梅の香ぞ纏ふ
翌朝、奏多は緋果と出会った美しい梅の木の元へ来ていた。
手には紙袋を持ち、中にはスプーンでなるべく綺麗に整形した鶯餅の入った箱。昨晩は大変であった。
朝靄のかかった木々の中、すぅ、と少し冷たい空気を吸い込んで、奏多は口を開いて大声で叫んだ。
「おーい、緋果! 出てきてくれないか! 君と、話がしたいんだ!」
あたりの空気を震わせて、奏多の声が広がり伝わっていく。しかしその声も虚しく、変わらぬ静けさが辺りを包んでいた。
(やっぱり、駄目か……)
はぁ、と溜息をついたその時だった。
「全く……朝っぱらから……五月蝿いのう」
ふわりと梅の香りを漂わせ、少女――緋果がいつの間にやら現れていた。毎度のごとく、梅柄の着物を纏い、梅の木の枝に腰をかけている。口元に手をやりながら大きく欠伸をこぼしては眠たげに目を擦り、奏多を見るとなんだ、とでも言いたげに冷たい目をした。
「なんだ、昨日の。何用か? ……いや、待て」
はっと、気がついた緋果は先程の眠たげな表情が嘘のように、目を丸くして奏多を見つめた。
「お主、何故……私の名を?」
そう言うと、腰掛けていた木の枝から飛び上がって奏多の目の前に立つ。何故、という疑問に満ちた瞳。自身よりはるかに低いその背丈に合わせるように奏多はかがんで微笑んだ。
「夢を、見たんだ。俺は、ずっと前にあなたに会っていた。――小さな子どもの頃に」
怪訝そうに、そして見極めるように緋果の瞳が揺れ、じっと奏多を見つめていた。その後、些か不安そうに口を開く。
「もしや、光り輝く玉をくれたあの小童か……?」
ただ、奏多は頷き返した。
しみじみと緋果は奏多を上から下まで改めて見る。意志薄弱そうな眉や、茶色味を帯びた瞳が緋果の記憶と重なった。
幼い姿のまま変わる事ない緋果に対し、懐かしい記憶の中にいた少年は、今では立派な青年となっていたのだった。
「……そうか。人間の時の流れは速いものだな。――私にとっては、昨日のことのようにさえ思えるものを」
すこし寂しげに細められた目。そこには、優しさと慈しみと懐古の念が浮かんでいた。
「名前は、何と言う?」
「奏多です。益野奏多」
「奏多か。大きくなったものだな」
「育ち盛りなもので」
奏多がそう言って笑うと、嬉しそうな、見た目相応な笑顔をようやく緋果はみせた。心が、じんわりと暖かい気がした。
少し日が昇ってきたのだろうか、朝霧が薄くなり、空に明るみが差してきた。
「そうだ」
そこで唐突に、奏多は手にしていた紙袋の存在を思い出した。
「鶯餅、よかったら食べませんか。美味しいですよ」
奏多は片膝をついて、紙袋から箱を取り出し蓋を開ける。じっと緋果はその様子を眺めていた。
「……いいのだろうか?」
「その為に買ってきたので」
自宅から持ってきた、食べるための菓子楊枝を緋果に手渡し、皿代わりに鶯餅の乗せられた箱ごと渡す。
「では、頂こう」
菓子楊枝で切り分け、口に運ぶ。口一杯に広がる甘さに、緋果の口元が緩んだ。そして、一通り飲み込むと奏多に目をやる。
「どちらかというと、蓬餅の方が私は好きだ」
「……それは、何かスミマセン」
そのような事を言いながらも、そのままぱくぱくと切っては食べ、切っては食べてを繰り返し、緋果は綺麗に平らげた。
「とても、美味しかった。久方ぶりに甘味を食したな」
「そうか。それは良かった」
満足気な緋果の表情に、奏多も自然と笑みがこぼれた。これほど和菓子一つで嬉しそうに笑う様子を見ると、御影堂で買ってきておいて良かったなとしみじみ思う。
「奏多」
「はい」
「……ありがとう。どうかまた、会いに来てくれ」
「――はい」
山の中、澄んだ空気を漂う梅の香りが、鼻をくすぐる。本当に良い香りがする、見事な紅梅。
「まぁ、私の暇潰しぐらいにはなるであろうし、な」
その木には、少し不遜だが何故か憎めない少女の妖が宿っている。
人間と、人間為らざる者の時の流れは違う。しかし、今という時間を共有することはできる。
次に緋果と会うときは、御影堂で蓬餅を買っていこう、と奏多は思った。
これにて完結です。
お付き合いいただき、有難うございました!
→12/10……重複表現を訂正しました