第六十五話
視界が焦点を失い、大きく揺れた。酔いそうだ。血流がありえない位早くなる。
「安心して、死にはしないわ。かわりに、この子をもらっていくけれど」
手足をだらんと伸ばしたストエルの頭をつかんで持ち上げる。
「一週間後、また会いましょう」
最後に、なんで――?そう問いかける視線は、見て見ぬ振りされた。
胸にぽっかりと開いた深い深い深い深い穴。私は手を伸ばす。それでも届かない。落ちていく。必死に手を伸ばして叫んだ。
「ストエル!」
目が覚めた私は、汗だくになっていた。
夢だと思いたかった。起きたら、ストエルが心配そうな表情で私の顔を覗き込んでいる。そんなことを期待していた。けれど部屋中を見渡しても、蓮の名前を関した少女はいない。いない。いないんだ……。
「イヴ、大丈夫か?」
「お父様…」
シュナイツなら、何とかしてくれるかもしれない。何といっても帝国最強の剣士なのだから。
助けてくださいと、そう縋り付いて、みっともなく泣いて、土下座して、お願いだからと、情に訴えかける。そうすれば、シュナイツは断れない。ストエルは助かって、一件落着。
そしてそのあと、私は自殺するのだろう。もしくは、考えることをやめた抜け殻になる。
それでもいいか。ストエルが助かるなら。
「お父様」
口は動く。
「何でも、ありません」
口をつぐんだ。
誰かを頼ることさえできなくて、私はどうすればいい……剣技を学んでも、魔物を殺しても、人を殺しても、結局自分は日本でぬくぬくと育った脆弱な小娘だ。一人でできることなんてたかが知れている。誰かを救うなんて大層なことできやしない。せいぜい誰かを殺すことだけ。
そもそも、間違っていたんだ、私がこの世界に転生したこと自体。こんな過酷な世界で、私は息をすることも難しい。生きているだけで、真綿で首が閉まっていく。どの瞬間も、つらくて吐きそうだ。こんなに苦しんでまで、生きる価値なんて私にはあるのだろうか。いっそ、それなら―。
「イヴ!」
父の温もりが、私を現実へと引き戻した。
片腕で痛いくらいに抱きしめられて、もう何もわからなくなってしまった。こんな弱い自分を、惜しんでくれる人がいる。嬉しいやら、申し訳ないやら。
「イヴ。私はお前を愛している。お前が無事ならそれでいい。たった一人のメイドなんか忘れて、そのままでいいんだ」
あるいは、それも正解だったかもしれない。一番簡単に、楽になれる方法だった。だが、私は。
「お父様。私に剣を、教えてください」
ごめんなさい。
逃げ出す勇気なんてなかった。無謀と勇気は違う。それを知りながら、私はどうしようもなくバカだった。




