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『平和』の反対って何ですか?

一時間くらいで書いたものなので、とっ散らかっていたりといった雑な部分はあると思いますが、お目溢し頂けると幸いです。


また、震災関係の描写が少しだけあります。深刻なトラウマになっておられる方はブラウザバックを推奨します。思い出させてしまい誠に申し訳ありません。

『平和の反対って何ですか?』と聞かれたら、大抵『戦争』という答えが返ってくるのでしょう。


 僕が『平和の反対は戦争だ』、と聞いたのは、多分小学校低学年の頃だったかと思います。


 ですが、今でも不思議なのです。


『平和』の反対は、本当に『戦争』なのでしょうか?

 そもそも、『平和』の反対なんてあるんでしょうか?



『平和』とは、世間や社会の状態を表す言葉です。大まかな意味合いとしては、争いの無い平穏な世界、みたいな感じなのでしょうか。上手く言葉で表すのが難しい状態を意味している気がします。


 対して、『戦争』は単純です。国と国、宗教と宗教、宗教と国、民族と民族………発生する場所は様々あれど、基本的には誰か、若しくは何か、が争っている状態を指す言葉でしょう。『民族』という理念は結局の所、近代国家が成立する過程や、中世に国家が敵を求めた過程で生み出された共通理念、一種の宗教のようなものとも捉えられますし、『国』という概念も『民族』と同じく「そこにあって、私たちが属している」と信じられる事によって成立している一種の共有された幻覚や幻想に近しいので、これも宗教に似ているところがある気はします。ちょっと強引かも知れませんが。


 こう考えると、『戦争』が起きるのは『宗教』つまり共有された幻想、若しくは集団理念の保守や対立に基づいているのかなとも思います。


 そもそも、『個人』という概念すらも幻想に過ぎない部分は大いにありますし、人が信じている多くのものは、「人にとっての事実」であり、客観席や科学性と言った理論付けも一種の共有された幻想であり、あるのかすら不明な人の智から隔絶された絶対的な真実とやらをあると仮定することすらも幻想なのだとしたら、この世の全ては幻想に近しいようにも思えます。……私たちが見、感じ、触れているいるものでさえ、『認識』によって変化し絶対性を保証しないのですから。



 脇道にそれてしまいました。話を戻しましょう。



『平和』という単語が持つ意味合いは、非常に形容詞的です。「戦争な社会」とは言えないのに「平和な社会」という言葉がある事が端的に示していますね。

 まぁ、「世界平和」のように名詞的に扱う事も出来ますが、それは「世界戦争」も同じなので割愛します。



 対して、『戦争』という単語は非常に動詞的な側面があるように思えます。「平和する」とは言わないのに、「戦争する」とは一般に言われている事から何となく想像できるでしょうか。


 そも、『戦争』という語は『争い』を意味するのですから、動詞的なエッセンスが感じられるのは当たり前の事かも知れませんし、ある種の動作性を感じさせない状態を示す『平和』という語が、形容詞的な用法で使われるのもおかしな事では無いのかも知れません。



 ここで考えて欲しいことは、対義語として扱われている筈の『平和』と『戦争』が実は全く異なる用法で使われる単語であるということです。両者とも名詞として使うことは出来ますが、基本的に用途が異なります。

 果たして、両者の間に関係性……はあるのかも知れませんが、それは「対義語」と言って良いほど強いものなのでしょうか?


 小学生の頃に初めて先生に「平和の対義語は戦争だ」と聞いた時から私には、この点が不思議でなりません。





 そもそも、『戦争』の対義語が『平和』なのだとしたら、『戦争』していない状態は『平和』であると言い切れるのでしょうか?



 例えば……


 大震災で多くの方々が亡くなった時。


 ウイルスが世界的に猛威を振るっている時。


 同じような目、同じような姿、同じような顔をした人々が、同じような場所に向かって、同じような方向へ、同じような日常のために、同じような目的を持って歩いている時。



 果たして、それは『平和』でしょうか?




 私は「否」と答えます。


 手足の浮く血潮に染まった海。


「放射能、放射能」と馬鹿の一つ覚えに被災者を弾圧する人間たち。


 自分の正義(害意)を他人に押し付ける事を厭わない警察気取りの狂人たち。


 日常の不気味さに気づきもしない私たち。


 どれも、とても『平和』とは思えないものばかりです。平穏さなんて欠片も感じられません。

 確かに『戦争』では無いですが、しかし私はそれを『平和』と呼びたくはありません。


 『戦争』を、していないから『平和』だなんて、「喧嘩した事ない人は皆友達」並みの暴論でしかないでしょう。


 あまりに気持ち悪過ぎて、全く持って笑えません。



 笑うことすら出来ない現実が『平和』なら、それはジョージ・オーウェルの描いた空想が、実在するという査証にしかならないでしょう。そんな現実を『平和』と呼ぶ事を、私は断固拒否します。



 最後に挙げた例だけは、平和と呼びたくなるかも知れません。「だって、それが普通じゃないか、私達は仕事に向かっているだけだ」と。


 私にはそう思えません。あぁ勿論、この事は必死に毎日働いておられる方々を批判するつもりがあって言っているわけではありません。寧ろ私はその生き様を尊敬しているつもりです。誰かのため、自分のために今日を生きる事は、尊敬すべき事柄ですから。



 しかし以前私は、駅前で怯えて泣いている小さな子供に会いました。


 彼女は、「みんな同じで怖い」と泣いていました。


 それ以降、どうしても信じられないのです。当たり前だと思えないのです。今私達が生きている社会が、『平和』であるという事が。『普通』であるという事が。



 だからこそ、ふと誰かに聞いてみたくなるのです。



 私達が生きている社会って、『平和』なんでしょうか。


 そもそも、『平和』って何なのでしょうか。


『平和』である事に、どんな意味があるのでしょうか。


 私達は、私達の社会は、『平和』でなくては、いけないのでしょうか。


『平和』という言葉で包み隠して、大切な()()を、無視してしまっていないでしょうか。




 これらの問いに、答えがあるのかは分かりません。答えを出して良いのかも。


 ただ、一度考えてみて欲しいのです。疑ってみて欲しいのです。これらの問いに答えるための、足掛かりくらいにはなるでしょうから。




『平和』の反対って、何ですか?


感想、意見等、頂けると幸いです。


 ただ感想欄での、作者や他読者様の人格や人間性等に対する誹謗中傷、若しくはあまりにも度の過ぎた暴言による作品への批判等に関しては発見次第、作者の一存で感想の削除をさせて頂く場合があります。


 厳格に判断するつもりは無いのであまり深刻に考慮しなくても問題ありませんが、

 あくまで一人の人間である作者や他読者様に向けた発言である事を理解し、誰でも閲覧する事の出来る場に出して問題ないと思える、最低限の礼儀や良識を伴ったものにして下されば、と思っております。

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