終業式 其の一
俺は朝が好きだ。
朝早く起きなければいけないこと、眠い体に鞭を打って学校に向かわなくてはいけないこと、これから始まる拘束時間をついつい考えてしまうこと。
嫌なことを挙げればきりはないけれど、俺は朝が好きだった。
しかし、好きとはいっても消去法でそう思えるようになっただけに過ぎない。
まず昼、昼食時。決して苦にはならない時間であるが、朝に比べるとやはり気が重い。午前中は長い時間机に拘束されていたのに、まだそこは折り返し地点。これからも数時間学校に拘束されるんだと思うと気分が沈む。
そして放課後。学校も終わって後は帰るだけ、何なら買い食いしたりどこかに遊びに行っても許される時間だ。陰鬱なことなど何もない。きっと一般的な高校生は放課後は好きな時間だと口にするだろう。
けれど、俺は違った。まず、悲しいかな俺には放課後楽しく遊ぶような相手と、遊びに行けるだけの気力を持ち合わせていない。相手に関しては会長とかに声をかければいいのだろうとは思うのだが、忙しい会長を誘うのも気が引けるし、うるさい田所を誘う気にはならない。そもそも自分から何かをするという労力をかけたくないので俺は誘ったりしない。
放課後の楽しみなんていうものに興じることが出来なければ、それはただの暇な時間だ。楽しいどころか苦痛にすら感じてしまう。
しかし、一番の問題はそこではない。一番の問題は言わずもがな、あのよくわからない後輩のことだ。
いつからか俺に付きまとうようになった、フルネームも知らない茶髪の後輩。
あいつがいるから、放課後はあまり好きじゃなかった。ただ帰宅するだけの静かな時間が、あいつ一人のせいで体力と気力を大幅に消耗する時間へとわかってしまっている。もしも叶うのなら、あいつのいない放課後を返してくれと願う。そうすれば放課後も好きだと思えるようになるだろうから。
昼は午前の疲労とこれからの出来事を思って気が重くなる、放課後は間延びした声を聴くのが嫌で気が落ちる。夜は次の日のことを思って体が重くなる。
だから消去法で、俺は朝が一番好きだった。
周りを歩く学生も、まだ騒がしいとは言い難いし、夏の暑さもまだ猛威を振るう前だ。
何よりあの声が聞こえてこないから心が休まる。
この時間は誰にも邪魔されない。学生服に身を包んでいる時間の中で最も楽な時間、それが朝の登校時。ここ数か月、彼女に付きまとわれるようになってからはずっとそう思っていた。思っていたのだ。
それなのに今日は――。
「あっ、せんぱーい」
背後から、間延びした声が聞こえてくる。俺はその声を聞き流して速足気味に歩みを進める。
「先輩聞こえてないんですか?」
歩調を速めたはずなのに、その声が近くから聞こえてくる。
俺はそれが少し怖くなってさらに歩調を速めようとする。
「先輩?」
すると俺の眼前に、下からのぞき込むような形で見慣れた顔が現れる。俺はそれに驚いたわけではないが歩みを止め、眉を引きずりながら言う。
「なに、どうしたの?」
「あ、おはよーございます」
すると彼女はいけないとばかりに口に手を当て挨拶をする。
「はいおはよ、で何?」
俺はそれに対して適当な挨拶を返しながらあからさまに嫌そうな顔を向ける。すると彼女はニッと笑って放課後の様に俺の左隣を陣取った。
「さっきから呼んでるのに返事なかったので、イヤホンでもしてるのかと思ったんですよー」
「なら顔のぞき込む必要なくない?」
「それはほら、あれですよ、複雑な乙女心と言いますかー」
「お前朝から元気だな」
朝っぱらからあざとくいつもの様に唇に一指し指をあてて見せる彼女を見て疲労困憊。これから学校ではなく病院に向かいたくなってしまう。
そう思いながら肩を回して疲れを軽減させていると、これまたあざとく頬を膨らませた成川が何やらのたまう。
「先輩が無視するのがいけないんですよー」
「先輩って誰のことかわからないからな」
「先輩は先輩じゃないですか」
「何人もいるだろ」
そんな風に文句を言いながらため息を吐く。なんともかみ合わない会話にうんざりしていると、成川はふっと笑って、どこか幸せそうに言った。
「水谷先輩」
「何ですかぁ?」
猫なで声にうんざりしながら振り返りもせずに言うと、成川はふふふと気持ち悪く笑った。
「なに、占いでもよかったの?」
「先輩に会えたからですよー」
そう言った成川の表情は笑顔ではあったけれど、どう見ても作り笑いで言葉のままの意味ではないだろうなと思わざる負えなかった。
だから俺はため息を一つ吐いてから成川に向けて言う。
「あざといなー」
「先輩には負けますよ」
すると成川は待ってましたと言わんばかりにニコッと笑った。
「お前誰としゃべってんの?」
「先輩ですよー」
「あ、そう、邪魔したわ」
そんなことを言って歩調を早めようとする。しかしそれを予知したのか察知したのか、成川は俺の歩みを阻害するように顔をのぞき込んでくる。
「水谷先輩のことを言ったんですよー」
「…………はぁ」
俺はもう面倒になって、ため息と同時に歩調を落として成川を見た。
「朝から何の用?」
俺が問うと成川は、きょとんと首を傾げて見せる。
それにかわいげも何も感じずにもう一度ため息を吐いて言う。
「話しかけてくるってことは、なんか用があったんじゃないのかよ」
「いえ? ありませんよ?」
「はい?」
成川がさも当然の様に言ったから、俺は足を止めて振り返ってしまった。そしてそのきょとんとした顔を見ながら顔をしかめる。
「なんで話しかけてきたの?」
「先輩見かけたので、挨拶をと思いましてー」
俺が問うと成川がまたしてもこてんと小首をかしげて、なんでそんな当然のことを聞くのと言いたげな視線で言う。
俺は若干の鬱陶しさを感じながらも、かけら程度に感心して「ほー」と声を上げた。
「見た目に似合わずまじめだな」
「いえいえ、下心ですよー」
「不真面目だな」
俺が言うと成川は正解とばかりに上目遣いに俺にウインクを投げてくる。俺はそれに引きつった笑顔を返してみた。
「先輩、もっと照れたりとかしてくださいよー」
すると成川は思っていたのと違うと言いたげに唇を尖らせる。どうでもいいけど、なんでお前のウインク一つで俺が赤面すると思ってんの? お前そんなに自分のこと可愛いって思ってんの?
心の中で疑問が浮かび上がるが、それを吐き出す代わりにため息を吐く。
「あざとすぎて何も思わない」
「そんなあざとくないですよー」
「あ、悪い撤回するわ。鬱陶しい」
「…………はぁ」
俺が誤魔化して言うと、成川はなぜか残念そうにため息を吐いてしまう。
「……なに、どしたの?」
自分の可愛さアピールがうまくいかなかったのが気に入らなかったの? と思いながら言ってみると、成川は唇を尖らせて、いじけるように言った。
「先輩、女の子の努力をもっと尊重してくださいよー」
「努力すごいね」
「そういうことじゃないですー」
言うと成川はわかってない、ダメだこりゃと言いたげにかぶりを振った。なんか今すげえ馬鹿にされてる気分なんだけどどうして? 俺変なことした?
そんなことを思いながらはぁ? としかめっ面を向ける。
しかし成川はそれに気付くこともなくのんきに体を揺らし始めてしまった。何、酔っぱらってるの? 昨日飲み会だった? 仕事の飲み会って面倒だよね。あれ残業でしょ。いや俺未成年だからわからんけど。
そんな益体もないことを考えながら、隣に成川がいる状態のまま学校へ向かう。
いつもうるさい成川だけど、朝だからなのか若干言葉数が少ない。挨拶だなんだとまくし立てていたのに、会話が途切れると静かになった。いや静かではないわ。
眠いのだろうか、今日は変わりに変な鼻歌が聞こえてくる。その鼻歌すらもあざとくて嫌気がさすが、ここで歩調を早めたりしたらまたも会話の芽を作ってしまいそうで押し黙る。
そしてそのまま見え始めた校門へと視線を向ける。
これでやっと解放されると思いながらふうとひと息吐けば、それが見事の逆効果で、またしても成川の声が聞こえてくる。
「先輩、もうちょっと嬉しそうにしてくれてもいいんですよ?」
「学校行くに対して?」
「私と会えたことに対してですよー」
「あー、嬉しいなー」
「感情こもってないじゃないですかー」
そんなふうに言った成川だけど、感情がこもっていないのはお互い様だった。
俺はまたしても一つ息を吐きながら、錆の目立つ校門を抜け、凸凹のコンクリートを踏みしめる。
「で、今日のエンカウントは終わり? 帰りは一人にしてくれる?」
「一緒に帰りますよー」
「はぁ……」
予想と違わない答えが返ってきて俺はため息を吐く。何でこんな日に限って気力を消耗しなくちゃいけないんだと思いながら、校舎の奥側にあるかまぼこ型のドームへと視線を向けた。
「終業式なんだからクラスメイトと遊び行けよ」
「先輩といる方が楽しいですよー」
「病院行かなくて大丈夫?」
顔も合わせずに言うと成川は「だいじょーぶですよー」とか気の抜ける声を出した。
そしてそのまま口角を上げて俺に言う。
「先に帰んないでくださいよー?」
「……はぁ」
先に帰るも何も、お前のほうが先に下駄箱に来て待ち伏せしてるだろうと思ってため息を吐く。
「わかったよ」
どうあがいてもこいつは着いてくる。もう何を言っても無駄だな、なんて思いながら無気力にそう言うと、成川は何が嬉しいのか「えへへ」なんて気持ち悪く笑って見せた。
明日から夏休みだというのに、なんで俺はこんな奴に付き合わなきゃいけないんだと思って再びため息を吐く。
「……死ねぇぇぇ」
直後、耳元でものすごい低温が響いて振り返る。けれど背後にもサイドにも人影はない。あるのはいつも通り、左側にある成川の姿だけ。
「え、なに?」
突然の出来事に何が起きてるんだと思って誰もいない虚空に向けて訊ねてみる。
けれど、空気が何か答えてくれるはずもなく、それに答える声は聞こえなかった。
「え、こわっ」
俺はふざけ半分に言いながら、近くにいるであろうやかましいクラスメイトを探してみた。




