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悪役、派遣します

 イーヴェ永世中立聖教国の中心地に建つ建物の一室で、通信の魔道具が高らかに鳴り響く。


「はい、こちら聖務局。異端審問官サティーンが承ります」


 【拒絶】の聖職者てんしクレイは読んでいた本をすかさず閉じ、間髪入れずに受話器を取った。


「蛮獣被害ですか。詳しくお聞かせいただけますか?」


 クレイのその言葉を聞くと、それまで床の上で片腕立て伏せにいそしんでいた少女が立ち上がって部屋の外へ出ていく。身なりを整えに行ったのだろう。異端審問官は常に二人一組で仕事に赴くが、クレイの相方は彼女……【腐敗】のヨナだ。


「なるほど、それは大変ですね。もちろんすぐにうかがいます」


 不可侵の聖域として扱われているイーヴェは、各国の聖教徒や王侯貴族に対しても絶対的な権限を持つ。救済を求める声があれば、国を問わず手を差し伸べるからだ。


「お任せください。聖務局は蛮獣討伐の専門家ですから、どうかご安心を。解決をお約束します」


 とはいえ、力がなければ何も守れない。クレイ達の在籍する聖務局は、聖教が保有する“力”の中でも武力を担う存在のための部署そしきのひとつだ。その組織では、所属する聖職者を異端審問官と呼んでいた。


「ヨナ、仕事の時間ですよ」

「承知した。場所は?」


 クレイが受話器を置く頃には、すでにヨナは出発の支度を終えていた。戻ってきた彼女は異端審問官のコートに袖を通している。その右肩には、彼女が“天使”であることを示す紋章があった。


「ガーロン帝国です。迅速な解決を望む、と」

「いつものことではないか。ちんたら当たっていい仕事があったか?」

「おっしゃる通り。それじゃあ早速出発しましょうか」



* * *



 ガーロン帝国の皇宮で催された舞踏会。本来なら華やかな社交場となるはずのそこは、寒風の吹きすさぶ修羅場と化していた。


「殿下、蠅がたかっておりましてよ」


 皇太子ウェルスに凍てついた眼差しを向けるのは、帝国の金薔薇と名高い公爵令嬢エネリーカだ。つり目がちの赤い瞳には凄みがにじんでいる。

 異名の由来ともなったあでやかな金の巻き毛は今日も輝かしい。エネリーカの美貌も相まって、修羅場の中央においても圧倒的な存在感を放っていた。


「やだ、エネリーカ様ったら。蠅なんてどこにもいませんよぉ? そういえば、何もないのに虫のようなものが見えてしまう眼病があるんですって。こわぁい。お医者様にいかれたらいかがですぅ?」


 エネリーカを見て能天気にくすくすと笑うのは、泥棒猫のベルだ。体型をすっぽり覆い隠す、フリルとレースとリボンがふんだんに使われた甘いドレスは、きっと彼女にしか着こなせないだろう。少なくともエネリーカには似合わない。

 近寄りがたささえ感じる高貴さを醸し出すエネリーカとは違い、ふわふわの桃色の髪と潤んだ大きなミントグリーンの瞳が愛らしさを感じさせる。質実剛健を体現するかのように鍛え上げられた体躯のウェルスと並ぶと、ベルの可憐さがより際立った。


 慎みもなくウェルスの腕に抱きつく彼女はさる男爵家の養女で、早くもウェルスの寵姫に目されていた。

 ウェルスはまだエネリーカと結婚すらしていないのに。婚礼は二年後、エネリーカが十八歳となって成人を迎えてからの予定だった。


 怒れる美の女神の化身と対峙してもなお膝をつかないのは愚鈍さか、あるいは傲慢さの表れか。身の程知らずの少女に対してウェルスが礼儀を説くことはない。それについてはエネリーカも諦めていた。

 それでも、婚約者のエスコートすら放棄して愛人にばかりかまけるのはいかがなものか。それを見かけるたびに苦言を呈するエネリーカだが、効果のほどは感じられなかった。


(けれど……彼女は一体、いつから殿下の傍に侍るようになったのかしら……?)


 昔から、ウェルスの傍にいるのはいつだってエネリーカだったはずなのに。


 いや、その“昔”というのは、いつごろまでのことだろう。いつからベルにウェルスの愛を奪われてしまったのか、よく思い出せない。


 そもそも……ベルなんて少女、最初からいただろうか。

 ……いいや。ある日突然男爵家の養女として現れたのだから、何もおかしいことはないはずだ。


(奪われた? いいえ、そんな風に思うだなんておかしいですわ。だってわたくし達の関係は政略的なもの。最初から、お互い愛してなどいないのですから)


 選ばれないことを苦々しく思っているわけではない。愛人にうつつを抜かすウェルスに呆れているだけだ。一本筋の通った、毅然とした人だと思っていたのに。


 けれど政務さえこなしてくれるのなら、寵姫でもなんでも据えればいい。女として選ばれることがなくたって、ウェルスへの信頼は揺らがない。たとえ夫婦の情がなかろうと、皇太子妃として、そして未来の皇妃として、彼のよきパートナーにはなれるのだから。


(そう……それでもいいのです。わたくしは、どんな形であっても……殿下のお傍……に……?)


 何か、おかしい気がする。何か、間違えてしまっているような。

 ああ、えっと、どうすればいいんだろう。この感情に折り合いをつけるためには、どうしたら。


 頭が痛い。こうしている間にも、ベルの甲高い声が響く。それが耳障りで耳障りで仕方がなかった。彼女の声を振り払うように、笑顔の仮面を深く被って口を開く。


「最近我が領では、画期的な殺虫の魔道具を開発いたしましたの。人体への影響を極力抑え、虫にのみ作用する特殊な魔道具ですわ。殿下もぜひお使いくださいませ。蛮獣にも効くように、改良を重ねる予定ですのよ」


 エネリーカの領地の特産品は良質な魔石だ。魔石は魔道具の核となり、魔術という素晴らしい技術を社会にもたらす。潤沢な魔石鉱山を有する貴族の娘であるエネリーカと皇太子ウェルスの婚約は、政治的にも重要だった。


「……断る。魔道具を献上するという名目で、暗殺のための罠を送り込まれてはたまらないからな」

「まあ! なんということをおっしゃいますの?」


 今日はウェルスの様子がいつもと違う。普段のウェルスなら面倒くさそうに生返事だけ返してエネリーカを追い払うのに、嫌悪を露わにしてエネリーカを睨みつけるなんて。

 とても淑女、それも婚約者への態度とは思えず、エネリーカはショックのあまりふらりとよろめいた。


「エネリーカ嬢!」


 けれど人の輪を縫って駆けつけてきてくれた青年が支えてくれる。遊学中の隣国ゼルトンの王子、カイラスだ。


 ウェルスと比べたいわけではないが、カイラスは────


 生真面目で器の大きな────違う。 

 頑固でがさつなウェルスと違って、


 軟派で浮ついていて────違う。 

 優しくチャーミングで、


 いやらしい目で────違う。 

 いつも温かい眼差しで見守ってくれる。


 ガーロンに負けず劣らずの大国出身の王族ながら偉ぶらず、紳士的な気遣いの人。それがカイラスだ。

 もしカイラスのような人が婚約者だったらと考えたことは何度もあった気がする。幼いころからウェルスとの結婚が決まっている以上、考えることすら無意味だと頭ではわかっていたからか、その記憶はおぼろげだが。


(そう。わたくしは、きっと昔から、本当はカイラス様のことが)


 カイラスの温もりが伝わってくる。安心したからか、頭痛も和らいだ。


(本当は、殿下との婚約なんて望んでいなかったのです。どうせ妃になるのであれば、カイラス様と添い遂げたかった)


 そうだ、それでいい。

 考えなしのウェルスに最後まで尽くそうだなんて、我ながらひどい間違いを犯すところだった。自己犠牲も、行き過ぎればただの愚行だ。


「カイラスもいることだし、ちょうどいい機会だ。エネリーカ、今一度我々の関係について話し合おうではないか」


 一体何を言い出すというのだろう。修羅場を取り巻く宮廷人達も固唾を飲んでなりゆきを見守っている。

 エネリーカは不安からカイラスにしがみついた。恐怖で足が震え、一人ではまだ立てないからだ。


「エネリーカ。不貞を繰り返すお前との婚約を、これ以上続けるつもりはない。婚約は破棄させてもらう」

「殿下……!? 一体何をおっしゃいますの?」

「わからないのか。伝統ある我が国の皇室に、他国の王家の血を不当に混ぜるわけにはいかないという話だ」


 ウェルスは意味ありげにカイラスを見た。カイラスはさっと顔を青ざめさせ、侮辱に対する謝罪を求める。しかしウェルスは応じなかった。

 

「我が名において宣言しよう。新たな婚約者は、我が最愛……このベルであることを!」


 ざわめきが大広間に広がっていく。ベルはウェルスから離れないまま、勝ち誇った顔でエネリーカを一瞥した。


 浮ついたことをめったに言わない不器用で堅物のウェルスが、よもやベルを最愛だと称するだなんて。


 これまで唯一その栄誉を受けていたのは────誰だったっけ?


「ごめんあそばせ? でもエネリーカ様なら大丈夫ですよねぇ? だってカイラス様がいらっしゃるんですから! お二人はとってもお似合いだと思いまぁす!」


 よもや令嬢にあるまじき醜聞をでっちあげられ、愛するカイラスまで巻き込んでしまうだなんて。この恋心は、誰にも知られないようにそっとしまい込んでいたというのに。

 足元がおぼつかない。視界がぐらぐらと揺れる。カイラスに抱きとめられていなかったら、このまま崩れ落ちていたところだ。


誰にも・・・……そう、誰にも・・・気づかれないように、わたくしだけの……大切な大切な、一番の秘密だから、今まで誰も・・、そのことを知らなかったのです。けれど、これほど大々的に暴かれてしまっては……)


 もはやなかったことにはできない。事態の収束をはかるには、一体どうしたらいいのだろうか。


「ウェルス皇子。このような場で罪のないご令嬢を貶め、私と私の国を侮辱したことについて、納得のいく釈明はしていただけるのかな?」

「事実だろう。それについては自分達が一番知っているはずだが? 認めないというなら、せめてその手を放してからにしたらどうだ」

「あいにくだが、私は君と違ってか弱いご令嬢を突き放せるような冷血漢ではないんだ」


 二人の貴公子の間で火花が散る。慌てたのは皇帝夫妻と重臣達だ。次代の君主同士のいさかいが原因で、ガーロンとゼルトンの関係が悪化したらたまらない。だが、事態はすでに多くの者の目に触れてしまっていた。


「お、おやめになってくださいまし! きっと何か大きな誤解があるのです。わたくしとカイラス王子が密通していたなど、事実無根の話ですわ。真相がきちんと解明されるまで、わたくしは修道院に向かいます」

「エネリーカ嬢、それはあまりに……」


 せめて取りなそうと声を上げると、カイラスが食い下がった。気まずい空気の中で、進み出てきた顔色の悪い眼鏡の少年がカイラスに何か耳打ちした。カイラスは渋々押し黙る。

 どうやらこの少年はカイラスの従者のようだ。いつからいたかは定かではない。少し前・・・には、いなかったような。


「この期に及んでわがままを言うつもりですかぁ? せっかくウェルスが穏便に済ませてあげようとしたのにぃ」

「穏便ですって……?」


 ベルは頬を膨らませて不満を露わにする。幼子おさなごのようなしぐさだが、不思議と彼女によく似合っていた。


 一瞬だけ、ベルはエネリーカから視線をわずかにそらした。思わずエネリーカがその目を追うと、カイラスの従者がいる。何故彼を見たのだろう。それとも、エネリーカの勘違いなのだろうか。


「だってそうでしょ? カイラス様にくっついてさっさとこの国から出ていけばいいのに、修道院に行くなんて言って時間稼ぎするなんて。せっかくウェルスは貴方のことを考えて、はっきり国外追放を言い渡さな……きゃあっ!?」


 突然ベルは悲鳴を上げる。成り行きを見守っていた者達からも叫び声が上がった。


 エネリーカは困惑しながら周囲を見る。そして気づいた。自分の背後に、黒い影のような怪物が佇んでいることに。


「なんだあれは!?」

「蛮獣のたぐいか!? どこから入ってきた!?」


 蛮獣。それは人間に害をなす恐ろしい生き物だ。人の生活圏に現れては、人々の心を蝕み生命までもおびやかす。

 すべての蛮獣は虚無から生まれ、いつの間にか人間の領域に忍び込んでいるそうだ。特に大陸北方に広がる暗黒地帯には、蛮獣が所狭しとひしめいているらしい。かの宗教大国イーヴェが擁する神聖騎士達は、たびたび暗黒地帯に遠征に行っているとか。


 怪物は羽音のような唸り声を響かせながらベルとウェルスを襲う。エネリーカはあまりのことに動揺してしまい、声すら出せず目を見開いた。

 ベルは咄嗟にウェルスの前に立った。すると、恐ろしい怪物はたちどころに消えてしまった。


 怪物の痕跡はもはやどこにも残っていない。招待客達は安堵のため息をつく。追い風を得たとばかりに、ウェルスは朗々と声を張り上げた。


「皆の者! 今の奇跡を見たな? エネリーカは蛮獣と繋がっていて、私達を襲おうとした! しかしベルがその脅威を退けたのだ! エネリーカとベル、どちらに信を置くべきか、これで理解していただけたのではないだろうか?」

「そんな……わたくしは何も知りません! 蛮獣を使役するだなんて、そんな恐ろしいこと、わたくしには……!」

「黙れ、この妖女めが! まさかカイラスとの密通も、蛮獣をけしかけてゼルトンとともにこの国を侵略するためだったのか? お前のような薄汚い売国奴と結婚するなんて、いっときでも考えていたと思うと虫唾が走る!」


 エネリーカの必死の訴えは届かない。向けられる眼差しは困惑から非難のものへと変わっていった。たちまちエネリーカは取り押さえられ、弁明もむなしく投獄されてしまった。


* * *


「大丈夫かい、エネリーカ嬢!」

「カイラス様……?」


 泣き暮れていたエネリーカは、カイラスに呼びかけられて目元をぬぐった。鉄格子の向こうで、心配そうなカイラスがエネリーカを見下ろしている。異国の貴人だからか、投獄は免れたようだ。


「どうやらガーロンでは途方もない陰謀が渦巻いているようだね。きっと君はその生贄にされてしまったんだ。黒幕にとっては、皇太子の婚約者でもある聡明な君が一番の障害だったんだろう」

「わたくしは、カイラス様に不貞の濡れ衣を着せてゼルトン王国にも迷惑をかけてしまいました。それなのに、わたくしの無実を信じてくださるというのですか?」

「もちろんさ。……こんな時に言うべきではないかもしれないが、私はずっと君を愛していた。ウェルス皇子があのどこの馬の骨とも知れない女に入れ込んで、君を手放すという愚行を犯した今、もはやこの想いを止めるものはない」


 膝をついたカイラスは鉄格子の中に手を伸ばし、エネリーカの手を取った。エネリーカを情熱的に見つめ、カイラスは真摯に訴えた。


「エネリーカ嬢。たとえ世界のすべてが君の敵になったとしても、私だけは君を信じて守り抜こう。だからどうか、君も私を信じてくれないか」

「嬉しいですわ、カイラス様……! わ、わたくしも、ずっと貴方様をお慕いしておりましたの……!」


 エネリーカはやっと笑みを浮かべることができた。あふれて止まらないのは、歓喜の涙に違いない。


*


「まさかうまくいくとはね。君を召し抱えて正解だったよ、サティ」

「……」


 王太子たる自分が声をかけてやったのに、陰鬱な従者は無表情のまま小さく頭を下げるだけだった。彼の地味な黒い髪と淀んだ紫の目はいつ見ても不気味だ。せめて愛想のひとつでもよくすればいいのに。


 痩せた身体に青白い顔、そしてくっきりとしたクマ。物語に出てくる悪役のような風采の少年など、本来ならカイラスの傍に控えさせるのもおぞましい。

 だが、あまりに熱心に自らを売り込むものだから、つい気まぐれで登用してみたのだ。「私達・・なら殿下の望みを叶えてさしあげられます」と豪語した少年は、みごとにその言葉を現実のものにしてみせた。


 得体の知れないこの少年を引き立てたのはつい最近だが、この世界・・・・はカイラスを中心にして回っている。サティを疑う余地はなかった。何も問題はない。


「修道院に行くなんて言いだした時はどうしようかと思ったけど……エネリーカにはもう、私しか縋れる者がいないんだ。あの忌々しいウェルスにも、やっと見切りをつけてくれた。これで彼女と結婚できる!」

「……それでも貴方は、満足されないのですね」

「ん? ああ、そうだな。どうせなら、すべてを奪われて悔しがるウェルスの顔も見ておきたい。エネリーカと婚約するなんて幸運に見舞われておきながら彼女を袖にするなんて、自分がどれだけ愚かなことをしたのかしっかりわからせてやりたいんだよ。エネリーカが心身ともに私のものになったところを見せつけるのはもちろん、愚かさの代償を支払わせないとね」


 整った顔が醜悪に歪む。勝利の余韻に浸るだけでなく、すでに次の目標を定めた向上心あふれるカイラスを、サティは冷徹な目で見つめていた。


*


 カイラスが手を尽くしてくれたおかげで、エネリーカはすぐに釈放された。これからカイラスと共にゼルトンへ渡る予定だ。


「ばいばい、エネリーカ様。ゼルトンに行ってもお元気でぇ!」


 見送りの名目で、ベルとウェルスが城門の前に立っていた。


 どうして自分達は皇宮にいるのか。どうしてこの二人がわざわざ見送りに来たのか。どうして他国の王族かつ当事者の一人であるカイラスが、エネリーカを釈放させられたのか。


 都合のいい舞台に対する疑問がふつふつと湧き上がる。だが、エネリーカの一番の疑問はもっと身近な、わかりやすいものにあった。


「あの……今、蠅が……」

「くどい。この期に及んでベルを嘲弄するのか?」

「い、いえ。本当に、蠅が、そこから」


 ウェルスに睨まれるのも構わず、エネリーカはベルを見つめていた────ベルが話すたびに、蠅がその口の中から飛び立っているからだ。


 息を吐くように、自然に。えずいた様子すらもないからか、当人は気づいていないようだったが。


 エネリーカの指摘に気づき、ようやくベルは慌てたように口元を手で押さえる。だが、今度は手の甲や頬、そして胸元など、肌が露出している部分から続々と湧いてきた。

 しかし彼女の白い肌には傷ひとつなく、内側から食い破られているようには見えない。まるで身体から直接蠅が分泌されているかのようだった。


「やっ……ちょっとぉ! なんでこんな時に!?」

「べ、ベル? どうしたんだ、その蠅は」


 焦るベル、困惑するウェルス。そして、蠅の群れのおぞましさに直視が難しくなったエネリーカ。カイラスだけが、口元に暗い愉悦を浮かべている。


 ベルから産み落とされた蠅は群れとなり、やがて巨大な姿を形作る。

 それはつい最近、ベルとウェルスを襲った蛮獣だった。あの羽音のような唸り声は、蠅達の羽音そのものだったのだ。


「なんということだ……これでは、まるでお前が……あの蛮獣……」


 ウェルスが呆然と呟いた。それに弁明もできないまま、ベルはその場に崩れ落ちる。少女の体躯から、蠅の蛮獣へと意識の主体が切り替わったのだろうか。


「はははっ! なるほど、すべてはあの女の自作自演だったのか! 我欲のためにエネリーカを追放して、ゼルトンにまで罪を着せるとは!」


 カイラスまでもが姿を変えていく。ぶちぶちと皮を破り捨て、その内側から巨大な何かが出てくる。

 カイラスだったはずのもの。それは、二足歩行の筋肉質な山羊だった。けれど山羊にあんな鋭い牙はない。


「カ、カイラス様……?」


 呼びかけても返事はなかった。地獄の底から響くような、冒涜的な鳴き声があるだけだ。けれど何故かエネリーカの耳には、それが意味のある言葉として聞こえてしまった。


「その売女には感謝しないとね。ガーロンに攻め入る正当な理由を作ってくれたんだから。だってそうだろう? ただでさえゼルトンの次期王妃を冤罪で責め立てた国なのに、あまつさえ蛮獣が国母として君臨しようとしてるなんてこと、許していいはずがない!」


 冒涜的な山羊は、その巨体でもってウェルスを掴み上げるとあっさり握りつぶした。無意識のうちにエネリーカは絶叫する。だが、それでもカイラスは止まらない。


「正義の執行者として、見る目のない馬鹿と邪悪な淫売と、それから哀れな帝国の民に裁きをくれてやろう! あはははは!」


 その時、糸が切れた人形も同然だったベルが立ち上がった。


「ようやく馬脚をあらわしたか、けだものめが!」


 ベルは口調をそれまでと一変させて獰猛に笑う。そんなベルめがけて、無数の赤黒い光線が放たれた。カイラスの仕業だ。

 まるで目障りな虫を潰すかのような気安さで腕を振っただけなのに、放たれた禍々しい光線は永続的に軌道を描きながら執拗な破壊を繰り返そうとしている。ベルに対してだけではない。その蹂躙は、ガーロン帝国全土に向けられていた。


「愛しているよ、エネリーカ! これで君もガーロン帝国も、私のものだ! 手始めに、君を貶めたものすべてを殺しつくそう!」


「……やめてくださいまし」


 自然と涙が頬を伝う。わけもわからないまま、エネリーカは茫然と呟いた。


「そのようなこと……わたくしは、望んでなどおりません……! 国を、民を苦しめるのは、おやめください……!」


「どうしてだ、エネリーカ。こんなに愛しているのに、何故君はわかってくれないんだい?」


 ふと、エネリーカは光線を見つめた。

 光線は永続的に放たれ、すべてを焼き尽くそうとしている。……けれど、衝撃波すら来ないのはおかしいのではないだろうか。


何度繰り返しても・・・・・・・・、君は折れてくれなかった。やっとうまくいったと思ったのに……これでもまだ、足りないと?」


「なるほど、さすがの破壊力です。これだけ頑強な夢幻牢獄を構築できるだけのことはあるようですね。……ですが、貴方の攻撃はどこにも届きませんよ」

「その通り。もっと広い視野を持ったらどうだ? 一方通行の欲望しか持たない貴様には、少々難しいかもしれんがな」


 先ほどの光線は、ベルを傷つけていなかった。ベルに向かって放たれ続けたはずのそれは進路を大きく変え、カイラスへと集中する。

 ベルへのものだけではない。きっと国中に向けられた光線も、何者かによって横槍が加えられたのだろう。その証拠に、幾重にも束ねられた光線が逆流してカイラスを穿っていった。さすがの怪物も爆発的なその威力には耐えきれなかったのか、牙の生えた大きな口から苦痛の叫びがほとばしる。


「失礼、エネリーカ様。すべての衝撃は【拒絶】……僕の魔術で跳ね返していますが、万が一にも巻き込まれると危険です。こちらへどうぞ」

「あ、貴方は……」


 物陰からぬっと現れたのは、カイラスの新しい従者だった。

 戸惑うものの、言われるがままに背に庇われる。少年は手を前方にかざし、ベルに声をかけた。


「お待たせしました、ヨナ。こちらは準備完了ですからいつでもどうぞ」

「承知した。では、断罪の時間だ。異端審問官ベルフェ・・・・が、主の御名において獣に裁きを与えよう」



「エネリーカ様も、突然のことでさぞ驚かれているでしょう。ですがどうかご安心を。僕もベルも、貴方の味方ですから。……あの蠅の群れは、質量を伴ったベルの魔力そのものです。触れたものを腐らせて食い漁る危険な魔術ですが、エネリーカ様に害が及ぶことは絶対にありません」



「よもや惚れた女だけでなく、国土までも欲するとはな。強欲にもほどがあるぞ。しかしあいにく、貴様にそれらを手にする権利はない」


 ベルはカイラスを見上げる。まるでダンスに誘うかのように、ベルは優雅なしぐさで虚空に手を差し伸ばした。


「くだらんごっこ遊びはこれでしまいだ──神に祈って悔い改めろ、そして速やかに滅ぶがいい」


 上空に控えていた蠅の群れが、一斉にカイラスへと襲い掛かった。


 たったそれだけで、カイラスはグズグズと崩れていく。かつてカイラスだった腐肉の欠片が、ぼとぼとと零れ落ちてきた。汚泥があふれて波打っている。だが、少年とエネリーカの元には届かない。不自然に跳ね返っていくからだ。


「蛮獣の消滅を確認。庇護対象も無事に保護しましたし、完璧ですね。お疲れ様です」

「我々が出動したのだ、当然の結果だろう」


 ぱりん、ぱりんと音が響く。まるで何かが割れるような音だ。不安に思ったエネリーカが周囲を見渡すと、なんと世界にひびが入っていた。けれどベルも少年も、まったく気にしていない。


「エネリーカと言ったか? 貴女も災難だったな。ここでのことは綺麗さっぱり忘れられるから、安心して日常に帰るといい。……忘れるとはいえ、これまでのわたしの非礼は詫びておこう」


* * *


「エネリーカ!」

「で……殿下……? どうしてこちらに?」


 エネリーカが目を開けると、まっさきにウェルスの顔が目に入った。


 普段の凛然たる面持ちは見る影もなく、ウェルスは泣きそうな顔でエネリーカに抱きついて何度も名前を呼んだ。いや、実際泣いていたのだろう。目は真っ赤で、鼻声だ。

 ウェルスのほかにも、エネリーカの両親と……祭服姿の少年と少女がいる。どうやら聖職者のようだ。


「よかった……無事に目覚めたんだな……! エネリーカ、お前の魂を取り戻せて本当によかった……!」


 エネリーカは自室の寝台に寝かされていた。ウェルスの言葉に、両親も涙ぐみながら同意する。何の話だろうか。


「もう、殿下ったら。一体どうなさったのです? ガーロンの皇族たる者は常に不動の心であらねばならないと、常々おっしゃってらっしゃるのに」

「己の未熟さは私が一番わかっているとも。しかしその信条よりも、お前を失ってしまう恐怖が勝ったんだ。……どうか情けない男と笑ってくれ、我が最愛のエネリーカ。お前に支えてもらわなければ、私は私でいられない」


 不器用なウェルスが、唯一愛を告げる相手。それは婚約者たるエネリーカだ。さすがに両親の前で最愛と呼ばれるのは気恥ずかしいが、悪い気はしない。


「ご安心くださいませ。わたくしはいつでも殿下のお傍におりますわ。ねえ、お父様、お母様? 皆様、一体どうなさったの?」


「エネリーカ様。こちらにいらっしゃる三人の方々をご存知ですね? ご存知であれば、貴方にとってどのような方々であるかもお聞かせ願いたく」


 おいおいと泣くばかりで話にならないウェルス達をよそに、少年のほうの聖職者が敬礼してから口を開いた。顔色が悪く、目の下に濃いクマが浮かんでいる。


「え、ええ。父と母、そしてウェルス皇太子殿下です。父母のことは尊敬していますし、殿下のことは誰よりお慕い申し上げておりますわ」

「なるほど。それならば、こちらの少女はおわかりになりますか?」


 少女のほうの聖職者もきびきびと敬礼した。柔らかい桃色の髪と大きなミントグリーンの瞳はどことなく幼い印象を与えたが、よく見ればエネリーカと同い年ぐらいかもしれない。


「ええと……申し訳ございませんが、その方とお会いするのは今日が初めてではございませんこと?」

「おっしゃる通りです。では、目覚めたばかりで混乱されていると思いますので、簡潔に説明させていただきますね」


 少年はうやうやしく名刺を取り出す。少女は直立不動の体勢で、聖職者というよりまるで軍人のようだ。


「ウェルス皇太子の要請によりイーヴェ永世中立聖教国が聖務局からまいりました、異端審問官のクレイ・サティーンと申します。こちらは同僚のヨナ・ベルフェ」

「異端審問官様……?」


 イーヴェ永世中立聖教国は大陸全土で信仰される聖教の総本山で、各国の聖教徒や王侯貴族に対しても絶対的な権限を持っていた。そのため、こと国教や蛮獣にかかわる案件であれば国を問わず介入できる。

 一口に聖職者と言っても、人々の暮らしに寄り添って悩みを解決する者もいれば、人の世をおびやかす忌まわしい蛮獣達と戦う者もいた。クレイ達は後者なのだろう。異端審問官といえば、人の生活圏に紛れ込んだ蛮獣の討伐を専門的に行う者達のことだからだ。

 とはいえ、実際に異端審問官を目にしたのは初めてだった。エネリーカもあまり詳しくはない。


「エネリーカ様は三日前、蛮獣に襲われたことで昏睡状態となってしまわれました。そこで我々が派遣され、元凶の蛮獣を取り除いたのです」

「眠る前と起きた後で、何か身体に変わりはないか? 記憶に違和感は?」


 ヨナの問いに、エネリーカは首をかしげながらも問題ないと告げる。自分ではよくわからなかった。治療用の魔道具に繋がれていたおかげか、空腹感や倦怠感なども感じない。


「それならばいい。では、我々の仕事もこれで終いだな」

「ガーロン帝国に神の祝福があらんことを。どうか末永くお幸せに」


 聖職者達は一礼して去っていく。愛する家族と婚約者だけになった部屋で、エネリーカ達は存分に絆を確かめ合った。


*


 皇太子の執務室には、部屋の主たるウェルス、そしてクレイとヨナしかいない。不用心さに呆れるが、これもイーヴェ永世中立聖教国に対する信用の証と取るべきだろう。

 それに、今回のケースはガーロン帝国とゼルトン王国、両国の外交に影響を及ぼしかねない国家機密だ。関係者は少ないほうがいい。


「では、ウェルス皇太子。改めまして、こちらが請求書……もとい、寄付のお願いになります」


 クレイが差し出した書類を、ウェルスは一瞥してからサインする。今回の依頼人は、皇帝の名代である彼だ。わざわざ官僚を間に挟み、あれこれと決裁を先延ばしにされたくはない。省ける手間は省くべきだ。


「お前達のおかげでエネリーカは目覚め、ゼルトンとの関係も悪化しなかった。礼を言おう、異端審問官。蛮獣は人の心に巣食うと聞いていたが、まさかあのようなことになるとはな……」


 ウェルスはため息をつきながら書類を返した。金払いのいい依頼人は好きだ。


「安心するといい。ゼルトンの王子が有していた二心は、それを食らおうとしていた蛮獣ごと我々が取り除いたからな。もう同じ間違いを犯すことはないだろう。そのうえで、今後の付き合いをどうするかは貴殿ら次第だ」

「エネリーカが獣欲にさらされず、我が国がおびやかされることもないのならそれで十分だ。わざわざ同じ人間同士で争って、これ以上事を荒立てるような真似はしない。いたずらに平和を乱し、民を苦しめるつもりはないからな。両国の重鎮には私から取りなしておく」

「うむ、賢明な判断だ」


 迎賓館で軟禁されているカイラスも、事の次第は覚えていない。自分が今軟禁状態にあることすら認識していないだろう。

 蛮獣から解放された今、彼にはもうエネリーカへの歪んだ恋心も、広大な帝国領土への野心も残っていない。一度助けた元宿主が再度蛮獣に取り憑かれる可能性を減らすため、餌にされた心を極限まで吐き出させてからまとめて除去するのが異端審問官のやり方だからだ。


「それにしても、要請から到着まで含めてわずか二時間で問題を解決してしまうとはな」

「貴方の迅速な根回しのおかげですよ。一国の皇太子の婚約者たる公爵令嬢が他国の王子に害されたなど、関係各所も中々認めないでしょうに」


 突然意識を失って目覚めなくなったエネリーカの救護と原因の特定に二日、聖務局への救援要請の決断までに半日。

 ウェルスの強行もあったおかげで、事態発覚から出動までが非常にスムーズだった。聖務局からは最寄りの教会まで転移の魔道具を使って一瞬で駆けつけられるから、通報が早いほど討伐に集中できる。


「だが、事態を解決に導いたのはお前達の手腕あってのものだ。さすがは最上位の異端審問官、“天使”と言ったところか。……とはいえ、我が国の蛮獣対策の甘さも浮き彫りになった。後学のために、どういう風に対処したのか聞いてもいいだろうか?」


 「対策自体は十分でしたよ。ただ、今回は相手が悪かっただけです」とウェルスに対してフォローしてから、クレイは説明を始めた。


「ウェルス皇太子もご存知の通り、人に取り憑いた蛮獣は宿主の欲望を糧にします。そして夢幻牢獄……宿主の理想を叶えられる精神的な空間を構築して宿主の魂を捕らえ、望みを満たすのに必要であれば他人の魂までそこに監禁してしまうんです」


 ひとくちに欲望と言っても、その種類は多岐に渡る。共通するのは、強い願いを持った者ほど蛮獣に目をつけられやすいということだけだ。カイラスの場合は、エネリーカと権力に対する執着と言い換えてもいいだろう。


「例えば今回のケースで言うと、蛮獣が夢幻牢獄内に配置した空虚な人形ではカイラス王子が納得せず、蛮獣が望むだけの欲望よろこびを得るに至らなかったので、本物のエネリーカ様の魂が狙われたんでしょう」


 宿主以外の人間が被害に遭うケースも、ないわけではない。

 血の通った人間という、偽りの楽園に足りない要素を補うために、第三者が巻き込まれるのだ。


「人の心に際限はありません。それでも大抵は、一瞬だけであっても“満たされた”と思う瞬間があるんです。それを感じてから虚しさに襲われ、次のもっと大きな望みを持つ……というのが宿主の基本的な行動パターンですね。夢幻牢獄が存在し続ける限り、蛮獣は継続的な糧を得たうえに、強い感情から来る願いというご馳走にありつけます。ですから、蛮獣は夢幻牢獄の維持のためなら労力を惜しみません」


 クレイはウェルスに両手を見せる。握った左手と、それを覆うように開いた右手。ウェルスはクレイの手をまじまじと見た。


「夢幻牢獄が構築されてしまった時点で、宿主と蛮獣のつながりは密接なものになります。蛮獣は宿主の魂を隠れ蓑にしますから、うかつに蛮獣を狩れば宿主にも害が及んでしまうんです」


 夢幻牢獄は宿主の精神を主軸にして成り立っている。宿主ごと狩って世界が崩壊してしまえば、その中に閉じ込められた被害者もただでは済まない。


「そこで、蛮獣と宿主の立場を逆転させるんです。蛮獣を表層に引きずり出す、と言ってもいいでしょう。宿主が望みを叶え、蛮獣が腹を満たそうとしたその瞬間が、絶好のチャンスです。蛮獣は食事の時に、必ず表に現れますからね。精神世界の中で、という意味ですが」


 右手を動かして左手を包み込もうとする。けれどその前にクレイは左手を開き、右手を軽くはたいた。ヨナも説明に加わる。


「その最大の隙に、魔術兵装で強烈な一撃を叩き込むわけだ。わたし達は天使だから、自分の魔術をぶつけるが」

「異端審問官が夢幻結界に紛れ込み、欲望の成就をコントロールする。我々聖務局では、これを懐柔戦術マッチポンプと呼んでいます。これが、異端審問官による蛮獣討伐の基本の流れです。……もちろん人的被害さえなければ、直接武力行使してもいいのですが。暗黒地帯に遠征する神聖騎士達はそうやっていますし」

「だが、これを聞いたからと言って我々の真似をしようなどとは思うなよ? イーヴェの聖職者が使うような魔術兵装は、特別な訓練を積んだ者でなければ扱えんからな。そもそも、素人が蛮獣に気づかれないように夢幻牢獄に入ること自体がまず不可能だ」


 蛮獣には魔術による攻撃しか通用しない。しかし本来、魔術というものは人の身だけでは扱えない。魔術を行使するには魔石が必要だ。人間には、魔力を生成するための器官などないのだから。


 だから、蛮獣討伐には魔石を搭載した魔術兵装が欠かせない。

 けれど赤子のうちから人体に魔石を埋め込んで体内に疑似的な魔力回路を構築すれば、肉体そのものが魔石となって固有の魔術を獲得できる。不可能が可能になり、魔石を核とした武装に頼らずとも蛮獣を倒すことができるのだ。適合がうまくいけば、の話だが。


 そして生まれるのが、通常の聖職者とは一線を画す存在……対蛮獣用魔術的特殊戦略兵器、通称天使だ。体内に埋め込まれた魔石によって、クレイはあらゆるものを弾き返す【拒絶】の魔術を、ヨナはあらゆるものを分解する【腐敗】の魔術を手に入れていた。


 神の寵愛を受けた一握りの高位聖職者のみが天使になれる、と対外的には謳われてはいるものの、その実態は技術の粋を結集して造られたキメラに過ぎなかった。

 無事に魔石と適合できたって、獲得した魔術が使い物にならないのであれば聖職者にすらなれないし、なったところでいつ蛮獣に殺されるかわからない。

 普通の人間として、普通の人間と一緒に暮らすことすら難しいだろう。天使として列されれば、ただの人間と同じ時間を過ごすことはできなくなる。肉体的な衰えは任務の遂行に支障をきたすとして、魔力がもっとも成長した瞬間で加齢を止められるように身体を改造いじられているからだ。


 魔石が砕け散る時まで最大の出力をもって戦い続ける不老の怪物、それが天使だ。

 とはいえクレイもヨナも、天使以外の生き方がわからなかった。物心ついた時にはもうその運命が決められていたからだ。だから、その未来を受け入れている。むしろ、いつ死ぬかわからない身だからこそ、限界を迎える時までめいっぱい好きなことをしようと前向きなくらいだ。


「そうか……。残念だが仕方ない。これからも、討伐のほうは専門家に任せるとしよう」

「とはいえ、実践可能な蛮獣の侵入防止と襲撃防止につきましてはいつでもご教授できますので。これを機に、今一度教会へ蛮獣対策のご相談をなさってはいかがでしょう。本来なら聖務局は、呼ばれないことが一番ですからね」


 教会は信徒の祈りや告解の場であると同時に、対蛮獣のための啓蒙活動も行っている。別部署の売り込みも忘れないのがクレイの流儀だ。イーヴェ永世中立聖教国は、善意の寄付で成り立っているのだから。


「それでは、我々はこの辺りで失礼いたします。……神のしもべは常に善良な人間の味方です。万が一また何かございましたら、速やかに聖務局までご連絡ください」


 ヨナを伴って皇城を出る。帝国での仕事は無事に終わった。あとは帰還を果たすだけだ。


「今回も楽な仕事だったな。わたしベルを前にしてもなおあの令嬢が屈しなかったのには驚いたが、貴君が事前に複数の脚本を用意してくれたおかげで助かった」

「ちょっとやりすぎた気がしないでもないですが、カイラス王子に気持ちよくヒーローになってもらうためには、エネリーカ様には存分に悲劇のヒロインになっていただかないといけませんからね。蠅の悪魔はインパクトがありますから、大罪の濡れ衣を着せるには最適です」


 クレイ達が到着するまで、エネリーカを手に入れるべくカイラスは様々な手段を講じたはずだ。

 夢幻牢獄に取り込んだ人間の洗脳などたやすい。婚約者ウェルスに対しては嫌悪や無関心さを、そしてカイラスに対しては好意を。だが、植えつけられたその感情を、エネリーカは強い意思でもって拒み続けた。


「それにしても……たとえ精神操作されていても、あそこまで追い詰められなければ折れなかったエネリーカ様の愛の強さには感服しました。美しい絆ですね」

「うむ。人間の感情というのは実に興味深いな」


 カイラス以外にエネリーカを愛し慈しむ者は必要ない。だからあの偽りの世界には、エネリーカの両親も、友人達もいなかった。

 きっと最初はウェルスもいなかったのだろう。しかしそんな世界であってまで、彼女はウェルスへの想いを忘れられなかったに違いない。

 強い想いは魂に結びつく。存在しない者に対する想いを消し去ることができず、渋々カイラスは幻想のウェルスを造ったのだろう。ウェルスに幻滅させて、エネリーカ自身の手で想いを葬ってもらうために。


 だからクレイ達は、そのためのお膳立てをしたのだ。


 クレイがカイラスに取り入ることで警戒心を失わせ、ヨナが幻想のウェルスに取り入ることでエネリーカを追い詰めた。

 それでもエネリーカは毅然として立ち向かったのだ。普段なら高潔な愛に水など差すべきではない。しかしこれは蛮獣討伐だ。だからヨナに冤罪でエネリーカの口を封じさせ、蛮獣が付け入る隙を再度与えた。

 結局蛮獣は即座にカイラスの欲望を食らわず、さらなる熟成と収穫を待つことを選んだため、クレイとヨナも方針を少し変更した。成功して何よりだ。


「一仕事終えたばかりだし、次の出動まで長い自由時間がありそうだな。その時間は、感情への理解の学習に充てるとしよう」

「自由時間が増えるのはいいことです。百年以上稼働していても、やりたいことをやりつくせていませんからね。ああ忙しい忙しい」

「睡眠時間を削ってまで読書だのボードゲームだのしておいて、まだ足りないのか」

「仕方ないでしょう、この世は楽しいことで溢れているんですから。……せっかくここまで来たんですし、ちょっと観光していきません? 買い物がしたいです。美味しいものも食べたいし」

「……欲望を適度に発散させるのは、蛮獣対策において有効だ。貴君が望むのであれば付き合おう」


 クレイは浮かれた様子で大通りの店の物色を始めた。並んで歩くヨナも周囲を見渡す。

 そんな二人の背後で、一枚のビラが舞っていた。


『蛮獣の中でも力の強いものは、人間に取り憑いてその欲望を糧にし、心を食らいつくしてしまいます。

そのため、時には国家の存亡に発展しかねない脅威となることもしばしばあります。

蛮獣にお困りの方、あるいは蛮獣に取り憑かれた人間にお心当たりのある方は、聖務局までご連絡を。

ただちに異端審問官を派遣し、迅速な解決をお約束いたします。

                               イーヴェ永世中立聖教国聖務局』

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[良い点] 面白かったです。討伐システムが「仕事」として確立されててかっこ良かったです。 [気になる点] 天使を生むために、どれほどの犠牲が、と思わずにはいられない闇の深さが! [一言] 蠅とかダーク…
[一言] 超面白かったです! 是非シリーズで違うお話も読みたい。
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