第二章 沈黙の神殿 1
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スピカ達を襲った剣士達がチェインに指示を仰ぐためにナサーラとは北西に一五リーグ余り離れたコンタス――ゼフ卿の領地だ――へと向かったため、心配された追撃や旅籠での襲撃はなかった。その代わりと言うといささか語弊があるかも知れないが、アクルクスと〈オクルス〉間でまたささやかな悶着があった。夕食の席次の問題である。元々アクルクスにとって、スピカと卓を共にするなど考えも及ばないばかりか、その少女が食堂で食事を取るなど、胃に穴が開かんばかりの行動であったのだ。無論ネウラも、それどころか〈オクルス〉ですら難色を示したというのに、スピカは皆の同意が得られぬと見るや止める間もなく隅の卓に座り込み、そつなく寄って来た給仕にさっさと注文をしたのだ。慌てて寄って来た一同に、スピカは澄ました顔で椅子を勧める。
「さ、座って座って。いつまでもそんな所に立ってたら目立っちゃうわよ」
目立つ、という事が一番困る一同に対してのこの言葉に、ネウラはアクルクスに目で問う。彼女同様言葉に詰まっていたアクルクスは、スピカが一応壁を背に座っているのを確認し、腹をくくって頷き返した。渋々、といった感で乳母がスピカの隣に座ったのを見て、少女を挟んでネウラの正面の椅子を引く〈オクルス〉にアクルクスが咳払いする。青年は、〈オクルス〉が動きを止め、ちらと自分に目を向けるのを受けて顎をしゃくった。
「我々は隣だ」
つまり、主と同じ卓には座らない、という事だ。使用人たるアクルクスにとっては正しい言い分に、断る理由のない〈オクルス〉も卓を移動しようと身を翻し――ガクンと止まった。
「……」
約一名を除いてどう反応したものかと皆が沈黙しているというのに、当のスピカはまだ〈オクルス〉のマントの端をつかんだまま、にこにこと言う。
「皆で一緒に食べましょ」
ここで〈オクルス〉が、まずネウラに、それからアクルクスに目をやった。その視線に我に返った二人が急いでスピカを説得にかかる。
「お姫様、まずそのマントをお放しなさいませ。お行儀の悪い。それに使用人と食事を共にするなんて…」
「そうですよ。第一、そんな事をしたら自分がお館様や兄に叱られます」
だが、スピカは聞き入れないばかりか、逆に二人の意見を笑った。
「あら、じゃネウラもあっちに行く?」
「いえ、私は…」
「それに、お父様達には黙っていればいいわ。でしょ?」
「いやしかし…」
と、ここでスピカは、一人素知らぬ顔をしていた――マントをつかまれたまま、という格好ではあったが――〈オクルス〉に矛先を向けた。
「貴女も早く座って。お料理が来てしまうわ」
「……」
改めてスピカに目をやった〈オクルス〉は、静かな口調で切り替えした。
「…まず手を放せ」
「あら、ごめんなさい」
スピカは、意外にあっさりとマントを手放した。しかし絶対同席してもらう、と言わんばかりの意気込みに、吐息をもらした〈オクルス〉は他の二人に「折れろ」と忠告する。
「どうにも譲る気はないらしい。それにそろそろ注目を集めているようだ」
言われて見回すと、食堂にいる誰も彼もがこちらを注視しているようで、ネウラとアクルクスはきまり悪げに口をつぐんだ。が、ネウラは剣士二人に剣とマントを外すようにと最後の抵抗を見せ、アクルクスは始め〈オクルス〉が座ろうとした椅子に自分が座ると言い張った。まだ正体の知れない彼女をスピカのそばには置きたくなかったからだが、これはスピカ自身が拒んだ。そこでまた平行線になるかと思われたが、それがよほど煩わしかったのだろう、〈オクルス〉はさっさと腰から外した剣を手にネウラの隣に移動し、乳母の要望通りにマントを脱いで腰を下ろした。
「――給仕が困っているぞ」
それだけ言うと、後は目を閉じ腕を組み、どっかと腰を据える。そう来られたのではスピカも今更席を代われとは言えず、アクルクスもこれ幸いと自分の席についた。ほっとした顔で飲み物を卓に並べる給仕に場所を空けてやるような振りで〈オクルス〉の方に上体を傾けたアクルクスが、変わらず目を開けない〈オクルス〉に憮然と囁く。
「――礼は言わんからな」
「…必要ない」
「この…っ」
彼にしてみれば精一杯の――そして暗に謝礼の――言葉を一蹴され、アクルクスは思わず腰を浮かしかけたが、自分に向けられた〈オクルス〉の静かな視線に揶揄の色がないのを見取って固めた拳を解く。が、どこかまだ釈然としないのか、ぶつぶつこぼしながらちらちらと〈オクルス〉を見やり――、青年は改めて気づいた。
細い。
無論小柄なスピカや、ややふくよかなネウラと比べればそれなりに肩幅も体格もがっしりとしてはいる。しかしアクルクスや彼の知るどんな剣士よりも、〈オクルス〉は細身であった。その女が、アクルクスから見ても頑強なあの刺客達相手に一歩も引けを取らなかったのを思い出し、青年は知らずごくりと喉仏を上下させた。
〝確かに…〟
あの酔客の言葉は正しかったのかもしれない。だが、とアクルクスはかえって警戒を強めた。流れ者にしては腕が立ち過ぎる。忠義ではなく金でスピカに従う以上、〈オクルス〉がどこでどう転ぶか判らないだけに、青年はわずかに緩みかけた気持ちをまた厳しく引き締めた。
〝いつ敵に回るか…。自分が気をつけていなくては〟
すっ、と表情を消して顔を正面に戻したアクルクスは、前髪で隠すようにしてやはり彼を盗み見ていた〈オクルス〉の左眼にふと浮かんだ笑みに気が付かなかった。
程なくして、次第に運ばれて来たシチューや串に刺した焼肉などの料理が揃うと、一同は言葉少なに食事を始めた。が、当然のごとく会話らしきものはなく――スピカは幾度か試みたのだがネウラに止められた――、自然三人の視線は黙々とスプーンを動かす〈オクルス〉に集まる。だが彼女は、それら不安と好奇と不審の視線をまるで意に介さずに淡々と食事を続けた。そして当然のごとく真っ先に食べ終えるや、即座に席を立つ。ネウラが「無作法な」と眉根を寄せるのを見たわけではないが、剣とマントを手に取った〈オクルス〉は、スピカに短くこう告げた。
「一回りしてくる」
言ってるそばから剣を佩き、そしてちらとアクルクスに目を向け、後は無言のままマントを羽織りながら宿の外に出て行く。驚く程簡潔なその言動に呆気に取られていたネウラは、〈オクルス〉の姿が見えなくなってからようやく憤然と口を開いた。
「なんて無作法なんでしょう!」
「よして、ネウラ」
と、これはスピカ。
「何か考えがあっての事じゃない? そんなに言うものじゃないわ」
「ですがお姫様…! 単なる用足しだったらあんまり馬鹿にしてますわ」
「違いますよ」
思わず口をついた自分の言葉が二人の注目を集めてしまったのを悔いても遅い。アクルクスは、いささか複雑な思いを抑えて彼女達の疑問に答えるべく、重い口を開いた。
「ですからその…、宿の周囲の様子を見に行ったのではないかと…。その、出入り口の確認とか不審な人物がいないかとかですね。も、もちろん自分の買い被りかもしれませんが…」
しどろもどろで説明しながら、アクルクスは内心己のお人好しぶりに歯噛みする。
〝くそっ、なんで自分がこんな事…!〟
とはいえ、スピカやネウラの軽い驚嘆の眼差しには抗えず、青年はその後に続く問いにも律儀に――内心とは裏腹に――答えていった。だが、その苦々しい思いを一変させたのは、スピカの何気なしの一言だった。
「じゃあアクルクスも今までそんな事をしていたの?」
「いえ、自分はあまりお側を離れられませんでしたので、そんなには。後を任せられる者がいれば別…」
不意にハッと息を飲んだアクルクスは、次いでスピカの顔を凝視した。
「? どうかした?」
「…いえ、失礼致しました」
浴場や寝室まではついて来れないでしょ?
アクルクスが〈オクルス〉の同行に渋々ながら同意したのは、スピカのそんな一言があったからである。だがもしかして。
〝俺一人では手が回らぬと見て…?〟
無論、勘繰り過ぎとも、別の考えがあっての事とも取れるが、青年は素直にそれを主の温情と受け取って頭を垂れた。が、同時に、〈オクルス〉に対する名状しがたい敵対心と、自身に対する不甲斐なさへの怒りとがまた沸きあがる。そして青年は、その行き場のない苛立ちをひとまず目の前の料理にぶつけるのであった。
スピカ一行の隣の宿の一室に集まっていた四人の男達は、宿から出てきた〈オクルス〉を窓越しに見やって、知らず詰めた息をそっと吐き出した。
「あれがあの〈オクルス〉か」
窓枠に身を隠し、そう呟いた男がなお〈オクルス〉の後ろ姿を見つめながら嘆息した。
「実際に目にする事になるとはな」
「そうですね」
と同意した部下の声も、こころなしかうわずっている。
「なるほど、噂に違わず…」
部下の相槌に頷いて見せ、続けてそう呟いた男は、くすんだ金髪をうなじで無造作に束ねた大柄な体格の持ち主だった。もっとも、肩先まで伸びた髪は便宜上束ねてあるだけらしく、その他服装などに洒落っ気は全くない。が、その顔立ちは理知的であり、ただの粗野な剣士とひとからげに断定するのは早計のように思える。そして全員が、宿に入るまで用心深く目深にかぶっていたフードを外し、隠していたその鍛えられた体格を露わにしていた。彼らこそ、〈オクルス〉が後方に感じ取っていた視線の主であり、スピカ一行の監視を任とするメンバーであった。
「しかし姫達はその事を…?」
男は、気がかりそうな部下の言に苦笑してみせる。
「いや、領地から出た事もないのにそれはあるまい。〈オクルス〉が自分の武勇伝でも話して聞かせたとでも言うのなら話は別だろうがな」
それがありえぬ話だと判っている一同は、リーダーの冗談口に静かな笑いを交わす。
「それでどうします?」
リーダーは、今後のを尋ねる問いに、組んでいた腕を解きながら窓の外に一瞥をくれ、答えた。
「今日のところはいい。様子を見る」
「は!」
小気味の良いその返答は、隠密裏に動くはずの彼らの出自をしかし、如実に物語っていた。
宿の周辺をざっと調べ終え、戻ってきた〈オクルス〉は、食堂にスピカ達の姿がないのを見て取って、そのまま部屋へと向かった。一応、ノックをして、戻ってきた事を告げると、アクルクスがドアを開ける。そのドアが半分程開くや、〈オクルス〉はその隙間にするりと滑り込んだ。
「異常はない」
と、言葉短かに結果報告をした〈オクルス〉に労いの言葉をかけたスピカが、次いでそうだわ、と両手を打ち合わせた。
「さっきは簡単に済ませただけだったから、お互い改めて自己紹介をしましょ」
「?」
何を言い出すのかと三人が一様に眉根を寄せたのにも構わず、スピカはまず自分からと微笑んだ。
「私はスピカ・ファーライル・ディル・パロス。歳は一七、もうすぐ一八になるのは言いましたわよね。それから私の乳母の…」
「ネウラ・ファラリカと申します。ネウラで結構」
吐息をついて名を名乗ったネウラに続き、これまた諦め口調でアクルクス。
「アクルクス・レオン・ディーガル。代々パロス家に仕える騎士だ」
「…〈オクルス〉でいい。流れの傭兵だ」
「あら! ずるいわ、そんなの」
スピカは、〈オクルス〉の言葉が終わるやいなや不満の声を上げた。そして、ネウラやアクルクスが止める間もなく〈オクルス〉に迫る。
「皆きちんと名前を言ったでしょ? だからあなたもちゃんと本名を言って下さらなきゃずるいわ」
「……」
少女の勢いにやや虚を突かれた〈オクルス〉は、黒目がちの大きな瞳を好奇心で輝かせてなお自分を見つめるスピカに思わず、う、と後ずさった。それから一拍置いて諦めたか、知らず詰めていた息を吐く。
「…サビク。サビク…・アウローラ」
「サビクが名前ですの?」
不思議そうに首を傾げるスピカに、〈オクルス〉は軽く頭を振って否定した。
「い…いや、サビクが姓になる」
「異国のお名前ね。素敵!」
目を輝かせたスピカは、次の瞬間〈オクルス〉はおろか、その場の全員を凍りつかせた。
「じゃあローラとお呼びするわね」
「……っ!」
大きく息を吸ったのは一体誰だったか――。
ともあれ、ネウラの温厚な顔もアクルクスの端正な顔も〈オクルス〉の超然とした顔も、今この時だけはひどく引きつった。
よりにもよってその勇名を広く知られた女剣士を、襲撃者の首を瞬時にへし折った猛者を、ローラなどという愛らしい略称で呼ぼうとは! それがいかに本名とは言え、そして〈オクルス〉の噂すら知らぬネウラがしかし近寄りがたいとかすかな恐怖を覚えている者に対して、あまりに無謀と言わざるを得ない。が、スピカはそれらの事情を一切無視してにこにこと嬉しそうに笑っている。人当たりの良い押しの強さは生まれのなせる技であろうが、常人ならイエスと答えざるを得ない『攻撃』の前に〈オクルス〉は抗ってみせた。
「断る」
「あら、どうしてですの?」
思いもかけぬ拒絶に目を丸くしたスピカは、一言言ったっきり口を閉ざす〈オクルス〉にさらに食い下がった。
「綺麗なお名前ですわ。お似合いだと思いますのに」
「――〈オクルス〉と」
一度受けて免疫がついたのか、〈オクルス〉は既に冷静さと狷介さを取り戻してスピカの『攻撃』を退ける。
「それで? ざっと追われている事情は聞いたが、これからの旅程はどうなっている?」
言うが早いか、食事前に部屋に運び込んでいた自分の荷物を手にとって中から地図を取り出し、部屋の中央に置かれた小卓に広げた。そして目線で話を促されたネウラが、慌てて卓に歩み寄った。触らぬ神になんとやら、ではないが、スピカがこれ以上〈オクルス〉に変な申し出をする前に、話題を変えようと彼女の問いに乗ったのである。
「え、えーっとですね…」
一方アクルクスは、取り残されたスピカと二人との間にあって、思わず双方を見回していた。そんな彼の耳に、拗ねた口調のスピカの言葉が入る。慌てて見やれば、主はぷっくりと頬をふくらませていた。
「…何も二人がかりで話をすりかえなくてもいいじゃない。きれいな名前なのに何が気に入らないのかしら」
「――…スピカ様…」
どう執り成してよいものか、思いもつかなかったアクルクスはただ、憔悴の色濃い笑顔をどうにか形作ったのであった。
「明日は隣町のワイトまで行って、そこのマーガム神殿に参詣します。それからそのまま北上して、北の大神殿まで。それがおおまかな旅程です」
「殆どゼフ卿の領地すれすれだな」
〈オクルス〉は、地図を指し示しながらのネウラの説明に目を細めた。彼女の言う通り、そこに至るルートは、パロス領とゼフ領の境界よりわずかにパロスより、といった行程だった。確かに狙われている身にしてみれば、好き好んで取りたい道ではない。だがネウラは、控えめに同意しながらも仕方がない、と続けた。
「お姫様が御輿入れするために必要な儀式ですから。これはパロス家で代々続いているしきたりですし、北の大神殿への道もこれだけです」
その言葉にじっと耳を傾けていた〈オクルス〉は、次いで短く判ったと頷いた。それはむしろ、スピカ達の方が拍子抜けしてしまう程のあっけなさであったため、アクルクスなどにはやる気の欠如のように聞こえてしまう。が、それを言われた〈オクルス〉は、気のなさそうに必要ないと返した。
「目的と旅程が判っていれば十分だ。確実に暗殺者がいるのも判っているし、それならばあとは余計な些事だ」
「貴様、それでスピカ様をお護りできると思っているのか?」
「根掘り葉掘り訊けば絶対に護り切れるのか?」
静かな〈オクルス〉の言葉に、アクルクスは唇を噛んだ。今日河原で〈オクルス〉に遅れを取った屈辱がさっと脳裏をよぎる。
「く…っ」
「……」
頬に朱を上らせたまま言葉もない青年に、聞き取れない程に小さく吐息をもらした〈オクルス〉が、地図をしまいながら言う。
「余計な事情を知っていると判断が遅れる事もある。雇われ犬には依頼は単純な方がいい」
「そんな…!」
自らを犬呼ばわりする〈オクルス〉に抗議の声を上げようとしたスピカの横をするりと抜け、女剣士はドアのそばに自分の荷袋を放るとアクルクスを振り返った。
「一刻程休む。その間は頼む」
と言い残すが早いか、誰にも止める間も与えず荷袋を枕にして横になった〈オクルス〉の口から、程なく寝息が立つ。こうなっては無下に揺すり起こすわけにもいかず、一同は戸惑った表情を浮かべた顔を見合わせあった。
結局〈オクルス〉が目を覚ますまで部屋に居ざるを得なくなったスピカは、ふとむくれた声を上げた。
「どうしました?」
と尋ねるネウラに、まずため息が返る。
「だって、よく考えたら体よく部屋に閉じ込められた事にならない?」
「は?」
一瞬何の事かときょとんとしたネウラは、意味を悟って吹き出した。即座にスピカの頬がふくらむ。
「何よぉ」
「ご自分でお決めになった事ではありませんか。それに、出られるおつもりもないでしょう?」
「それはそうだけど…。でも、『出られるけど出ない』のと『出たくても出られない』のとはずいぶん違うわ」
閲兵式の儀兵よろしく直立不動でドアの前に立って二人のやりとりを見ていたアクルクスは、スピカの言葉に思わず足元の〈オクルス〉に目をやった。
〝そこまで…?〟
今、床に仰向けになって寝息を立てている女剣士はそこまで慮ってのこの行動だったのだろうか。――今までのアクルクスであれば鼻を鳴らしたであろうが、現在の彼にはそれをまさかと笑い飛ばすだけの確信はもはや持てなかった。さっきの夕食の席での事といい河原の事といい、よくよく考えてみればすべて〈オクルス〉に御されている気がしてくる。事実、真意はどうあれ結果はそうなっている。その事実が、アクルクスの意識をほんの少し、変えようとしていた。
そうやってどれ程の間思いを巡らせていたのか、いつしかアクルクスは腕組みをし、背にしたドアにもたれかかっていた。その彼に、足元から不意に声がかかる。
「――もたれかかるな。ドアごと貫かれるぞ」
「!」
ぎくりと体を強張らせて目を落とせば、〈オクルス〉が静かな隻眼で見上げていた。そして彼女は、顔を朱に染める青年をよそにほぼ一挙動で立ち上がり、室内を見回す。そして変わりがない事を確認したのか、改めてアクルクスに向き直った。
「? …何だ?」
「いや…」
アクルクスは、自分でもそれと判る程の狼狽を必死で押さえ、平静を装った。〈オクルス〉はそれに気づかず――振りかも知れないが――、ただ一言、「代わろう」と申し出た。
「休息を取っていた方がいい。先は長い」
「ば…、馬鹿な事を言うな! 貴様をスピカ様のそばに置いて休めるか!」
「無理はしない方がいい」
「愚弄するかッ」
気色ばむアクルクスに〈オクルス〉が何か言いかけた丁度その時、折り良くとでも言おうか悪しくと言おうか、旅籠の者が湯を持って部屋にやって来た。険悪になりそうな雲行きにハラハラしていたネウラがすかさず彼らを招き入れ、それで場を濁す。ネウラは、そのまま男達を閉め出し、スピカは隣の形ばかりの浴室で湯浴みを始めた。旅籠の物にしては大きめの浴槽につかり、ネウラが髪を洗うままに任せたスピカは、衝立の向こうに立つ〈オクルス〉に話し掛ける。
「ねえ、貴女も入りません?」
間髪入れず、予想通りの答えが返る。
「断る」
「そう言うと思いましたわ」
くすくすと笑う。そして、目を上げる〈オクルス〉を見たかのようにスピカは、心底楽しそうにこう続けた。
「だっていつもそのセリフですもの」
「――応じられない事ばかり言うからだ」
呆れた声音でも応じてくれた事が嬉しくて、スピカは湯をびながら笑った。
「でも護衛は引き受けてくれたわ」
「…何故私を?」
「女ですもの」
そう、答えが返されたのは、優に二呼吸は経ってからだった。そのせいか、明るい口調はどこか、押し殺した不安が窺えた。
「女の方に護って頂きたいわ」
〈オクルス〉は答えない。言葉が見つからないのか、スピカの真意を量りかねているのか、衝立に阻まれて表情は読めない。が、構わずスピカは他愛無い話を続けた。
そして、ネウラですら笑い声を立て始めるなかでさえ、〈オクルス〉の鉄面皮が崩れる事は遂になかった。
その夜半――。
スピカは夢を見ていた。それは子供の頃からよく見る夢だったが、だからといって慣れるわけでも、ましてや懐かしく思うわけでもない。そしてそれは、ごくごくわずかずつとは言え、日に日に迫ってくるのだった。もつれる足で必死に逃げても逃げても、それらとの距離は変わらない。後はいつも通り、恐怖に耐え切れなくなって飛び起きる――。
「大丈夫か?」
「ひっ!」
誰かの呼びかけに目を開けて、息を飲む。目覚めても悪夢は続いていた。暗がりの中、紅く光る一つ目が顔を覗き込んでいる。が、自身の心臓の音に驚きながらスピカは、それが〈オクルス〉の隻眼だと認めて、詰めていた息を残らず吐き出した。揺すり起こしてくれたのだろう、〈オクルス〉はスピカの肩に置いていた手を引きながら静かに囁いた。スピカの反応に気を悪くした様子はない。
「うなされていたぞ」
「…ええ…。だいじょう……」
スピカは笑顔らしきものを浮かべ、顔にかかる髪をかき上げようとして初めて手の震えに気がついた。まだ激しく脈打つ鼓動に、指先がじんじんと痺れる。この分では浮かべた笑顔も期待した程うまく作れていないだろう。鎧戸から洩れているほんの少しの薄明かりでは、こちらが考える程〈オクルス〉には見えていなかったであろう事が救いに思えた。スピカはゆっくりと上体を起こし、今度こそいつもの笑顔を形作った。
「少し、夢見が悪かっただけですから。ごめんなさい、起こしてしまって」
「いや…」
スピカの動きに合わせてこちらも上体を起こした〈オクルス〉は、枕元の小卓の水差しから水を杯に注いで彼女に手渡した。と、それを受け取ったスピカが素直に水を干すのを見た〈オクルス〉がふと、ふ、と皮肉に笑う。
「何か?」
「毒が入っていたかもしれんぞ」
しかしスピカは、一拍置いて小さく笑った。
「?」
「そんなまどろっこしい真似を、貴女が?」
これまた数拍置いて、〈オクルス〉も薄く笑んだ。
「――もう悪夢は見るまい」
〝肝の据わったお姫さんだ〟
と、今まで隣のベッドでぐっすり眠っていたネウラが不意に寝返りを打ち、〈オクルス〉は潮時とスピカから空の杯を受け取って持ち場に戻ろうとした。その背に、スピカが声をかける。
「あ…」
まだ何か用かと、〈オクルス〉が足を止める。だがスピカは思い直してかぶりを振った。
「…いえ、お休みなさい」
「……」
〈オクルス〉は、暗がりの中でぼんやりとした影が再び寝台に伏せるのを黙って見ていたが、また、聞き取れぬ程かすかに息を吐いてスピカの枕元に戻った。一言もなく剣を抱くようにして床に座した〈オクルス〉に、スピカは目を瞠り、そして嬉しげにそっと笑んだ。体ごとドアの方を向き、決してこちらを見ていなかったけれど、その傍らの温みがありがたかった。そして、押し殺した不安を黙って汲み取ってくれた〈オクルス〉の無骨な優しさが嬉しかった。
〝良かった…〟
スピカは、安堵から急に押し寄せてきた眠気に意識を流されながら思った。
〝この人に…この人と…逢えて〟
初めて〈オクルス〉を見た瞬間の直感を信じて。
その時感じた親近感と連帯感、違和感と…恐怖と。
短絡であったかもしれない。
衝動的過ぎたかもしれない。
それでも、今、自分の、口に出せなかった最も幼い望みを察してくれた。
温もりの持つ意味を知っている。
今はそれで充分だ。
スピカは、ここ何日かぶりの安らかな眠りに落ちながら、全身に染み渡っていく充足感に吐息をもらした。