第八話
「イヴ、どうだった?」
「すみません、逃がしました」
「そうか」
シュナイツはその答えをある程度予想していたのか、静かに頷いた。
「こちらにもひとり来たから私が捕まえておいた。陛下には指一本触れさせていない」
―狙われたのは皇帝陛下と、剣の名門であり帝国の軍隊を統括するハーレン家当主。
「国外の勢力ですか?」
「他の公爵家という線も残っているが、おそらくな」
シュナイツが肯定する。
「シュナイツよ、それがお前の娘か」
突然降ってきた声に、はっとした。
「はい」
シュナイツに促され、私はその場にひざまずいた。
「イヴ・ハーレンと申します。挨拶が遅くなり誠に申し訳ありません、皇帝陛下」
皇帝を無視して話し込むなど、場合によっては死刑だと、礼儀作法の授業中に散々教えられたのに。
私は多少のパニックに陥っていた。語尾が震えなかっただけでも自分をほめてやりたい。
「許す。どうせ社交界も中止だ、あまり堅苦しくしすぎるな」
「はい」
許しが出たことで、私は顔を上げた。
この国を治める王の顔を直視する。
まず鮮やかな金髪が目を引く。眼鏡をかけており、落ち着いた雰囲気を醸し出していた。
シュナイツが差し出した手を取って立ち上がると、皇帝が口を開いた。
「今日は解散だ。シュナイツ、暗殺の件については明日話そう。先に、捕まえた暗殺者に話を聞かなければならないのでな」
話を聞く、というのが拷問であることは考えずとも分かる。
「はい」
恭しくお辞儀する父に倣って、私も頭を下げた。
ふと思った。
日本で安全に暮らしていたころの私がいまの自分を知ったらどう思うのかと。人を傷つけ、自分が認知する範囲の中で傷つけられる人がいることを是とする。日本にいたころなら、酷いことだと叫べただろうか。
―いや、関係ない。今の私は今の私だ。
私は、心にふたをした。
自分の家とは、今でも少し信じられないほど豪華な玄関をくぐると、シュナイツが口を開いた。
「ときに、イヴ。今回逃げられた理由は何だと思う?」
「私が格闘術か魔術でも会得していなかったことですか?」
私は、白々しい答えを返した。そもそも、剣術しか教えられていないので、会得しようと思ったところで無理だ。
「不正解だ。正解は、武器を持っていなかったことだ」
だから武器を持ち込めばよかったとかいうのは暴論だと思う。…私も思ったけど。
「だから私の言うように武器を持ち込めばよかったんだ」
その暴論を、笑顔で言い切った親バカに、私は笑みをひきつらせた。
暖かい朝の気配を感じて目を覚ました。徐々に覚醒していく意識の中でふと思う。ここはどこだろうと。知らない天井。知らないベッドの感触。知らない枕の柔らかさ。必死に終わらせた宿題が置かれた机はなく、手になじんだ通学かばんもない。友達と撮った写真も、家族が暮れたプレゼントも。
すぐに思い出す。ここは異世界だ。異世界の、ガライト帝国の、帝都ロナルスの、ハーレン侯爵家の屋敷。そして、イヴ・ハーレンという名の貴族の娘の部屋だ。
まだ寝ていたい気持ちを押し殺してベッドを出て、飾り気のない服に着替える。シュナイツにもらった木剣をつかんで裏口から外に出ると、冷たい空気が肌を刺した。
「もうすぐ冬か」
呟きながら、私は素振りを始める。風を着る心地よい音を聞きながら私はひたすらに剣を振るった。
「150っと」
目標の回数が終わったので、壁に木剣を立てかけた。
タイミングを見計らって、裏口のドアが開きバウルが出てきた。
「義父様はどちらへ?」
バウルから受け取ったタオルで汗を拭きながら尋ねる。
「昨日の件で王城に行かれました」
予想していた通りの答えが返ってきて、うなずいた。
「今日の私の予定は?」
「午前九時から礼儀作法の授業。十一時からダンスの授業。昼食の後は座学の先生が休暇中ですので特に予定はありません」
「じゃあ、午後は帝都の観光でもしてきます。適当に護衛を見繕っておいてください」
「わかりました、お嬢様」
お嬢様という呼び名に多少のむずがゆさを感じながらも、私は自室へと向かった。
「終わった…」
疲れた。優雅な見た目とは裏腹に、ダンスは運動量が多い。それに、ダンスとは一種のコミュニケーションらしい。私は日本にいたときからコミュニケーションは得意じゃなかった。
「昼食はサンドイッチを用意しております」
「ありがとう、助かります」
軽く食べられるものを用意してくれたのだろう。
私は手でつかんでかぶりつきたい欲を抑えてナイフとフォークを手に取った。たとえサンドイッチを食べるだけでも手なんか使えば軽んじられ、どころか軽蔑さえされる。貴族とはめんどくさい。
そんなネガティブな思考とは関係なく、生ハムとタマネギと特製ソースをはさんだサンドイッチはとても美味しかった。