姉・ルイーズ
(……仕方ない、やるか)
ルイーズは僅かに嘆息し、心の中でそう呟く。
目の前には大量の書類の束。
これをファイリングするだけの簡単な仕事だが、急に頼まれたので残業は確実。
軽い既視感に襲われながら、彼女はデスクへ向かう。
明日はルイーズの誕生日だ。
そして今日は、弟であるフレッドの誕生日。
たまたま誕生日が一日違うというだけで、別に難しい関係ではない。3歳差の、ただの姉弟である。
いつもなら定時で上がり、小さいホールケーキとワインの小瓶を購入し、弟の好きなエビのフリットを大量に拵えて待っているところ。
そのために、昨日は新鮮なエビを沢山買って下拵えだけしていた。
両親は亡くなり、姉弟はふたりだけの家族。
貴族だった家はあれよあれよという間に叔父に乗っ取られたが、ルイーズは当時まだ15、フレッドは12になったばかり。見ているだけしかできなかった。
ただ年齢のこともあり、ふたりが成人するまではそのまま叔父夫妻の庇護の元で過ごしていくはずだった。
それを拒んだのは弟。
騎士になるという弟のために、貴族でなくなってもルイーズはなんとかコネをこねくり回して学園の雑務の仕事に就き、弟を学園の騎士科に通わせた。弟とは反りが合わない叔父も体面のためか、入学金と家だけは用意してくれた。
弟が拒否したので、その家には住んでおらず、学園に近いアパートメントに住んでいるが。
慣れない家事と仕事をこなしながらの、切り詰めた生活。それでも誕生日くらいは少し豪華に祝ってあげたくて、毎年弟の好きなエビを購入する。
港に近い王都では肉は高くて買えなかったものの、海産物は割と新鮮で安い。
当初は料理も下手だったルイーズだが、努力の末今は大分上手くなった。
(あれから11年か……)
もう立派な大人となり騎士になったフレッドは、給金のそれなりの額を生活費としてきちんと渡してくれている。
既に特別な日にはいい肉だって買えるが、毎年フレッドはエビのフリットをリクエストする。
だから毎年、いつもより少し豪華な夕食。
今年もそうなるはずだと勝手に思っていた。
──昨夜のこと。
「姉さん、明日は遅くなる。 友達が祝ってくれるって」
「──あら……そう?」
最近少し浮ついている感じのあるフレッドだ。『友達』とは言うけれど、恐らく恋人か、それに近い女性だろう。
ルイーズは内心少し狼狽えたのを隠して笑う。
「そうよね、もうそういう年齢よね。 やだわ私ったらいつまでも──」
「姉さんも誕生日、誘われたら俺のことなんて気にしないで」
「……そう? じゃあそうさせてもらう」
気付いたら、11年。
気付いたら、フレッドは23。
毎日が必死だったルイーズには、それを感じる余裕はなかったが……今、自分の部屋へと戻るフレッドの背中の広さを見てその年月を感じている。
フレッドは我が強いところはあるが、優しい弟だ。
学園時代、節約のために持たせた下手くそな弁当を残してくることはなく、毎日感想を述べてくれた。
そのおかげで頑張れたものの、今思えばきっとそのせいで昼食時は肩身の狭い思いをさせていただろう。
誕生日だって毎年帰ってきたけれど、今までも本当は友人達に誘われたこともあったに違いない。
エビのリクエストだって、もしかしたら節約をする姉への気遣いかもしれなかった。
(私ももう26か……)
気付いたら、嫁き遅れと言われても仕方ない年齢。
誘ってくれる人なんていないけれどそう言えなかったのは『弟が自分の恋人を紹介してくれないのは、そんな姉への配慮』と思ってしまったから。
保護者のような気でいたが、既にもうお荷物なのかもしれない。
(エビ……どうしようかな)
保存庫に入れていた下処理前のエビ。
フレッドが眠った後で、大量のエビの前で嘆息しつつ、結局は下処理をした。
そして今。目の前にはエビ……ではなく書類。既視感は確実に昨夜のエビ。
エビの下処理と同じように淡々と机に向かって書類をファイリングしていると、事務所の扉が開いた。
「ルイーズさん。 まだ帰らないんですか?」
「バークス卿?」
「ライナスで結構ですよ。 お姉さん」
ライナスはフレッドの同期生。
子爵家の子だった当時交流のあったバークス家の次男で、貴族籍を抜けてからも弟と仲良くしてくれている。
時折家にもお菓子を持ってやってくるほどで、当時はルイーズを『お姉さん』と呼んでいた。
だが、『可愛い弟分』というタイプではない。
「相変わらず地味ですね。 フレッドは金を入れないんですか?」
「ちゃんと入れてます!」
「ならもっと自分のことも構ったらいいのに。 ……綺麗なんだから」
年下のくせに生意気で歯に衣着せない物言いをするものの、合間に褒め言葉を挟んでくるので不愉快に感じたことは無い。
昔からライナスはこうしてルイーズに絡んでくる。
『お姉さん』と呼ぶのも含め、平民となった自分達に距離感を感じさせないように……という彼なりの優しさなのだろう。
だからといって名前で呼んだり口調を崩したりはしないが、ルイーズも甘えて気兼ねせず会話をさせて貰っている。
「ふふ、相変わらずですのね。 いいんです、私はコレで」
「アレだってそれなりに好きなことをしてますよ。 最近は色気づいて──」
「やっぱり恋人が?」
「ええ。 気になります?」
「……気になるといえば、まあ。 でも……それより、今日は学園担当でしたの? 今お茶を」
学園の騎士科には、臨時職員としてまだ若い騎士が教官として来ることがある。おそらくそれだろうとルイーズは思った。
ライナスにお茶を淹れようと立ち上がったルイーズだったが、
「──あら……」
「……っルイーズ!?」
立ちくらみを起こした彼女の視界は暗転した。
──エビの下拵えは割と面倒臭い。
頭と尻尾と足、そして全身の殻をパキパキと剥いたあと、背わたを綺麗にとって塩水で洗う。それの繰り返し。
ミソは別にボウルにあけ、殻は香味野菜と共に丁寧に炒め、魚の出汁とあけたエビミソを加えた後に生クリームでのばせばアメリケーヌ・ソースの完成。これはパスタソースとして使うつもりだった。
サラダはチキンサラダ。
サラダ用のチキンは胸肉を弱火で煮込んだ後で、ハーブオイルに漬け込む。
チキンの煮汁は野菜を入れて更に煮込み、スープにする。
(──はっ)
ルイーズが目を覚ますと、見慣れた天井。
自宅の古いアパートメントの入口から入ってすぐの壁際、無理矢理置いた長椅子の上。
両親との思い出から手放せなかった良質の長椅子も、既に古びて部屋との違和感はない。
狭いリビングダイニングに備え付けられた小さなキッチンから、ライナスが水を持ってきた。
「あ、気が付きましたか?」
「私……?」
「倒れたんです。 眠っておいででしたので、こちらに……先程までフレッドもいたのですが」
(フレッドったら……)
おそらく彼は着替えに戻っただけなのだろう。約束を優先させるのは構わないが、何故起こしてくれないのか。
いくら気のおけない友人とはいえ、倒れた姉の世話を押し付けるなんてどうかしている。
「バークス卿、ご迷惑をお掛けして申し訳ございません」
「顔色がまだ……寝ててください」
「大丈夫、ちょっと寝不足だっただけですから。 今、お茶を」
「ルイーズ!」
「!」
軽くだが、ルイーズは両肩を押さえ付けられて一瞬ビクリとする。それにハッとしたような表情をしたライナスは、すぐに身体を離した。
「……寝てて。 今飯作ってる」
バツの悪そうな顔でそう言い捨て、彼はキッチンへ戻っていく。
ルイーズはゆっくりと身体をソファに埋めた。
(子供のころみたい)
貴族とはいえ、特に裕福でもなかったこともあり、メイドは通い。メイドが来ない日など、母は時折台所に立っていた。
突発的に熱を出した夜も。
妙にセンチメンタルな気分になって、ふ、と口許だけで笑う。
(……変なの。 相手はバークス卿だし……『飯作ってる』だなんて言い方も)
不自然だろうがなんだろうが、夢は何故かいつもリアルだ。そういう意味で『夢でも見てるんじゃないか』と思ってしまうほど、妙ちきりんな現実。
「あなた……料理なんてできるの?」
なんだかもうどうでも良くなって、ルイーズは口調を崩してキッチンへ声を掛けた。
「野営と演習でやったぐらいには」
「期待できなそう」
「言ってろ。 ──起きれるか? もうできる」
「ん」
身体を起こして長椅子を降りる。
先程渡された水を置いたローテーブルの先、数歩進むとすぐに小さなダイニングテーブル。
柱を挟んだキッチン側の、いつもの自分の席越しからライナスが皿を並べているので、フレッドの席に座る。
「──」
置かれたのは昨夜煮込んだ鶏だしの野菜スープと、焼いただけのエビ。買い置きのパン。
「……ふっ! 料理って……焼いただけじゃない!!」
ルイーズは思わず吹き出した。
そして思いっきり笑った。
「美味そうだろ?」
笑われたのに何故か機嫌の良さそうな顔をして、ライナスはワインのボトルを開ける。
ルイーズが買ったのとは違う。もっといいワインだ。
「それは……?」
「誕生日に」
「主役はいないけど?」
「……今年は俺が代わり。 いいでしょ、お姉さん」
「こんな可愛くない弟いないわ」
「そこは我慢しろよ」
塩味だけのエビは、結構美味しかった。
冗談みたいな誕生会が終わり、帰る『偽の今日の主役』であるライナスを玄関まで送り出す。
「……今夜はありがとう。 多分──」
(馬鹿ね)
言いかけた言葉を自嘲と共に変えた。
「……多分、エビが無駄になってたわ」
「ははっ」
快活に笑うライナスの顔を、不躾な程見詰めてしまっていた自分に気付く。
羞恥に体温が上がっていくのを感じる。
『多分──ひとりだったら、すごく寂しかった』
そう口にしそうになっていたことが、酷く恥ずかしかった。
期待して、甘えてしまおうとした。
3つも年下の、弟の友達に。
「──お姉さん?」
顔を見れないし、見られたくない。
「……それじゃ」
小さくそう告げると、部屋に戻る素振りで身体ごと背ける。
「待って……ルイーズ!」
腕を掴まれて、名前を呼ばれて。
ルイーズの鼓動は大きく跳ねた。
「……」
「……」
強く掴んだのは一瞬だけですぐに緩めたライナスの手は、それでもルイーズの腕を離すことはない。
探るような間の後で、彼は尋ねた。
「……明日の予定は?」
「それは……弟として?」
拒まれていない──そう感じたライナスは、腕を引き寄せる。
半回転するかたちで、ルイーズは簡単にライナスの胸の中に捕縛された。
「不健全な弟でいいなら、それでも」
「……ふっ」
よくそんな巫山戯た科白が出てくるものだ……と思って、ルイーズは笑った。
ライナスの腕の中、聴こえてくる彼の心音が、尋常でなく速かったから。
笑いながら泣いていた。
そこには色々な気持ちが混在していたが、寂しさだけではない。
来年は、大量のエビを剥くことはないかもしれないな、なんて、どうでもいいことを思う。
頭を優しく撫でてくれるライナスの手は、温かかった。