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マレビトと楔の杖  作者: 三本川 岸郎
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2. 海辺にて

 指示に従って、対象の家へ向かうために道を引き返す。

 海面を基準にすると、屋敷側は全体的に漁村側よりも標高が高い。屋敷側は後背山地から海までほとんど標高は下がらないため、その差は海に近づくにつれてどんどん大きくなり、海岸までくると屋敷側は切り立った崖、漁村側は緩やかな浜辺と対照的な地形となる。この二地域の境界はこの高度差をそのまま活用しており、高く狭い山側の斜面に造成した屋敷通り、広く海に近い平地にある漁村集落と山の手から見ると非常にわかりやすくその差異が見て取れる。

 ただ、よく考えるとわざわざ狭い土地に屋敷を構える意味は何なのだろうか。家と港を往復するだけで一苦労である。連絡員が伝えた住居は、屋敷側海岸に繁茂している松林の中にあるらしい。後背山地側、村の最奥側の境界部から見ると、その一帯はほとんどが屋敷と林に隠れていてここからでは何があるかはよくわからない。直接行ってみて、その実在を確かめてみよう。

 

 山から海へと屋敷通りを抜けて、しばらく歩くと松林へ到着した。辺りを見渡すとその隙間に、踏み鳴らされた細い道がある。そこに入り林を抜けると、もうそこは一面の海原だ。行き止まりはそのまま海岸となっており、そこで海沿いに二手に分かれている。

 左手は漁村との境界部にあり足元は浜辺となっている崖っぷちに続く道が、右手の奥には鬱蒼とした木々が見える。今は目的地へ続くと思われる右へ曲がる。

 しばらく進むと、そこには生垣と庭に囲まれた家が一軒だけポツンとあった。敷地周囲には潮風から守るためなのか木々が密に植えてある。確かに、これだと外からでは見えない。むき出しになっている一部の柱の経年劣化からすると、最近建てたものではなく古民家を改装したことで人が住めるものにしたもののようだ。家周囲の囲いを抜けて、敷地内に入り、挨拶として玄関の戸を何度か軽く叩く。反応はない。次は名前を呼んでみる。うんともすんともしない。

 家の外壁周囲を歩いて調べてみることにした。思いのほか手入れが行き届いており、裏庭には球状に揃えられた低木まである。薄桃色の花は沈丁花であろうか。池もあるが、干上がっている様子だ。そもそも、この辺りは用水路とつながっておらず、池を造成しても水を入れることはできないだろう。持ち主の素性が伺える。裏の縁側はガラス戸になっており庭を一望できる。観察してみても人影は見えない。中にいる可能性も捨てきれないが、ここはいつまでも待つよりも村内を探してみることにしよう。

 

 近場から探索してみることにした。とりあえず、さっき右手に曲がった道を左手方向、漁村側へ向かう。漁村の浜が足元に広がる位置までくると、山手側からでは見えなかったが、壁沿いにロープと足場が作ってあった。

 ある程度以降の標高差になると漁村から屋敷側へ移動することができなくなる。便利のために村人が作ったものだろう。ロープを伝って下へ降りていく。ひっかかりはうまく作ってあり、特に苦労もなく降りることができた。ただ、最下段は潮が満ちているときに進入するのか、水が入っていた。靴が濡れる。

 

 崖に近い側の海辺は小さな浜辺と磯になっている。浜辺から陸側を見ると、小さな家々が密となって集落を形成している。屋敷通りと比較すると、いかにも漁村部落と言った風情だ。屋根は板敷の上に石を載せ固定する形式であるが、その部分も含めて全体の造りは全く貧弱だ。板壁は焼いてあるだけでろくに塗装もなく、これでは日々当たる潮風によって瞬く間に朽ちてしまうだろう。事実朽ちてところどころ穴が開いた家もあるが、それでも桟が開いており、人がいる生活感を醸し出している。今からの時期は相当に寒かろう。

 浜沿いを歩いていくと、海岸は石と土で造成された海岸に変化し、船をかけるための桟橋が架けられている。ここには今も使用しているようで、小さな漁船が数多く留められている。さらに海外沿い奥を見渡すと、岸壁が整備されている。

 驚くべきことに陸側にはコンクリートが使用され、しかもやや沖合には護岸工事までされている。このような規模の港ではなかなかないことだ。この村、想像以上だ。昔の遺産だけで繁栄しているわけではない。一体何が捕れてこれほど儲かったのだろう。

 

 男については、ここから先は自分の足で探すしかないようだ。浜辺以降、足跡でもないかと思ったが、自分の前後を振り返っても自分のものしか見つからない。そもそもこのルートは間違いだったか?ただ、海岸沿いに移動したと俺は強く思うのだ。そうでなければ村長は漁村から俺を離そうとはしなかっただろう。

 潮の香が鼻をつく。浜風は峠で感じるだけあってなかなか強い。海も荒れている。今の時期の漁は大変そうだ。海沿いに歩いていき岸壁近くを歩いていると、水夫なりの男に出会った。右の横顔だけがこちらに向いていて、係留してある船に荷物を運びこんでいる。この船は動力船だ。大漁師の雇人だろうか。男の行方を尋ねてみよう。

 実は、探し人の人相を知るために極秘で撮影された顔写真をもらっている。村長には見せていない。これを見せると、実は行方知らずの人物との面会ではなく、内密な捜索であることがばれ、さらに警戒されそうだと思ったからだ。漁師にもまだ見せない方がよさそうだ。まずは平常の情報から聞いてみよう。

「こんにちは。いい潮風ですね。地元の方ですか」彼はこちらを一瞥してから、仕事を続ける。肯定ということだろう。続いて尋ねる。

「2か月ほど前にこちらの村へいらっしゃった男性と会いたいのですが、ご自宅にいらっしゃいませんでした。こちらへみえませんでしたか」。

 男はこちらへ顔を向けた。隠れていた側の顔がこちらに向いた。声を止める。大きな火傷痕があった。左目は見えていなさそうだ。ああ、戦場帰りかと理解すると背嚢を掴んでいた手に力が入る。男は一瞬言いよどんだ後、「この先は仕事に向かった漁民の家が並んでいる。この先には、いないと思うぞ」と海の方を見て言った。

 ありがとう、ただ、まだ地形をよく理解していないので、海側を回ってから漁村方面を探してみます、ありがとうと礼を言ってから通り過ぎる。あの男、なんともわかりやすい男だ。こちらのなりを見れば、俺が何を持っているかよくわかるだろう。しかも、男という単語を出した時点で、迷っていた。誤魔化し?それとも今は会わない方がいいという遠まわしの忠告だったのだろうか?まあ、知っているということはわかった。

 

 海沿いをゆっくりと歩いていく。岸壁の傍に立ち並んでいる家はどれも小奇麗だ。ここと比較すると、浜辺側の家は掘っ立て小屋みたいなものである。古式ゆかしい浜辺の舟に対して、岸壁側は立派な帆があるものが多い。一部の漁民がうまくやることで儲かっているというよりも、この付近でとれる何かが金の卵になっており、それを獲れる人間だけが儲かっていると俺は推測した。先行者利益と言うやつである。

 ただ、広さの割に隻数は少ない。やはり漁へ向かったのか?海からの潮風は時間が経つにつれてより増してきているようだ。この時期の強風は、さすがに間近で当たると冷気を感じる。あまり長時間居たくもないので、この周囲の家の中、どこかに探し人はいそうと思って探すしかない。

 しかし、さっき男の家を探ったように敷地内に入って、ジロジロ室内を外から見つめるのはやめた方がいい。明らかな不審者だ。かといって、一軒一軒尋ねて探すのには困難がある。先ほどからのように誤魔化されていては埒が明かない。

 

 

 …いや、まだだ。調書が事実であるなら、手札は隠して活動すべきだ。「俺の身に」何かあったときに、切り札は必ず必要になる。こいつの実力を見誤ってはいけない。とりあえず、一番大きい家を訪ねてみることにする。

 家の門には小さな門扉が据え付けられ、内側からこちらの上半身だけが見えるようになっている。立派なものだ。声をかけてみると、庭先から箒を掲げた老婆が出てきた。探し人のことは隠してみよう。

 

「こんにちは。旅行者なのですが、こちらのお宅が村一番の漁師と聞きました。どのような魚が捕れるんでしょうか。今日の宿のご飯に期待していていてもたってもいられなくなったのですよ」庭のばあさんはやや呆れたような顔をして、

「何を言うとるんじゃ、片立といえば蟹じゃよ蟹。この村にも一部は下ろしとるぞ」「蟹?なるほど。この辺りでも獲れるんですか?」

「本当に、何を言うとるんじゃか。蟹の本場が、ここなんじゃよ。小こい浜ガニではなく、海の底でとれるズワイガニよ。今の時期は卵を持った香箱もよお捕れる。それを知らずにここに来たんかいな」「ふーむ、そうですか。ありがとうございます。それを聞くと夕飯に期待ができそうだ」と素直に破顔してみる。

 実際うまそうである。そうじゃろうそうじゃろうとばあさんは頷いている。どうもこの村の動力船もちや帆船持ち、実態的にこの村で経済的に成り立つ漁をしている男たちの多くは、沖合漁に出ていて、長期間帰ってこないらしい。獲物はそのまま市場のある港まで移動して下ろすそうだ。そこで油の補給や補修を行うと、さらに漁を行う。従って、海が激しく荒れる真冬まではこの港はほとんど利用しない。だから、港は空いているのである。

 泊まっている船は、機関の調子が悪く一旦整備のために戻ってきたものとのことである。そのようにしゃべっていたら、次は港で待っている女たちの話になった。漁師の妻たちは今の時期村で待つだけになる。また、農民の男は冬の時期には果樹が取れないから街へ出稼ぎに行ってしまう。従って、この時期の村は女と子供、老人ばかりになるとのことだ。ばあやは仕事がないから、今の時期は大きな家の掃除をして小銭を稼いでいるらしい。試しに聞いてみよう。ひらめきに任せてみる。

 

「新婚の娘がいたら、さぞや寂しいことでしょうねえ。夫が結婚するとすぐに漁に行ってしまう。かわいそうではないですか」。ばあやはにやにやした顔をして言って。「おるよおるよ。木元の家の嫁じゃな。まあ、寂しくはなさそうじゃがの」と呵々として話した。どの辺りのお家ですか、と聞くと、儂が話したことは内緒じゃよと言付けてから、岸壁を過ぎた村区の果樹側へ登るための坂の下にあると話した。

 つまり、漁村の最果樹園側の家である。年上のお姉さんと話すのはいいものだ。良質な情報が手に入る。「そうですねえ、ありがとうございました。続いて村の中を見て歩きます」と言って場を離れる。ばあさんはキョトンとした顔をした後、笑顔で片手をこちらに振った。こちらも礼を返す。有意義な会話だった。向かってみよう。

 

 

 婆さんの言っていたやや山側の住宅地へ向かうと、家はすぐに見つかった。岸壁の近くにある大漁師たちの家々と比較すれば、やや小ぶりである。とはいえ住みがたいようなあばら家ではない。直接潮風が当たらないからかこの周辺の家々の風化は弱いようだ。木の風合いを塗装越しに感じられる程度にまだ真新しい。杖を握る。

 戸を叩こうとすると、室内から囀るような声が聞こえた。家の外壁沿いに回りこみ、様子を探ってみる。戸は障子のようで、前に立つと俺がいるのが分かってしまう。人が立っているのが影になってばれそうだ。受動的に音だけを探るのであれば、露見することはないだろう。聞き耳を立てる。

 

 布団の綿が揉まれ、わずかになる擦り音と床の軋む音が室内に響く。そして、これは囀りではなく嬌声だった。喉奥から絞るように出る声と、舌から自然と出る声が混じっている。もう一方の挙動はなかなか激しい。皮と皮がこすれ、肉が肉をリズミカルに叩く音が境界からは鳴っている。音が鳴るたびに水の跳ねが俺の耳に刻まれる。そして、その上からは歯ぎしりが鳴った。もう限界、どちらが言ったのかわからないが、そのような声の後、途端に音は止んだ。限界なのは俺の方であるが、もうしばらくここで待つことにしよう。

 

 それから1時間ほどが立ち、衣擦れの後立ち上がる音が聞こえた。いいころ合いとみて、玄関前へ立つ。そして、板がしなりそろそろと歩く感覚を覚えてから、戸を叩いた。

「こんにちは。お忙しいところ失礼いたします。内務省社会局外省人管理室技術員の裾川と申します。こちらに在宅していらっしゃると聞きましたタミヤカズヤ様を伺いにまいりました」


 中ではバタバタと足音が響く。もしかすると、帰宅ではなく便所のタイミングだったのだろうか?しばらくすると静かになり、中から若い女性が出てきた。麻織の長着だけを着ている。髪は後ろで結い後ろに流している。肌は淡く焼けているが、そのきめ細かさを隠すことはできていない。小気味よく突き出た鼻と薄桃の小さな唇が潤いながらきゅっと口元を引き締めている。茶のかかった瞳と涙型の大きな目の上にある、やや細くも小さな眉の間にしわを寄せて、女は開口した。

 

「どのようなご用件でしょうか、確かにタミヤはこちらにおりますが」なんということだ。驚いたことに村長は嘘を言っていなかった。自他共栄。他人を信じずに話をしていたのは俺の方だったようだ。反省しないと。

 

「それで、どうなさりましたか」強い口調の中にはとげが混じっている。さっきとは大違いだ。「内務省の、」

「それはもう拝見しました。お役人様に話があるようなことにカズヤは巻き込まれてございません。誰かと勘違いなさったのでは」女の言う通りである。男は役人だけに巻き込まれていない。「それに、あなた本当にお役人様ですか」言われると思った。このタイミングだ。

 懐に忍ばせておいた名刺を差し出す。こちらの手元の紙片を手に取り、まじまじと見つめる。ほう、文字が読めるのか。「内務省の、裾川路郎。確かに、お国の方でございますのね」名前を読んでもらえた。納得しただろうか。

 

「これは国家の、内密のことでございます。できればご主人と直接お話しをしたい。こちらの家にいらっしゃると伺いました。ここからの用は、女性に話すことではございません」下手になりつつ高圧的に話す。女の目はより強い光を放った。「それは不当です。それは正式なご用命なのでございますか。それに、カズヤは徴兵を体の調子が原因で免除された身です。呼ばれる理由がございません」

「再徴兵検査ではございませんよ。それに、こちらへの許諾はすべていただいております」

「それでも、わが村の責任者たる村長の許可を」「ありますよ」


書面を背嚢から取り出して女性の手の届かない位置で見せる。この娘、まるで威嚇しているネコ科動物のごとき形相でこちらを見ている。下手すると飛びかかってきかねない。彼女はさっき以上に眉間に皺を寄せて唸っている。

「何分急なことで把握しづらいことかもしれませんが、タミヤ様にとって悪いことではありません。長い時間、一致しない戸籍で生活するのは大変なことでございましょう。それを解決するという意味もございますよ」彼女の言っていることの何割が事実であるのか、こちらは知っているぞと追い打ちをかける。


 奥の様子を伺う限り、男が逃げ出した様子はない。奥にいるはずだ。「重ね重ね、こちらとしては村長への依頼とその承諾をいただいております。何卒、タミヤ様とお話ししたい。こちらに本当にいらっしゃらないでしょうか」届くように話す。観念したのか、襦袢だけを着流した男が出てきた。

 事前調査資料いわく、年頃は20代後半といったところのはずである。書類から顔だちはわかっていたが、実際見ると書面の年齢が正しいとは思えにくいほどに若々しい。俺の目から見ると20前ほどにも見える。女性の肩に手を載せ、自分の身へ寄せた。

「千代、そんな風にごまかさなくていいよ。ここからは俺が話すから」と柔和な表情を女に向ける。千代と呼ばれた女性は不安げな顔を浮かべながら、男を見つめた。「タミヤ様とだけ、お話ししたいのでございますが」とこちらは重ねて頼む。

 カズヤは強い目でこちらを睨み付ける。そして、言った。

「裾川さんでしたか、そのように無理強いしないでください。彼女は心配なだけなんです」こちらの心の間に柔らかく、一部の隙もなくすかのように染み渡る声が俺の耳に入り、やや強く引き絞るような表情が心を打つ。それは効くだろう。この場所の誰しもに対して。だが、これには効かないのだ。

「いえ、貴女は奥へお下がり願います」拒絶の言葉を述べる。男はやや驚いたようだが、手を振って合図をした。女性は奥へ下がっていき、ふすまをゆっくり閉めた。

 

 

「タミヤ様は、こちらに来て何年になります?」カズヤを見て問う。

「それほど経っていません。こちらの村へきて2か月程。その前は逢坂にいました」さっきまでと態度が違う。柔和さは弱くなり、その代わり馴れ馴れしさが出てきた。俺が聞きたいのは、それではないのだ。

「聞き方を変えましょう。何年ほど前に気づかれましたか?」男の目にわずかの訝しがり、そして驚きが浮かんだ。ややかぶりを振っている。まさか、その身なり、そういえば、本当に実在したなんてとブツブツ独り言をつぶやいている。知っていたか。それなら話は早い。

独り言を男は言った後、やや取り乱した様子から落ち着き、「それで、僕に何の用ですか。あなたには何かを僕にできるということですか」

「はい。単刀直入に言うと、貴方を元居た場所へ戻すことができます」男は目を見開いた。信じがたいかもしれないが、これは事実だ。そして、これはそのために存在する。声色を下げ、述べる。


「内務省から派遣されたのは事実です。あなたが戻れるという事実と、戻るということははここにおいては望まれることです。あなたも、ここにいる価値を今や見出していらっしゃらないのであれば、私の話に乗ってみてはいかがでしょうか」男は悩んでいる様子だ。時折俺の方を横目で睨みながら、考え込んでいる。

 しばらく経ってから、いいでしょう、と小さく答えた。迷いはありそうだ。信じていない可能性もある。が、意思があるのであればこれはいいチャンスだ。気分の変わらない内に早急に手配しよう。

 

「心配であるのでしたら、その可能性についてお見せすることができますよ。今すぐ実行するというのではありません。私は、予告に参ったのです。あくまで貴方の意思次第なのですよ」カズヤの目を見つめる。

 下を向いてるようであるが、こちらはずっと相手の目のあった辺りを見つめ続ける。「まずは、送還の可能性についてのお見せできる人員を近日中にお連れします。それから決定していただいて結構です」カズヤは、後ろをしばらく見てから、こちらを向きなおして、それから笑顔で言った。「ありがとうございます。了解しました。よろしくお願いします。千代には、私の方から話しておきます」

 成立だ。事前意思表示確認書にサインを頂こう。背嚢から出そうとすると、手を出して静止した。俺のことを十全に信用したわけではないし、相談したいこともある。証拠を見るまでは正式に承諾はしない、ということだ。それならばそれでいい。十分に間に合う。

 玄関の上り框の上に座り、説明を始めた。準備のために、注意事項について述べた書類を手渡し、および内容を口頭でも伝える。しばらくは片立村にいること、郵便にて近日中に正式な書面で伝えること、俺は送還の証拠を見せられる人員を連れてくるまで宿に逗留するので、質問があれば受け付けること、荷物はまとめておくようにということ、お礼を村外部の人へ伝えたければ、無料で郵便にて受け付けるということ等。最後に、もう無茶はしないように伝えた。

 

 説明を終えると俺は立ち上がった。カズヤも腰を上げる。土間の上に立ち、カズヤへ手を差し出す。カズヤは目を細めて笑い、俺に手を差し出し、握手した。契約は仮了した。それから、千代さんへの詫びの言葉を添えた。

「申し訳ありません。千代殿には申し訳ないことを申し上げました。非礼を謝罪いたします」頭を下げる。いいですよ、後から話しておきますとカズヤは言った。廊下の上に立っている相手の顔は、頭を下げながらでは見えない。「ああ、そういえば、言い忘れていましたが、こちらは千代、木元さんの家なのですよ。自宅はここではなく村の反対にある崖の上にあるのです。今度お会いするときはそちらでどうでしょう。僕もそろそろ帰ろうと思っておりまして、案内いたしますよ」

「ああ、なるほど。それはよろしいですね。尋ねながら参ったもので。申し訳ありませんが存じ上げてないのですよ。この辺りは、住所は定まっていても、戸籍へ登録されていない家が多い」話した後、カズヤはそろそろと奥へ向かった。数分すると着替えを済ませ、土間へまた出てくる。俺は千代に礼をいい、家をカズヤとともに後にした。

 

 カズヤとの会話はない。蟹を食べようと思っている、楽しみだなどと話してみるが、相槌を打つだけでこちらへ特に返してこない。自然、黙って歩くことになる。山側から漁村を抜け、屋敷通りを通り、崖沿いの家には1時間と立たずに着いた。

「どうです、お茶でも。まだ真っ暗になるまでしばらくありますよ。いざというときは明かりもお貸しします」カズヤはここで道中初めて俺に対して話しかけてきた。

「いえ、ご厚意は感謝しますが、遠慮させていただきます。ご自宅までお邪魔するのは悪うございますし、宿も既に取ってあり、予約の時間もございます。明日の昼頃には送還に関しての担当者から返事が来ると思いますので、次第が分かりましたらこちらから連絡いたします。その時またお会いしましょう」男は柔らかな笑顔を向け、残念だと言い、夕方頃は確実に家にいるのでその時に、と答えた。

 軽く手をこちらへ振り、敷地へ入っていった。こちらもすぐに振り返り、その場を後にする。

 

 海を眺めると、太陽は水面へ落ちかけていた。足元を見てみると、波が激しく海岸の岩場にぶつかり、しぶきを上げていた。おれがさっき降りた段差では潮がうねっている。路上で、重ねて、手に力を込める。ここからだ、俺の経験はそう声を上げていた。頭上では大小の双子月が静かに光を放ち始めていた。

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