いひし貴方は
途方も無く思えた“頼み事”は、思う以上に呆気なくケリがついた。しかし、奏多としては、もっと何かできることがあったのでは、と少女の哀しげな表情を思うと感じるのであった。
はぁ、と溜息が溢れる。
「ただいま……」
絞り出した、ぐったりと疲弊した声が静かな廊下に響き伝わる。
「おお、おかえり奏多。遅かったなぁ」
どこかの部屋からか、叔父、達摩の声がする。疲れを喉の奥へと追いやって、声を張り、奏多は返答する。
「ちょっと、散歩に行ってましたー」
「そーかいそーかい。晩御飯できてるから、上着脱いできなさい、食べよか」
「はーい」
脱いだ上着を置くために、自室へと足を運ぶ。
ふと目に入った和菓子が入った紙袋。くしゃりとした幾多も線が入っている。
「あー……」
奏多は自身の行動を振り返ると、買ってきた鶯餅がどうなっているのかは、容易に想像できた。
(三つ、買ってきたのになぁ)
とりあえず紙袋を持って、達摩とともに晩御飯を食べるため部屋を移動した。
居間に入ると、机の上でご飯や味噌汁が白い湯気をたてていた。既に達摩は座布団の上におり、湯飲みにとぽとぽとお茶を注いでいる。
達摩は、手元の霞んだ柳色の紙袋を見ると嬉しそうに笑みを浮かべて口を開いた。達摩もまた奏多と同じく、甘いもの、特に和菓子に目がないのであった。
「奏多、御影堂で菓子買うて来たんか」
「近くまで行ったので、無性に食べたくなってしまって。鶯餅を買ってきました」
「鶯餅か! もうそんな時期になったんやなぁ。後で頂くとして、先にご飯食べよか」
「はい」
机の横に和菓子を置いて、向かい合う形で奏多も座布団に座って手を合わせる。
「ほな、いただきます」
「いただきます」
今晩の献立は、白米、味噌汁、とんかつと千切りキャベツに醤油をかけた豆腐。歯触りのよい衣と、シャキシャキとしたキャベツが美味しく、炊きたてのご飯は噛めば噛むほど甘みを感じ、熱々の味噌汁は冷えた身体を内側から温めてくれた。
ぱちり、と二人は再び手を合わせた。並べられた皿は、ことごとく綺麗になっていた。
「ごちそうさまでした」
「ごちそうさん。さて、それじゃあ鶯餅をいただこかねー」
隣接する台所、流し台まで食器を二人は持って行き、奏多は皿洗いを始める。食後の食器の片付けは奏多の仕事であるのだ。その傍らで、うきうきと楽しそうに笑みを浮かべた達摩は鶯餅を皿に乗せ、急須で新たにお茶を淹れる。
「ん? ……奏多、一つ余分に買うてきたんか?」
この家には奏多、達摩の二人以外には誰もいない。二つの餅を皿に移し替えた後、残った一つを見て不思議そうに達摩が言う。
「ちょっと、友人にでも、と」
おずおず、といった様子でそう言うと、達摩は嬉しそうに口元を綻ばせる。
「そうか、そうか! 鶯餅は美味しいからなぁ、きっと喜ぶやろ。持って行き」
はい、と答えながら少しだけ奏多は笑んだ。消えてしまった梅着物の少女を思い、渡す理由の無くなった今、余った和菓子をどうしたものかと奏多は考えていた。
その夜、奏多は夢を見た。
小鳥の声が聞こえる。暖かみを帯びた陽射しが、奏多に春の訪れを思わせていた。
いつの間にか、目の前には見覚えのある梅の木が生えていた。今日見た姿と寸分違わぬ梅着物の少女が、木の枝に腰掛けて梅の花を眺めている。
(これは、……彼女の記憶、かな)
今日、出会って様々なことがあったからだろう、奏多は梅着物の少女の記憶を垣間見ていた。華やかな梅の香りが、辺りに漂っているようだった。
そこへ、一人の男の子がやってきた。
「あれは……」
おおよそ四、五歳くらいだろう。茶色いダウンジャケットにジーンズを履いている。木の茂みを掻き分けて来たようで、黒い髪に木の葉っぱがいくつか付いていた。
唐突に感じ取ったのは、それが奏多自分自身だということだった。
両親が遺したアルバム。その中に残っていた幼い頃に此処に来た時の写真に、男の子はそっくりであった。
とととと、と歩き、背の高い梅を見上げる。
「おねえちゃん、なにしてるの?」
無邪気に、幼い奏多はあどけなく少女に話しかけたのであった。
「私か? 私は、梅を見ているのだ」
ふわり、と袖をなびかせて地に立った少女を見て、男の子は目を丸くして笑顔で見つめた。
幼い自分自身の体験を第三者の視点で見ている奏多は、何とも言えぬ不思議な気分であった。
「おねえちゃん、すごいね!」
「そうか。すごいのか、私は」
「うん!」
無邪気に笑う奏多につられて、少女も柔らかな笑みを浮かべる。可愛らしい、見た目の年相応の笑顔だった。
「おねえちゃん。名前は?」
「私は、緋果だ」
「へぇ、変わったお名前だね」
(そうか……、緋果と言うんだ)
奏多はじっと立ち尽くして、様子を見守る。
そこで、何か思いついたように幼い奏多はズボンのポケットを探り始めた。そして、取り出したのは透明な玉――ビー玉だった。緋果に向かって、手を差し出す。
「はい、これおねえちゃんにあげる」
「ん? ……これは何か?」
「キレイでしょ! キレイだから、キレイなおねえちゃんにあげる」
屈託のない、少年の笑顔。
少女は、口元を少し緩めて。
あたりには、梅の香と暖かい光が広がっていた。