7. 出来事についての見解
「こんにちは。自宅へいらっしゃらないから、こちらから参りました。加減はどうです?」
カズヤは路上に倒れこんでいる俺を、穏やかな表情で見下ろした。聞く必要はあるか?
気分は脳みそが地中を泳ぎ回っているかのように最低だ。気管に海水と胃液が入ったせいでさっきから何度もむせ続けているが、一向に気道は開通しない。大量の胃液を口内で咀嚼しながら仰向けになっているからだ。うつ伏せになりたいが、四肢は麻痺してびくりとしか動いてくれない。痛みと全身の打ち付けのせいで、まともに俺の言うことを聞いてくれないのだ。幸い、頭を打っていないおかげか、意識だけは混濁はっきりしている。今の俺の体の動かせる部分で自由なのは、ただ眼球だけだ。
脅かされることで距離を離していた村人たちは、張本人が無力化したおかげか弛緩した雰囲気を漂わせている。幾人かはカズヤのもとへ近寄って礼を言っている。その中には村長も混じっていた。
誰しもが今や、さっきまでこの村に危害を与え、かくやとなれば銃まで持ち出した強盗容疑者への興味を失ってしまったかのようだ。俺はこれと似た光景をこれまでも見たことがある。彼らの内で、そのような些事よりも大きな感情が生まれてしまったからだ。
いや、表情を変えていないメンツもいた。先ほど俺によりケースで殴られた男と、取り巻きの最も外にいた宿の主である。怒りをありありと浮かべた男は、さっき顎を切ったのか、そこから血をひたりと流しながら足音を立ててこちらへ近づいてきた。
男はさっき俺を殴ろうとした棒、実際には小舟用のパドルを地面に引きずっている。おそらく、あれで立つことすらままならない地上のアザラシのごとき身の程知らずのバカ者を、再度打とうとしているのだろう。勘弁してくれよ。そんなので人間を全力で殴ったら、最悪死んじゃうぞ。
「いいですよ、そこまでしなくて。まだ聞きたいことがありますから」
カズヤは手を振りかざして歩みゆく男を制止した。まるで地面に縫い止められたように足を止める。寝転がる強盗容疑者と魔法使いの間で視線を行ったり来たりしている。しばらくすると、力なくうなだれ、取り巻きの外へとぼとぼと出て行った。視界から消える直前、地面に落ちていた桶を思い切り蹴とばした音を響かせた。
もう一人の興味なさげな様子である宿主は、村人たちの様子を遠巻きに狐にでも化かされたかのように、目を見開いて見ている。おそらくこの有様を始めて目にしたのであろう。驚くのも無理はない。彼らにかかれば、このような村人一ひねりなのだ。
そうしている間に、気管よりも先に体が回復してきた。頭の中は息ができなかったせいで白くなっていたが、喝を入れて最後の力を振り絞りうつ伏せにする。最初に感じたのはどうしようもない吐き気だ。中身をすべて吐き出す。それから、同時に思い切りむせた。胃液が気管から抜け出た感触から、鳥肌が立つような寒気を感じる。
その一瞬あと、酸素が肺内に入る。なんて爽やかさだ。頭の中で再び思考が復活する。これだけで生き返ったようだ。
それまでなくなっていた指先の感覚やわずかながらの思考力も回復した。体の感覚を確かめる。
己の執着心というのは勲章ものなことに、銃をいまだ手放していなかった。そして、体の状態も思ったよりもひどくない。骨は幸い折れておらず、痛みこそ激しいけれど休めば走るくらいの運動は行えそうだ。
一体、先ほど何が起こったのだ。村民とにらみ合いをしている間、俺は周囲にしっかり気を配っていた。あのような大量の水がいきなりこの場に現れたのであれば、村民の誰かが視線を上空へ向けるはずだ。しかしその反応はなかった。村民が慣れていたからだろうか。いや、それにしてもあの視線の集中、あの人数で誰も気にも留めないなんてことがありえるだろうか?
とはいえ、彼が業をつかえることは確認された。俺の仕事は障害はあれど順調に進捗していると言っていいだろう。ここからのルートは、説明員に頼らず俺自身でアプローチをするチャンスを見つけることだ。
カズヤとなんとかして一対一で話す機会を作らねばならない。彼の意思はどうなっているのだろうか。今、殴ろうとした男を止めたところを見ると、俺に対して興味を失っているわけではないらしい。
そして、まだ聞くことがある。おそらく、こいつはこの村内で起きるある事態を引き起こしている原因を作っているに違いないのだ。何を一体現在進行形で何をしているのか。それを知らなければ、対応を決めることはできない。
カズヤは村人からの感謝の雨を浴びた後、眼前に寄ってきた。まだ俺は立ち上がることさえできていない。村人の一人が俺を立ち上がらせ、家屋の壁によりかけさせた。彼はこちらを見下ろしながら、穏やかな目をしてこちらへ質問する。
「どうして、こんなことをしたんだい?」この男、とぼけているのか。それとも知らないのか。
「俺は、していない」絞り出す。「する、理由が、ない」ゲホゲホと咳を何度もしながら、何とか声にする。
「それでは誰も納得できませんよ。そもそも、なぜこの村へ?私をだましていたと」村人からの敵意の目が増す。俺が彼に何を話したのか、彼らは知っているのだろうか。
「俺がこの村に来た理由は、あなたに会って話をすることだ。そして、その目的は昨日伝えた通りだ。『ここから連れ帰す』。それ以外君へ提案した事項はない」カズヤは、ただ色のない眼と口元で視界にとらえ続けているだけだ。言葉の丁寧な様子と裏腹に、彼はこちらをむしろ拒絶したがっている。そう、俺は感じた。
村民の間には困惑した空気が広がっている。彼に連れだって村を出る?どういうことです、村長がカズヤに困ったように尋ねる。カズヤはため息をついた後、
「この先は私に任せてください。誰か、僕の家へ彼を連れて行ってもらえませんか」と周囲へ向けて命を発した。
周囲を見渡す。村人たちは従って作業を始めている。そして、ようやく俺をうっとおしそうな目で見始めてた。なんといっても村内で強盗殺人をしでかしたと思われ、しかも火器を振り回した凶悪犯罪者だ。近寄りたくもなかろう。
そういえば、あれだけわかりやすい男がこの取り巻きの中にいないことに気付いた。顔に傷があった元兵士の水夫はどこへ。待ち合わせはしていたが、このような事態となれば呼び出されていて当然のはず。知らされなかったのか。
手首を荒縄で縛られ、俺は歩いて家まで徒歩で移動するよう命ぜられた。縄の先端と俺の背後には村民が二名伴だって歩いており、こちらを監視している。それ以外についてきているのは村長と宿主、カズヤだけだ。背嚢は村長が、銃は宿主が持っている。
付いて来ようとするその他の村民は、カズヤの来なくともよいという言葉に従い、その場で解散した。背中の痛みは徐々に引いてきている。ただ、服が肌に擦れるたびにその部分からは微弱な電撃を走らせたように痺れを覚えた。自分の肉眼では見えないが、相当な打撲傷となっていることだろう。夜が楽しみだが、その期待は俺の身柄が夜まで持ってくれればの話だ。
カズヤの自宅にしばらくするとたどり着いた。敷地内へ入ると、村長が前へ出て玄関を開いた。カギは閉まっていない。この辺りの住宅に、門ではなく扉に錠前を付けるという習慣はない。俺は背中を押されて土間に入ると、靴を脱ぐよう指示される。縛られてるから脱げないんだけど。それを示すように首を横に振ると、カズヤは、縄を解いてやるよう俺を連れてきた男に指示した。
いいですか、と彼らは不安そうに村長へ尋ねるが、村長は彼に従えと一言返した。眉へわずかに皺を浮かべながら、彼らは俺の手首にかかった結び目を解いた。数十分であっても、捕虜の扱いは肩を凝らせる。ぐるりと俺は肩を回した。その間に村民の男たちはとっさに後ろへ下がって腰をかがめ警戒している様子をこちらに見せた。
「抵抗しないでくださいね。そうなると、次はこちらも手加減できません」口元を緩めて後ろの若作りが何やら話しているが、それは見当違いと言うものだ。
「はい、私に抵抗するつもりはありません」俺は両手を持ち上げ掌を見せて、降参の構えをあちらに見せた。それが分かると、俺以外は手を払ってこちらを隅へ寄せてから、履物を脱いで屋内へ入っていった。土間で待っていると手をこまねいて、上がってくださいと家主は俺へ指示する。従って、家へお邪魔することにした。
カズヤの邸宅は平屋建てで、土間から上がるとそのまま板敷の広間という形式になっている。台所、物置など勝手仕事場は土間から枝分かれした区域にまとめて配置してあり、そちらへは土足のまま行くと想定されているようだ。よくある百姓家の造りである。
広間の一部には畳が敷いてあり、家主の床座り場所が作られている。カズヤは先だって歩いた後、そこへ胡坐をかいて座った。村長、宿主は部屋の隅に重ねてあった座布団を持ってきて、床に置き正座で座り込む。俺と村民はまだ立ったままだ。
「いいですよ。お座りになっても」…左ひざから床に置き、かしこまって板敷の上へ尻を乗せる。そろそろ腫れが出てきた。これまでの打撲感とは異なる鈍い痛みを緩やかに感じた。村民たちは村長達同様にまだ残っていた座布団を取りに行き、広間の後方へ陣取り、こちらを見つめ続けている。
畜生、何か不愉快だ。縄をとっても扱いは変わらない。誰か俺を弁護してはくれないのだろうか。理不尽極まる。
沈黙が広がる邸内で、口火を切ったのは村長だった。
「裾川さん、あんたの目的はなんだね。あのようなことをしたのかしていないのか、それを話し合っても水掛け論にしかならなさそうだ。さっき、カズヤ殿は言っていたね。『連れ戻す』と。それはどういう意味だい」
勘がいい人だ。確かに、先ほどの件についてここで話し合ったところで平行線をたどるだけだ。それよりは俺に付いて聞いた方が建設的である。この次第だ、煙に巻くには限界がある。ここは嘘にならない程度に事実を話すことにしよう。突飛な話はバカにしているのかと非難されるのがオチだ。
「あなた方は先ほど、カズヤさんの業をご覧になっただろう。驚いていないところを見ると、今までも実演したことがあるんだと思います。彼は、あの通り魔法使いなのです。そして、彼をこの村の外に連れ出すことが私の目的です」宿主は息を飲んだ。彼だけはこの村に定住しているわけではない。カズヤの能力を見たのは先ほどが初めてだったようだ。
「魔法、とはまた奇矯なことを言われますな。そのようなものが実在すると思えない。さきほど確かに突如として水があんたの上に落ちてきましたがな」宿主は懐疑的だ。
「納得できませんか?あれは、水を頭上から落としたのではありません。海水を漁村の上空まで持ってきてから手放したのですよ。そして、これはカズヤさんのただ独力によってのみ達成されたのです。そうですね?」俺の問いにカズヤは首を縦に振って答えた。
ただ、宿主はいまだ疑問なようだ。
「今や鉄でできた汽車が全国津々浦々を蒸気と機械の力で走り、空を飛ぶ風船の旅客便が大陸間を通えると言われる時代です。私は生まれて60余年、文明開化の前も見聞きしております。しかし、呪術や神がかりの類を使って土民を、失礼、まともに文物を読んだこともない人々を惑わす者は存じても、物体世界を動かすものなど聞いたこともない」村長はそれを聞いて返した。
「いや、それは事実を見れないものが語ることですぞ。先ほどのあの業をどう説明するのですか。儂はこの村に彼が訪れてからというもの、あのようなものを何度も見ておる。夏の台風の時は、浜に打ち上げられた動力船を岸壁まで戻したこともある」
「戻すだけなら縄とウインチを使ってもできることです。船をあたかも肉眼で見て不自然なように岸に寄せることと、『魔法』を使えることを安直につなげるのは、感心できませんな。カズヤ殿には失礼なことでありますが、水を持ってくるだけなら、例えば家屋の二階に水を汲んだ大きな桶を静かに持ってきて、傾けるだけでもよいことです」
宿主の問は絶えない。言葉の内容について、間違いはないと俺は思う。これが尋常のことであれば。村長は重ねて話す。「彼曰く、これは技術であなたたちは知らされていないのだ、ということですじゃ。知らないことは存在しないという態度は感心しないことです」「そう、それなのですよ。技術、あのような技術が存在すると?」
宿主は村長の話を聞いても納得できない様子だ。技術であるというならば、何か道具や仕掛けがあるのではないかと言っているのだ。
「人ならざる美しさを誇る芸術はあります。常人には到底なしえない武術を繰るものもおります。私には掌を握っただけで人を投げ飛ばす合気を見せられても、やはり先ほどの出来事と同じようにしか思えますまい。自身でできると想像できるのは、せいぜい習いの書道程度です。しかし、あのような液体のままの水を空中に浮かべることを技術などと」
「だから、魔法なのですじゃ」
「しかし、技術というなら、種や仕掛けがあるはずです、私にはわかりませぬが…、うむむ」思考は堂々巡りに入ったようだ。そのまま宿主は口を止める。あるのかないのか、続くのは押し問答だ。
その場にいる人々は、しばらく口をつぐんだ後、誰ともなくその魔法とやらを使った張本人へ目を向けた。ここからは、本人に聞くのがいいと判断したのだろう。彼は自宅に帰ってからというもの、会話に参加していない。その次第に至っても、興味がなさそうに天井へ視線を揺らしていた。