第三章 宵闇の襲撃者 2
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本人達の希望をよそにスピカ一行が街の外門をくぐったのは、もうすっかり日も落ちて街の門が閉じられる寸前であった。平地の街ではあまり見られないが、このサクスのような山間部の街々では夜間の野盗による襲撃や獣の害を防ぐため、街の周囲にぐるりと高い石塀を張り巡らせており、朝夕の定められた刻限に北と南の大門を開閉する。その刻限に間に合わなければ、旅人は門の近くで野宿する他ない。だがなんとかそれに間に合った一行は、次いで宿探しに移った。夕刻の雑踏をかわしながらアンゲルス神官の先導で馬車を進めていくと、街の中心部から少し入った所に感じのいい旅籠が見え、疲れ果てていた一行はそのままそこに逗留する事に決める。普通なら一日かかる旅程を半日で進んだとあって、護衛の二人はともかく他の三人はさすがに疲労の色が隠せずにいた。だがあの、横道を走って行った蹄の音を聞きつけてから、〈オクルス〉が皆にそれとは認識させぬように少しずつ速度を上げていった事にも実は遠因がある。アクルクスに気づかれ問いただされた時にも、彼女は刻限を理由に反論を封じたが、実際は無論、襲撃者達に少しでも時間を与えないためであった。しかし、それをアクルクスに斟酌しろというにはあまりにも〈オクルス〉は無表情すぎた。
旅籠の大木戸を開けて厩に馬車と馬を引き入れ、下ろしたスピカ達をその場に残して宿の馬丁にその両方を預けようとした〈オクルス〉に、先に馬を預け終わったアクルクスが大股で歩み寄る。
「――何を考えている?」
直入な問いかけに、〈オクルス〉はしかし動じず、静かな視線を青年に返す。アクルクスも構わず先を続ける
「刻限などと表向きの理由で隠せると思うな。何がある?」
〈オクルス〉の口元に、ふと面白がっているような笑みがほんのわずか、上った。が、それはすぐに消える。
「襲撃があると言ったろう」
「だからそれがいつかと――!」
〈オクルス〉に詰め寄ろうとしたアクルクスは、大木戸の乱暴に開く大きな音に言葉を切った。反射的に振り返ったその目に、荒くれ達がスピカに駆け寄る姿が映る。
「スピカ様!」
叫んだアクルクスの顔のすぐ横を細い小刀が飛び、悲鳴を上げる少女の腕をつかんだ男の肩に突き刺さる。
「!?」
青年が目をやる間もあらばこそ、〈オクルス〉が脇を駆け抜けていく。出遅れたアクルクスは舌打ちをし、すぐさま彼女に続いた。ほんの十数歩の距離とはいえ一足飛びで間を詰めた〈オクルス〉は、肩を押さえてわめく男の鼻骨を抜刀した剣の柄頭で叩き潰し、昏倒する男には一瞥もくれずに別の男によって大木戸へと連れ去られようとしているスピカへと走った。が、その右肩を誰かが強引に引き戻す。
「!?」
右、というのが反応の遅れを誘った。死角の一瞬の隙を突かれてバランスを崩す〈オクルス〉に、荒くれ達が一斉に襲い掛かる。
「このアマ!」
「〈オクルス〉!」
抜刀しながら駆け寄ってくるアクルクスに、〈オクルス〉は手近な荒くれを殴り飛ばし、叫び返す。
「構うな! スピカを!」
言ってるそばから数人の男達を斬り伏せ蹴り飛ばす〈オクルス〉に、アクルクスは迷わず少女が連れ去られようとしている大木戸へと走った。
「お姫様!」
「ローラ! アクルクス!」
「スピカ様!」
「待てよ! 行か…」
青年の前に立ちふさがろうとした男が不意に転倒する。それが足首に巻きついた〈オクルス〉の鞭に因るものと見もせずに、アクルクスは倒れた男の体を軽々と飛び越えて少女を追った。
「スピカ様!」
「アクルクス!」
髭面の男に抱えられたスピカの怯えた顔を目にした瞬間、アクルクスは振りかぶった剣を躊躇なく振り下ろしていた。鮮血とともにほとばしった絶叫に、ハッと我に返る。肩から腰にかけて袈裟懸けに背中を割られた荒くれの腕からスピカが放り出されるが、アクルクスはその男から目が離せずにいた。
「アクル…?」
様子のおかしい青年に、上体を起こしたスピカが気がかりそうに声をかけようとした刹那。彼女が背にしていた大木戸がまたも弾かれたように開くや、ディラル達が飛び込んで来た。
「アクルクス!」
撃ち付けるような〈オクルス〉の声に我に返った時には少し遅かった。
「きゃあッ」
「スピカ様!」
が、またしても〈オクルス〉の小刀がディラル達の機先を制す。
「〈オクルス〉か!?」
左の手の甲に突き刺さった小刀を気丈に引き抜いたディラルの目に、数人の荒くれ達を叩き伏せた〈オクルス〉が突進して来る姿が映る。彼らが〈オクルス〉達に襲い掛かってからわずかにまだ五分と経っていない。
〝化け物め!〟
鋭く舌打ちしたディラルは、剣を抜くと〈オクルス〉に向かった。
「お前達は姫を!」
「させるか!」
アクルクスがスピカに手を伸ばした剣士達に斬ってかかる。しゃにむに斬りかかって来る青年に、剣士達がスピカとアクルクス、どちらに向かうか一瞬躊躇したその時、開け放たれていた大木戸から更なる一団が突っ込んできた。フードをに被った彼らは一団となって襲撃者達を体当たりで突き飛ばし、他には目もくれず真っ直ぐに立ちすくんでいるスピカに駆け寄ると、先頭の男が少女を軽々と抱き上げる。
「――ご無礼を」
〝え!?〟
耳元で囁かれた謝罪の言葉に、スピカは思わずもがくのをやめた。
〝今の…?〟
しかし誰何している間もなく、スピカはこの疾風のような一団によって瞬時に大木戸より連れ去られた。収まらぬのはとんびに油揚げをかっさらわれたディラル達である。
「お、追え!」
その浮き足立った隙を見逃す〈オクルス〉ではない。ぎりぎりと剣身を突き合わせてのせめぎ合いだったディラルの腹を蹴り飛ばし、よろめく剣士のこめかみを柄頭で打ち据えて地に倒す。間を置かず再び鞭を手にした〈オクルス〉は、アクルクスと斬り結んでいる男の剣にそれを振るった。
「アクルクス!」
鞭をぐいと引き寄せながら駆け寄る。そして、よろめく剣士を無下に足がかりにするや、大きく跳んだ。
「私が追う! ここを頼む!」
言い捨て、軽やかに塀の上に着地した〈オクルス〉は、そのまま細い塀の上をつたって追跡に移った。確かに通行人や野次馬に足を止められず、敵を発見しやすいルートではあるが。しかも。
「――『頼む』だって?」
立ち上がり、再び彼の足止めにと剣を構える剣士に相対しながら、アクルクスが眉を寄せる。
〝あいつの口から出る科白じゃ…〟
アクルクスの口元が、皮肉と苦笑に歪む。
「ないよな!」
アクルクスは、大上段に構えた剣を相手に思い切り叩きつけた。
スピカを抱きかかえたままのフードの一団は、夕刻の、宿や食堂を探す人々なぞおらぬかのように通りを駆けていた。が、先程の襲撃者が三人、抜刀したまま追ってくるのを見て、手空きの二人が足を止めた。
「ここは我らが!」
「頼む!」
何しろ周囲に構わず抜き身の剣を振り回している連中である。居場所を知られる知られない以前に、怪我人が出て大事になったのでは彼らとて進退きわまる。残った二人は、周囲に語気荒く「離れてろ!」と命じるや、こちらも抜刀して迎え撃った。
背後に激しい鍔競り合いの音を聞きながら、残りの二人は通りから離れて路地に駆け入って行く。だがその騒然とする通りを避けて屋根の上を移動する影には誰も気付かなかった。
一方、アクルクスの足止めに残っていた剣士は、〈オクルス〉に殴られて倒れていたディラルがよろよろと起き上がったのを見て、不意にアクルクスの腹めがけて蹴りを放った。
「!」
とっさに避けるも、それでバランスを崩して尻餅をつくアクルクスをよそに、剣士はディラルに手を貸して遁走にかかった。
「ディラル殿! しっかり!」
「すまん…!」
アクルクスは、彼らを逃がすまいと素早く立ち上がったが、アンゲルス神官の声がそれを一瞬押しとどめた。
「アクルクス殿!」
青年が思わず振り返ったその間に、ディラル達は大木戸を抜ける。あっ、と声を上げるが、遅い。それでもアクルクスは転がる荒くれ達を前におろおろしているアンゲルス神官や馬丁達に彼らを縛り上げておくよう指示し、ディラル達を追うべく――スピカの事は不本意ながら〈オクルス〉に任せる他ない――通りへ飛び出していった。既に人込みの中にディラル達の姿は消えてしまっていたが、少し離れた先から聞こえる鍔迫り合いを頼りに、アクルクスはいったん剣を収めながら駆け出した。
地元の者ですら迷いそうな程に入り組んだ路地を走り続けていたフードの男達は、頃良しとみてようやく足を止めた。
「ここまで来ればもう追って来れますまい」
「そうだな」
部下の言葉に安堵の色のにじんだ声音で応じた男が、自らの腕に抱えたスピカに目を落とした刹那、上から音もなく何かが降って来た。
「!」
ばさりという布のはためく音にハッとした時には、喉元に剣を突きつけられていた。ガキン、と家屋の壁に激しくめり込んだ切っ先が〈オクルス〉の激情を表していた。
「――降ろせ」
抑えた声がそう命じるのに、男が口を開こうとした瞬間、彼の首に紅い筋がにじむ。
「降ろせ」
「ま、待って! ローラ!」
剃刀のような〈オクルス〉の気迫に言葉を失っていたスピカが、慌てて間に入る。そして急いで男にも声をかけた。
「降ろして。もういいでしょう?」
「は…」
男は〈オクルス〉にちらと目をやり、彼女がわずかに体を離してくれたのに合わせてスピカを地面に降ろした。が、少女が自由を得るや再び喉元に剣身が押し付けられる。
「――何とも手厳しい事で」
「当たり前です」
男の軽口に珍しく立腹の色を見せて言い返したスピカが、続いてフードを取るように命じると、彼はあっさりそれに従ったばかりか、それまで手が出せずにいた部下にも顎をしゃくって自分に倣うように指示した。そうして現れた顔に苛立たしげな吐息をつくスピカ。
「――ご紹介しますわ」
やはり、といった諦観もにじませつつ、スピカは〈オクルス〉に向き直った。
「ラウルス・エルト・ディーガル。父の右腕で、アクルクスの兄です」
だがスピカ達の予想を裏切り、〈オクルス〉の反応は「そうか」という、静かなものだった。そうしてさっさと剣を収めた彼女を、拍子抜けした感の男達が見やる。そのもの問いたげな視線を無視し、〈オクルス〉は踵を返した。
「戻るぞ」
「あ、あの、…ローラ?」
スピカは、声をかけるのも憚られるような〈オクルス〉の背中に恐る恐る話しかけた。〈オクルス〉が足を止めるのに少しの希望を見て、続ける。
「怒らないで下さい。事情のあっての事でしょうし、それもちゃんと説明させますから…」
「必要ない」
〈オクルス〉の返事はにべもない。それどころか振り返ろうとしない彼女に、スピカが
〝やっぱり怒っているじゃないの〟
と、口を尖らせたのが見えたとでもいうのか、不意に振り返った〈オクルス〉は、珍しく理由を述べる。
「敵でないのならそれでいい。――それと、私をローラと呼ぶな」
言うなり、先に立って歩き出した〈オクルス〉を慌てて追おうとしたスピカの耳に、ラウルスの独り言が届いた。
「…恐ろしい奴だな」
「彼女を怒らせるからでしょ」
ついぞ聞いた事のない、スピカの拗ねたような声音に苦笑しつつその後に続いたラウルスの表情が、主の視線が前方に戻った途端引き締まった。先の独り言、その真意はスピカの取ったものとはまるで違う。
敵でないのならそれでいい。
ならば敵になったとしたら? もしたった今、ラウルスがスピカを裏切ったとしたら、〈オクルス〉は?
〝間違いなく斬られる〟
何の躊躇もなく、ラウルスに反応する間さえ与えず。根拠はないがそう確信したラウルスは、自嘲気味に笑って首を撫でた。その徹底した切り替えの早さに、恐怖すら覚えた青年の頬に、知らず一筋の冷や汗がつたう。そして、目端に捕らえた部下もまた汗を拭う仕種に、ラウルスはさらに喉仏を上下させるのだった。
旅籠に戻った一行を、さらなる惨状が待ち受けていた。と言っても、こちらはひとまず終結を迎えていたが。真っ先に大木戸をくぐった〈オクルス〉は、それを見るなり物も言わずスピカの前に自身のマントで遮蔽を施した。
「ローラ?」
先程拒まれたにもかかわらずの呼びかけを無視した〈オクルス〉に代わり、スピカの頭越しに状況を見て取ったラウルスが部下に少女を宿の中へと連れて行かせる。そして二人は、こちらに頭を巡らせたアクルクス達の方へと歩み寄った。
「……兄さん」
怒っているようなホッとしているような――おそらく本人にもどう反応したものか判らないのだろうが――、アクルクスの呼びかけに敢えて冷静に対したラウルスは、足元の惨状を指してこう尋ねた。
「お前か?」
「まさか!」
吐き捨てるように否定した弟に、ラウルスは苦笑する。
「だろうな」
彼らの足元に転がっている幾つもの死体――。それは、先程の荒くれ達のものだった。アクルクスが指示した通り縛り上げられ車座に座らされていたはずの彼らは、皆が戻ってきた時には喉を掻き切られて無残な姿と変わり果てていたのだった。
ラウルスの言葉はむしろ安堵からのものだったが、アクルクスはそれと同時にありもしない侮蔑でも感じたか、一瞬その顔が強張る。だがそこに割って入った〈オクルス〉の言葉に、青年は緊張を解いた。
「暗殺者の手口だな」
ラウルスが、足元の惨状から目を反らさず頷く。
「ああ、それにとても手際がいい」
「難儀な」
ふん、と鼻を鳴らした〈オクルス〉は、次いでそこに立つ男達を見回して小さく頷いた。それを目ざとく見咎めたラウルスのもの問いたげな視線に応えた彼女の言葉は、すぐには信じられないようなものだった。
「ずっと後から尾いて来ていたのはお前達だったのかと思ってな。数が合う」
「何だって?」
思わず眉根を寄せるラウルスに、〈オクルス〉は薄く笑った。
「仕掛けて来もせず、ただ尾行してくるだけだったからな。監視役かと思っていたのだが」
「――…まいったな」
ラウルスの、そんなため息混じりの言葉が返ったのは、優に数呼吸は経ってからだった。
「気配は消していたつもりだったんだが」
「ああ」
あっさり認めた〈オクルス〉にまたも眉根を寄せ首を傾げる一同に、彼女は無表情に告げた。
「だからさ」
「――すまん、話が見えんのだが。もう少し判りやすく言ってもらえないかな」
「人の気配がないのに馬だけが尾いて来るなんて事があるか?」
そして〈オクルス〉は、呆気に取られている男達を残して宿へと入っていった。
「……レオン」
しばらくして、弟にかけたラウルスの声に、一同は我に返った。その当人はまだ〈オクルス〉が消えた戸口から目を離せないまま、続ける。
「感謝するよ。彼女をこっちにつけていてくれて」
「兄さん?」
ラウルスは、大きく息を吸ってようやく戸口から目を引き剥がすと、両手を腰に当てながら何かを振り払うように大きく左右に頭を振って、言った。
「絶対に敵に回したくないよ、…絶対に」