第四章 兇刃、錯綜 2
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ぐずぐずと実体を持って体中を締め上げてくる闇の触手がついに首にまで巻きついてきた時、スピカはびくりッと体を震わせて目を覚ました。
〝…ゆ…め……?〟
じっとりと汗ばんだ体に夜着がまといつき、ほどいた長い黒髪が首筋に張りついて息苦しさを誘う。そのために見た夢だと、少女は思い込もうと目を閉じた。まだ大丈夫だから、と昂ぶりを抑えようと呼吸を整える。しかし体は、なかなか恐怖を手放そうとはしなかった。悪寒で指先が小刻みに震えるのを、拳を作って抑え込む。ようやく体の震えが止まった頃、スピカは、ドアの向こうの話し声に気付いてベッドから起き上がった。手櫛で乱れた髪を整え、ガウンを羽織ってドアに近づいてみると、それがディーガル兄弟のものと知れて安堵する。
そっと内側から細く開いたドアに、兄弟が会話を中断した。
「――ここで何をしているの?」
「申し訳ありません。お起こししてしまいましたか」
ラウルスの謝罪に首を振る。
「目が覚めてしまっただけ、あなた達のせいじゃないわ。また寝ずの番?」
アクルクスは、スピカの言葉に思わずたじろいだが、〈オクルス〉との一件を知らないラウルスは、あっさり首肯した。
「交代でお守りさせて頂きます。安心してお休み下さい」
「――…そうね」
アクルクスは、スピカの反応に拍子抜けしつつも、ほっと息をついた。と、閉まりかけたそのドアがふと止まった。
「?」
「…ローラは?」
一瞬誰の事かと目を瞬いたラウルスが、合点して「ああ」と答える。
「〈オクルス〉でしたら自室で休んでいますが…。呼びますか?」
「いいえ、いいの」
ぱたん、と静かに閉まったドアを見つめ、次いで兄弟は顔を見合わせて肩をすくめた。
むせ返るような血臭をまとわせて、グルズは路地裏をよろよろと進んでいた。引きちぎった袖で縛り、止血はしたものの、傷口からじくじくとにじむ血が時折塊となって石畳に滴り落ちる。その左手を大事そうに胸に抱え込み、脂汗を光らせた彼の顔には苦痛と、同時に何故か歪んだ笑みが浮かんでいた。
〝早く焼かなくては…〟
切断された手首の最も手っ取り早い応急処置は、断面を焼いてしまう事だ。でなくては、ゆっくりと失血死するか、壊死を起こして腕自体が落ちてしまう。だが、そんな中でも、グルズの片頬に張りついた笑みは消えなかった。
「俺の腕…一本で、あの…〈オクルス〉を仕留め…られたの、なら…」
安いものだ。
グルズは、苦しい息の下で、ひくついた笑い声を上げた。どん、と石壁に右肩を預け、狂気まじりの笑いを発散する。
「〈オクルス〉め…!」
ざまあみろ、と唇だけが小さく動いた。
〝あのナイフにはたっぷり毒が塗ってある。今ごろはあいつも…〟
即死とはいかなくとも、足腰立たなくなってのたうち回っているはずだ。そのうちに血反吐を吐いてのたれ死ぬ。
グルズは、呼吸がほんの少し落ち着いてくるのを待って、壁から体を引き剥がした。また、よろよろとおぼつかない足取りで先を急ぐ。この少し先の小路を曲がり、あと一区画進めば中央広場、そこを横切ってさらに一区画行けば――。と、その、鞴のように波打つ喉元に、ひやりと冷たい金属が当たった。
「動くな」
グルズは、思わず飲んだ息を、気取られぬようそっと吐き出した。どのみち呼吸は荒い。ディラルには判らなかったろう。
「これはこれは…ディラル殿」
「お前か」
呆れた声音で応え、剣を引いたディラルに、グルズは薄く笑った。
「こんな所で何をしておいでで?」
「お前には関係ない」
苦しげな息の下からでも崩れないグルズの慇懃さに、ディラルは苦虫を噛みつぶす。
「手傷を負ったのか」
「いえいえ、皆様に比べれば大した事はありませんよ」
闇に慣れた目に、ディラルの背後の路地にうずくまる男達が見えた。〈オクルス〉にでも返り討ちに遭ったのだろう、と推測したグルズは、抱えた傷口を見られぬよう上体をひねり、じりじりと小路を曲がった。そして、
「残念ながら」
と、言葉を継ぐ。
「私もあと一歩のところで邪魔されましてね」
少しずつ少しずつ、ディラル達から後ずさり、広場の方へと移動する。
「ですが、〈オクルス〉はもう始末しましたよ。だから安心して…」
グルズは、差し込む月光に浮かび上がったディラルの顔にふと言葉を切った。虚を突かれたその表情の意味を、グルズは回らぬ頭で必死に考える。単なる驚きか? それとも拍子抜けしたのか。
「何て表情…」
「〈オクルス〉を始末しただと?」
ディラルの呆然とした口ぶりに、己の背後に向けられた視線に、グルズの背筋を冷たいものが一気に駆け上がった。構わず、ディラルは人差し指でグルズの後ろを指差した。
「ではお前の後ろにいるのは一体誰なんだ?」
ひい、と。
グルズは大きく喉を詰まらせた。臆面も何もない。振り返った先の、広場を背にして静かに佇む月光に浮かび上がった影は、あの女戦士のものでしかありえなかったからだ。
「そ、そんな…そんな馬鹿な…。あれは、あれはユドの毒だぞ。かすり傷だって助からないはずなんだ!」
牛馬ですらかすり傷一つで死に至る程の猛毒を受けて、何故今ここに泰然と現れる!?
一瞬、外れていたのかと惑う。が、グルズは――多分に願望が含まれていたとは言え――それをきっぱりと否定した。
〝いいや! そんなはずはない!〟
あの時、自分は確かに見た。ナイフが〈オクルス〉の頬をかすめるのを、あの白い髪が数筋か切れて舞うのを、何より彼女が屋根の上でよろめくのを! しかし、それでは?
それでは〈オクルス〉はどうしてここにいるのだ?
不意に、それまで微動だにしなかった〈オクルス〉が、猛然と地を蹴った。
「う、わ…ッ!」
立ちすくむグルズ目がけて突進する〈オクルス〉に反応したのはディラルであった。
「どけッ!」
庇うと言うよりは突き飛ばして、彼はグルズと〈オクルス〉の間に割って入った。が、〈オクルス〉の突進にわずかの翳りもない。それでもディラルは、全身に力を漲らせて打ち込まれた一撃を受け止めきった。双方の剣に刃こぼれが生じそうなせめぎ合いの中、ディラルが肩越しに立ちすくむグルズをせっついた。
「何をしている、さっさと行け!」
思わず口走ってから、舌を打つ。
〝どうしてあんな奴を、俺は…!〟
と、ディラルの気勢が萎えかけた一瞬を感じ取ったか、〈オクルス〉の押しが少しだけ緩んだ。彼がしまったと気付いた時には既に、〈オクルス〉の手から小刀がグルズへと放たれる。が、それに続いたのはグルズの悲鳴ではなく、跳ね返された金属音だった。
「さっさと行け! このドブネズミ野郎!」
振り返るまでもなく耳朶を打った罵声に、休ませていた部下の一人が割って入ったと知ったディラルがその部下を叱りつける。
「馬鹿者、お前達もだ! 今夜は退け!」
「し、しかし…!」
「いらん! 早く行け!」
〈オクルス〉とにらみ合ったまま叫んだディラルは、渾身の力で剣を押した。力負けする〈オクルス〉の靴底で、砂が軋む。そのまま雄叫びを上げて突き進んでくるディラルに広場まで押し戻された〈オクルス〉は、剣を流そうと傾けた。不意を突かれてたたらを踏んだディラルの腹へと〈オクルス〉の剣が疾く駆け上る。ディラルは、それをとっさに引いた剣の柄で受け止め、そのまま仕切り直すべく後ろに跳びずさった。〈オクルス〉が即座に間を詰めてくるはず、と構えたディラルをよそに、〈オクルス〉はその場を動かない。ディラルは思わず不審の目を〈オクルス〉に向け、彼女の息がわずかに上がっているのに気付いた。この程度の鍔迫り合いで? と訝しんだ脳裏に、先程のグルズの悲鳴がよみがえる。
「――なるほど」
ディラルは、歪んだ笑みを口元に浮かべた。
「一応、効いてはいるわけだ」
半ば自棄のように吐き捨てる。ユドの毒と言えばディラルでさえ見知った猛毒だ。どんな処置を取ったか知らないが、少なくともこんなに早く回復するわけがない。
「化け物め…」
畏れよりも、呆れる気持ちの方が先に立った。それから、わずかばかりの戸惑いを覚える。それは羨望だったかもしれない。それが〈オクルス〉の強靭な精神力に対するものかは判らなかったけれども、ディラルの思案は〈オクルス〉がちらと動かした頭に霧散した。間を置かず、背後から部下が彼を呼ぶ。
「ディラル殿! 奴は逃げました! 我々も…!」
馬鹿、と誹ろうとしたディラルは、対峙した〈オクルス〉の右手が剣の柄から離れたのを見て取ってハッとする。刹那、〈オクルス〉のマントが翻った。それでもディラルは飛来した小刀をからくも払いのけた。が、それによって生じた一瞬の隙を突き、ディラルの耳をかすめて別の小刀が後方へと飛ぶ。短く、絶息する誰かの最後の吐息が聞こえた。思わず振り返ったディラルの目に、崩折れる若者の姿が映る。
「貴様ッ!」
吐いた怒声は苦悶に変わる。小刀の刺さった腿を押さえたディラルの左脇を、〈オクルス〉が駆け抜けた。
「ま…待て…ッ!」
ディラルは足を引きずって後を追ったが、毒を受けているはずの〈オクルス〉の姿は既に九十九折れの中に消えていた。
裂いたマントで足を縛ったディラルが旅籠に戻って来たのは、月もだいぶ傾いてからだった。引きずった足は、重りのように歩みを妨げるが、彼は今まで〈オクルス〉と部下達を捜して広場周囲の路地を徘徊していたのだ。しかしそのどちらも――グルズの死体ですら――見つからず、一縷の望みを持ってここまで戻って来たのだった。旅籠の前までようやくたどり着いたディラルは、反対からやって来る人影に顔を上げた。だがその表情が即座に曇る。
「――グルズ…」
名を呼ばれて顔を上げたこちらも憔悴しきっていた。
「ディラル殿…。よくご無事で」
彼の言葉に珍しく揶揄の色がなかったにもかかわらず、ディラルの頭にさっと血が上った。が、こらえて、ディラルは部下は、と問う。グルズは、彼の気持ちを知ってか知らずか、あっさりと頭を振って、ディラルの神経を逆撫でる。
「さあ。いつの間にかどなたもいなくなりましたね」
「貴様ッ!」
ディラルは、足の痛みも忘れてグルズにつかみかかった。
「なんて言い草だ! 助けてもらっておいて!」
「お言葉ですがね」
と、グルズの口調に苛立ちがにじんだ。
「私は助けてくれと言った憶えはありませんよ。そちらが勝手になさった事でしょう。それに!」
グルズは、ディラルの手を強引に払った。血走った目がぎらぎらと光を放つ。
「あなた方がさっさとスピカ姫を殺していれば、私だってこんな目に遭わなかったんだ!」
そう言ってグルズは、先を失くした左手をディラルの鼻先に突きつけた。
「この口先ばかりの穀潰し共め!」
「言わせておけば、貴様!」
グルズを突き飛ばしたディラルは思わず剣に手をかけたが、目ざとく見取ったグルズがその機先を制する。
「俺を斬る!? ああ、そうだろうよ! 所詮お前達は素手の相手しか殺せない腰抜けだ!」
「うぐ…」
「どうした、斬ってみろよ!」
グルズは、柄に手をかけたまま臍を噛むディラルをさらに嘲笑った。
「どいつもこいつも役立たずだ! チェイン様のご苦労が知れる!」
その名が、ディラルに残っていた最後の自制を奪い取った。気がついた時、間者は血だまりの中で息絶えていた。
我に返ったディラルの胸に去来したのは、どうしようもない程の虚脱感であった。
〝俺は、俺達は一体何をしてきたのだ?〟
任務のために命を落とすのなら、いい。だが、こんな奴を助けるためにあたら若い命を散らせてしまったとは。自分なら良かったのに、とディラルは顔を覆った。思わず飛び出してしまった自分なら、再三にわたる失敗に対する責任を取る意味でも、死んだのが自分一人なら良かったのに。それならばこんなに、どうしようもなく情けない思いをせずに済んだものを、と後悔する。
〝そもそも、俺はどうしてこんな奴を庇うなんて馬鹿な真似をしたんだ?〟
見過ごせなかったとか、哀れに感じたからなどという気持ちは認められなかった。認めてはいけないと、それを認めてしまっては一層部下達に顔向けできない気がして、ディラルはグルズの死体をにらんだ。違う、俺は、〈オクルス〉に好き放題させたくなかったんだ。グルズを見殺しにできなかったからじゃない。そうとも!
〝こいつにそんな価値があるものか!〟
この街の何の関係もない人間をだまして囮にした挙句に殺しておいて悪びれもしないばかりか、部下達に守ってもらってここまで逃げ延びたにもかかわらずあんな暴言を吐くような下衆。他人の好意や善意を利用してせせら笑うようなクズだ。そんな行為に値する奴じゃない! 絶対に!
ディラルは、ゆっくりと剣を振り上げた。
グルズは皆の働きに値する男ではなかったが、最後に一つだけ、ディラルの役には立てる。それがせめてもの、彼の救いであった。
冴え冴えとした月光に〈オクルス〉が見出したものは、かつてはグルズと呼ばれた男のなれの果てだった。固まりかけた血だまりの手前まで歩み寄り、消えた首を探して頭を巡らせる。そして、それがどこにもないのを確かめた〈オクルス〉は、初めて天を仰いで、疲れた吐息を吐いた。