後編(挿絵有)
子どもたちに菓子を配って身軽になったコレットは、クラウスの後を必死について歩く。男性の平均身長よりもさらに大柄なクラウスと、どちらかというと小柄なコレットでは歩幅が全然違う。どんなに一生懸命歩いても引き離されてしまい、時々は小走りしなければならなかった。一方、クラウスは、振り返るたびに遠く離れたところにいるコレットに首をかしげる。
途中に何か気になるものでもあって、立ち止まっているのだろうか。
三度振り返って、そうではないことに気付いた。自分が歩くのが早すぎるのだ。
「すまん」
「……はぁっ、はぁっ。
いえ、大丈夫です」
けなげにそう言うコレットの額には、汗が光っている。年中穏やかな気候のティル・ナ・ノーグで汗をかくとは、相当走らせてしまったようだ。
「休むか」
あとはコレットを店に送り届けて別れようと思っていたクラウスだったが、自分の気遣いが足らずに無理をさせてしまったことで申し訳ない気持ちになり、どこかに立ち寄ることを提案した。コレットは、走ったせいだろう、頬を上気させて嬉しそうに笑う。
さて、ではどこの店がいいだろうと辺りを見回したクラウスの視界の隅に、影が映った。一、二、三、四……。あいつら……。
見覚えのある影に、頭痛がする。なんて下手な尾行なんだ、訓練をし直さねばと思っていると、傍らのコレットが声をあげた。
「きゃぁ、かわいい!」
彼女が覗く店の中に、ガートがいた。
ガートはアーガトラム王国で数多くみられる、もっともありふれた小動物だ。猫とも犬ともつかない体に、ふさふさとした柔らかい毛並みを持ち、長い耳がある。肉食ではあるもののとても大人しく、ペットとして飼われることもある。毛色はさまざまだが、今コレットが見つめているような、淡い黄色やピンク色の毛のものが多い。
「クラウス様、ここ、入ったことあります?」
コレットが指さす先には、“カフェ・エリン”と書かれた看板があった。ガートと遊べる店、との注釈もある。クラウスは返事をする代わりに、首を横に振った。甘味好きな彼だが、女性向けのカフェにはほとんど入ったことがない。商売の邪魔になってはいけないからだ。
「入ってみましょうよ」
ガートに惹かれたコレットが言う。クラウスはあまりに可愛らし過ぎる店の様子に逡巡したが、視界の隅をちらちらと動く影を巻くことが先決と、店に入ることにした。
「コレット」
名を呼んで、手を引く。突然のことに驚くコレットは、まろぶように走り、路地を一周してから店の中に飛び込んだ。
その後ろを、バタバタと数人の足音が通り過ぎる。
「あれ? 分隊長たちは?」
「おっかしいな、今こっちに曲がったと思ったんだけど」
「こっちって……“もふカフェ”?」
「いくらなんでもここには入らないだろ。あっち行ってみようぜ」
「おう」
口々に言いながら、分隊員たちは港のほうへ駆けて行く。クラウスは、見当違いの行動をとる部下たちにほっと胸を撫で下ろしつつも、やはり特訓だ……と明日からのしごきを決意した。
「あ、あの……」
外の気配が完全に消えるのを確かめていると、クラウスの腕の中でか細い声がした。ん、と思ってみると、真っ赤になったコレットが身を縮めていた。
「すまない。苦しかったか」
店に飛び込んだ拍子に、抱き留めてしまったようだ。
「あ、いえ、大丈夫です……」
クラウスの腕から解放されたコレットが、うるんだ瞳で見上げてくる。それを正面から見てしまったクラウスは、腹の辺りにざわりとした感覚を覚えて焦った。
店の入り口で二人ともなんとなく動けずにいると、店の奥から一人の少女が出てきた。
「ようこそ……。カフェ・エリン、通称“もふカフェ”へ」
「“もふカフェ”?」
出迎えたのは、緑の髪に緑の瞳を持つ少女だった。ガートの耳付きフードケープとカフェ仕様のショートエプロンをし、胸にガートを抱いておっとりと話す。
「はい。
うちのガートちゃんたちは、わたしが趣味で飼いはじめたんです。
でも、いつのまにかお店を占領されちゃって……。
お客さんが喜んでくださったので、今はガートちゃんと遊んでもらえるカフェにしたんです」
少女が話すうちに、店内にいたガートたちが次々と彼女の足元に寄ってきた。話からすると、この少女が店主・エリンらしい。もふもふのガートたちに囲まれた少女は、彼女自身が不可思議な雰囲気をかもしだしており、このカフェにぴったりだった。
席に案内されて、メニューを広げる。コレットは紅茶とロールケーキのセットを選び、クラウスはクレープ・シュクレを頼んだ。運ばれてきたロールケーキは、その表面にまでガートが描かれていた。
「ロールケーキのスポンジ部分に絵を入れるなんて!
えぇ? これどうやるんだろう」
コレットは手を付ける前に、皿ごとロールケーキを持ち上げて、四方から眺めている。クラウスの元にも生クリームとフルーツがたっぷり乗ったクレープ・シュクレが届き、いざフォークを持ち上げようとしたら、腕が動かしにくいことに気付いた。
「やだ、クラウス様ったら……!」
コレットがころころと笑う。
クラウスは、ガートに埋もれていた。甘い菓子の匂いを嗅ぎつけて、寄ってきたものらしい。淡い黄色やピンク色、珍しい水色まで、何匹ものガートがクラウスによじ登っている。あるものはもふもふの前脚で菓子をねだり、あるものはテーブルの上で鼻を鳴らして、くれと言わんばかりにクラウスを仰ぎ見る。他にも、クラウスの肩の上で「クー、クー」と独特の鳴き声をあげるものもいた。
孤児院での子どもたちといいガートといい、今日はやけに小さなものに好かれる日だ。クラウスがそう言うと、コレットは、
「きっと子どもたちはクラウス様のお顔が怖かったんじゃなくて、高いところから見下ろされるのが怖かったんだと思います」
と言った。
コレットによれば、背が高く体も大きいクラウスは、それだけで子どもたちには畏怖の対象になる。けれど、今日は膝を折って目線を合わせて話をしようとしたことで、怖がられずに済んだのではないかということだった。
これまで自分の風貌が怖がられているとばかり思い込んでいたクラウスにとって、それは目から鱗が落ちるかのような話だった。思い返せば、他の分隊員たちは、確かにしゃがんで子どもたちの相手をしていたかもしれない。けれど全体を見渡すことばかり考えていたクラウスは、そんなささいな気遣いに気付かなかった。今日はコレットばかり見ていたから、彼女を見習って膝をつくことを思いついたのだった。
「次はもう大丈夫ですよ。子どもも、ガートも、本当に優しい方のことはわかるものです」
「優しい?」
「えぇ。クラウス様は、とってもお優しいです」
コレットがふわりと笑う。優しいなどど慣れないことを言われたクラウスは、気恥ずかしくなってクレープ・シュクレを頬張った。“もふカフェ”という別名から、菓子自体には期待していなかったクラウスだったが、食べてみて驚いた。しっとりと焼き上げられた塩味の効いたクレープ生地はもちもちしており、甘みを抑えた生クリームに新鮮なフルーツがよく合っていた。
「うまい」
「ですよね。こっちのロールケーキも、見た目だけじゃなくて中身もすばらしいです。
いろいろな種類の果物が入っているし、スポンジと生クリームの間にキャラメルソースが塗ってあるから、ふわふわしっとり、果汁がじゅわ~って、んん、美味しい!」
一口食べて頬に手を当てたコレットが、うっとりと目を閉じる。菓子を作るのも好きだが、もちろん、食べるのだって好きなのだ。
ロールケーキを味わいつつも、今度来た時はクレープもいいなとコレットが考えていると、その視線に気づいたクラウスが皿を差し出してきた。味見するかということらしい。
「ありがとうございます」
自分の菓子の試作を食べ合うのと同じ調子で、コレットが手を伸ばす。生クリームは同じものだったが、果物が違うのと、なによりクレープ生地が美味しくて、またもやコレットは幸せな気分になった。
「あぁ、美味しい! クラウス様、ロールケーキも召し上がります?」
コレットは、半分ほどになったロールケーキを差し出したが、クラウスはガートに腕を占領されていて手を伸ばせない。どうしようと思ったコレットは、クラウスが子どもにクッキーをもらっていた場面を思い出した。そうか、食べさせてあげればいいのだ。
フォークにロールケーキを一切れ乗せて、クラウスの口の前に差し出す。クラウスは一瞬たじろいだように見えたが、大人しく口を開けた。
「どちらも美味しいですよね。生地にこだわりがあるのと、あっさりした生クリームがいいんだわ」
クラウスがうなずきながら食べているのを見て、コレットも再びロールケーキをぱくりと口に含む。全部食べ終えて、あれ、と何かがひっかかった。
子どもは、クッキーをクラウスに食べさせていた。指でつまんで、口に放り込んでいたのだ。でも、私は今何をした?
(同じフォークで食べちゃった……)
気付かなければよかったのに、気付いてしまった。一人で焦り、クラウスを盗み見ると、特に変わった様子はなくお茶を飲んでいた。
(か、考え過ぎ! クラウス様は何も気にしてないんだから、私だけ意識したらおかしいわ)
落ち着くためにお茶を飲もうとしたら、手が滑った。がちゃりと音をたててカップが倒れ、半分ほどあった紅茶がこぼれた。突然の音に驚いたガートたちが飛びのき、立ち上がったクラウスが布巾でこぼれた紅茶を拭いてくれる。
「すみません」
恐縮するコレットにクラウスは気にするなと動作で示して、店主に美味しかったと感想を言って店を出た。
いつの間にか随分と時間が経っていたようで、大通りにでると空が赤く染まり始めていた。
「買い物でもあればつきあうが、どうする」
なければ、帰る。
そう言われて、このまま帰るのは惜しいような気がしたコレットは、ティル・ナ・ノーグに来てからできた数少ない知人の内、ごく最近知り合った友人の店の名をあげた。
「“アフェール”という店に行きたいです」
“アフェール”は林檎菓子専門の菓子店で、ティル・ナ・ノーグでは有名な店である。先の林檎を使った菓子の大会の審査員の一人がそこの店主であり、コレットと年の近い娘がいると紹介されて、仲良くなった。彼女の方からコレットの菓子工房に来てくれることはあったが、これまで休みの日を作っていなかったせいもあって、コレットは友人の店を訪れたことはなかった。
クラウスは店の名だけですぐにわかり、コレットと歩調を合わせてゆっくり歩きながら案内してくれた。
「コレット! 来てくれたんだ!」
林檎の甘い香りが漂う店内に入ってすぐ、コレットを見つけた少女が駆け寄ってきた。店の名前が入った白いコックコートは襟元にフリルがついており、かわいらしい彼女によく似合う。高く結い上げられた焦げ茶色の髪は元気にはねて、意志の強そうな空色の瞳が喜びに細められる。
「クレイア、こんにちは」
コレットも友人の笑顔を見て嬉しくなり、手を取り合ってぴょんぴょんと体を弾ませた。
「クラウス様、紹介します。こちら、この間の大会でお友達になった……」
ひとしきり飛び跳ねた後、コレットは背後にいるはずのクラウスのことを思い出して振り返った。手の平で指示しながら、クレイアのことを紹介しようとする。すると、クラウスは微妙に片眉を上げて驚いた表情をしており、クレイアもまた「あっ」と声を上げた。
「クラウスさん、お久しぶりです」
クレイアが先に声をかける。クラウスも懐かしそうに目を細めて、クレイアの頭にぽんと片手を乗せた。
「元気そうだな」
「はい」
「知り合いだったのか」
「えぇ。この間のお菓子の大会で、うちの父親が審査員をしてたんです。
それで、優勝した子がおまえと年が近そうだぞって。いい刺激になるから会ってみろっていわれたんですよ。
あたし、父が審査員でなければ本当は大会に出たかったから、優勝した人になんて会いたくなかったんだけど……って、ごめんね、コレット。あなたに会う前の話だよ?
会ってみたらもうコレットの作るお菓子は本当に美味しいし、コレットも年上なんだけどかわいいしで、あたしコレットのことがすっかり好きになっちゃって、おしかけ友達したんです」
クレイアは頭を撫でられたまま、クラウスを見上げて楽しそうに話す。クラウスもまた、クレイアの話を黙って聞いていた。それを見ているコレットの胸が、なぜかつきんと痛む。
不可解な胸の痛みにコレットが首をかしげると、それを見たクレイアは、今度はクラウスとの関係について話し始めた。コレットの動作を、なぜ二人が知り合いなのかと思ってのものだと理解したらしい。
「あ、クラウスさんにはね、二年前に助けてもらったんだ。
あたし、そのころいろいろあって、ちょっとぼーっとして道を歩いてたのね。
気付いたら街はずれまで来てて、目の前にはよだれを垂らした魔獣。
もうだめ! って思ったとき、見回り中だった騎士団の人たちに助けられたってわけ。
そのときは、クラウスさんはまだヒラの団員でしたよね」
クラウスが、クレイアの頭から手を避けてうなずく。彼の手が少女から離れたことにほっとして、コレットはなんとか微笑みを浮かべた。
「クラウスさん、最近来てくれないと思ったら、コレットの店に行ってたんですね。
うちも新作をいくつか出してますから、良かったら召し上がって行ってください」
今度はクレイアがクラウスの手を引いた。コレットの笑顔が再び引きつる。彼女もクラウスが甘党だと知っているようだった。
クレイアに引っ張られて、店の飾り棚の前まで歩いて行くクラウス。コレットはなんだか足が動かなくて、そんな二人を眺める。新作菓子の説明を始めたクレイアの横で、様子のおかしいコレットにクラウスが気付いた。
「疲れたか」
歩み寄って声をかける。コレットはふるふると首を振った。
「あれ? そういえばなんで二人が一緒に?」
急にいなくなったクラウスを追いかけて、クレイアが戻ってくる。孤児院への差し入れの帰りだと、クラウスが簡潔に説明した。ついでに、先週体調を崩していたことを話し、疲れているようだから帰ると言った。
「そうだったんだ。あたしばっかりしゃべっちゃってごめん。
今度またゆっくりできるときに来て」
「うん、私こそ、なんだかごめんなさい」
二人が話している間に、クラウスはクレイアおすすめの新作を買っていた。
店を出て、夕闇の迫る大通りをコレットの店に向かって歩く。
(せっかくのお出かけだったのに……。私の馬鹿……)
行きは楽しかった。孤児院だって、もふカフェだって楽しかった。けれど、クレイアとクラウスが親しげに話しているのを見てから、おかしくなってしまった。胸の奥が痛んで、笑いたいのに笑えない。
クラウスはゆっくりと歩いてくれている。こんな顔をしていたら嫌われてしまう。
「あの……」
コレットが顔を上げる。クラウスは立ち止まって振り返り、コレットが話し出すのを待った。
「えっと……」
話しかけたのはいいものの、何を言ったらいいのかわからない。クレイアと仲がいいんですね。よく会うんですか。他にも女性の知り合いは多いんですか……。
そんなことを聞いてどうするのだろう。誰と仲良くしていても、それはクラウスの勝手だ。コレットが口を出すことではない。
コレットが黙り込んでいると、クラウスがコレットの手をとって、“アフェール”の箱を乗せた。
「え……?」
「菓子を買いに行ったのだろう?」
買い物に付き合うと言ってくれたクラウス。そこでアフェールの名を上げたコレット。だからアフェールの菓子を買いたいのだろうと思った。
「違ったか?」
しかし何がいいのかはわからなかった。調子の悪そうなコレットに聞くのははばかられて、その場でおすすめのものを買い求めた。
「いいえ……。いいえ! ありがとうございます!」
クレイアの店で、クラウスは自分のことを考えてくれていた。それが嬉しくて、コレットは満面の笑顔を浮かべる。
「あっ、そうだ、お代」
箱を脇に抱えて、慌てて財布を取り出す。そういえば、もふカフェの代金もクラウスが払ってくれていた。
「いい」
クラウスは手を振って断る。今日のはライラ・ディのお返しだからと。気の利いたものを選べなくてすまないとも言われた。
「そんな……十分です。一日つきあっていただいちゃって……。
よかったらこのお菓子、うちで一緒に……」
クラウスもアフェールに行ったのは久しぶりのようだったから、新作の菓子は食べていないだろう。ならば家でと誘ったところに、路地から男が飛び出してきた。
「分隊長! よかった、探してたんです!」
息せき切って現れたのは、コレットも知る分隊員だった。クラウスが眉根を寄せる。
「港で商人と船乗りたちの小競り合いがあって、収拾がつかなくなってるんです。
十八分隊にも出動がかかってます。公休日なのは重々承知っすけど、来てもらえませんか?
みんなとりあえず他の隊に合流してく形で集まってますけど、やっぱり俺らは俺らだけのほうがやりやすいんで」
話を聞いたクラウスの顔が、厳しさを増した。コレットは仕事だというのを引き留めるわけにはいかず、笑顔で見送ることにする。
「お気をつけて」
「すまない」
分隊員と共に、クラウスが駆けて行く。
コレットは、“アフェール”の箱を下げて、とぼとぼと家に帰った。
はぁ……、と溜息が出る。
蝋燭の明かりを点けて机に向かったコレットは、花柄の便箋を見つめてペンを握っていた。
「“クラウス様へ
今日はありがとうございました。お仕事はどうでしたか。途中、変な態度をとってしまって、すみませんでした”……って、これじゃ、理由を説明しなくちゃいけないじゃない」
疲れたわけではない。具合が悪くなったわけでもない。ただ、クレイアと話すクラウスを見たらむかむかしただけ。
コレットは、くしゃっと便箋を丸めて、くず籠に放り込む。
(彼女とクラウス様が出会ったのは二年前って言ってたっけ。
私は一年前だわ。いえ、話をするようになったのはもっと最近。)
クラウスにもらったアフェールの菓子は、一口食べただけでそのままになっている。菓子に罪はないけれど、箱を見るだけでクラウスがクレイアの頭を撫でていたことを思い出し、ずんと気分が沈んだ。
(私、あんなことされたことないもの。
あ、一回だけあったっけ。ライラ・ディのお菓子作りのとき……)
コレットは、こつんと机に額を当てる。目を閉じて、あのときのことを思い起こす。トリュフを作ると意気込むコレットの頭を、クラウスががんばれと言うようにぽんと撫でてくれた。あれは、すごく嬉しかった。
(誰にでも、するのかな)
口数が少なく、一見無愛想に思えるクラウスだが、慣れると割合表情豊かで、言葉の代わりに動作でいろいろ通じることが多い。クレイアの頭を撫でたことだって、きっと深い意味はないのだ。コレットの頭を撫でたときのように、菓子職人としてがんばっている彼女を励ましただけ。
(やだな、これ焼きもちだ。私、もしかしてクラウス様のこと……)
机につっぷしながら、コレットはようやく自分の気持ちを自覚する。そして自覚した途端、自分からクラウスに近付く手立てがないことに気付いた。
クラウスは騎士だ。
普通なら、庶民の自分が親しく話をするようなことはない。住まいは騎士団の宿舎で、遊びに行くこともかなわない。これまでは菓子の相談といって会っていたが、リ・ライラ・ディの菓子はもうできている。クラウスと話していると、菓子のアイディアがどんどん出てくるので、数か月分の新作のストックもある。
クラウスに、会う理由がない。たぶん見回りで立ち寄ってくれるときくらいしか、今後は話せない。それだって、もう店に嫌がらせをする人はいないのだから、頻繁に来ることはなくなるかもしれない。お菓子を買いには来てくれるかもしれないけれど、それだって週に一回。他の店に行ってしまえば、来ないかもしれない。コレットは待つしかない。
じわりと、涙が浮かんだ。
(どうしよう……。あ、手紙。とりあえず今日のお礼を書かないと……)
のろのろと起き上がって、ペンを持つ。ペン先をインク壺につけて、宛名を書く。クラウス様へ、と書いただけなのに、それが好きな人の名だと思った途端、頬が熱くなった。動揺して手が震え、インクが垂れる。きれいな花模様の便箋が、また一枚無駄になってしまった。
「やだ、もうっ」
ペンを置いて、便箋をくず籠に捨てる。お茶でも飲んで気分を変えようと立ち上がったところに、裏口の呼び鈴が鳴った。
こんな時間に誰だろう。返事をして、肩にショールを羽織って階下に下りる。来訪者確認用の小窓を覗くと、一番会いたかった人がいた。
「クラウス様……!」
「こんな時間にすまない」
星は天高く上がり、そろそろ日付がかわろうかというころだった。港の小競り合いを片づけたクラウスは、別れ際具合が悪そうにしていたコレットのことが気になって、様子を見に来てくれたのだという。眠っているかもしれないから、一度だけ呼び鈴を押して答えがなかったらすぐに帰ろうと思っていたそうだ。
「ありがとうございます。大丈夫、元気です」
それは本当だった。さっきまでの落ち込みはどこへやら、クラウスの顔を見た途端、笑顔がこぼれた。
「そうか」
クラウスもまた、ほっとしたように口の端を上げる。
「あの、よかったらお茶でも」
もう少し話していたかったコレットは、クラウスを誘う。クラウスは、誰もいないはずの背後を振り返って、何やら辺りを探っていた。
「今日はもう遅い」
また明るいときに、と断られた。
クラウスの言う通りである。こんな時間に男性を招き入れようとするなんて、はしたない女と思われただろうか。コレットは落ち込みながらもなんとか顔には出さずに、これだけは伝えなければと言葉を紡ぐ。
「今日、とっても楽しかったです。また」
ぜひ、一緒にと言おうとしたところに、クラウスの言葉が重なる。
「ティル・ナ・ノーグ中の菓子は食べたつもりだった」
「え、あ、はい」
「だが、カフェは盲点だった」
もふカフェのように、美味しい菓子を出す店はまだまだあるはずだ。
「一人では入りにくい」
だからまた行こうと、言ってくれた。
「私で、いいんですか」
コレットは、信じられない思いでクラウスを見つめる。クラウスは、返事をする代わりにふわりと微笑んだ。
口の端をあげるだけではない、ごく自然な笑みだった。初めて見たクラウスの微笑みに、コレットは呆気にとられる。
「どうした」
ぼぉっと見惚れていると、いつもの真顔に戻ってしまった。それでも呆けていると、ぽんぽん、と頭を撫でてくれた。
はっと我に返ったときには、もっと撫でて欲しいと思った手が離れていく。
「あ……」
思わず声を上げた。離れかけた手が、ついとコレットの髪を一房とる。
赤毛に長い指がからむ。
クラウスの顔が近づいてきて、髪先に口づけた。
「……!」
「また、明日」
クラウスが身をひるがえす。引き留める間もなく、男の姿は夜の街に消えた。
コレットの膝から力が抜ける。戸口にとんと肩をついて、へなへなと崩れ落ちた。
おやすみなさいを言い忘れたと気付いたのは、クラウスの姿が見えなくなってしばらくしてからだった。
翌月、寺院の中庭で木陰に座ったコレットは、子どもたちにねだられて絵本を開く。
「昔むかしあるところに、お菓子作りの得意な女の子がいました。
女の子には憧れの騎士様がいて……」
そんなコレットを、深い碧の瞳に優しげな色を浮かべて見下ろす、クラウスの姿があった。
風が梢を揺らす。
二人の物語は、まだ、これから――