幽かなる
短編にするとちょっと長いので分割しました。
ふわりと香ったのは、梅だろうか。
鼻を掠める心地よい香りに、舛野奏多は口元が緩んだ。
吐いた息が白くなっては空気に溶ける。
雪の残る坂道を歩く。この間降った雪が道の脇に寄せられていた。
田舎、と言っても差し支えない山間の町。そこが奏多の生活圏であった。
広々と水田が広がり、夜になれば暗い景色に点々と灯りがつく。高層ビルやショッピングセンターのような先進的な建物は無いが、満天の夜空が美しいのが自慢である。
突風の冷たさに、思わずマフラーに顔を埋める。高校からの帰り道、奏多は一人で道を歩いていた。
「……寒い」
顔を刺す冷たい空気に、奏多は独り言ちた。
片手で鞄を持ち、もう片方の手はズボンのポケットの中に突っ込んでいる。詰襟の上から学生服を着ていても、山間の冬は寒いのである。
目指す先は、小山の中腹、鬱蒼と木が茂る中の寺である自宅だ。
奏多の叔父、達摩はお坊さんをしており、三年前に他界した父母に代わって今は達摩の元で生活をしていた。なので、自宅が寺であるのだ。
理由は、それだけではないが。
木々に両端を囲まれた坂道を登る。少し空が曇ってきており、薄暗い、冬独特の空気感である。そこには、微かに花の香りが混じっていた。ぼうっと雑木林を見ながら歩いていると、奏多は緑の中に赤がかすめる。
思わず立ち止まり、目を凝らす。
「紅梅、かな」
帰路を外れて、森の中へと入って行く。少し積もったままの雪を踏みしめ、近づいて行くと見事に満開である紅梅。心地よい香を放ち、枝ぶりも素晴らしい。眺めるも良し、香るも良しの梅である。
「綺麗だな……」
奏多は思わず言葉に出す。
「キレイだねー」
「そうだよな。見事な梅だなぁ」
「そうだねー」
はっとして奏多が声のする方へ振り向くと、そこには黒髪の少女が立っていた。
五、六歳ほどだろうか、セミロングの黒髪に、くりくりとした瞳を奏多へと向けていた。しかし、特筆すべきはその格好だ。地は赤、白梅の描かれた着物を着て、黄色の帯を締めていたのだ。
「お兄ちゃん、あたしがみえるのー?」
にこやかに笑う幼子からは、ただならぬ気配が感じられていた。どう答えるべきか、少し迷ってから素直に返答する。
「み、みえるよ」
「へえー、そっかあー」
きゃあきゃあと年相応に可愛らしく笑うが、奏多の顔には引きつった笑みしか浮かばない。
(この子、絶対ニンゲンじゃない……!)
奏多の瞳には、昔から変なものが映った。
いや、他人には視えないものを感じ取ることができたのだ。それらは普通人にはみえない。感じ取ること、みること、ましては話すことができる人はごく僅かだろう。
そして、それらはおおよそ一般的にこう呼ばれる。
――幽霊や、妖、と。
目の前の少女が、格好や雰囲気からそんな人為らざるものだと奏多は痛感する。
「ご、ごめん。俺、帰らなきゃだから……」
そう言ってゆっくりと後退する奏多。
「じゃあ、さよな」
「――待たれよ、人間」
「っ!!」
子どもらしさの消えた声音で、少女が言葉を紡ぐ。ぴたり、と足の動きが止まる。いや、止められる。奏多はごくり、と唾を飲んだ。
くすくすと変わらず浮かべられた無邪気な笑みが、少しの恐ろしさを孕む。ここで逃げるのは得策ではないと、奏多の勘が告げていた。
「頼みがあるのだ」
不可思議な少女の意外な言葉に、奏多は驚きつつも警戒を怠らない。
「頼み、ですか」
「うむ」
重々しく少女は頷き返す。
「先日、お主と同じように梅を見にきた人間がおってな。其奴の前で、不注意にも大事な物を落としてしまったのだ」
「はあ」
それがどうしたんだろう、と気の抜けた相槌を打つことしかできない。
少女は奏多を通り過ぎて、梅の木へと近づく。
「すると、其奴はあろうことか、私の宝を拾って持ち帰ってしまったのだよ」
そう言うと、ふわりと地を蹴って、少女は梅の枝へと腰掛ける。少しの笑みを浮かべて奏多を見下ろす。
「生憎、お主のような者にしか私を認識することは出来ぬ。どうか、取り返してきてほしいのだ」
少女の要求になんと答えようか、奏多は押し黙って考えていた。
「ああ、それと」
「断るならば、祟るからの」
ふふふふふと嗤う少女。少し引きつった、苦笑いしか返すことができない。どうやら、奏多に拒否ができる道は無いようであった。