プロローグ
昔、あるところに一組の親子がありました。
濡れたような黒髪に翡翠の色の瞳をした母と、金糸と見間違うような光り輝く髪に母と同じ色の瞳をもった息子でした。
一見遠目からは親子になんて見えない彼らでしたが、しかしその間には確かな血の繋がりがありました。
母と子の二人暮らし、それは決して裕福なものとはいきませんでした。が、それでも彼らは充分に幸せでした。
母は息子を愛しておりましたし、息子も母を愛しておりました。そうして本当に本当に幸せに暮らしていたのです。
そう。いた、のです。
あの日までは。
「ねぇ、この世で一番大切なものって何だと思う?」
母はよく子にそう言って話をしていました。
夜、就寝前のホットミルクを手にベッドに寝そべっている息子の頭を撫ぜながら。
ガラガラ、ぴしゃり。ゴロゴロ。窓の外から響く雷雨の音をよそに、息子はこくこくと喉を鳴らしとミルクを飲み干しました。母の細くてしなやかな指で、撫ぜられるままにふわふわと頭を揺らしながら。
そうされているとなんだか心の奥底からほっとして、まぶたがずっしりと重力に抗えなくなっていくのでした。
「お母さんかな。ぼくはお母さんが一番だいじ」
息子はほうっと息をつきながら両手で握っていたマグカップを手渡しました。そうしてそれを受け取った母の、サイドテーブルにカップを置こうと体を向けたその背中にそっともたれかかって。
すん、と空気を吸い込んで。彼は母の匂いが好きでした。生まれてこの方、ずっとこの腕の中で育ってきたからかもしれませんでした。
がらがら、ごろごろ。雷雨はもうずっとここ数日続き、一行に止む気配はありません。
「だってぼくのこと、すごく大事にしてくれるんだもの」
彼は母以外の人間と深く関わったことがありませんでした。しかしそれでも母のことが好きでした。
彼からすると母は自分の世界の全てで、母だけが絶対でした。
でもそれは不幸なことではなくて、同情の対象にもならなくて。彼と母がそうならざるを得ず、また両者が共に納得して甘んじていることでした。
「ぼく、お外にでちゃいけないからお母さんのことしか知らないの。でもお母さん優しいから好きだよ」
そう言って目線を手元に滑らせて、そっぽを向いて。いくら息子とは言え彼もそろそろ六つになる頃だったため、多少気恥ずかしさはあったのでした。
「そうね、……そうね」
母は彼から見えないように目を伏せると、何か覚悟でも決めるようにきゅっと固く目を瞑りました。
そうして口の中に唇をしまって、ぐ、と一度あごを引いてから顔を上げて。
「そう、よね」
口角を上げてから振り返った母はもうすっかりいつも通りの顔をしていました。
母は左手で髪を耳にかけてからまた右手で息子の頭を撫ぜ始めました。時たまさらさらとその髪をすいてみたり、白くて透き通るような頬に手の平をあててみたりしながら。
そうされると彼もいよいよ安心してしまって、半分夢の世界に意識が落ちてしまいそうになります。
「もしその一番が変わったとしても、貴方のその気持ちを忘れちゃいけないわ。大事な人を大事にできるような人になるのよ」
「大事な人はもとから大事なんじゃないの?」
「ええ。だから大事にするのよ」
「ううん。よくわかんない」
「ふふ、貴方には少し難しかったかしら」
眠気のせいか、ぽやぽやともやのかかったような脳内では彼の上手く思考も回りませんでした。
くすくす、くすくす。母は大層おかしそうに笑ったあと、息子の頭を撫ぜていた手を下ろして寝巻越しにその小さな胸に触れました。そこではとくりとくりと小さなポンプが血を押し出してはひきまわしています。
そうして今度は反対の左手で自分の心臓に手をあてて。ぎゅっと握りつぶすように寝巻を強く掴みました。
「ごめんね」
小さく呟き、なにやら聞き慣れない言葉たちをぶつぶつと詠唱し始める母。
息子はそれをどこかぼんやりと、スクリーンを通して別世界の物語を見るような、そんな心地で母を見つめていました。
眠い。眠たい。眠ってしまいそう。母のその小さな呟き声でさえ、彼には子守唄のように聴こえたのでした。
するとぽうっと母の体が柔らかな光を帯び始めて。小さないくつもの金色の光が、蛍のように飛んで二人を包み込んでは消えて。
「お母さんの真似なんて、絶対にしちゃいけないからね」
暗転。彼の意識は唐突に黒く塗りつぶされてしまったのでした。
それから何日が経ったでしょうか。彼が目を覚ましたとき、締め切ったカーテンの隙間からは焼けるような日差しが照りつけていました。
まずそこで彼は違和感を覚えました。自分はいつも朝早くに起きて顔を洗い、着替えを澄ませて母の手伝いをしていた。
もし自分が起きられなかったならそれはそれで、母が自分を起こしにきてくれるのが常だった。
しかしこの状況はどうだろう。この日差しの強さは明らかに昼間のそれだったのです。しかも腹と背中がくっついてしまいそうなほど空腹だし、声が絞ってもでてこないくらいには喉はからからで。
ひゅ、と背筋が凍りました。悪寒という悪寒が彼の体中を駆け巡りました。
「母さん、お母さ、」
かすかすと空気をひっかけながら彼は母を呼びました。飛び起きて、呼んで、走って。家中を走り回りながら、母の姿を探して。
しかしどこにも母の姿はありませんでした。家中を探したって、ゴミ箱の裏を覗いたって、どこにも。
「どこ、いったの」
そうして初めて彼は母との約束を破りました。半分はだけた寝巻のまま、髪も整えないまま。生まれて初めて家の外へと踏み出したのです。
母を探しに。彼にとっての全てだった母がいないだなんて、そんなことは彼には考えられなかったのです。
するとドアを開けてすぐに何か大きな壁のようなものにぶつかりました。しかしそれは壁というほどは硬くなかったので、恐らく人間にでもぶつかったのでしょう。
エネルギーも補給せずに眠り続けていた体は反動で少しだけ吹っ飛んでしまいました。そうして尻もちをついて、また立ち上がろうとして。
しかし彼はすぐにべしゃりと膝をつきました。もう立ち上がる体力も彼には残っていませんでした。
「ああ起きたのか。もうずっと飲まず食わずだったろうし何か食事を……」
ぶつかってしまったであろう男性は彼のことを知っているようでした。そんな口ぶりでゆっくりとこちらに歩み寄り、心配そうに身をかがめました。
でもそんなことを気にしている余裕は彼になかったのでした。ただ一点を見つめたまま、サアっつと頭から血の気が引いていったのです。
座り込んだ彼の見つめる先には、ここ数日続いた雷雨の末にできた小さな水たまりがありました。
手をついて立ち上がろうとして前かがみになった結果、その水面を覗き込む形になったのでしょう。彼はその水面の一点を見つめたまま、かたかたと全身を震わせ始めました。
次第に呼吸が浅くなり、空気が何度も喉元を通り過ぎて。
「ひ、」
その日、アマリリス帝国の国王が崩御したという知らせが世界中を駆け巡りました。
奇妙な星が降り、新しい暦が始まった「星誕」から早数百年。人は能力者と非能力者に二分されていた。
何の前触れもなく星が降ったあの日。人々はその強烈な光に目が眩み、どんな写真や映像もその強烈すぎる光に白塗りにされた。
そしてその正体不明の星が降ったその直後から、ヒトの体にある変化が現れたのだ。
「星能力」。とある一人の若者に発現したそれは紛れもない、その正体不明の星からの贈り物だった。
今までの人間にはありえなかったそれは、ヒトの身体に発現した超常的な能力。ある者は手のひらから火をおこし、ある者は自分の傷を癒した。
そうして突如現れて去って行った謎の星。一度地球を強烈な光で覆ったそれは、人類を大きく二分した。
星能力を授かった能力者と、何も与えられなかった非能力者に。
突如現れた能力に世界は大混乱に陥った。ある者は力を振りかざして人を陥れ、ある者は戦争を起こして他国を侵略し。
が、しかしそれを統制しようと動いた他の国々により数百年かけて騒動は沈静化され。世界は再び争いのない平和な時を取り戻していった。
そうしてまた時代は移り変わり、現代。人々が娯楽にすらその能力を使う時代が今ここに始まっていたのだった。