第二話 赤い花
夜の病院というのは、どこか虚しいものだ。
広い部屋で私一人、ただでさえ虚しい気分になるというのに病院というものは気味が悪いほど静かだ。
音といえば、時々看護婦が歩く音くらい。
それも静かなところに響き渡るので気味が悪い。
思えば私は人生で初めての入院経験だ。
生まれてこの方、病気一つしたことがなかった。
だから、病院というものがこんなにも虚しい所なのだと今日初めて分かった。
シンとした病室で何故か眠れず、ボーっと過ごしていると、小さな音がしている事に気付いた。
チクタク、チクタク――
それは紛れも無い時計の音。しかも壁にかかっている時計ではなく、棚の中から聞こえてくる。
チクタク、チクタク――
私はその音が恐くなり強く目を閉じた。
しかし、時計の音は耳についてしまい中々離れない。
チクタク、チクタク――
私は我慢できずに目を開けた。
――そこには、信じられない光景が広がっていた。
辺り一面赤い花が咲き乱れ、甘い香りを漂わせている。
そこは病室ではなく、もはや別の世界だった。
私は何処までも広がる赤い花の中に呆然と佇んでいた。
何処に行けば、この花畑が終わるのか予想もつかないほど花畑は永遠と続いている。
「フフ、こっちよ…」
不意に背後で誰かの声がした。
振り向いたが、そこには誰も居ない。
「こっちよ、こっち。」
今度は前方で。
私は、声の方向に向かって走り出した。
声の主は私を誘いながら不規則に動いていった。
相変わらず姿は見えない。
ふと、声が止んだ。
顔をあげると其処には一本の大きな木があった。
その木は、日本人にはとても馴染みの深い桜の大木だった。
「ここに連れてきてくれるって言ったよね?」
私のすぐ目の前に今まで見えなかった声の主が具現化した。
長い黒髪に、淡い薄紅色のワンピース。
その後姿は華奢な体つきで弱々しい印象を受けた。
「私ね、ずっと待ってたの。元気になったら此処に連れてきてくれるって言うから…」
手にはあの赤い腕時計が。
「ずっと、早く元気になろうって頑張ったわ。貴方がくれた腕時計、とっても嬉しかったし。だから、せめてものお礼に早く元気になって貴方を安心させようって。」
少女は私に背を向けたまま淡々と語る。
「でもね、違ったんだね…」
そう言うなり、少女の肩が小刻みに震え出した。
静かな空間に少女がすすり泣く声だけが聞こえる。
私はどうして良いか分からず、とりあえず慰めてあげようと肩に手をかけようとした。
その時――
「ドウシテ私ヲ…」
少女が私の腕を掴みゆっくりと振り向いた。
前髪のせいで口元しか見えなかったが、その口からは血が垂れていた。
薄紅色のワンピースも血に染まっていた。
「ひっ…!!」
私は思わず恐怖に戦き、その手を振り払おうとした。
だがその手は離れない。
少女のものとは思えぬ力で私の腕を更に強く握ってくる。
「ドウシテ、センセ――」
ぶわっ―
突然、花嵐が起きた。
花は散り、私の視界を遮る。
私はその花びらのせいで呼吸をするのが精一杯だった。
段々と意識が遠のいてゆく。
そこで聞いた最後の声……
「ドウシテ私ヲ、センセイ……」
「…さん、稲見さん、稲見さん!!」
看護婦の呼ぶ声で私は目覚めた。
突然のことで看護婦は動揺していたようだが、目を覚ました私を見てホッと安堵したようだった。
「な、私はどうして?」
「覚えてないんですか?自分でナースコールを押した事を。駈け付けたら貴方が痙攣を起こしてて…本当に何も覚えてないんですか?」
どうやら私は無意識のうちにナースコールを押してしまっていたらしい。
生々しい夢を見たくらいで、無意識のうちに人を呼ぶなんて私は何と女々しいのだろう。
急に自分が恥ずかしくなった。
「すいません、恐い夢を見たもので、魘されてしまったみたいで。」
「では、持病とかではないんですね?」
「はい。」
看護婦はそれを聞くと会釈をして病室を静かに出て行った。
そう、あれは生々しくても所詮は夢だ。
初めての入院で神経質になっているのかもしれない。
腕時計一つで、あんな夢を見てしまうなんて。
私は何気なく少女に掴まれていた腕を見た。
其処には……
手跡がくっきりと。
握り締めていた拳をゆっくりとひらいた。
手の中には……
あの赤い花びらが。
甘い香りが病室に漂う。
そう、夢では、ない。