第四章 兇刃、錯綜 1
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二度目の襲撃も失敗に終わったディラル達が宿に戻って互いの手当てをし始めた頃、ふらりとグルズが彼らのもとに姿を現した。そして部屋に入るや、目を眇めて一同をねめ回す。ディラル達もまた、嫌悪と苛立ちのこもった視線を黙して返したが、グルズは倣岸にそれを無視した。
「――がっかりですよ、皆さん」
冷めた一言が彼の口から吐き出されたのは、むしろディラル達の方がにらみ合いに戸惑いを覚え始めた時であった。
「あれだけお膳立てをしておりましたのに失敗とは。もう少しマシな方々と思っておりましたものを」
しかしこれだけの侮蔑に、何を、といきり立つ者は一人もいなかった。グルズの冷言に反応できる程の精神的余力が、彼らには既にない。それ程までに、今回の失敗はディラル達を消沈させていた。だが、たちこめる陰鬱な空気を、グルズは受け流し、続けた。
「こんな事ではいつまでたってもチェイン様に…」
「判っている」
いっそ怖い程に静かな声音で、ディラルはグルズの言葉を遮った。こめかみに受けた裂傷に洗いざらしの包帯を巻いてもらう彼の目は、ささくれた床板に落ちたまま動かない。数拍おいて、彼は、今度は自らに言い聞かせるように繰り返した。
「――判っている」
グルズにとやかく言われるまでもなく、腕に憶えのある彼らにしてみれば、二度も撃退されるなぞ、考えてもいない事態である。いかな〈オクルス〉相手とは言え、前回と違い正面きって挑めばなんとかなると踏んでいた。しかも――グルズの勝手な采配ながら――いかなごろつきとは言え市井の者まで囮にして、結果的にそこまで堕ちた手まで使って。第三のグループの乱入があった事は慰めにも言い訳にもならぬ。彼らが飛び込んで来るまでに目的を遂行できていれば良かった話なのだから。ふと、ディラルは、嫌な胸騒ぎを覚えて「そういえば」と口を開いた。
「彼らはどうした?」
「――ああ」
一瞬ディラルの問いをつかみきれず目を見張ったグルズは、すぐに察してそう答えた。
「ご心配には及びませんよ。始末はしてきましたから」
「始末だと…?」
「負け犬程、よく吠えますのでね」
馬丁達が警邏の者を呼びに行き、アンゲルス神官とネウラが宿に手当てに必要な薬を取りに行ったわずかな間に、グルズは荒くれ達の首を掻き切ったのである。ほんのわずかな慰めと言えば、彼らの意識がまだ戻っていなかった程度の事だが、無論実際の救いにもなっていない。冷えた沈黙が流れた。
「――グルズ殿」
ディラルがようやく口を開いたのは、かなり時間が経ってからだった。それを受けて、ただじっと沈黙を守っていたグルズがちらと眉を上げる。それでも先を促すべく口を挟もうとしなかったのは何か考えての事だろうが、ディラルは知った事かと黙殺した。
「今夜もう一度仕掛ける。今度は手を出さんでくれ」
「――いいでしょう」
すう、と目を細めてグルズがそれに答えたのは、探るような沈黙の後だった。
「ですが、あなた方が失敗した場合は勝手にやらせて頂きます」
「好きにしろ」
結局、誰とも一度も目を合わせる事なく、グルズは静かに退室した。
〝もう一押ししておくか〟
グルズは、閉じたドアを眺めやって、ふむと考えを巡らせる。二度の失敗は思った以上に彼らを追い詰めているが、悲壮感の方が強い。それでは少々不安があった。雪辱に玉砕を選ぶのは勝手だが、それは目的が達せられればの話だ。こちらに対するものでもあちらに対するものでもいい。前向きな士気になるのなら、怒りをかき立ててやる必要があるだろう。どうせ単純な剣士だ、手はいくらでもある。だが、とグルズは階段を降りながら別の角度で思案を始めた。なるほど確かに〈オクルス〉は手強いし新たに出現した第三のグループの存在も気にかかる。彼らの目的がこちらと同じなら問題はなかったのだが、どうやらスピカの護衛役のようだ。自らが口八丁でそそのかした男達の口封じをした後で様子を探ったところ、微妙な緊張感をえながらではあるものの、彼らは旅籠で合流を果たしていたのだ。これでこの仕事の難易度はさらに上がったと見るのが妥当だろう。そこまで考えを巡らせたグルズは、やはりな、とあっさり頷いた。
〝もう少し使えるかと思ったが、そうした方が良さそうだ〟
グルズは、ほくそ笑むでなく苛立つでもなく、ただ刃の欠けたナイフでも捨てるかのようにそう決断した。欠けたナイフも研げば甦る。が、彼はそれに対する労力を拒否した。
「我々は、スピカ様達がご出立されて一日と空けず城に着いたのです」
荒くれ達の骸を駆けつけた警邏の者に任せ、ひとまず詮議を明日に伸ばしたスピカらは、旅籠の一番奥の部屋に集まってこれまでの経緯をラウルスに問いただそうとしていた。部下を背後に負うた青年は、いまさら隠し立てしてもいと判断したのか、ゆっくりと話し始めた。対して卓向かいに座るスピカは、〈オクルス〉とアクルクスを背に静かに耳を傾ける。
「帰城の御報告に伺った際、そのままスピカ様達の護衛に向かうよう命じられました。それで私は、この数名とすぐに城を発ったのです」
「だったら…!」
思わず声を上げたのは、スピカではなくアクルクスであった。不遜に気付いて口を押さえた青年に、少女は構わないと目配せする。アクルクスはそれを受けて、再び兄に詰め寄った。
「それならどうしてこそこそと後を尾け回すような真似をしたんだ! 御屋館様の命令なら堂々と合流すればいいだろう!?」
「それができればな」
ラウルスは苦笑混じりに弟を見やった。続いて噛み付かれる前に手を挙げて説明にかかる。
「俺はいろいろな御用で領内をあちこちしているからな、顔見知りにでも遭ったらまずいだろ? せっかくのお忍びが水の泡になってしまう。それに――」
ちら、と〈オクルス〉に目をやる。
「心強い道連れもできたようだったし、それなら影に徹した方が何かと動きやすかったのでね。しかし、そのためにスピカ様には御不快な思いをさせてしまいました。申し訳ありません」
ラウルスの最後の言葉は、伏してスピカへと向けられた。ラウルスの言葉に嘘はない。むしろ理に適っていると言っていい。それに、と少女は小さなため息をついた。ラウルスは決して口に出しはしないだろうが、彼の行動の理由の一つにはアクルクスへの深慮があったはずだ。ラウルスが合流すれば、アクルクスは自分が信用されていないと考えるだろう。そして、自尊心を傷つけられた痛みと信用を勝ち得なかった自身に対する自責に、彼がひどく悩む事になったのは想像に難くない。スピカに簡単に想像できるものが、ラウルスにできぬはずがない。無論、今となってはアクルクスもそれに気付いているはずだ。スピカはまた――傍目には判らないように小さく――ため息をついた。
「――仕方ありませんね」
そう、スピカが結論を出したのは、間もなくであった。
「この先、大神殿まで人家らしい人家もあまりないという話ですから、ラウルス達がいても支障はないでしょう。同行を許可します」
途端、室内は安堵の空気に包まれた。後ろで気と手を揉んでいたネウラが大仰なまでの吐息を吐いてスピカに歩み寄り、ラウルス達が頬を緩ませる。スピカは、そんな彼らの様子ををぐるりと見回し、〈オクルス〉の鉄面皮とアクルクスの複雑な表情を捉えて、予想通りの反応にむしろほっとした。特に〈オクルス〉が気を悪くしたのではなさそうだという点に。
ひとまず落ち着きを取り戻した一行は食事を済ませると、それぞれに割り当てられた部屋へと下がった。アンゲルス神官の常宿というだけあって、いきなり倍に増えた人数に対しても宿の者達は即座にラウルス達の部屋の用意を整えてみせた。さすがに個室とまではいかなかったものの、離れになる棟二階の一番奥の続き部屋にスピカとネウラ、その手前にディーガル兄弟、そして〈オクルス〉、ラウルスの部下達という部屋割りを誂えてくれたのはありがたかった。アンゲルス神官は大事をとって、一般の客室の方に泊まる事となり、スピカの警護には剣士達が交代で夜番に立つ事にして、他の者はさっさと寝台に入る。〈オクルス〉もまた、黙って部屋に入っていった。誰もが、警戒を怠らないにしろ、今夜襲撃はないだろうと踏んでいたのだ。解散して幾許も経たぬうちに夜番を除く殆どの者が寝息を立て始めたが、そんな中アクルクスだけがまんじりともせず、寝台の上からランプの煙で煤けた天井をにらんでいた。隣の寝台から早くも聞こえてきたラウルスの軽いいびきが嫌でも耳につく。いや、どうしても頭から離れないのはその存在そのものだった。心強いと思わないと言えば嘘になる。嬉しくないと言うのもそうだ。しかし、と青年は寝返りを打って兄に背を向けた。
〝自分はどこまでいっても「ラウルスの弟」でしかないのか〟
物心ついてからずっと、そうだった。三歳年上の兄はその時から既に完璧な存在だった。読み書きも馬術も剣術も、当然の事ながら一つも敵いはしなかった。常に前にいて、周囲の称賛を受ける兄が、幼い頃には素直に羨ましかったし自慢でもあった。でも長ずるに従って、羨望には妬ましさが、自慢の裏にはしおたれた自己卑下が顔を覗かせ始めていた。ラウルスが冷たい男だったら良かったのに、と。いっそ鼻持ちならない嫌な奴だったら、アクルクスを見下してくれたなら、彼も兄を嫌いになれたのに。
アクルクスは毛布を頭の上まで引っ張り上げた。そうさ、と目を閉じ、ちくしょうと毒づく。ラウルスはそれすらさせてくれない。こんなアクルクスの目から見ても、兄は非の打ちどころのない好人物だったから。邪険にされた事は一度だってない、弟思いの良い兄だから。だからこそアクルクスは時折こうしたジレンマに圧つぶされそうになる。父母ですら、兄のようにと彼を押さえつける。
兄のように、兄のような。
もちろん毎度口に出して言うわけではないが、言外に込められた露骨とも言えるその期待が、重い。だからこそ口に出せない言葉が、胸の中に澱の様に降り積もっていく。
自分は自分だ、と。
だが同時に、そう言い切れない自分の不甲斐なさが、素直にラウルスを尊敬しきれない卑小な自分自身が、嫌いだった。
〝ちくしょう…!〟
また、声に出さずにそう毒づいたアクルクスは、被った毛布の下で、両腕に頭を抱え込みながら体を折った。
それからしばらくして、うとうとしていたアクルクスは、何か物音を聞いたような気がして顔を上げた。闇に慣れた目に、寝台から下りようとしている兄のぼやけた姿が映る。夜番の交代だろうか。
「兄さん?」
「シッ!」
鋭い制止にアクルクスも跳ね起きる。枕元に立てかけておいた剣をつかむと、忍び足で、気配を探っている兄へと近づく。
「…さっき、中庭の方から人の声がした」
アクルクスの方に上体を傾けたラウルスは、弟の耳にそう囁いた。
「気の回しすぎかもしれんが…」
その時、階段の方で確かな物音がした。
「!」
一瞬、互いに顔を見合わせた兄弟は即座に部屋を飛び出した。スピカの部屋の前に立つ部下に動くなと厳命し、同様に飛び出してきた二人の部下に灯りを持って来いと指示して先に階段へと向かう。せまい廊下の突き当りを右に折れれば階段だ。が、不意に耳朶に響いた空気を割く音に、ラウルスはとっさに弟を押さえて飛びずさった。間髪入れず、寸前まで彼らの足があった場に何かが突き刺さる。一拍遅れて駆けつけてきた部下の持つ灯りに、床に突き刺さった剣身がぎらりと光った。
「〈オクルス〉!」
弟の声にハッと前を見やれば、仁王立ちの〈オクルス〉が階段の下を静かに見据えている。その手に握られた鞭が、次の挑戦者を牽制するかのごとく低くうねっていた。間を置かず、アクルクスの声と灯りに奇襲の失敗を察したか、階段下で慌ただしい足音が駆け去っていく。
「追え!」
とっさに飛んだラウルスの指示に、剣を手にした二人の部下が従う。荒々しい足音が旅籠を駆け出していくのを見送るように佇んでいたアクルクスは、同様に立ったままの〈オクルス〉に改めて目をやってぎょっ、と息を飲んだ。慌てて顔を背けながら文句をつける。
「何て格好だ! 恥ずかしくはないのか!?」
弟の悲鳴じみた言葉に〈オクルス〉を見やったラウルスも、おや、と困ったように目を反らす。アクルクスの言う通り、彼女の格好は下着姿と表現しても過言ではなかった。だが当の本人はまるで意に介していない。ひゅん、と鞭を一振りして手元に引き寄せ、無造作に兄弟に向き直る。
「――…恥じらえば待ってくれる相手などいない」
そのまま二人の間を割るようにして部屋へと戻っていく〈オクルス〉の背に、思わずアクルクスが「この野郎!」と拳を固めた。
「なら自分達に任せて寝てろ!」
「レオン」
ラウルスが、弟の肩をつかんで押さえる。
「残念ながら彼女の言う事は正しい」
「しかし…!」
まだ気の済まない顔のアクルクスに、こちらも無理矢理納得したような笑みを浮かべたラウルスが、吐息を吐くように続けた。
「俺達が出遅れた事は確かなんだからな」
肩に置かれた手に、ぎゅっと力がこもる。それを受けて知らず、アクルクスの体から力みが消えた。
「兄さん…」
「戻ろう。夜番を交代してやらなくてはな」
アクルクスは、頷く代わりにため息をもらした。
追跡に出た部下達が戻ってきたのは、それからしばらくしてからだった。うち一人が手傷を追っており、ラウルス達の部屋で手当てを受けながら経緯を語ったところによると、あらかじめ打ち合わせてあったらしく、彼らは旅籠を出た途端に散開して逃亡したのだという。こちらも散って追えばかえって危険だと判断した彼らは、一番近くにいた二人に当たり(、、、)をつけて追跡にかかったのだが、路地を細かく引き回された上、物陰から斬りかかられた。なんとかそいつを斬り伏せたものの、追っていたもう片方の男にはまんまと逃げおおせられてしまったという。
「…まあ、ケガが軽くて何よりだ」
包帯を巻き終えたラウルスが、部下のケガをしていない方の肩を軽く叩く。
「二、三日動かさなさければ剣も持てるだろう」
「すいません」
ラウルスは、頭を下げる部下の背をまたポン、と叩いて休むようにと告げると、剣を持ってスピカの部屋に向かった。
「異常はないか?」
「はい」
ラウルスは、しゃちほこばって答える弟に苦笑を浮かべながら、その横に並んで壁に背中を預けると、今聞いてきた部下の報告を手短に伝えた。聞き終えたアクルクスが、拳を掌に打ちつける。ラウルスは黙ってアクルクスの気が落ち着くのを待ってから、その胸元を手の甲でぽん、と叩いて、のんびりとした口調で話題を変えた。
「ところでレオン、〈オクルス〉は?」
「さあね」
と、予想通りのふて腐れた口ぶりでそう答えた弟に笑いを噛み殺しつつ、
「あれっきりか?」
と続ける。アクルクスが頷いた。
「自分が寝てろと言ったから寝てるんだろう。まったく、これっぽっちも協調性がないんだ。何を考えてるか、知れやしない」
「だが腕は立つ」
ラウルスの言葉に、アクルクスは思わず喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。これまでの旅程で見た中だけでも、剣や馬はもとより鞭にナイフ投げまでこなす多才ぶりは、彼女の実力の底の知れなさを垣間見せていた。しかもそのどれもが人並み以上とくれば、舌を巻くより他ない。無論彼らとて弓や槍など、一通りの武器は扱えるよう修練を積んではいるが、剣に比べれば自ずと練達の度合いは違ってくる。ラウルスは、危うく斬り落とされかけた喉元をさすりながら呟いた。薄く裂かれた皮膚の感触が、否応なくあの時の戦慄を甦らせる。
「しかも女の身で細剣とは恐れ入る」
「クレイモアー?」
アクルクスは、耳慣れぬ名称に眉根を寄せた。
「レイピアだろ?」
「違う」
ラウルスは、喉元に当てていた手で今度は顎をさすり、向かい側の壁の下の方をじっと見つめながら答えた。
「レイピアなら奴らと打ち合った時に折れてるさ。それにあれは突きしかできない。クレイモアーは俺達の長剣と殆ど変わらないんだ。違いと言えば、鍔飾りと切れ味位のものさ」
「じゃあ…?」
「そう、重さも殆ど変わらない。それを〈オクルス〉は、女の身で、しかも時に片手で振り回しているんだ」
ぞっ、とする。
彼らの剣は意匠の差こそあれ、全長は長身の兄弟の半分以上、実重量は四キロ近くある。それを自在に、それも長時間にわたって扱えるようになるまで、兄弟はかなり苦労した記憶を共有していた。仮に〈オクルス〉の剣が軽量の方だったとしても、クレイモアー自体の実重量が三キロを下回る事はないだろう。赤子一人振り回しているようなものだ。実際に持ち比べてみればはっきりするのだろうが、〈オクルス〉が剣を一時といえどこちらに預けるわけがなかった。アクルクスは、軽く頭を振ってこみ上げた思いを打ち消した。馬鹿な、と今自身が考えた事を否定する。
〝あいつが…〟
アクルクスは、戻ってきそうな考えを完全に消し去るために、ラウルスに顔を向けた。そうだ、そんなもの、認めるわけにはいかない。――〈オクルス〉に対する感嘆の念など。
「…兄さんはあいつの剣をいつそんなにじっくり見たんだ? それに、よくそんな剣の事を知ってたね」
「ああ、細剣は鍔が上向き、つまり剣身の方に少し上がっているのが特徴なんだ」
弟の胸中を知ってか知らずか、ラウルスはそれ以上〈オクルス〉に話を戻す事なく、兄弟はスピカ達を起こさぬように潜めた声でこれからの事などを話し合った。
それからしばらくして――。
下弦の月がようやく天頂に達しようとした頃。ひた、と、不気味なまでに音もなく、手がかりもないはずの旅籠の壁をつたって、一つの小柄な影が密かにスピカの部屋へと移動していた。足がかりといえば雨よけのわずかな張り出しだけにもかかわらず、危なげな素振りなど微塵も窺がわせない。影は、爬虫類を思わせる動きで、じりじりと壁を伝い進んでいった。その手が、目的地たる窓へそろり、とのびる。刹那、一本の細い小刀が指をかすめて鎧戸に突き立った。
「!」
びくり、と動きを止めた指の先で、雲間から射した薄い月光に小刀が剣呑な光を放つ。影は、驚きから一瞬で立ち直ると、ガラスのような目を地上に向けた。きちんと手入れされた裏庭に立つもう一つの影が、紅く光る目で頭上の影をじっと見据えている。――〈オクルス〉。
〈オクルス〉のマントが再び翻ったと見るや、影は二本目の小刀が鎧戸に突き立つ前に見事な身のこなしで裏庭に飛び降り、そのまま暗がりに溶ける。が、〈オクルス〉もまたすぐさま地を蹴り、すべてが白日の下にあるかのように、決然たる足取りで影の後を追った。
影は、グルズだった。グルズは、〈オクルス〉がぴたりと後を尾いて来るのに小さく舌打ちをすると、小さな路地を急に折れて適当に積み重ねられた物を踏み台にして塀、次いで屋根の上へと逃れた。その足が寸前まで確かにあった空間を、〈オクルス〉の黒い鞭がかすめる。しかし、グルズが、ふっと気を緩められたのはわずか一瞬の事だった。スナップをきかせて軽く鞭を引き戻した〈オクルス〉が、グルズに劣らぬ身軽さを見せて後に続いたのだ。何の苦もなく屋根の上まで追ってきた〈オクルス〉に背筋を冷やしながら、グルズは覚悟を決めた。屋根から屋根へと飛び移りながら懐に右手を入れる。そして、とある大きな天窓の陰を通過する際に〈オクルス〉に見られぬようさっと抜き出し、逆手に握って腕にぴたりと添わせたそれは、ペシュカドと呼ばれる鍔のない曲刀で、しかも弓なりに曲がった刀身は艶のない闇色に塗りつぶされていた。夕刻、荒くれ男達の首を掻き切ったはずのそれには、既に血曇りの一つも見えない。きれいに拭われ研ぎ直されたペシュカドは、グルズの腕のシルエットに隠れて〈オクルス〉には判らないはずだ。グルズは、慎重に走る速度を落として〈オクルス〉が自然に追いついてくるよう仕向け、彼女の足音が背後に差し迫ったその時、屋根に葺かれたスレート板の欠け《・・》につまずいてみせた。そして、〈オクルス〉がまさに間合いに踏み込み抜刀すべく剣に手をかけた瞬間、くるりと振り向きざま、立ち上がる勢いのそのままに、〈オクルス〉の腹めがけてペシュカドを振り上げる。
ガキン!
予想外の衝撃と金属音に、グルズは凍りついた。
「そんな…ッ?」
思わず驚声を洩らした彼の目に、剣を抜きざまにしてペシュカドを受け止める〈オクルス〉が映る。一瞬、偶然かと思った。剣士の、鍛えぬかれた反射の賜物かと。が、見下ろしてくる〈オクルス〉の冷ややかな視線に、左手で抜かれた剣に、グルズはすべて読まれていたと悟った。とっさに、背後に回っていた左手が後ろ腰に挿していた短剣をつかみ、〈オクルス〉目がけて突き出す。プッシュ・ダガーという暗殺用の特異なそれは、柄に対して垂直についた刀身を指の間から出し、殴るように相手の体に刃を押し込む事ができるうえ、握り替えれば刀身を完全に手の中に隠しおおせる、グルズ愛用の物だった。しかしこれもまた〈オクルス〉には届かない。滑るように半歩退いた〈オクルス〉の、右肘右膝を上下から叩きつけられひしゃげたグルズの左手首が、力を失くしてだらりと垂れた。
「ぐあ…ッ!」
グルズは、砕かれた手首の痛みにくぐもった悲鳴を上げた。とっさに大きく跳びずさる。だがその後を〈オクルス〉がさらに追った。
「!」
開けたはずの間を瞬時に詰められたグルズは、即座に粟立った恐怖に従って折れた左手で身をかばった。おぼろげな月光を白刃がよぎったと見えるや、グルズの左手が宙に舞う。けれど、彼の反撃は早かった。切断された左手首を握り締め、そのまま足を踏み外して吹き出す鮮血とともに屋根から落ちるように見せかけて、左袖の下に忍ばせていた細いナイフを二本、〈オクルス〉へと投げる。他と同様、こちらも刃を黒く塗りつぶされ、この月明り程度では視認できない。けれど、うち一本が〈オクルス〉の片頬をかすめただけで、もう一本は完全に的を外した。避けられたのか、単に狙い損ねてしまったのかは判らないが、グルズの足掻きは無駄に終わったかのように見えた。しかし。
落ちていくグルズの、脂汗と血に塗れた顔が、確かに笑った。そして、無傷のはずの〈オクルス〉の体が、かすかによろめいたようにも。
路地の闇の中で、何かが崩れ落ちる音が鈍く響いた。