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柘榴の封印  作者: 御影
10/22

第五章 交渉 1

「ローラがいない?」

 朝食の席にもたらされた知らせに、スピカは思わずラウルスを見つめ返した。

「いないって…どういう事です?」

 ラウルスは、困ったようにかぶりを振って肩をすくめる。

「判りません。荷はあるのですが…」

 では立ち去ったのではない。スピカはほっと安堵の息をついた。

「じゃあまた宿の周りを廻っているんじゃない? 前の街でもそうやって…」

「失礼します」

 ノックののち、きびきびとした足取りでアクルクスが室内に入ってきた。ラウルスの目配せを受けて前に進み出、調べてきた結果を報告する。

「どうやら〈オクルス〉は遠出したようです。馬丁が伝言を預かったそうで…おい、入ってこい!」

 アクルクスの声に、部屋のドアが恐る恐る開き、昨日の馬丁が顔を覗かせた。が、それ以上入ってこようとしない若者に、アクルクスが眉根を寄せる。

「何をしている? 早く入ってさっき自分に言った通り、こちらの御方にお話ししろ」

「い、いいえとんでもない! 俺みたいに汚れてるのが…」

「構わないわ、入ってちょうだい」

 スピカに微笑みかけられ、許可を求めてきょろ、と目をやったアクルクスとラウルスが頷くのを見て、若者はそろそろと部屋に入った。それでもドア近くから先に進もうとせず、手に取った毛織物の帽子を所在なげにもみくちゃにする馬丁は、明らかに場違いな自分に戸惑っているようだった。そして、再度話を促されてようやく口を開く。

「あ、あの、今朝早くだったんですけど、あの剣士さんが厩に来たんです。それでその、お預かりしていた馬に鞍を着けて出て行かれたんで。皆さんには先に出立するよう、後で必ず追いつくからと伝えてくれって…」

 馬丁の朝は早い。まだ朝もやが濃くたなびいている夜明け頃に現れた〈オクルス〉は、飼葉を食べ終えた馬の一頭に鞍を着けると、そう言い残して出掛けていった。無論行き先はもとより、いつ合流するかすら言わなかったと聞いて、スピカとラウルスは思案のため息をもらす。

「――とにかく」

と、ラウルスが一応の結論らしきものを出したのは、アクルクスが馬丁を返して、しばらく経ってからだった。

「〈オクルス〉には〈オクルス〉の考えがあっての事だろう」

「そうね」

 スピカもまた、吹っ切った口調で同意する。

「荷物があるなら必ず戻ってくるわ。第一、仕事を途中で放り出す女性ひとじゃないし。それに、どのみち今日はここに足止めよ」

「はい」

 ディーガル兄弟が、不承不承頷いた。昨日の騒ぎをそのままにして出立するわけにはいかない、というのが一同の一致した意見だったのだ。少なくとも、この街を預かっている者には事情を説明しておかなくては後々厄介な事になる。そのための会見の申し込みは、今ラウルスの部下が向かっていた。

「なんだかんだで一日つぶれるのは目に見えてるわ。案外その間に戻ってくるかも。一緒に来てくれるのはアクルクスとラウルスだけでいいわ。あとの人は休むなりこの先の準備をするなり、好きにしてて」

「ありがとうございます」

 スピカのこの言葉が、昨夜の夜番に対するものだというのは重々判っている。だがラウルスは、せめてあと一人随員に加えて欲しいと願い出た。

「信頼して頂けるのは光栄の至りではありますが、我らだけではやはり…」

「大丈夫よ、歩いていくから」

「は!?」

 驚きの声を上げたのはラウルスばかりではなかったが、スピカはけろりと続けた。

「だったらそんなに目立たないでしょ? ならぞろぞろ剣士を連れて歩く方がかえって人目を引くわ。それに」

と打って変わって冷静な声音に変わる。

「相手にも余計な気を遣わせる事になる」

 それは余計な勘繰りを招く事を指していた。自分の所領内だからこそ、自分の首を――引いては父・パロス卿の――締めるような真似はできない。それは上に立つ者の心構えであり、保身でもあった。

 きっぱりとそう言ったスピカに、ラウルス達は返す言葉を持たなかった。

 

 使いに出していた者が警邏けいらの者を伴って戻ってくると、スピカ達は早めの昼食を済ませ、現場での説明を居残り役に任せて宿を出た。何の支障もなく役所に着いた一行ではあったものの、「お役所仕事」に早速うんざりする。もちろんパロスの名を出したこちらをたらい回しにするような輩がいるわけがなく、単に責任者が不在というだけの話なのだが、それでも丸々一刻半も放っておかれるのはかなり、つらい。一度、たまたま部屋の外を通りかかった不運な衛士をアクルクスが怒鳴りつけてみたが、一向に事態は好転しなかった。

「一体どういう事か!? わざわざ先約まで取って出向いて来たものを、何故なにゆえかくも軽んじるのか!?」

 ばん! と、目の前の卓を両の平手で叩くアクルクスに、茶を淹れ直してきた若い衛士がすくみ上がった。年の頃は二〇そこそこ、アクルクスと殆ど変わらぬようであったが、気迫の差か、彼はかなり下手したての態度に出た。

「そう言われましても…。皆様のお使いの方が帰られてからまた別の事件がありまして、皆様の方に人を割いておりましたので、それで隊長自らが…」

「それはさっきも聞いた!」

 アクルクスは、しどろもどろで弁解する衛士の言葉を遮った。

「だったら何故さっさと呼び戻さない!」

「い、いえ、一応皆様がお着きになった時に呼びには行ったのですが…」

「だから軽んじていると言うのだ!」

 だん! と今度は左拳で卓を打つにアクルクスに、ラウルスが落ち着けと声をかける。

「お前の言っている事は間違ってないが、この者にこれ以上咆えても仕方ないだろう」

「しかし――!」

アクルクス(・・・・・)

 反論しかけたアクルクスが、ラウルスにじっと見据えられて口を閉ざす。弟が不承不承ながら引き下がったのを確認してから、ラウルスは改めて冷えたカップを急いでかき集めている衛士に目を戻した。

「それで? 今朝の事件というのは?」

「そ、それは、お答えできません」

 血気盛んなアクルクスと違って話しやすいと見たか、衛士は遅ればせながらきりりと威儀を正した。

「申し訳ありませんが、それはこの街の警備に関する事であります。自分にはお話しする権限はありません」

「そうか」

 むしろ衛士の態度そのものに納得がいったように、ラウルスは小さく頷いた。

〝教育が行き届いているようだ〟

 単に何も知らないのかも、という点は差し引くにしても、留守番役の――つまり最下位の――この衛士の挙動から、隊長の人となりが少しは見て取れる。そこに、ようやくここの衛士隊の隊長が姿を現した。

「たいへんお待たせ致しました。申し訳ありません」

と言って一同に深々と頭を下げたのは、そろそろ初老に差しかかった背の高い男だった。ごましお色になった髪を短く切り詰めたさまは、いかにも軍人然と引き締まった表情を一層強面こわもてに見せる。スピカに相対あいたいして卓についた隊長は、少女の話を最後まで聞き終えてから、初めて居心地悪げに身じろぎをした。

「――それでは今朝見つかった斬首死体もその関係かもしれませんね」

「斬首…!」

 思わず喘いだスピカに頷いて見せ、隊長は淡々と今調べてきた事実だけを話し始めた。

「姫様のお泊りになっておられる旅籠はたごから、中央広場をはさんで反対の宿街の路地で男の斬首死体が見つかったのですが、調べましたところ体のあちこちに武器を携帯していた形跡が見られ、毒まで所持しておりましたので、まともな者ではあるまいと思ってはいたのですが…。しかもそこから姫様の旅籠までの間に、この者のものと思われる左手首も見つかっております。これはどうも…」

 言葉を濁した隊長は、三人の反応をちらりと盗み見た。しかしどの顔からも何の考えも読み取れない。その彼に、今度はラウルスが、尋ね返した。

「斬首と言ったが、それは斬られてから倒れたものか? それとも――」

「いやいや、そんな鮮やかなものじゃありませんでしたね。まず肩から腹にかけて一太刀、これが致命傷でしょう。その後首を斬り落としてますね。これは周囲の血の飛び散り方からもはっきりしてます。立ったまま――」

 とん、と隊長は自分の首を手刀で叩く真似をした。

「――とやられた場合、血はもっと広く丸く飛び散ります。それと、左手首をやった奴とは別ですね。あちらは見事なもんですが、首の方は力技といった感じがします。何度か斬り損じてますしね…っと」

 つい口がすべったと、隊長は慌てて口を押さえた。軍人同士、剣士同士と思ってうっかり話してしまったが、こんな話はスピカに聞かせていいものではない。案の定、護衛の二人が険しい顔でこちらをにらんでいた。

「これはたいへんな不始末を…! とんだお耳汚しをしてしまいました」

と慌てて頭を下げた隊長は、少女から何の――叱責にしろ泣き言にしろ――応答もない事にさらに肝を冷やしつつ、上目遣いでその様子を窺った。だが、失神でもしたかという隊長の危惧をよそに思案に暮れていたスピカは、気がかりそうな三対の視線にはたと我に返る。

「ああ、ごめんなさい。何か?」

 男達は、急いでかぶりを振った。


「――いかがされました?」

 夕刻近くになってようやく解放されたスピカ達は、昼とはまた別の賑わいを見せ始めた中央広場を通り抜けようとしていた。雑踏に負けぬよう、また聞かれぬよう、ラウルスは、フードを被ったスピカの耳元にそう囁いた。訊かれたスピカが振り返る。

「何?」

「先程より何かお考えのようでしたので。何かご不審な事でも?」

「あら」

 おどけた返事が返るのに、一瞬の間があった。

「何買って食べようかって考えてるの、バレちゃった?」

 そしてちろりと舌先を出す。確かに、広場にずらりと並んだ屋台の数々からは、鼻腔をくすぐる良い匂いが漂って来ていた。こんがりと焼けた肉、甘く煮込まれた果実、手際良く調理される麺や野菜、香ばしい揚げ油の香り…、思わず兄弟の腹が鳴る。二人は、気まずそうに咳払いをした。

「――では急いで宿に戻り…」

 ましょう、とは言い終えられずに、アクルクスは下からの、すがるようなスピカの視線に口ごもった。思わず隣に助けを求める。

「に、兄さん」

 助けを求められたラウルスが、アクルクスとスピカの両方から顔をそむけて手を制止の形に挙げる。

「あ、ダメです。こっち見ないで下さい」

「ね、お願い」

「うあ…」

 交互に拝まれた兄弟が、似たようなうめき声を洩らして耐える。それぞれに堅く目を閉じ、スピカを見ないようにと片手で覆った顔をさらに反らす様子は微笑ましくさえあったのだが、三人揃って大きく鳴った腹の虫に、これまた揃って赤面する事で一応の終結を見た。

「――…ネウラ殿には内緒ですよ」

 全員の視線に負けたラウルスの結論に、スピカが歓声を上げる。目を輝かせる少女とは反対に、兄弟の方は後ろめたそうにうめき合った。

「兄さん…」

「言うな、レオン」

 そう顔を押さえるラウルスであったが、ふと弟と見交わした目は笑っていた。たまらず吹き出したアクルクスの背中を叩きながら、ラウルスはスピカの後に続いて歩き出した。

 広場中心に据えられた噴水の縁石に並んで腰かけ、三人は屋台で買った料理に舌鼓を打った。最後に取っておいた砂糖菓子をつまむスピカは終始ご機嫌であったが、日が暮れるにつれてその表情に、少しずつかげりが差し始める。と、菓子の包みを手に、ふうと息をついた少女の眼前に、席を外していたラウルスが現れた。調達してきた飲み物の杯を差し出しながら、尋ねる。

「却ってお疲れになったのではありませんか?」

 礼を言ってそれを受け取ったスピカが、軽くかぶりを振る。

「いいえ、すっごく楽しかったわ。お肉を串のまま食べたのなんて初めて。でも」

と、吹き出す。

「ネウラが見たらすっごく怒るでしょうけど」

「はあ…」

 ラウルスとアクルクスがきまり悪げに力なく笑う。

「これが最初で最後かも知れないもの。本当に楽しかったわ。ありがとう」

 スピカの、この言葉の重みを汲み取れる者はこの場にない。が、嘘偽りのない感謝の気持ちは、二人にも十分伝わった。

「どういたしまして」

「本当に内緒ですよ」

 兄弟は口々にそう言って、周囲の片付けにかかる。そしてアクルクスが包み紙等をまとめて捨てに行ってから、ラウルスはスピカの隣に腰掛けながら「それで」とやんわり切り出した。

「本当は何を考えてらしたんですか? あー…買い食いの事ではなく」

 スピカは、少しとぼけた表情を浮かべていたが、すぐにまあいいかと肩の力を抜いた。

「ローラじゃなくて良かったと思って、さっきの話。ローラならその…わざわざあんな事はしないから」

「そうですね。左手は〈オクルス〉かと思いますが、とどめその他は別の者でしょう。確かに彼女の流儀とは考えにくい」

 ラウルスとアクルクスはあの後、役所に運ばれてきた死体を検分していた。隊長が指摘したように、受けた傷の中で左手首のそれだけが際立って見事な手際であった。

〝まったく…〟

 ラウルスは、それと判らぬ程小さくため息をついた。

〝つくづく恐ろしい奴だな。あの後、一体どうやってあの暗殺者アサシンを見つけて撃退したんだか…〟

 昨夜の襲撃の後部屋に戻り、服を着て窓から出た? 一体いつの間に? そしてどうやって?

 〈オクルス〉の部屋からはそれらしい物音一つしなかったし、今朝姿を見せなかった彼女を捜して入室した時には、窓は閉ざされていた。それに、とラウルスは隊長の話を思い出した。暗殺者アサシンの死体を検分している時だったか、彼はやれやれと大きくため息をついてこう言ったのだった。

昨夜ゆうべはまるで『邪鬼の宴(イビルズ・ナイト)』だ。街のあちこちで少なからぬ血痕が見つかっている。死体はこの一つだけだがね。だから一人しか死んでない、なんて、とても信じられんよ」

〝とにかくまあ、〈オクルス〉は無事なようだが〟

 だが、暗殺者アサシンの事は確かにこちらの非であった。スピカの部屋は二階で、テラスも足がかりもない上に頑丈な鎧戸が設えてあったからと、油断していたのは否めない。あの殺された荒くれ達、彼らがゼフ卿の送り出した刺客と何らかの形でつながっていたのは、あのタイミングの良さからして疑いようがないのだから、剣士の他にもまだ暗殺者アサシンがいて、それらが連携していると何故考えつかなった? ラウルスは、そう自責の念を募らせると同時に、〈オクルス〉への評価をまた新たにする。

〝ありがたい――!〟

 青年が屈辱ではなく、純然たる謝意を噛み締めている間、スピカの方もまた別の思いにふけっていた。

〝また夜が来る…〟

 城を出たせいか、悪夢を見る事が多くなった。肌身離さず護符を身に付けているのに、毎晩と言ってもいい。しかも日に日に迫ってくる「あれ」は、昨夜ついにスピカに辿りついた。では今夜は?

〝怖い!〟

 スピカは、両手で持った杯を握り締めた。間に合うのだろうか、もう間に合わないのではないか? 

〝いいえ!〟

 萎えかけた心を、少女は必死で押しとどめる。

〝誕生日までまだあと半月あるわ。気持ちで負けたら、本当に負けてしまう――!〟

 やれるだけの事をやって駄目なら諦める。けれど、すべき事もせずに諦めるのは絶対に嫌!

 スピカとラウルスは、期せずして全く同時にため息をついた。

 ゴミを片付けて戻ってきたアクルクスは、二人がきょとんと顔を見合わせているのを目にして眉を上げ、次いで吹き出し合う姿を見てその眉を下げた。ささやかな疎外感が首をもたげるのを押し殺す。

「さ、そろそろ戻らなくては。買い食いがバレなくても、ネウラ殿に絞め殺されてしまいます」

 内心の苦い思いを隠して冗談口を叩いたアクルクスに、スピカとラウルスは素直に頷いた。

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