず突き止めてやるさ」

島田も笑顔で答えた。

「でも、院長室で」

「あれは、ハイハイ言って従順な振りをしただけさ。いわば、真相を探る為の時間稼ぎさ」

「じゃあ、廊下では?廊下で、そんな芝居をする必要は」

「えっ?今井君、知らないの?この病院のセキュリティーを」

「ええ。セキュリティーまでは」

島田は優しく頷くと説明を始めた。

「大きく分けると、この病院は二ヶ所しかセキュリティーは効いてないんだ。まずは一階部分だ。内部には無いが、外に面した所、つまり、扉、そして全ての窓にセンサーがある」

亜美は、セキュリティーの事と芝居の事が、どう関係があるのか、真剣に聞いていた。

「もう一ヶ所は、この院長室のある四階だ。ここは、院長室と、そして」

島田は突然階段を上りだした。亜美も、意味は分からなかったが、とにかく付いて上がった。

「その廊下の天上を見て。何か半球面のガラスがあるだろう?」

島田が指差した辺りに、確かに言う通り、半球面のガラスが天井から出ていた。

「あれは?」

「あれは監視カメラだ。しかも、あのカメラは音声も拾える。あれと同じ物がもう一つ、この廊下の反対側の天井にも取り付けてある」

亜美は段々と分かって来た。島田は、尚も説明を続けた。

「これらのセンサーやカメラは一階にある警備室に繋がっている。但し、この四階は少し違うんだ。院長が在室時には、院長室で廊下の映像を見る事が出来るんだ」

亜美は納得した。『そうか!だから、島田先生は廊下でも芝居をしたんだ!』ようやく関連性が分かった。院長室で、わざわざ芝居をしても、もし、廊下で本当の事を話していれば、伊藤が聞いている可能性があったのだ。『という事は、やっぱり、先生は……』亜美は嬉しくなり抱きつきたくなる感情をグッと堪えていた。

「ただ」

島田は不思議そうに首を傾げた。

「この四階部分は警備が厳重すぎる!院長室なんかは動態感知センサー付きのカメラまで設置してある」

「動態感知センサー?」

「ああ。動く物を見付けると、それを感知し、カメラが作動するという物だ」

「だったら、今の院長室の様子も警備室で見れるの?」

「いや。院長がいる時は、警備室では見れない。院長が不在時、または、帰宅時に院長室から警備室に切り変える事になっている」

「やっぱり、院長室だから、厳重なのね」

亜美は当然の事のように言ったが、やはり、島田には当然の事のようには思えていなかった。

「それにしてもだ。幾ら警備員が常駐しているとはいえ、この病院全体の警備体制から考えると、院長室と、それに繋がる廊下は異常な警備に思えるんだ」

しかし、亜美には、そうは思えなかった。この病院の全ての決定権を持つ院長である以上、重要な書類がたくさんある院長室は最重要警備箇所になって然るべきだと思っていた。亜美は、やはり何の疑問も持たなかった。

「いいじゃないですか、そんな事。それより安心しました。私、本当に一人になるのかと不安だったんですよ」

亜美が嬉しそうに言うと、島田も、

「まあ、そうだな。どうでもいい事なんだが……そうだ!」

言い忘れていた事を思い出した。

「とにかく、僕たち、二人が動き回っている事はバレたんだ。だから、今後、院内で会う事は避けた方がいいよ。今度、見つかるとヤバイからな」

「えっ?」

だとすれば、今後、どうやって連絡を取れば良いのか?二度と、島田と二人で会う事が出来ないのか?島田の言う意味は良く分かるが、何だか寂しい気がした。島田も、そのへんは察したのか、

「これからは外で会う事にしよう」

そう言って、一枚の名刺を取り出した。

「今日も当直だろ?僕もだ。だから、明日、このイタリアンレストランでお昼でも食べながら、今後の事を話そうよ」

島田は照れくさそうに、亜美に名刺を差し出した。

「け、結構、ここのランチ、美味しいんだよ」

「あ、あ、ハイッ!」

亜美が驚きながらも嬉しそうに受取った時、突然、島田のポケベルが鳴った。

「あ、呼び出しだ。急患かもしれない。戻らなきゃ。じゃあ、明日、十一時に」

島田は、そう言い残すと、急いで階段をパタパタと下りて行った。『やった!』嬉しくて飛び上がった。が、同時に、気になる点もあった。『ゴールドメス』という言葉と、もう一つは、『中田院長の娘さん』という言葉だった。特に、『中田院長の娘さん』という言葉は亜美の頭から離れなかった。

「でも……先生は、断わったって言ってたから」

何とか気にしないよう、今は無理矢理に、看護の事に集中する事にした。



勤務が明け、病院を出ると、珍しく外は曇っていた。亜美は空を見上げた。

「何だか、雨が降りそうね」

足早に駅に向かった。いつものように厳しい陽射しはなかったが、代わりに何ともいえない蒸し暑さがあった。駅に着いた時には汗でびっしょりだった。電車に乗り、隣の駅で降りると、目的のレストランは駅の前にあった。『中田院長の娘』という言葉を急に思い出すと、何だか心にも厚い雲が掛かっていくようで、素直に、島田と会う事を喜べなかった。店に入り、二階へ上がると、島田は既にテーブルに腰掛けていた。

「すみません。もう来てたんですか?」

「僕も今来たところだよ。ここの場所、直ぐ分かっただろ?」

島田は笑顔で答えた。前回は、病院の直ぐ傍の店を指定したおかげで、周りが気になって仕方が無かった。だから、今度は病院から離れた、知っている人間が来ない、この店を指定したのだった。

「さあ、どれにする?」

島田は早速メニューを開けた。

「先生にお任せします。どれが美味しいんですか?」

「さあ……どれだろう?」

「えっ?」

「あ、いや!全て美味しいから!」

島田は焦って作り笑いをした。実は、島田もこの店に来たのは初めてだった。亜美に渡した名刺は、同僚から、もし、女性をデートに誘うなら、この店がいいよ、といわれ貰った物だった。しかし、それは言えなかった。メニューを見て、適当にランチの文字を見付けると、店員を呼んだ。

「このランチを二つ」

暫く、二人は黙って俯いていた。亜美は、迷っていた。伊藤院長の言った『中田院長の娘』の事を聞くべきか、どうか。『先生の彼女でもない私が、聞くのは、やっぱり、変かしら?』迷い続けていると、店員がランチのセットを持って来た。スパゲティーとサラダ、そして、ドリンクが付く事を告げ、店員は戻って行った。『やっぱり聞こう!このままだと気持ちがスッキリしない!』亜美はそう決心すると、島田に話し掛けようとした。その時、先に島田が亜美に、

「あの、今井君。ひとつ、言っておきたい事があるんだけど」

スパゲティーを前に、そう切り出した。亜美は気になった。

「実は、昨日、院長が言った中田院長の娘さんの事なんだけど」

「あ、ああ、そういえば、そんな人の事、言ってましたよね」

亜美はドキッとしたが素知らぬ振りをしてフォークを手に取った。緊張の為か、微かにフォークを持つ手が震えているのが自分でも分かった。

「伊藤院長が勝手に目論んだ事なんだ」

亜美は俯いたまま、何重にもスパゲティーを巻き付けていた。島田は一方的に話し続けた。

「中田医院というのは、隣町にある中堅規模の病院なんだ。ただ、少し経営に行き詰まっているらしい。院長はそこを乗っ取るつもりなんだよ」

「えっ、乗っ取る?」

「ああ。でも、いきなり乗っ取る事は出来ないだろ?だから、まずは、僕を娘さんと結婚させて、影響力を持ち、それを口実に資金援助をして、その後、ゆっくりと経営に口を出して行くつもりなんだよ」

「じゃ、じゃあ、先生は、その娘さんと……」

「勿論、何の関係も無いよ。会った事もないんだから。院長が勝手にお膳立てしているけど僕は断わり続けているんだ」

「なんだ!そうだったんですか」

亜美のスパゲティーの、およそ三分の二がフォークに巻き付いていた。

「じゃあ、政略結婚のようなものを院長は企んでいたという事ですね!」

ホッとした亜美は嬉しそうに大量のスパゲティーを口に入れた。

「このスパゲティー、ホントに美味しい」

「そ、そうだろ!いつも、僕はこれを注文するんだ」

亜美の笑顔を見て、島田もホッとしたのか、適当に話を合わせて微笑んだ。

こうなると、気になるのは、『ゴールドメス』という言葉だけだった。

「先生。今矢婦長が言った『ゴールドメス』って何の事ですか?」

島田はスパゲティーを食べながら、頷くと、

「そう言うだろうと思って実物を持ってきたよ」

鞄から綺麗な貴金属を入れるような細長い赤い化粧箱を取り出して、亜美の前に置いた。

「開けていいですか?」

そう言って蓋を開けてみた。中には、本物と同じ大きさの金色のメスが入っていた。亜美はそのメスを手にしてみた。メスの柄の所に『伊藤病院』、裏側には『島田幸一』と刻印されていた。

「これを授与される人って、どういう人なんですか?」

「これは前院長が伊藤病院を運営するにあたって、職員の士気を高めようと考えた物らしいんだ。つまり、病院に貢献度が高いと授与される物だよ。皆は、これを欲しがっているけどね」

貢献度を考えれば、島田がこれを持っているのは当然だと亜美には思えた。

「皆が欲しがるって事は、持つと何かあるんですか?見たところ、高そうですけど」

「それ自体に価値はないよ、金メッキだから。でも、それを授与されると、まず、給料が飛躍的に上がるな。それと、後々の出世にも関係するんだ」

『どうりで、皆が欲しがる筈だ』亜美は頷いた。しかし、どう見ても、島田がそれを誇りに思っている様子もないし、この貴重な物を大切にしている様子も感じなかった。亜美はその事を聞いてみた。

「僕たちは医者だ。こんな物や出世を第一に考えていたらダメだ。患者の事を第一に考えてこそ、本物の医者なんだ。こんな物で、僕たちの価値が決まる訳がない」

島田は、伊藤病院に、こんな制度がある事自体不満に思っていた。

「でも、これを貰える人って、そんなに多くはないんでしょう?」

「確かにな。僕で三人目だから」

「あと二人は誰なんですか?」

「伊藤院長と今矢婦長だ。この二人に関しては病院が開院する前に既にこれを戴いていたらしい。絶対的に信頼されていたんだろうな」

「そうですか」

亜美は、このゴールドメスが何かのヒントになればと考えていたが、やはり、関係なかったとガッカリした。仕方なく、メスを箱に戻そうと、箱に眼をやった時、ふと何か思い出し、手が止まった。暫く、箱を見詰めていた。その様子を不審に思った島田は声を掛けた。

「どうした、今井君?その箱がどうかしたの?」

「……先生。立花さんが言った事、憶えてます?確か、土田さんの家にも、貴金属を入れるような赤い箱があって、無くなったって言ってましたよね……」

亜美はまだ、箱を見詰めていた。

「ああ。確かに……えっ!い、今井君……ま、まさか……」

島田は、口にスパゲティーを運ぼうとしていた手を止めた。

「も、もしかして、土田さんの家にあった箱とは、この箱の事?……だとしたら、どうして、土田さんの家にこれが……という事は!」

島田はハッとした。亜美は島田を見て頷いた。

「確信はありませんが、もしかして、土田さんの彼氏って……伊藤院長の事だったんじゃあ……ありませんか?」

島田は信じられないというように頭を振った。

「で、でも、もし、もし、彼氏が伊藤院長なら隠す事もなかったんじゃないか?日記にも正々堂々と書いても良かったんじゃあ」

「先生。確か、伊藤院長は養子だと言ってましたよね。いつ頃結婚したんですか?」

「話によると、伊藤病院が開院して直ぐだと……も、もしかして……伊藤院長が土田さんを殺した?」

島田の大きな声に、直ぐに亜美は口に人差し指を当てた。島田も、慌てて周りを見た。特に誰も気にはしていないようだった。島田はホッと胸を撫で下ろした。いつしか島田の額はキラキラと光っていた。

「絶対そうだとは言えませんが、可能性はあるでしょ?逆に、院長が土田さんの彼氏だと考えると、この話、何だか見えて来ませんか?」

確かに、亜美の言う通り、仮に伊藤が土田の彼氏だと想定すれば、一本の線に繋がってくるように思えた。

「もし、今井君の言う通り、院長が彼氏だとして、どうして、土田さんの幽霊は関係のない三人を殺す必要があったんだ?まあ、僕は、まだ幽霊を信じないけど」

島田は、あくまで、幽霊の存在を否定していた。

「それは、まだ、分かりません。やっぱり、これだけだと、一本の線にはならないですよね」

亜美はそう言うと沈黙した。

島田は、自分なりに、パズルのようにバラバラになった情報を組み合わそうとしていた。しかし、何処かのパーツが無いのか、やはり、上手く組み立てられなかった。

「私、もう一度、地下の鏡の所へ行こうと思うんです」

突然の亜美の言葉に島田は慌てた。

「それはマズイよ!折角、クビを逃れたのに、今度、あんな所へ行った事がバレたら、終わりだよ!」

島田は亜美の事を心配した。それは、見付かればクビになる事もあったが、もう一つは、あんな気持ちの悪い所へは出来る限り近付かない方が良いと思っていたからだ。島田自身、地下で聞いた、ノブを回そうとする音が、幾ら思い過ごしだと考え続けても頭の隅に残っていた。

「分かってます。でも、もう一度行って調べてみたいんです。今度は十一時ちょうどに。何か、新しい事が分かるかもしれませんし」

島田は益々反対だった。

「いや、今井君の言う事も分かるが、今矢婦長や院長に見付かれば終わりだぞ」

「今日なら大丈夫です。その時間ですから院長は当然いないでしょうし、今矢婦長は、今日は非番ですから。先生、安心でしょ?」

亜美の眼は明らかに島田を誘っていた。島田は、出来るなら行きたくはなかったが、真相を解明したい気持は亜美に負けないぐらい持っていた。『よしっ!僕も男だ!』島田は覚悟を決めた。

「分かった!僕も行くよ!」

亜美はその言葉を待っていた。鏡の所へ行くとは言ったものの、やはり、十一時に一人で行く事には恐怖があった。亜美は内心ホッとしていた。

「では、十時四十分に、裏口の警備室前で待ち合わせしましょうか?」

「そ、そうだな」

そう答えた島田の声には、張りが無かった。

亜美は運ばれて来たオレンジジュースに口を付けながら、さっき、島田が言った言葉を一人考えていた。『そう言えば、どうして私はクビにならなかったのだろう?他の人は直ぐクビになっているのに……どうして今矢婦長は、私を助けたんだろう?』亜美には、どう考えても理解出来なかった。



「おや?先生に看護婦さん。どうしたんですか、こんな時間に」

警備員が驚いたように島田と亜美に声を掛けて来た。島田は一瞬、ドキッとした。

「え、い、いや、大事な書類を忘れてね。ほら、今度アメリカから医師団が来るっていう、その関係の書類ですよ」

「ああ、そうですか。こんな夜分遅くに御苦労様です!」

警備員は何の疑いも無く二人を通してくれた。

警備室の前の廊下を右に曲がると階段がある。島田と亜美は、その階段を下へ、地下に向かった。階段を降り切って地下の廊下に立つと、驚くほど寒かった。『あの時と同じだ』亜美は何か起きる前兆を感じた。

「先生、妙に寒くありません?」

亜美は寒さの為、両肩を擦った。

「真夏だというのに冷蔵庫の中みたいに、異常に寒いな」

島田は、何度か息を吐いてみたが、決して、その息が白くなる事はなかった。寒さは室温によるものではなかった。何だか、嫌な予感がして来た。亜美は、上から冷気が降りて来ているのでは、と廊下の天井を見ていた。その時、廊下と階段の境目の天井に、何か、小さい白い紙が貼ってある事に初めて気が付いた。亜美は目を細め、その白い紙を凝視した。

「先生。あそこに何か紙みたいなのがありません?」

亜美は天井を見詰めたまま指を差した。

「え、どれ?」

島田は懸命に捜していた。天井の色が白くて、亜美の言う白い紙がなかなか見付からなかった。

「あ、あった!あれか!結構小さいな」

「よく見ると、なんか、文字みたいなのが見えません?」

「えっ?文字?ダメだ。僕には、そこまで分からないよ。そうだ!」

島田は、何を思い付いたか、急にしゃがむと四つん這いになった。

「今井君、僕の背中に乗って、見てみてよ」

亜美は一瞬、躊躇ったが、折角だから、とヒールを脱ぐと島田の背中に乗った。亜美の眼の前に、はっきりと白い紙が見えた。

「……先生……これ……これ、御札ですよ」

「え!御札!」

島田は驚いた声を出すと、亜美を背中に立たせたまま、突然、前へ移動した。

「あ、危ない!先生!」

亜美が声を上げると、島田は急に止まった。亜美は背中から飛び降りた。

「先生、怖いじゃないですか。やめて下さいよ」

亜美が少しムッとして言うと、島田も、

「僕も怖かったから……」

ボソッと呟いた。

「えっ?何が……ですか?」

「あ、い、いや、手が、手が滑りそうになって……それより、ど、どうして、こんな所に御札があるんだ?」

島田は気味悪そうに天井の御札を見ていた。

「まだ、あるかも……」

亜美は天井を見ながら歩き出した。島田は亜美の様子を、その場から見ていた。亜美がエレベーターの前まで行った時、

「あ、ここにもあった!先生、来て下さい!」

亜美に手招きされ、島田は嫌々ながら、亜美の元に向かった。

「ほら!あそこです!」

「た、確かに、あるな」

島田はチラッと見ただけだった。急に、亜美は考え込み始めた。そして、何か気付いたのか、おもむろに、奥に向かって走り出した。

「オ、オイ!今井君」

亜美のヒールの音が、段々と小さくなっていった。やがて、

「先生!島田先生!」

奥から、狭い廊下に亜美の声が反響して来た。島田は『よしっ!』自分に気合を入れると走り出した。霊安室を右に曲がり、鏡の前を通り過ぎると、亜美が、非常口の前で懐中電灯を天井に向けて立っていた。

「どうしたんだ、今井君」

島田は肩で息をしながら言うと、

「やっぱり、ここにもありましたよ」

亜美は、満足したように頷いていた。

「やっぱり、って……どういう事?」

島田には、亜美の言う意味が分からなかった。

「それより、先生。もう、そろそろ十一時です。鏡の前に行きましょう」

亜美は腕時計を見ると、鏡の前に行った。島田も覚悟を決めたのか、亜美の横に立った。

「今、ちょうど、十一時です」

二人に緊張が走った。暫く、息をのんで、鏡を見詰めていた。しかし、何の変化も見られなかった。

「何も起こらないなあ。やっぱり、何もないんだよ。さあ、帰ろう」

島田は、そう言って戻り始めた。亜美も、『やっぱりダメなのかなあ、何も、起きないな』と諦め掛けていた。しかし、最後に、もう一度、と鏡をチラッと振り向いた。

「ん?」

妙な違和感を感じた。『何だか、さっき見てたのとは違うような……』亜美は、鏡の前に戻り、もう一度、鏡に映っている物を確認し出した。

「どうしたんだ?今井君」

島田の呼び掛けも聞こえないのか、亜美は必死にキョロキョロと鏡の中を覗くように見ていた。そして、鏡の左上に眼がいった時、その違和感が何なのか分かった。

「……先生、先生!ここを、ここを見て下さい!」

亜美の声は驚きで震えていた。

「こ、今度は、何!何を見つけたの?」

島田は、恐る恐る鏡の前に立ち、亜美の鏡の中の指差す所を見た。

「なんだ。時計じゃないか。脅かさないでくれよ」

鏡には、文字盤の無い、長針と短針だけの時計が映っていた。島田はホッとすると、思わず笑みがこぼれた。

「先生!何、言ってるんですか!」

逆に、亜美の顔は引き攣っていた。

「この地下に、時計なんてありませんよ!」

「えっ?だ、だって、ここに映って……」

島田は一瞬、考え込んだ。『言われてみれば、この前、ここに来た時、時計なんか見た記憶がない……じゃあ、今見ている物は……』島田はハッとして、後ろの壁を振り向いた。思った通り、後ろの壁には、鏡に映っているような時計など何処にも無く、ただ、一本の古びた釘が壁から出ているだけだった。

「そ、そんな、バカな!」

島田は何度も鏡と後ろの壁を見比べていた。

「あ、霞んで来た!先生、ほら、段々と鏡に映った時計が霞んで来ました……あっ!き、消えた!」

亜美は、眼を丸くして鏡を見詰め固まった。時計が消え去った後の鏡には、一本の釘だけが映っていた。島田は、何だか身の危険を感じ始めた。

「今井君!ここから早く出よう!」

島田はそう言うと、固まっている亜美の手を取って、走り出した。『気を付けて!』突然、亜美の耳に、優しく、そして、確かに聞き覚えのある声が聞こえた。ハッとした。『ま、真美……?』亜美は思わず、立ち止まった。

「ど、どうした、今井君!早く、ここから」

島田は何度も亜美の手を引いたが、亜美は動かなかった。『早く逃げて!』もう一度、今度は、はっきりと亜美の耳に聞こえた。

「ま、真美?真美なの?どこにいるの!」

島田は、鏡の方へ行こうとする亜美を必死で押えた。

「何を言ってるんだ!林君は死んだんだ!君も通夜に行ったじゃないか!」

「で、でも、今、確かに、真美の声が……」

泣きそうな声で呟いた。

「オイッ!今井君!林君は」

その時、『ガチャガチャ……ガチャガチャ……』鏡横の扉からノブを回そうとする音が聞こえた。二人とも瞬時にして固まった。『あの時の……音だ!』島田の記憶が鮮明に蘇った。と同時に全身の毛穴が開いた。暗い中で、島田は、ゆっくりと後ろを振り向き、扉のノブに眼を凝らした。誰もいない筈の部屋のノブが微かに動いていた。亜美も、そのノブが動いているのを確認した。『真美は、私に気を付けろ、早く逃げろって言った……という事は、このノブを回そうとしているのは……一体、誰……なの?』全身に恐怖が襲って来た。

「せ、先生、逃げましょ!あれは、真美じゃない!」

今度は、亜美が島田の手を引いて走った。

島田は亜美に引っ張られながら、『もし、あの扉が開けば、一体、何が出て来るんだ?僕たちは……』恐ろしい想像が頭に浮かんで仕方が無かった。益々、島田の足は、もつれた。それでも、どうにか、霊安室の前を通り過ぎ、エレベーターの前まで来た時、急に亜美のスピードが落ちた。そして、立ち止まると突然ガクッと膝を床に着けた。

「どうしたんだ、今井君!」

島田は後ろが気になった。見えない何かが近寄ってくる気配がしていたからだ。

「か、体が……お、重いんです」

苦しそうに言うと、今度は手を床に着けた。

「い、今井君!今井君!」

後ろを気にしながらも、島田は亜美を立たせようと必死になった。

「わ、私、動けない……先生、先生だけでも逃げて……下さい。この地下を出れば……あの階段の所まで行けば……大丈夫……」

亜美は苦しそうに、そう言うと床にうつ伏した。瞬間的に気を失っていた。

「オ、オイ!今井君!」

島田はうろたえた。しかし、このまま、亜美を一人残して自分だけ逃げる訳には行かない。島田は亜美を抱きかかえようとした。

「お、重い!どういう事だ?」

直ぐに亜美が持ち上がらなかった。島田は後ろを気にしつつも、マジマジと亜美の全身に眼をやった。『小柄な今井君が、こんなに重い訳はない!』そう思いつつも、理由を考えている余裕は無かった。とにかく、ありったけの力を振り絞り、亜美を抱き上げた。その重さで足がふらついた。一瞬、エレベーターに眼が行ったが、エレベーターを待つ余裕もない気がした。自分の直ぐ背後に何かの気配を感じていたからだ。島田は、前方に見える階段を目指した。思うように進めない中で、気ばかりが急いていた。そんな状況の中、数歩、歩いた所で、島田は、眼の前の空気が妙に揺らめいているような気がした。『どうしたんだ?眼が霞んでいるのか?』そう思い、横の壁を見ると、横の壁ははっきりと見えた。『何故だ?何故、眼の前の空気だけが揺らめいているんだ?』不思議に思いながらも一歩ずつ歩いていると、ふと、自分の顔に、吐息のような物があたった。言い知れぬ恐怖に鳥肌が立った。『違う……今井君の上に……何かが乗っているんだ!』額から流れる、冷ややかな汗が亜美の上にポタポタと落ちた。それでも、島田は、亜美を抱きかかえ、前に進むしかなかった。極力、前を見ないよう眼を伏せ、着実に一歩ずつ足を出し続けた。わずか数メートルの距離が何百メートルの距離に感じていた。   

恐怖と戦いながら、ようやく階段の所まで来た。島田は渾身の力を振り絞り、一歩、階段に足をかけた。途端に、亜美の体が軽くなった。『どうして、急に軽くなったんだ?』島田はふと、亜美が気を失う時に言った言葉を思い出した。『そうか!今井君は確か、地下を出たら大丈夫、だと言ったな!という事は、もう!』島田は安心すると軽くなった亜美の身体をソッと階段に座らせた。島田も座り込むと、流れる汗を腕で拭きながら、亜美を心配した。直ぐに、亜美が呻き声を出した。

「オイ、今井君。大丈夫か?」

「ん?……あ、先生……」

亜美が眼を開けると、島田はホッと息をついた。

「よかったあ……助かったんですね。ありがとうございました」

亜美の意識は、まだ、朦朧としているようだった。島田は微笑むと何も言わず、ただ、頷いた。亜美の顔に笑顔が戻った。

「さあ、行こう」

島田が、そう言ってガクガクする足で立ち上がった時、亜美が眼を丸くして、何も言わず、震える指で霊安室の方を指差した。島田はドキッとした。『今井君は、一体、何を見ているんだ……』島田は、恐る恐る、ゆっくりと後ろを振り向いてみた。あまりの衝撃に声が出なかった。二人の眼には、霊安室の扉の前に佇む、人型をした白いモヤのような物が、はっきりと見えていた。しかし、それは、直ぐに消えた。

「い、急ごう!早くここから出よう!」

島田の緊迫した声に、亜美も黙って頷いた。島田は急いで、亜美に肩を貸すと、逃げるように階段を上がって行った。やがて、警備室が見えて来た。そこの警備員の姿を確認すると、本当に助かった気がした。

「あ、ご苦労さまでし……あれ?どうしたんですか?二人とも?」

さっきの警備員が不思議そうに顔を覗き込んで来た。

「えっ、な、何がですか?」

島田は素知らぬ振りをして答えた。とても、地下であった出来事を言う訳にはいかなかった。

「お二人とも、顔が蒼白ですよ」

亜美は、顔をサッと伏せた。

「え、あ、そうなんだ。気分が悪くなって、それで……」

島田は口ごもった。

「上で診て貰った方が良いですよ」

「あ、だ、大丈夫。もし、ダメだったら、明日、近くの病院で診て貰うから」

「えっ?」

警備員は思わず首を傾げた。

島田と亜美は足早に警備室の前を通り過ぎた。亜美に肩を貸したまま、島田は無言で駐車場に向かった。

「私、タクシーで帰りますから」

「ダメだよ。そんなふらつく足で危ないよ。送って行くよ」

そう言った島田の手も震えて、車のロックを解除するボタンが上手く押せなかった。やっとの思いでロックボタンを押し扉を開け、車に乗り込み発進させると、島田は冷静に、地下で見た物、聞いた物を整理し始めた。

「……先生。あれは、やはり、霊ですよね。もしかして、あれが、白い看護服姿の幽霊……じゃないですか?」

亜美がおもむろに口を開いた。島田も実際に自分の眼で見た以上、もう否定は出来なかった。

「た、たぶん……な」

島田は、対向車のライトで眩しそうに眼を細めた。

「そう言えば、今井君。どうして、あの時、地下を出れば大丈夫だと思ったの?」

島田は前を見詰めたまま尋ねた。

「御札ですよ」

「御札?」

「ええ。あの地下には、階段の手前、エレベーターの入口、そして、事実上意味の無い非常口の所の三箇所にしか御札が貼られていなかったんです」

「それが、どうかした?それだけで?」

島田には、まだ意味が分からなかった。

「良く考えてみて下さい。例えば、非常口はどうでもいいですけど、エレベーターと階段を塞がれたら、どう思います?」

亜美は、それとなく、島田に振った。

「え、どうって、そんな事されると地下から……えっ!」

島田は気付くと、急ブレーキを踏んだ。車はケタタマシイ音を立てて止まった。亜美は前のめりになった。

「せ、先生!危ない!」

「ご、ごめん。という事は、あの御札は?」

亜美は力強く頷いた。

「あの地下を封印する意味があったんですよ!ほら、村田さんの話を思い出して下さい。一番幽霊が目撃されたのは地下だと言ってたじゃないですか」

島田は亜美の説明に納得していた。

「それと、休憩室を三階に移してからは目撃されなくなったって。つまり、その時に地下に御札を貼り、封印したんですよ。だから、目撃されなくなったんですよ」

「閉じ込めたという事か!じゃあ、一体、誰があの御札を貼ったんだ?御札を貼ったのは、間違いなく人間の筈だ!」

路側帯に止めた車の中で、ハンドルに凭れ掛かった。

「伊藤院長じゃ……ないですか?」

島田は否定をしなかった。可能性は確かにあったからだ。

「院長だとすると、今井君は、あの幽霊は土田さんに間違いないと思っているんだな」

「ええ。確信はありませんが、そう考えると一番、理解し易いんです」

「でも、あの幽霊が土田だとして、どうして、何の関係もない人間が三人も死ぬんだ?そこは説明できないな」

島田は新たな壁に当たったような気がした。

「それなんですよ」

亜美は、既に何かに気付いたように島田を見詰めた。

「あの時に映った時計を思い出してみて下さい」

「あの時の時計?確か、文字盤には何も書かれていなかったような……」

島田は眼を閉じ、残像を思い出そうとしていたが、それ以上は無理だった。

「肝心なのは、時計の形状ではなく、あの時計が指していた時間なんですよ」

「時間?」

「そうです。確かに、あの時、あの鏡の中の時計は一時を指していたんですよ」

「え?だって、僕たちがあそこに行ったのは十一時だぞ。どうして、一時を指していたんだ?」

「それは分かりません。でも、谷口さん、山田さん、そして、真美。いずれも死亡時刻は午前一時前後。一本の線に繋がって来た気がしませんか?」

「なるほどな。確かに、繋がって来ているな」

島田は頷くと、右後方を確認し、ゆっくり車を発進させた。

「昔、あの釘には時計が掛けてあったんですよ。かつて、あの部屋を更衣室にしていた事を考えれば、不思議な事じゃありません」

亜美が付け足すと、島田は運転をしながら黙って何度も頷いていた。

「あと、一歩ですよ。あと、一歩で全てが分かる気がするんです。その為にも、やはり、あの手帳が見てみたいんです。きっと、あの手帳には院長との関係が書いてある筈ですから」

亜美は島田の横顔に訴え掛けた。

「そうだな。やっぱり、あの手帳がいるな。でも、もし、院長が関係しているなら、その手帳は処分されている可能性が高いな」

「やっぱり、そう……ですよね……」

残念そうに亜美は呟いた。島田も思わず溜息が漏れた。意気消沈した二人は、無言のまま、行き交う車も少なくなった深夜の道路をひたすら走っていた。


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[良い点]  舞台は病院、都市伝説的な噂を確かめに行き物語が始まる、これが読みたかったというホラーの王道展開で一気に物語に引き込まれます。  セットで提示される真相へのヒントと新たな謎が、読者を引っ張…
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