第二話
この分かれ道は幾つ目だろうか。もう覚えていない。
私は壁に寄りかかりながら、今までと同じように右の道に進んだ。
こうして分かれ道を進むたびに、出口から遠ざかっていくように感じて精神がすり減っていく。
―いや。そもそも出口なんてあるの?
そんな疑問が浮かびかけたが、黙殺する。
分かるはずもない。ただ、いまは信じて進むしかない。というか、信じていないと発狂してしまいそうだ。
ふと、「ぎゅぅううぅぅうぅ」という悲痛な腹の音が聞こえた。
精神だけでなく、体力の方も、とうに限界を超えていた。
喉はカラカラで、腹は先ほどから何度も空腹を訴えている。歩む速度も、ハイハイをする赤子にも劣るだろう。むしろ、壁に寄りかかりながらでも立っているほうが不思議だった。
―このまま死んじゃうのかな?
ぼんやりとそんなことを考える。むしろ、速く倒れてしまいたいと思うほど憔悴していた。
知らなかった。いや、知っていても実感がわかなかった。一人でいることが、こんなにも怖いなんて。
もう一度会いたいよ……。お母さん、お父さん、学校の友達、そして、蓮。
喉が激しい痛みを放って、自分が無意識に妹の名を呼ぼうとしたことに気づいた。無駄かもしれないけれど、今すぐ蓮に謝りたい。冷たくしてごめんね、謝ることすらできなくてごめんね、って。
ああ、くじけそうだ。なぜか知らないけど、ネガティブな思考ばかりが浮かんでくる。
ふと、歪む視界の先に、壁が見えた。行き止まりだ。涙が出そう…涸れてしまって出ないけれど。
もう、いいかな?頑張ったよね?私は…。もう、いいか……。
どうせだからあそこまで行って休もうと、震える足を動かす。
数十秒かけてたどり着いた「行き止まり」はそうではなかった。あまりにも周囲に溶け込んでいてわかりずらいが、よく見れば両開きの扉になっていることがわかる。
わずかに希望が見えた気がしたが、すぐに絶望した。
この見るからに重そうな扉が、疲弊しきった今の体で開くはずもない。
そう思って扉に手を添える。
その瞬間、予想だにしないことが起きた。
扉が淡く発光し、音を立てて開いたのだ。
科学で説明することは難しい。頂上的な力が働いたのだと、何となく思った。
扉の向こうは、最初に目を覚ました場所と同じようなドーム状の空間になっていた。ただ一つ違うのは、中央にいる「それ」。
似てはいるものの明らかに人間とは違っていた。頭に二本の角が生えた「それ」は、しいて言うなら鬼だろうか。
鬼は、ゆっくりと瞼を開ける。その表情は、どこか無機物的だった。
唐突に、鬼が視界から消えた。
何が起きたかわからないまま、気付けば身をよじっていた。
半拍も遅れずに、一瞬前まで私の顔があった位置を、ものすごい速さの拳が通過した。
私は体勢を崩して、しりもちをつく。
同時に浮遊感が私を襲った。次に感じたのは衝撃。その次は今まで感じたこともないほどの激痛だった。
殴られたのだと気づくより先に、壁に衝突して崩れ落ちた。
口から、地面が深紅に染まるほどの血を吐いた。鼓膜は破れてしまったのか「ジィィィィィイン」という音以外何も聞こえない。鼻腔に、鉄を何倍にも凝縮したようなにおいが充満する。
視線を下ろすと、殴られた位置が不自然に陥没していた。
よくこれで息があるなぁ。心の中の、妙に穏やかな部分がそうつぶやく。
視界の端に鬼の足が映った。一歩、一歩。私に近づいてくる。
「し…たぅ…ぃ」
死にたくない。震えるようにしか動かない口で、かみしめるようにつぶやく。
いやだ、死にたくない。蓮の散歩に付き合っていたら、通り魔みたいのに殺されて、知らない場所に来て、知らない体になっていて、何がどうなっているのかさえ分からないまま鬼みたいな怪物に殺される。そんなの理不尽だ。納得なんて出来るはずもない。
死んでたまるか。
ブチブチと嫌な音がするが、そんなものは無視して立ち上がる。無表情に私を見つめる鬼にむかって、「かかって来いよ」と不敵な視線を投げかけた。
鬼が地面を蹴る。
私は、不自由な視界と、もうほとんど働いていない脳で私はそれを認識した。
不可視の力がうごめいて、虚空に幾何学的な文様を刻んでいく。その文様が完成するのと同時に、地面に広がっていた血がまるで命があるかのように動き、収束していく。
血がうねり、瞬く間に一本の刀を成型する。
私はその刀のつかを握った。
―なんだこれは。
熱い。熱い。熱い。熱い。血がどくどくと巡る。傷口からあふれ出した血が燃えているように熱い。昂揚する。
踏ん張ると、ベキリと骨が折れる感触が伝わってきた。関係ない。そんなことで負けてたまるか。その程度で死んでたまるか。
血糊とともに雄叫びを吐く。体と刀が一体となったような錯覚に陥る。
静寂の中。燃え上がるような熱の中で、私は剣を薙いだ。
視界が暗くなる。破れた鼓膜は何も捉えない。鼻はむせるような血の匂いで馬鹿になっていた。
手ごたえは感じたがその結末を知ることはできなかった。
意識に霞がかかっていく。死にたくない。そうつぶやいたが、ちゃんと発音できたかさえもわからなかった。
体が崩れ落ちた。けれど衝撃と岩肌の冷たい感触はいつまでたってもやってこなかった。そのことをいぶかしみながら、もう一度目を開けることもかなわず、私は意識を失った。