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登校日 其の三

「ぅッ…………ぃぅ…………」

 眼鏡をはずし、嗚咽を漏らしながら図書室の隅で立ち尽くす。さっきまで目の前にいた彼の姿はもうない。私を置いて、置き去りにして一人でこの場所から去って行ってしまった。

 好きだなんて囁いてくれたあの人が、私を捨て置いて消えてしまった。

 どうしてとは思わなかった。何で振られなければいけないのかとは思ったけれど、振られてしまうだろうことはわかっていたから。

 彼は、ここ最近ずっと元気がなかった。笑顔もぎこちなく、足取りも重い。心なしかやつれたように感じられる体をゆすりながら、歩くのさえままならないと言いたげにふらついていた。

 その原因は、多分私にあった。

 何がどういけなかったのかはわからないけれど、それでも私が原因であることだけはよくわかった。彼は、ほかの友達といるときは心から笑っていたから。

 頬を伝う涙が熱くて、くすぐったくて、煩わしくて。私は何度も目元を擦る。それなのに一向に止まってくれないから次第に感情が高ぶり始める。

 私は悪くない。悪い事なんて何もしていない。私が何をしたというんだ。

 何もしていないのに、なんでこんなことになるんだ。

 そう思いながら泣き続けて、どれだけの時間が経ったのだろう。人の気配を感じて顔を上げてみれば、目の前には数冊の本を抱えた男子生徒の姿があった。

「…………ッ」

 泣いているところを見られた。そう思って反射的の顔を逸らそうとする。投げ捨てるように足元を見て、意味もないのに息をひそめた。

 けれど、聞こえてくるのはコツコツと本棚をやさしくたたく音ばかり。

その人は私に気が付いているだろうに、まるで何事もないかのように本棚に本を並べ続けていた。

図書委員だろう。貸し出されていた本を丁寧に本棚に戻しているのだ。見ればすぐに分かった。

そんな男子生徒を見れば見るほど自分の存在が小さくなっていく。

 ただの一度も、その視線が私のほうへ向けられることは無い。

 本当に気が付いていないのだろうか。それともよほど私の存在に興味がないのだろうか。そう思ったら無性に腹立たしくなって、何一つ悪い事なんてしていないその男子に刺すような視線を向けていた。

 けれど、その人はそれに気付きもしないで本を並べる。

 左手で本を抱え、右手で背表紙を確認しながら本棚に本を戻している。

 今ここに私がいなければ、ただ彼は真面目に図書委員の仕事をこなしているだけ。褒められることはあっても糾弾されることなんてなかっただろう。

 けれど、今その光景を目の前にしている私は思った。

 なんてデリカシーの無い人だ。泣いている女の子に声もかけないなんてどうかしている。

 目の前に目を腫らして涙を流している女の子がいるのだ。それを見れば当然「大丈夫」だとか「どうしたの?」とか声をかけたりするものだろう。それなのに彼はそんなことしようともせずに、真面目に図書委員の責務を果たしている。

「……最低」

 ぼそりと、吐き捨てるように言ってみたが目の前の男子生徒は顔どころか視線すら向けない。独り言だとでも思っているのだろうか。

「聞こえてないふり?」

 私は無性に腹立たしくなって喧嘩腰で言う。

 するとただひたすら本を並べていた彼の視線が私のほうへと向けられる。

 私はびっくりして、後ろにある本棚に背中が付くまで後退った。

 彼は、それを好機と見たのか、私のほうへゆっくりと寄ってくる。見ず知らずの相手に罵声を浴びせてしまったことをいまさらながらに後悔した。

 途端に恐怖が湧き上がってくる。少しづつ近づいてくるその生徒は、小柄かと思っていたのに、肩を並べれば頭一つ分は身長差があった。

 無言でにじり寄るその人が恐ろしくて、私は目を逸らす。悪いのは私なのに、私は何もしていないとばかりにその人から目を背ける。

 肩に力が入って腕が震える。怖い怖いと思いながら何か起きるなら早くしてと矛盾した思いを抱えていると、コト、と本棚を叩く音が聞こえた。

 私は何事かと思って恐る恐る目を開けて音のした方を見る。

 するとそこには、ついさっきまで私のほうへ向かってきていた男子生徒が、さっきまでと変わらず本を並べている姿があった。

「えっ……?」

 私はわけがわからなくなって声を上げた。

 時間が戻ったのだろうかと思ってしまうけれど、そんなことは無い。私の背中は後ろの本棚に張り付いているし、彼の手にあった本もその数を減らしている。

 じゃあどういうことだと思いながら彼の手先を見れば、さっきまで彼が手を付けていた棚から一つ隣の棚に移動しているのに気づいた。

「…………何それ」

 これだけ怖がらせておきながら、ただ隣の本棚に移動しただけ? 私に何か言いたかったわけじゃなく?

 それを理解して胸の内がどす黒く染まる。本当にこの人の目に私は映っていないのだとわかってしまったから。

 傷だらけの女の子が目に入らない。苦しくて泣きじゃくる私に気が付かない。助けようなんて思いもしない。

 それがたまらなくムカついて、今度はその人のことをまっすぐに見つめて言った。

「何で何もしないの。声をかけるとかすることあるでしょ……!」

 その人が同級生かどうかはわからなかったけれど、とても先輩には見えなくて敬語も投げ捨ててそう言った。

 するとようやく、彼の視線が私に向く。ようやく私のことを認識したのかと思いながら睨みを利かせると、私に気付いたはずの彼がきょろきょろとあたりを見回し始めた。

 何をしているんだと思いながらにらみ続けると、目の前の男子がため息を吐いてから私に向けて言った。

「俺に言ってる?」

「…………ぇ?」

 その人が何を言っているのか理解できなくて、私は素っ頓狂な声を上げた。

 けれど、彼もどういうことだと言いたげに首を傾げて見せるから、私は歯を食いしばりながらその人に言った。

「当たり前でしょ! そんなことわからないの!!?」

「なら伝わるように言ってくんない?」

「ぇ…………」

 図書室では許されないような叫び声をあげたのに、その人は表情一つ変えずに淡々と、面倒くさそうにため息すら吐いて私に言った。

 虚を突かれた私は言葉を失い、これ以上下がることはできないのに後退った。

 すると彼は手に持っていた最後の一冊を本棚にしまうと、「はぁ」と息を吐いてから私に言った。

「ってか誰ですか、同じクラスだっけ?」

「ぇ…………え……?」

 淡々とした物言いに付いていけず、私は狼狽えるしかできない。

 するとからは再びため息を吐いて言った。

「初対面でいきなりそんな親し気に話しかけられるなんて思わないだろ」

「なに……言って…………」

 親しげも何も、私は感情のまま罵声を浴びせただけなのに。それをそんなにも好意的にとらえるなんてどうかしている。

 私は頭を振ってからもう一度その人を睨みつける。

 つかみどころのないこの人の問答にまともに付き合っていると自分までおかしくなってしまう。私が言いたいことだけ言ってしまえばそれでいい。

 そんな自己中心的な考えのもと気を持ち直し、息を吸った。

「初対面でも泣いてる人がいたら声かけたりするのが当たり前のことでしょ!」

「そうなの?」

「そ………そんなこともわからないの!!!」

 冷たいなんて生ぬるい。人を人とすら思っていないかのようなこの人の態度がただひたすらに私の神経を逆なでしてくる。

 大声で怒鳴りつけ、この人はどれだけ馬鹿にすれば気が済むんだと思いながら呼吸を整えるために荒い息を吐く。

「……はぁ」

「――!!」

 すると、またしてもため息を吐く音が聞こえて私はその人に掴みかかってやろうかと思いながら背の高いその人の顔を見た。

 大きく息を吸って、もう一度怒号を浴びせてやろうと構える。

 けれど、それよりも早く、目の前の彼は言った。


「わかるわけないだろ」


「…………え?」

 吸い込んだ息をすべて吐いて疑問符を飛ばせば、その先にいた彼はまたため息を吐いてから言った。

「何も言われてないのに、どうすればいいかなんてわかるわけないだろ」

「…………」

 言われて、私は絶句した。

 言われなければわからない。まるで幼稚園児の様な言い訳に怒りもどこかへ吹き飛んだ。

 そんな言い訳なんて通じるわけがない。誰だってわかってほしいと思っているし、この男子だってそんな風に思うはずだ。それを相手に強要しているのに自分は言われなければわからないなどと、自分勝手も甚だしい。

「バカみたい」

 そう思いながら、もうこの人にはどんな言葉を口にしようと意味がないだろうなと思って諦め半分にため息を吐いた。

「馬鹿とは失礼な」

 もうこの人と会話をしても意味がない。会話にすらなりはしない。

 だから私は流れていた涙を乱暴に拭った。怒りのせいか、虚を突かれ過ぎたせいか、もう涙は流れてこなかった。

 さっさと図書室を出て行ってしまおうと思って、最後にもう一度だけその人ににらみを向けた。すると、彼はぼそりと、別に伝わらなくてもいいと言いたげに言葉を吐き捨てた。

「今俺の気持ちだって、わかってないだろ?」

「ッ…………」

 私は再び絶句した。今度は、胸を鷲掴みにされたような感覚に襲われて。

 驚きながら彼を見てみれば、その視線は私ではなくどこでもない天井の上へと向けられていた。

 本当に、私個人に対しては何の興味もないと言いたげに。

 私は蛇ににらまれたように体を固まらせる。私にその視線は向けられていないのに。

 動けなくなって俯く。今まで自分が浴びせてきた罵声が、すべて自分に圧し掛かってきた。

 そして同時に、それでどんな気持ちだったのかが伝わってきた。

 理不尽も甚だしい。

 言わなくてもすべてを理解して尽くしきって見せろだなんて、なんて傲慢なんだ。

 幼稚園児じみた言い訳。そんな風にさっきは思ったけれど、それは当たり前のことだった。

 言わなければ、何も伝わらない。

 私があの人と付き合えるようになったのだって、その気持ちを言葉にしたからだ。

 告白もせずに付き合うなんてできるはずもないのに、私はそれと同じようなものを求めていたということになる。

 自身の身勝手さに、恥ずかしさを通り越して恐ろしさを感じる。

 どれだけの苦痛を、相手に与えていたのだろう。

 あの人は優しいから、すべて受け入れてくれるだなんて甘え切って。その思い込みのままそれ以上を求め続けた。

 幼稚園児はどっちだ。私じゃないか。

 奥歯をかみしめ、自身の行いを悔いる。何が、何も悪いことはしていないだ。それはそうだ。悪いことどころか良いこともしていないんだから。本当に何も、何もしていないのだから。

 ようやく引っ込んだ涙がもう一度あふれだす。それを必死でぬぐうがさっきの二の舞だ。

 涙は止まらず、目の前にいる男子は優しい言葉の一つもかけてくれない。

 まるで誰からも見捨てられてしまったような感覚に襲われる。何でこの人は淡々と言葉を吐くだけ吐いて何もしないんだと思った。

 涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま、その人を見るとやはり表情一つ変わっていなかった。

 けれど、ふうと息を吐くと、その口が小さく動いて見せた。

「そろそろ図書室閉めるから、出てってくれない?」

「ッ!!」

 最後の最後まで優しさなんてかけらも見せずに、邪魔だと言わんばかりにそう言って見せる。

 私はそれが悲しくて、辛くて、痛くて。両手で顔を覆って声を押し殺して泣いた。

 私がそうしているのを見た男子は、やっぱり何も言わない。それどころかもう用はすんだとばかりに踵を返す。そしてしばらくすると、図書室の重たい扉が引かれる音が聞こえた。

「……少しくらい、優しくしてくれてもいいじゃん!」

 当番の図書委員が去った今、誰も図書室にはいないだろうと思ってそんな声を上げた。

 見ず知らずの、名前も知らない相手にやさしくして欲しいだなんて、都合がよすぎるのはわかってる。けれど、今さっき失恋して、それで泣いていたんだ。何か一言くらいあってもいいだろう。

 大嫌いだ。名前も知らないあの人のことが。

 私の彼氏だった人とは程遠い。それどころかこの世であの人よりも冷たい人を探すのは至難の業だろうと思えるほどあの人は人間性に欠けている。

 ほかの人なら。もっと普通の人なら良かったのに。

 それなら少しは傷も癒えたのに。あの人は傷口を開くばかりかその内側をえぐり、あまつさえ化膿させて背を向けた。

 最低、という言葉がこれほど似合う人はそうはいないだろう。

 私は本棚の角を蹴飛ばす勢いで足を踏み出すと、涙をぬぐいながら出口へと向かう。鞄は教室だったろうか、それとも図書室だったろうか。そんなことはどうでもいい。どうせ学校までは徒歩圏内だ、忘れて行っても構わない。

 そう思いながら重たい扉を力いっぱい開け放ち、廊下に出る。

「…………」

 すると、そこにはさっきの男子の姿があった。

 図書室に戻ろうとしていたのか、私と向かい合い様な形で対峙している。

 私は少し驚いて肩を跳ねさせたが、相手がその男子であるとわかったので下から睨み上げるようにしてその姿をとらえて、その人の横を通って去っていこうとした。

「おい」

「…………なに!!」

 ぶっきらぼうに呼ばれて怒りをあらわにしながら振り返ると目の前にペットボトルが差し出された。

「……え?」

 どういうことだと思ってその差し出された手とその人の顔を交互に見る。もしかして人違いだろうかと思ったけれどそんなことは無い。目の前にいるのは、そしてペットボトルを持っているのは、ついさっきまで私が罵声を浴びせていたあの男子だ。

 素っ頓狂な声を上げた私に対して、彼は顔を合わせたときから何一つ変わらず淡々という。

「脱水症状になるだろ」

 言われて、いったい何のことかわからなかった。

 この人が人違いをしているんじゃないかと思った。私がさっきまでいたのは空調の行き届いた図書室の中だ。汗をかくなんてしていないし、脱水症状なんて言葉とは無縁の場所だろう。

 そう思ってため息交じりに息を吐こうとすると、喉の奥で何かにつかえて震えた。

 それは、多分さっきまで私が流していた涙だろう。

 そこでようやく私は思い至り、同時に目を大きく開いた。

 気を、使ってくれた。そう思ったから。

 そんなこと絶対にしないだろうと思っていたこの人が、そうしてくれた。私はそれが信じられなくて目を見開いたまま、口をパクパクと動かした。

 なんで、今優しくするの?

 そう問いたかったけれど、声は出なくて。私の言いたいことを理解できない彼は難しい顔をすると私の手にペットボトルを乗せた。

「俺みたいなやつから貰っても気に食わないだろうし、いらなかったら捨てていい」

 それだけ言ってその手を離すと、彼は踵を返して図書室へ戻って行った。

 私はその姿を目で追いながら、手のひらの冷たい感触を確かめていた。

 私がつい数十分前まで付き合っていた男の子は、優しい人だった。笑顔も絶えない、どこまでも優しい人だった。

 だから、私は優しい人が好き。優しさが好き。

 でも、これには戸惑うことしかできない。素直にやさしいと思うことはできず。けれどひどいとも思えず、私はその手の中にあるものを確かめるように触り続けた。

 傷心でも、あんな人のことを好きになったりはしない。感情をぶつけてもすべて受け流されるようなあの人のことは、そんな風には見れなかった。

 けれど、ただ冷たい人だとも思えなかった。

 あんなに罵声を浴びせられても眉一つ動かさず、淡々の口にした言葉で女の子を泣かせるような人だ。好きになんてなれるわけがない。

けれど彼は、そんな出来事のすぐ後に、こんな風に気遣うような行動をして見せたのだ。それはきっと、とても難しいことだ。私なら、意固地になって何もできないだろう。

 けれど、彼はして見せたのだ。

 私は自分のことを単純だとは思うけれど、そこまで考え無しではないから。

好きにはならない。あんな人に愛されたいとも思えない。

 けれど、それでも。

 気になるには、十分すぎた。


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