3. 異常
この村唯一の宿泊施設は屋敷通りの中ほどから、海へと走る山麓に登る坂の途中にあった。
すでに陽は落ちる寸前で、空は深い藍色に染まってきている。電気が通らず、灯りを持たない旅人の俺にとって、夜の村は闇の中を動くのと同義だ。屋敷通りの人口は少なく、家の中には明かりがともっていない。加えて天候は雲の様子から、徐々に悪くなっているように見える。宿の前に着いた頃には肌に感じる空気はずいぶんと湿度を感じるようになってしまった。
暖簾を潜って宿に入る。受付は穏やかそうな表情をした初老の男性だった。大倉の手配で、事前に宿は取られている。白紙の宿帖に名前を書き、廊下を進んで階段を上る。
思いのほか大きな宿だ。以前この村で財を成した豪商が、別荘兼宿として経営しているところらしい。春から夏は別荘として、晩秋から初春までは宿として扱われている、と宿主は言った。営業を始めたのは先週からということだ。階段を登り切って2階の板敷の廊下に入り、手前から左手手前から二つ目の部屋に入る。
ようやく自室につき、荷物を下ろす。部屋は長方形状になっており総畳み8畳。窓が南向きについており、東側は床の間となっていて何やら達筆な字で書かれた掛け軸が飾られていた。
半日ぶりの休憩である。よく考えると、峠を越えてからここまで休むところがなかった。村長宅でも座れたが、あそこでは終始相手からの視線で肩に力が入っていた。特に犬の吠え声は苦手なのだ。子供のころからあれを聞くと背中に冷たい金属の棒をなぞらされたような感覚を覚えてしまう。この仕事をしていてあれよりもよほど驚くものを見てきているが、それでもあの鳴き声だけは克服できない。
明かり障子と窓を開け、室内から外を見てみる。宿の二階からは、海に面した半盆地の村の全景が一望できた。ちらほらと家の中から薄暗い明かりが見える。すでに村は夜に包まれていた。
下をのぞき込むと窓の下はすぐ外壁になっており、開口部の水切りから下はそのまま1階、地面となっている。宿の周囲は林になっているようだ。床に腰を下ろす。仕事の半分はもう終わったと言っていいだろう。探していた男、カズヤと言ったか、の居場所はもうわかった。意思については不確かであるが、彼を確認した以上、ここからこちらが取る行動のパターンは左程多くない。穏当に済むか、強引に納めるかだ。
後者の場合を勘案すると、この辺りで移動中ずっと背負いっぱなしで蓋を開けることがなかった長箱の中身の整備を、今の内にしておいた方がいいかもしれない。必要になったときに機能しないのでは困る。
ケースのスナップ錠を開け、中身、小銃を取り出した。ケース内に入れているときは弾丸は装填していない。下手に警官に見つかれば面倒なことになる。最近こいつを取り出さなくてはいけないような機会は少ない。射撃練習を最後にしたのはいつだっけ?いいことであるが、それは自身をなまらせることにつながる。分解と清掃だけは怠らないようにしよう。
寒気がする。整備に集中していたら、ずいぶんと時間がたっていた。開けっぱなしだった窓を見てみると、外では雨がしとしとと降っている。ふと今日のことをなんとなく振り返っていたら、港で会った婆さんのことを思い出した。そして、飯を食うのを忘れていたことに気付いた。
蟹である。大倉からは懐中時計を渡され持ってきてはいるが、それを見る習慣はない。もしかしてもう食事の時間あは終わってる?整備が終わった銃をケースにしまい、厳重にしかし急いでロックする。まあ、ケースごと盗まれれば終わりだ。窓を閉める。それから内障子を閉めた。
背中に背嚢だけを背負って下の階へ降りる。すれ違い、頭に巾を付けた仲居に会った。布団を敷く時間らしい。俺を呼ぼうとしていたようだ。よろしくと言って、食堂に入る。
食堂の入り口を示す暖簾をくぐると、旨そうな匂いが厨房から漂っていた。まだ夕飯は食べられそうだ。奥へ話しかけると、一時間ほど超過しているが、まだ食材は残っていると答えた。今から温めなおして出してくれるらしい。大変申し訳ないことをした。座布団の上に座り、卓を前にしてそわそわしながら待つ。夕食は蟹鍋であるようだ。婆さん、あんたは俺にいいことを教えてくれていたがそれを俺の方が忘れていた。すまない。
しばらくすると鍋が出てきた。大根と人参などの根菜としめじ、えのき、しいたけなどの茸を添え、その中心に細い足と赤々とした甲羅を持った蟹が鎮座している。蟹の甲羅を箸で持ち上げ腹側を見ると、芥子の実ほどの大きさの卵をあふれるほどの数湛えた卵巣を二つ抱えているのが見えた。腹に大事に抱え込んでいる様子から、このメス蟹のことを香箱ガニというと、料理夫は話した。匙で汁を少量掬って飲んでみると、蟹の放つ潮の香りと魚醤がもたらすコクのある塩味を感じた。
鍋のほかには冷えてしまったが焼き魚、種類はカレイだ、や漬物がついていた。酒を頼みながら、口の中の唾液を抑えきれていない自分を見つける。あんなもんの整備に時間を費やしていたことを少し後悔した。酒を注いでもらい一口飲んだ後、鍋の汁を口に含み、それから魚に向かった。
飲みながら魚をつまみ切ったあと、蟹の足に手を付ける。両手で足の関節を逆に曲げて肉を掻き出す空間を作る。穴に指を突っ込み、足の外骨格を二つに断ち割る。こうすると、端だけで肉を一気に食いきれるのだ。半分を掬って食べた後、残りは酢だまりへ放り込む。酒を一口飲み、蟹へ味を浸透させる。浸かりきった蟹を箸で持ち上げ、口へ運ぶ。これだよこれ。解体しながらゆっくり飲むこの流れが堪らない。足の解体と食事、酒に神経を集中させた。
足を食いつくした辺りで、締めにとタコの混ぜ飯が出てきた。タコ?そういう食べ方をするのか。料理人に聞くと、カニ漁の時、たまに雑魚としてタコも少量網にかかるんだと言った。傷ついているから、細切れにした方が食べやすいので地元ではこのように処理するらしい。なぜタコが蟹と一緒にいるかというと、なんでもタコは蟹を食べるからだとか。意外な事実だ。
飯を半分平らげた辺りで違和感に気付いた。おかしい。そういえば、なぜ俺が部屋で待機していたのか、その理由をここにきてようやく思い出した。連絡員だ。あいつにおれはこういったはずだ。「宿で待つように」と。俺以外の客はいない。それはいい。俺から伝言を聞いたらあいつはそのまま村を発つ予定だから宿を取る必要はないのだ。
しかし、ここにいないのはなぜだ。宿主を呼ぶ。受付であった男性が出てきた。問うてみたが、そのような風体の男は来ていない、とのことだ。酒の味が薄くなったように感じる。大根はまるで軟らかい粘土に、蟹はまるで巨大な赤い虫に見える。いや、蟹はそのままか。とにかく、ここで飯を食っておとなしく鍋をほうばる俺は間抜けである。
鍋の中身と徳利の中の酒を飲み干す。爺は目を丸くしている。普段ならくらっと来るはずだが、それを微塵と感じない。「ごちそうさま。うまかったよ」声をかけて食堂を出る。
なるべく急がず、早歩きで2階に向かう。中腰になり壁に身を寄せ、室内の気配を感じる。物音はない。壁の触感、振動、どれも異変を感じない。
だが、なぜかふすまの隙間から風を感じる。窓は閉めたはずだ。何者かが、室内で息を潜めているのかもしれない。深呼吸した後、意を決してふすまを勢いよく開ける。乾いた音が旅館内に響いた。わずかにのぞき込む。誰もいない。柄を浅く両手で握る。決意を決めた。勢いよく飛び込み、室内を確認する。
布団が敷かれている。ケースも開かれておらず、元の位置のままだ。よかった。しかし、部屋の様子が決定的に違っている。異変。異常の予感。異界の気配。窓が、開いていた。いや、開いているのではない、障子が倒れ、その桟には大きく穴が開いている。そして、外のガラスは崩れ落ち窓の傍で散乱していた。。
壊れた障子の様子をまじまじと見る。桟は布団の上、室内へ散乱している。障子は室内側窓の傍に落下したようだ。これは外からなされたのだ。しかし、ここは2階である。だれかが損傷を起こすには、屋根に上るか、長い棒で切り裂くか、それとも外から何かを投げてぶつけねばならない。だが、外から投げ込まれた異物は室内には特に見当たらない。また、棒を振り回してこのような形になるだろうか。
切り口と吹き飛び方を見てみる。横から払うように傷をつけた場合、桟は窓から水平方向に吹き飛ぶはずだ。しかし、今は窓から手前方向にしか飛び散っていない。力は窓に対して垂直方向に加えられている。加えて、障子とガラスについても奇妙な点がある。桟が折れるほどの衝撃が加えられた場合、障子には部分的にしか力が加えられないはずだ。その場合、障子は倒れず桟だけが砕け散る。または、ひっぱられ障子ごと吹き飛ぶかのどちらかだ。だが、今の障子の状態は、桟は割れているが障子自体は無事で、窓のすぐそばに落下している。それほどの速さで障子に当たったのではないらしい。
桟の割れた範囲から考えて…、窓の傍にそろそろと近づき、障子を少しだけ持ち上げてみる。予想通りだ。障子の下にガラスが大きなカケラで広がっている。量から考えてほとんどのガラスは室内側に落ちたようだ。亀裂はガラスの中央から周囲へ広がるようになっている。とがったものを押し当てられたと見える。衝撃が加えられたのであれば、ガラスは桟同様布団まで散らばるはずだ。
まとめよう。これは外から棒を振り回して破壊されたものではない。そして、外から何かを投げ込んだ結果なったものでもない。とがった、しかし押し込まれるほど広い面で当たる、例えば極太の木釘のような、円錐形状の物体を、ガラスの外からゆっくりと押し当てた結果このようになったと推測される。
その物体の断面積は最大で障子の桟全体に及ぶほどのもののようだ。あり得る可能性としては地上から長い棒の先端にそのような形状の物体を取り付けるか、脚立に乗ってそれを押し込んだと考えられる。でも、そんなことをする意味はあるのだろうか。
隣家のないこの宿において、わざわざ割る窓を割る行為を隠すのに、そのような一手間かける理由は、室内に入る必要がある泥棒以外に考えにくい。旅でここへ訪れたばかりの俺の所持品は背嚢と長箱だけだ。
この部屋を見る限り、俺の所持品で失われたものはない。布団の上に桟があるため、俺がこの部屋を出て、仲居がこの部屋の整理をした後、何者かがこれを起こしたということだ。金銭目的でないか、金銭目的であってもケースを運べず金目のものがないと判断して逃げ出したか。
推理はここまでだ。ここから先は誰かに伝えるべきだろう。ケースと背嚢を掴み、1階へ勢いよく降り、宿主に部屋の状態を伝える。何を言っとるのか。そのような顔をするので、部屋へ連れていく。惨状を見ると、目を見開き声を上げて宿内の全従業員を呼び出した。1階階段前に集まったのは宿主を含めて全部で4名。台所担当男女2名と仲居1名だ。あの仲居はさっき出会った女性である。
3人とも不安げな顔をしている。いきなり呼び出されることはそうないことだろう。事情を話すと、全員が驚きの顔を上げた。宿主は目を吊り上げ、仲居を怒鳴りつけた。布団を敷いた後割ったということは、その間に部屋へ向かっていた仲居が第一容疑者になる。俺は酒を下で飲んでいたし、上った後割ったのであれば、その間に割れる音がするというのは予想できる。下まで聞こえた者がいなかったのは、俺が台所に彼を呼び出したときに割ったからだと、宿主は言い切った。
仲居は委縮しきっている。彼女からすればこれはまさに青天の霹靂であろう。
「待ってください。彼女がそんなことをする意味はないでしょう。物も取らず、窓を割るだけなんて。誰も来ないのは予想できるのですから、ケースをほかの部屋に移動してそれから窓を割って、下手人は外に逃げた、とでも言えばいいのです。我々があたふたしている間に安全な場所に荷物を隠せば、もうこれは外部の泥棒が行ったということで決着でしょう」
宿の主はこちらをちらと見ていった。
「仲居は貧しい、漁村の出だ。私はこの村に遣られ、家主からこの宿を任された身。彼女は学校に行ったこともなく文字も読めない。犯そうとしたが、どれを盗るべきか価値が分からないがために迷い、結局それをする度胸がなくなりやめてしまったんだ」フンと鼻を鳴らす。同じ村の住人をこれほどきつく怒鳴れるものかと思ったが、そのような身分だったようだ。
それなら、そのような見方も可能である。仲居は下をじっと見るのみ。台所の女たちは口をつむってあらぬ方向へ目をやっている。
「とにかく、私は何も盗られておりません。窓が割れただけであればほかの部屋へ移動するだけでいい。修繕費は上の方へ申し出て、補償してもらうよう言います。それで済む話です。自分としては、荒事を起こしたくない。せっかくうまい酒を飲める宿を取れたんだから」仲居への援護射撃にはならないが、これでこの話の中断にはなるだろう。宿主はまだ眉間に皺を寄せているが、とりあえず台所女に掃除をするよう指示し、俺は食堂で待っているように言った。
「それと、彼女への折檻はわかる場所でしないでくださいよ。しばらく自分はここに逗留します。汚い部屋で飲み食いしたくない」
これで話が終わるよう祈りながら、俺はそっぽを向いた。
湿気のある空気を感じるが、それは窓が開いているからというだけではないだろう。
宿主は話を変える。「それでは、裾川様。安全のためにお荷物を預けられませんか。この宿の客室はカギがかかりません。しかし、この宿には小さいながら鍵付きの倉庫がついております。そちらに今夜は置かれてはいかがでしょうか」。悪い提案ではないが、こちらとしても公的な書類や身分証明書が入っている。下手に渡すと後からドヤされかねない。
丁重に断った。しっかり自分で管理した方が安全だ。要は徒に開けず、自分の身から離さなければいいのだ。話が途切れたことを確認すると、おやすみと言ってそのまま2階へ上がる。
元の部屋の隣へ移り、荷物を下ろす。仲居が布団を敷くためにやってきた。窓をあけ、外を見渡す。この景色のどこかにさっきの事件を起こした相手がいるのだろうか…。
そして、連絡員だ。彼はどこへ行った?この宿には来ていない。俺と出会った後、彼は宿に向かったはずだ。宿の場所は理解していたはずだ。ここ以外に彼が訪れるべき場所はない。突如呼び出され帰ったのだろうか。彼は俺より早く片立へ訪れていた。もしかすると、俺はまだ知らない村のどこかへ向かったという可能性もある。それに、共有した情報があるとも言った。結局、それも聞かずじまいだ。
とにかく、今は夜、宿の外は暗闇の世界だ。探すのは明日の朝にしよう。そして、明日の昼になれば、別の連絡員が村へやってくる。その時に行方は明らかになるさ。布団が敷き終わった。今日はもう目をつむろう。
目をつぶりながら、ふとまた用事を思い出す。そうだ、蟹の甲羅をバラしてなかった。蟹味噌と酒の合わせは最高なのだ。明日、頼んでみよう。