5. 無知覚
ここまで背中にじっとりとにじり寄っていた薄暗い予感は、現実のものになりつつある。
普段は出しもしない懐中時計をもう3回も見てしまった。すでに時刻は正午を1時間以上過ぎていた。村の入り口、この村に入るとき通った囲いの傍で俺はずっと旧街道を見続けて連絡員を待ち続けている。
隣にいる爺さんは、今日もまた黙々と作業を続けている。試しに聞いてみる。
「作業中すまない、朝方からだれかここを通って外から入って来なかったか?出て行ったでもいい」爺さんは手を止め、しばらく宙を見上げた後、誰も来ていない。出て行った者もほとんどいない。自分が昨日の昼ここで俺を見て以降、通ったのは子供一人だけだと言った。俺がここで待ちぼうけを始める直前、血相を変えて走っていったらしい。
さっきすれ違った子供だろう。しかし、子供が村の外に用がある物だろうか。しかも一人で行くなんて、なかなかありそうなことではない。
「俺が通ってから?あなたが見る限り、昨日の昼から誰も来てないということか」応、と答える。昼めしは握り飯ですませることにしているので、朝から夕方までずっとここにいるから確かだ、ということだ。
どうなっている。俺があずかり知れないところで何かが動いている。しかも、それはついつい最近、俺が来てから起こり始めたとしか思えないほど急速だ。そうあらぬ憶測を抱かねばならないほどに、違和感を覚える出来事が連鎖的に起こり続けている。もう、待っている場合ではないのかもしれない。
満潮はもう過ぎ、波打ち際は引き始め素人には見えなかったものが露わになる時が来ているのかもしれない。地面に埋めておき、忘れていた子供の頃の宝物を知らぬ間に掘り出されていたように、道端を歩いていたら熟した栗が突然頭の上に降ってきたかのように。俺は、昨日何かを重大なことを見過ごしたのではないだろうか。そう、ろくでもないことを考え始めた頃だった。
曲がりくねった上り坂の奥から誰かが息を切らせてやってきた。子供だ。泥にまみれ、血相を変えて走ってきている。どうしたことだろう。立ち上がって呼び止めると、まるでため息をつくように、地面に倒れこみ、その場で嘔吐した。近寄り、声をかけながら背中をさする。
よく見れば、その表情は胃液と汗以外のものでも濡れているようだ。どうした、問うても何も返さない。ただ、声にならないような声で、ただしゃくりあげ続けながら、何度も同じ言葉を口走り続けていた。か細く、助けて、母ちゃんを、と。
「さっき走ってた子供って、この子のことか」網を手から離して駆け寄ってきた爺さんに問う。首肯する。ただごとではない。
「坊主、案内できるか」背嚢から救急バッグだけを引きずりだし懐へ放り込む。残りはその辺りへ投げ出した。長物の入ったケースを少し緩めて前半身に回した後、ベルトをきゅるりと引いてしっかりと固定する。それから、うつ伏せで倒れ伏すガキの前に後ろ向きでしゃがみ込み、持ち上げて背負い込んだ。胃液の香りがうなじへ付く。
そのまま村内へ走り出す。小さく、擦り切れるような声で「漁村、山手の…」もういい。十分だ。気づけばもうすでに杖を手に握っていた。こういう時は早い。全速力で下り坂を走りきり、屋敷通りの入り口を過ぎる。ここから先は匂いが頼りだ。集中する。一つの通りでも間違えれば間に合わないかもしれない。
感じた。漁村山手の通りに入って3つ目の小道を右に曲がる。
「5つ目の…」違う。雨が降っていたからそっちはぬかるんでいる。転んだら大変だ。すぐに左へ曲がる。集落は区分けが整理されていないけれど、それで十分着けるはずだ。裏通りの手前から2軒目はひっくり返した樽がいくつか並んでいた。急停止して、勝手口の扉を勢いよく開ける。
鼻を突いたのはまんべんなく広がる脂ぎった鉄の匂いと栗を煮詰めたような香りだ。室内には人が集まっている。その中央には、腹に紅にまみれた上着を当てられ、目を見開きくいしばった表情のまま静止した女性が横たわっていた。集まった人々は一斉にこちらを見た。
ああ、最初から「間に合っていなかったか」とっさに言葉がこぼれた。子供は背中で暴れている。下ろすと母のもとへ足をもつれさせながら駆け寄っていった。どこにあったのだろうか。それとも、これは何度目かなのであろうか。彼は母だったものにすがりつながら、涙と声を小さな体から際限なく絞り出し続けた。
殺されたのはこの村唯一の麹屋を夫と経営していた女性だった。夫は一昨日から麹の材料の手配に街へ向かっているらしい。
子供一人とともに店の留守番をしていたところ、朝の仕込みを行い遅めの朝餉を済ませ、店を開いてすぐに、突然何者かによって襲われたらしい、とのことだ。
らしいというのは、それを誰も見ていなかったからだ。子供は普段開店前になるとは呼び出されていたらしいが、最近は小さい反抗期でその時間になるとは顔を出した後、家の裏で遊んでしまっているのが常になっていた。
店には客はいなかった。突然叫び声と棚が崩れる音がし、一番近くにいた子供、名前は三郎というらしい、が血まみれの母を発見、呼びかけたもののその時点で意識は混濁していた。周囲の大人を呼んだものの、この村は無医村であり、治療できる人間はいなかった。いや、居たとしても何もできなかっただろう。
なんといっても傷は下腹部前面から脊椎まで貫通しており、鋭い切り口の穴がぼっかりと開いていたのだから。子供は大人たちが何もできないことを知って、街まで医者を呼ぼうと走り出したと隣の家に住む中年の女性は言っていた。俺が見かけたのはその辺りのがむしゃらに走る様子だったようだ。また、店内はすさまじいまでの荒れ方をしていた。棚はひっくり返り、その桶に入っていた中身は天井にまでまき散らされていた。天井の板張りの一部も破損していたようだ。
奇妙なのは、その物音と悲鳴が同時に上がったということだ。強盗であるなら、殺す前か後に荒らすであろう。となると、考えられるのは複数犯の強盗だ。荒らしている途中に女が暴れ始めたから、脅していた方が女を突き刺したと考えれば同時に起こしえる。
しかし、この麹屋には銭はほとんどない。こういう田舎町は現金よりも信用取引が主だ。犯人たちは取る物もなく、そのまま逃げだしたのだろう、このように現場を見て判断したのは、しばらくして現場へやってきた村長と、俺が宿泊している宿の主人の2人だ。
三郎は放心状態で壁に寄りかかっている。近所の女性が水をあげ、肩を抱いている。俺は、少し離れた小屋に寄りかかって憔悴した子供と婦人たち、店内を見た後ただただ話し続ける老人たちの様子を黙って見続けていた。
特に何かできる宛てもない。突然思い立って子供をここまで連れてきたものの、俺は彼の知り合いではないし、人間関係について調べに来たわけでもない。ただ足をぶらぶらとふらつかせ続けていた。強盗騒ぎと言えば、昨日の宿もそうだった。そして、いずれも犯行現場近くに俺は来ている。この村へ来てから短時間の内に2件いや俺から見ると3件、連絡員が行方不明だ、事件が起こっている。
村民はちらちらとこちらを見てはヒソヒソととりとめのないことを語っている。状況証拠すらない出来事ばかりであるが、自分を弁護する必要がどこかで生じるかもしれない。
空をぼんやりと眺めて巻雲の本数を数え始めていた時、傍へ村長が男数人を連れだって歩いてきた。
「あんた、ちょっと話を聞きたいんだが」男たちは村長の後ろで腕を組んでこちらを睨み付けている。
「赤崎さん、宿の主さんだね、から聞いたんだがね、あんたには一緒に来たわけではないが、連れがいるそうじゃないか。彼はどこへ行ったんだね」
「私もそれがわからないんですよ。昨日の晩に宿で落ち合う予定でしたが、遅くまで待ってもきませんでした。それと、彼は連れではなく省の正式な連絡員です。進捗通りなら彼はもう村から出ているはずです」
「それだよ。正式な、というのが分からないんだ。あんたはこの村に来て最初に屋敷に来て書面を見せた。その事実は確かじゃが、さっきからあんたを不審に思う人が多い。特に用事もなく村内を歩き回っておるしな。ほれ、木元さんとこでは家の壁に耳を付けて何か探っとったらしいじゃないか」見られていたか。室内に気を取られすぎていた。
「それは誤解です。身分証明書ならあります」背中をごそごそしようとしたが、はて嚢がない。
ああ、そういえばあの時に。
「…お見せしたいところなのですが、それが入った鞄を村の入り口に置いてきてしまいました。今からそれを取りに行ってよろしいですか」いいだろう、と長は言って、男二人を俺につけた。疑われてるなあ。
このような事件が起きたのであれば、無警官無医村のこの村でも外へ連絡する必要がある。今ここに居る俺たち以外にも若い衆の一部は、村の出口へ向かい官憲を呼びに行ったようだ。ここから街まではよほど急いでも2時間、往復で4時間以上はかかるだろう。その頃にはもう夜になってしまう。
もし、『強盗』がどこかに隠れているのであれば、その隙に何か別の犯行を起こすかもしれない。この村を預かっている以上、よそ者を村長が警戒するのは当然だ、と俺についてきた宿の料理夫は言った。宿主に付いてここまでやってきたようだ。彼は宿主がいないときの別荘の管理も任されているらしく、なかなかしっかりと話せる男であった。
村内を通り抜けて、村の出入り口の囲いに着いた。この村の囲いは、もともと外から中を守るものではなく、船から降りて内部から外へ抜ける、密航者や物が抜け出すのを防ぐために設けられた関所の跡地であることに、今気づいた。囲いの内側の方が空間を広く取っており、一部分は地面が長年建物があったからか土台石状に等間隔で押し固められているからだ。
囲いを出て周囲を見渡す。昨日からずっと網を直していた爺さんは居なくなっていた。そして、俺がその場で下ろしたはずの背嚢もなくなっていた。