1. 村へ来る
聞こえるのは踏みつぶされくしゃりと潰れる木の葉の音とこすれて鳴るの樹の音だけだ。街と港をつなぐ旧街道には海辺特有の湿気を含んだ冬の風が吹き始めていた。
鉄道の通っている山手の街から3時間ほど歩き、海側の小山地の小さな峠に着いた。周囲は木々に囲まれていて景色はわからないが、地図によればここからは下るのみである。
頂点には狭いながら平地があり、そこには過去栄えていた時期に利用されていた茶屋と思しきあばら家と、雨除け用の壁のない小屋が据えられている。周囲だけは樹木が伐採されており、小さな広場となっている。
ここから村落中央までは街からここまでの半分に満たないほどしかないが、重い荷物を担いでここを上り下りしていた荷役者達からすれば、この小屋は最初の休みどころであったのだろう。小屋には人影はないが、時折今でも使われているおかげか雑草は茂っていない。休むにちょうどいいと判断して、路郎は杖を小屋の柱に立てかけ、腰掛に座って背中の背嚢と長箱を下ろした。
背嚢から封筒に入っている書類を取り出し、文面を確認した。この仕事の基本は人探しである。手配人があらかじめそれらしい相手の人相を探しだし、住所を割り出してから向かうとは言え、毎度知らない土地で見たこともない相手に人生の大事を伝えるのである。相手の知っておくべき情報は知ってから向かうべきだ。
穴が開くまで見た資料にもう一度目を通し、隅々まで記憶する。村の地理も大まかではあるが理解した。いざという時も遭難することはあるまい。ついでに水筒を傾け一飲み分口の中へ入れて一服する。天候は涼しく軽装で特に疲労はないが、ちょっとした休憩で水を飲むと荷物を担いで汗をかいた体と緊張した気分が和らぐ。
「今回の相手は、気が張りそうだ」
今回ばかりではない。いつも気が張っている。毎度渡されるこの手配書類に乗っている人間たちは、その気になれば最悪の場合を予想しなくとも、いつも自分の命を危険に晒してしまう。今回ほどの相手であると、自分の仕事ではなく官憲が集団で出向いて正式に招聘した方がうまくいくのではないか。
自分は交渉を得手としていないから、相手に利をうまく伝えられないかもしれない。これまでの相手は嫌になっているか、開き直っていることが多かったが、こいつは移住を繰り返しているとはいえ、ここに馴染んでいる。そして、まだ納まっておらずその気配もない。このように自分に命が下るとは、お偉いさまが秘密裡にこの件を始末したいからか、この文面の情報以上に大物と予想されたのであろう。
一人ゴチている間に進行方向から男が複数名登ってきた。いずれも路郎と同じく荷を背負い、そして同様に商い用事ではない風体である。男たちは人数の割にはやや黙している感はあるが、いずれも頑健で足取りはしっかりしている。向こうから話しかけてきた。
「商いの方か。今はもう収穫の時期も終わり、漁はこれからが旬となる季節で村に寄港することはそうありません。今は売り物も人も残っておりませんぞ」
「モノを商ってはおりません。村の長に官から命を受けて用があり参りました。あなた方は、見たところ出稼ぎの方ですか?」
男たちは首肯した。近づいてみれば野良仕事の気が漂う恰好である。村の農夫がこれからの冬の収入を保つために、街へ金銭を稼ぎに行くのであろう。官から来たと述べるとなるほどお役人かと口々に述べて手を振り去っていった。こちらも街への小旅行がうまくいくように挨拶を述べ、書類を突っ込んだ後、背嚢と長箱を背負い、峠を後にする。
確かに、今の時期に村に用がある外部の人間も珍しい。しかも背中の長箱の中身も少し考えれば何が入っているのかすぐに検討が付く。出稼ぎものであればしばらく村へ帰ることもあるまい。すぐに片づければ、疑われる心配はないと自分の中で完結して、道を下っていく。
半時と立たないうちに林はまばらになり徐々に開けてきた。見えた。海だ。
目的地の片立村が見えてきた。地図の通り、ここは村全体から見て東側の斜面最上部に当たるらしい。村の集落中ほどにには畑、果樹園が見える。海辺には家々が見える。それほど大きな村ではないが、人口は思いのほか密集しているためか、辺境の割に人口は多そうだ。特に手前の人家の大きさはなかなかのもので、繁盛した街でもこれほどの大きさはそうない。
中央の海辺はより多数の家があるが、どれもここから見るとブドウの粒ほどの大きさにしか見えない。遠めであるが、手前の人家と比較すると小さいように見える。あそこが漁村であろうか。左手の山は果樹林と桑畑となっていて、山頂近くまで斜面ほぼすべてが開拓されている。そちらにある家は数こそ少ないものの、入母屋造で見事なものだ。あちらは海辺と比べれば儲かっているようだ。もう旬は過ぎてしまったが、あれらは梨であろう。小さい背の木々が密集して同じ程度高さのエリアを形作っている。取り残しがあるのか、まだ下がっているものも見える。
全体の地理で見ると、「く」の字を横にしたような地形となっている。ここから近い右手の方が急で、奥にある左手の方が緩やかだ。漁村周辺は海に接しており、一部はしっかりとした港を形作っている。桟橋だけではなく、小規模ながら岸壁らしい海岸も見える。あれなら動力付きの船も泊められだろう。
話しに聞いていたよりは豊かな村なのかもしれない、そう思って路郎は山を下り村へ入っていった。
山中を抜けると狭い平地には段々となっている農地が広がっている。すでに刈り入れを過ぎ裸になった農地を通り過ぎると村落が見えてきた。特に門はなく、「片立村」と村の地名を示す看板と、長大な隙間の空いた囲いが設置してある。囲いは少し行くと雑木林になっていてすぐに途切れてしまっている。単に入り口であることを示すためだけのもののようだ。
入り口のそばには爺さんが一人ござの上に座って網を直していた。挨拶をすると自分を一瞥して、ようきたなあ、と人懐っこい声色とほのかな笑顔でこちらを迎えてくれた。事前情報通りである。この村はいかにも小世界を形成して閉鎖的であるかのように地形的には見えるが、実際には海に開け内陸の街の人にも慣れている。よそ者が訪れるには、良い土地なのかもしれない。
村長宅を聞くと素直に答えてくれた。礼を言い、その場を後にした。囲いを抜けると広い空き地になっていた。昔はここに、小規模関所があったらしい。
村全体でいうところの東部、斜面から見えていた部分で言って右手には、控えめに言って屋敷が並んでいる。地域資料によれば、封建時代において、ここは内海貿易により栄えていたということである。そもそもこの屋敷に住んでいる、または住んでいた人間というのはこの土地の人間ではなく、機を認めてこの地へ移ってきた商人であるらしい。
小規模な農地と漁業を営む百姓の集落という形で成り立っていたこの土地に彼らは移り住み、北方地と大陸、海沿い南にある都への輸送中継基地として利用した。この目は当たっていたようで、300年に渡って繁栄できる程度には利益を上げられた。片立は内海側ではぎりぎりで降雪が少ない地域であり、ここよりも北へ向かうと冬は雪に閉ざされ陸路は行き来が困難となる。かといって南に向かうほど北方地との距離が伸び、休むための拠点設置数が増えてしまう。
できる限り少ない休憩で、大規模の輸送を行うのに、この地は適していたのだ。富ができるほど人も集まる。人口は封建時代という移住が現在より難しい時代においても増え続けていった。それに伴い山の最上部、裾全体に至るまでに農地開発も進んでいったようである。港には商船、漁船いずれも泊められるように整備が時代を経るごとに進んでいった。
しかし、この流れは歴史の流れによってもろくも崩れた。封建時代の終わりと動力船、鉄道の導入である。大商人たちは輸送による利益を上げるのに、このような小規模港を複数中継するよりも、都市近辺に立地した動力船利用を前提としたの大型港を少数利用した方が効率が良いことを理解してしまった。
彼らはここを名義だけの別荘か、不要な住処と考え数年の内に移住してしまった。輸送のための作業者も同時期に移動してしまった。残ったのは集まった農民と古くから住む漁民、少数の小規模商工人である。あまりにも衰退が急だったおかげでスラム化しなかったのは不幸中の幸いか。片立村は急速に元の小さな漁村に戻ろうとしている、と俺の事前資料には書いてあった。
屋敷を見渡してみると確かに古さを感じる。一部には手入れが行き届いておらず、屋根に苔や草が生えて、崩れてしまった棟もある。これだけ大きな屋敷があるのならば電話の通じる家が一軒でもあるかと思ったが、やはり資料通りここには一切の電線は通っていなさそうだ。
連絡員を自分が来る前後日数間は往復させ続けた方がよいと手配していた、大倉の見立ては正しかった。宿かそれともそれ以外のどこかで、先んじて情報収集していることのだろう。後から連絡を取って情報を共有しておかなければ。とはいえ、まずは村長への挨拶である。あとからなにがあったとしても、アリバイとして残しておかなければいけない。勝手なことをした挙句、敵視されてはたまらない。効率のよい探索のためには必要なことだ。
しばらく歩いていくと爺さんからの案内と、記憶した地図通りに村長宅の門が見えてきた。鈍く黒光りする瓦屋根ときっちり漆喰を塗られた塀が歴史と富の蓄積を感じさせる。
商人の家と言うよりは格式高い武家の邸宅に近い見栄えで、門の向こうの数寄屋造りの屋敷は装飾こそ排され質素であるが、縁側自邸の庭への縁側や構内通路まで整備されており、相応の金と人手をかけ維持されている様子が見て取れた。背嚢から手配書を出し、気を引き締めて門に入る、途端に大きな吠え声に気分が吹っ飛んだ。
犬だ。やや黒がかかっている、太ももの中ほどまでほどの体高をもっている。こちらを巌とした目でにらみつけ、歯をむき出しにしてうなり、時折吠えたてる。とびかかってくるでもないが、耳に響く。手を下に振って静まれと合図を送るが、特に効果はない。そうしている間に表玄関の扉が開いた。中年の男がサスマタを持ってこちらに振りかざしている。「お前は下がっておれ!」後ろに向かって言っているのか、そのように声をかけている。
ここは役人様的に話を進めて他人行儀にしよう。個人の対応に興味を持たない相手には警戒しないはずだ。
「申し訳ありません!このような有様で恐縮でございますが、本日訪れますと通知いたしまして、内務省より派遣されました裾川と申します。片立村村長様の宅でございますか」
村長は、疑いの目をやめない。仕方がない。スーツや官憲の制服、軍服を着ているならいざ知らず、下は洋物のズボンであるが、上は綿入りの平服で、役人然としていない、仕方がないので、書類を掲げてみる。村長は眉を顰めて見つめてから、犬へ待ての合図を出した。紙と判を見てようやく理解してくれたようだ。竿を下ろして室内に置き、目で入るよう促している。この次第においても、犬はまだ俺に対して唸っている。
俺ってそんなに怖いか?
玄関内に入るとようやく外は静まった。荷物を背中に負ぶったまま、こちらが先手をうって頭を下げた。こういう場合、失礼にされた側が下手で出ておくのがよい。まずは警戒心を解くのが先決である。
第一印象は理屈では変わらない。あくまでこちらから改善するように心がけるべきだ。村長も頭を下げ、謝意を述べる。そのあと、荷物を下ろして座敷に上がるよう促した。村長は中年の女性、おそらく妻、に茶を出すよう指図した後、奥へ向かっていった。
ただ、話をする前に用事がある。奥さんに少し失礼させてもらおう。「すみません、便所はどこでしょう?」奥さんは呆れた顔をして、玄関から右手の廊下の奥を指さした。急いで靴を脱ぎ、荷を背負ったまま廊下に上がる。街から来る途中、一度も用を足していなかったのだ。
一息ついて出てきた俺を、村長が待ち構えていた。一瞥した後、廊下を先導して邸内を歩いていく。なかなか大きな屋敷だ。廊下を10m弱、この間には2つは間がある。廊下の終端の右手のふすまを開け、座敷に上がった。荷物は手元近くに下ろし、相手に向かいあって座った。奥には仏壇が置いてある。村長は憮然とした顔をしている。この話は必要な行為であるが重要な要件ではない。長く話すつもりはないので、手短に終わらそう。
「私は、内務省社会局外省人管理室技術員裾川路郎と申します。事前の連絡の通り、今から2か月ほど前、この村にやってきた男性と面会に参りました。彼は参考人として手配されております。村に在住していることの確認と、集落に踏み入りの許可をいただくために貴邸へ伺いました次第であります」
村長は怪訝な顔をしている。この程度の用事のためにわざわざ村長宅に「役人」が訪れたのである。
確かにこの地に駐在はいない。従って、法的措置をとるためには行政上の長である村長に連絡がいくのは自然であるが、連絡をするにしても実行日を記した文書の送付とその確認で十分である。一応は鉄道からはそれなりに近く、郵便は届く地であるのだ。内務省直轄の役人に与えられた権限から考えると丁寧すぎる。
そして、二言目はより奇妙である。集落に入るのに許可など必要ない。村長は納得はしていなさそうであるが、もともと連絡があったこともあり、注意深く書類を読んだあと、所定の欄に署名した。
これで要件は達成された。ついでに、村長は男の居場所も詳細に教えてくれた。果樹園と漁村の境界にある住居地の最漁村側、山手の道なりの家ということである。土産の菓子箱を渡し、再三にわたって頭を下げる。村長側もそろそろ表面的な警戒心を解いてくれたのか、笑顔で応じてくれている。
邸を後にする。が、こいつだけは解いてくれないらしい。また吠えられた。
指示通り、屋敷側から山手の道を通って果樹園と漁村の境界へ向かう。ただ、向かう前に定時連絡を行わなくてはならない。通り道の屋敷側と漁村の中間地点に郵便夫の身なりの痩身がいた。大倉の事前指示通りである。
連絡員は事前に村内調査をしていたらしい。その結果として、男の居場所を伝達してくれた。幸いだ。対象がいるのは屋敷通りと漁村の海側境界部であるらしい、海側の道は細く地図には載っていない、元来た道を戻って訪ねてみてくれとのことである。
なるほど。これまで通りだ。やはり、こういう手合いには二重の情報源がないと安心して動けない。こんなくだらないことで嘘をつく意味なんてないだろう。俺が信用されていないのではない、役人が信頼されていないのでもない、伝達不足だったわけでもない。こうなっているのだ。俺が、対峙する相手は。いつだって。
連絡員は、加えて村内の情報について不確かではあるが共有したい事項がある、とはいえ裏付けがないため一旦探し人に会ってから聞いてほしいと俺へ言う。先に話すべきではないかと聞くと、不確かな情報は誤った判断になりうる、それにどうもこの村はどこからともなくこちらを監視しているような気がする、確実に二人だけで話せる場所で話した方がいい、と返してきた。
仕様がない。自分の今晩使う宿泊所へ先に向かって、自室か食堂ででも待っていて欲しいと伝えた。連絡員は了解と相槌を打つ。俺は、連絡員の調べた男の家へ向かうために歩き出した。