前編
カラランと、ドアベルが鳴る。
開店前の“コレットの菓子工房”に、大きな籠を持って入ってきたのは、隣の青果店のおかみ・メリルだ。
「おはよう、コレットちゃん! いい林檎が入ったよ!」
メリルが、抱えた籠の中からつやつやした真っ赤な林檎を取り出す。他にも、完熟した洋梨、や、苺をはじめ、ブラックベリーやグーズベリーなどのベリー類が山盛りになっていた。
「コレットちゃん?」
メリルが店内を見回す。いつもならドアベルが鳴ってすぐに出てくるはずのコレットが、いなかった。カフェコーナーのテーブルの上に籠を置いて厨房を覗くと、机につっぷしてぐったりしているコレットがいた。メリルに気付いて、のろのろと顔を上げる。
「おはようございます、メリルさん……」
「ど、どうしたんだい!?」
驚いたメリルが駆け寄って、額に手を当てる。熱はなかったが、代わりに顔色が真っ青だった。
「ちょっと立ちくらみが……。貧血、かな……」
「大丈夫かい? 今日は店を閉めたほうがいいんじゃないかい?」
「いえ、お菓子はもうできてるんです。あとは店頭に並べるだけだから、少し休めば大丈夫です」
そう言ったコレットは、弱々しく微笑んでみせる。
「そんなこと言ったってねぇ。
開店してからこっち、年中無休でやってたから、疲れが出たんだよ。
たまには休んだっていいじゃないか」
「でも、私のお菓子を楽しみにしてくださっている方もいるかもしれないし……」
コレットの菓子工房は、林檎を使った菓子大会での優勝だけでなく、ライラ・ディでの選べるトリュフも評判となり、順調に客が増えていた。
「だからって、今無理して体壊したらどうする気だい?
今日は臨時休業にして、明日からまた元気に働きなよ」
「でも……」
「一日休んでそのあと元気になるのと、一日無理して長い間寝込むの、どっちがいいと思う?
今、意地張って、明日から長期休業なんてことになったら、元も子もないよ」
「う。それもそうですね。
じゃぁ、今朝作った分のお菓子はどうしよう。せっかくだから、どなたかに食べてもらいたいです。
メリルさん、いつものお礼にもらってもらえますか?
お手数かけちゃいますけど、よかったらご近所の商店の皆さんにも配って頂けると助かります」
「ありゃ、せっかくの売り物をタダでやっちゃうのはもったいないじゃないか。
そうか、それじゃぁ、そうだねぇ……」
気のいいおかみは、何かいい案はないかと、腰に手を当てて考え始めた。
カララン。ドアベルが鳴る。
「いらっしゃい!」
「あれ、メリルさん? コレットさんはどうしたんですか」
やってきたのは、ティル・ナ・ノーグ天馬騎士団第六師団十八分隊補佐官のエメリッヒだ。すらりとした長身に、細身の剣を下げている。やわらかそうな濃い茶色の髪は、後ろは短く刈り上げ、前髪は真ん中で分けて顔の横に垂らしている。また、そこそこ整った横顔は少々軽薄そうな印象がなきにしもあらずだが、人当たりがよく、女性には非常にもてる。
エメリッヒだけでなく、十八分隊の騎士団員たちはよくこの店に立ち寄っている。市井の女性たちの憧れの的である騎士団員に日常的に会えるのも、この店に女性客が増えている隠れた理由かもしれない。
「ちょっと体調を崩してね。二階で寝てる。今日はあたしが一日店長さ」
それは、出来れば店を閉めたくないコレットの気持ちを汲んで、メリルが思いついたことだった。販売用の菓子はできていたから、カフェコーナーを休みにすれば、メリルでも店番くらいできる。
「おや、そうでしたか。それは分隊長に知らせないと。
お見舞い……寝室……。くくっ……」
エメリッヒが、黒い笑みを浮かべて肩を震わせる。なんでも器用にこなすこの男の一番の趣味は、純情一本槍の上司いじりだ。
つい先日も、他人の恋路に首を突っ込んだあげくに、メリルの夫に誤解されて散々な目にあったのに、懲りない男だ。
「クラウス様も気の毒に」
いそいそと店を出て行くエメリッヒを見送って、メリルは溜息をついた。
その後も客足は順調で、午後の早い時間には菓子は残り少なくなっていた。追加で作ることはできないから、いまある分が売れたら今日はもう店じまいだ。メリルが飾り棚の菓子を客の側から見やすいように並べ替えていると、ガラランと大きな音を立ててドアが開いた。
「いらっしゃ……」
「おかみ! コレットは!」
血相を変えて飛び込んできたのは、クラウスだった。片手でエメリッヒを引きずっている。
「いわんこっちゃない……」
メリルは、目元を手で覆って天井を仰ぎ見る。どれほどの距離を引きずられて来たのか、エメリッヒは泥だらけになってのびていた。
「メリルさん、ありがとうございました。もうすっかり良くなっ……どうしたんですか?」
肩にカーディガンをかけたコレットが、二階から下りてきて目を見張る。メリルは、頭にこぶを作ったエメリッヒの手当てをしているところだった。
クラウスは腕組みをしてカフェコーナーの椅子に座っていた。機嫌が悪そうだったが、コレットと目が合うと幾分表情が和らいだ気がした。
「あっ、痛ぅ……。
メリルさん、もう少し優しく」
「何言ってんだい。自業自得だろ。コレットちゃん、気にしなくていいよ。この男が馬鹿なんだ」
「はぁ……」
よくわからないが、クラウスもうなずいているので、良しとすることにした。
午後の日差しが差し込む店内には、他の客はいない。
コレットが飾り棚に目を転じると、数個の菓子が残っているのみだった。店の前に売り切れの看板を出して、残りはメリルにお礼として渡すことにした。
エメリッヒの手当てを終えたメリルが、クラウスの向かい側に座る。エメリッヒも手当の礼をいいながら、メリルの隣に腰かけた。
「コレットさん、体調を崩されたとか。大丈夫ですか?」
大げさに伝えて焦らせた詫びとばかりに、エメリッヒはクラウスが聞きたいであろうことを問う。
「えぇ、たいしたことはないんです。メリルさんのご好意に甘えて大事をとっただけで。
あ、私ったら、お茶も出さずにすみません」
伝票を数え、店の閉店処理をしていたコレットが、はっと気づいて厨房に向かおうとする。それをメリルが制して、勝手知ったる様子でお茶を淹れた。コレットからもらった菓子の一部も皿に盛りつける。
「だいたい働き過ぎなんだよ。定休日を作ったらどうだい」
お茶と菓子をセットにして運びながら、メリルが言う。
「そうですねぇ」
やることがなくなってしまったコレットは、とりあえず座ろうと思って、はたと考えた。
クラウスとエメリッヒは斜め向かいに座っている。自分はどこに座るべきなのだろう。さっきメリルはエメリッヒの隣に腰かけていたのだから、必然的に空いているのはクラウスの隣になる。
菓子の相談のときに、向かい合わせや斜め隣になったことはあったが、真横というのは初めてだ。さほど広くないカフェコーナーは、椅子同士の距離が近く、また、体格のいいクラウスの隣となるとどんなに小柄なコレットであっても少し動いただけで身体が触れてしまいそうな距離になる。
(そ、そこしか座るところがないんだから、自然に座ればいいのよ……)
急に熱が出てきたような気がしながら、コレットはそっとクラウスの隣に腰を下ろした。
「騎士団の分隊にだって、週に一度休みがあるんじゃなかったっけ?」
一口大に切った菓子を口に運びながら、メリルが言う。
メリルは、コレットがくれた菓子の中から、各自選べるようにと四種類の菓子を持ってきた。ライラフェアが終わった店内は、チョコレート色から一新してピンク色に模様替えをしていた。
今回の新作菓子のテーマは「春」。
一つ目は、赤子の手の平大ほどの円柱形をした苺のムースで、ふわりと口の中でほどけるムース生地はほんのりピンク色をしており、上にはシラハナから取り寄せた塩漬けの桜の花びらが乗っている。
二つ目は桜のレアチーズケーキ。真っ白なレアチーズケーキの上にピンク色のゼリーが流し固めてあり、ゼリーの中にはホワイトチョコレートで作った花びらが浮いている。土台はパイになっているが、間にチーズクリームが塗ってあるため、ケーキの水分で湿気ることなくさくさくしている。
三つ目は苺のプチタルト。カットする必要のない一人用のタルトは、香ばしく焼き上げたタルトにたっぷりとカスタードクリームを乗せ、大粒の苺を、間に生クリームを挟んで山型になるように盛り、さらに隙間に数種類のベリーを詰めてある。
四つ目の苺のシフォンは、カットした面がプレーンとピンクの二層になっており、周りには甘いバタークリームが塗ってある。ふわふわの生地と濃厚なバタークリームが相性ぴったりだ。
メリルは桜のレアチーズケーキを選び、クラウスは苺のムースを、エメリッヒはシフォンケーキを選んだ。自分はいらないと言ったコレットの分は、そのまま隣のクラウスのものになった。
「もちろんありますよ。週一度の公休の他に、各自の位に応じた日数の有給休暇もあります。
年に二回、まとまった休みもあります」
答えながら、エメリッヒはシフォンケーキを三口でたいらげてしまった。クラウスはうなずきつつも、もっと味わって食えとばかりにエメリッヒを睨む。
「じゃぁ、みなさんの公休日以外で、月に一回くらいお休みをとろうかしら」
「えっ。う、ごほっ」
お茶を飲みかけていたエメリッヒが咳込む。
「ちょっと待った。月一回ってのも少なすぎるけど、それよりなんで分隊の休みと合わせないんだい」
レアチーズケーキをちょびちょびと味わっていたメリルも、思わず最後の一口をほとんど噛まずに飲み込んでしまった。
クラウスの休みの日がわかっているのに、あえてその日をずらすとは? いくら分隊が休みでも、コレットが仕事中では一緒に出掛けられないではないか。
「え……。だって、お休みの日にお店が開いてなかったら、分隊のみなさんにお菓子を買いに来てもらえませんよね?」
友人たちの驚きの表情を前に、コレットは小首をかしげて当然のように言う。今でこそ見回りがてら毎日のように顔を出すクラウスやエメリッヒだが、以前は分隊の休みの日に、クラウス一人がこっそりと菓子を買いに来ていた。もちろん、現在も勤務中にあまりゆっくりするわけにはいかず、一言二言話をして帰っていく。クラウスや顔見知りになった分隊員たちが、カフェコーナーでお茶をしていくのは仕事が休みの日だけで、定休日をそろえてしまってはそういう時間がとれなくなるというのがコレットの言い分だ。
「あー……。まったくこの子は……」
他の分隊員など、どうでもいい。
また、クラウスがカフェコーナー限定の菓子を食べたいというのなら、クラウスのためだけに作ってやればいいのだ。他の客もたくさんいる通常営業の店舗内ではなく、二階の私室で二人きりでお茶をすればいいではないか。けれどそれをコレットに直接言っても実行などできるはずもなく、かたやクラウスも黙々と菓子を口に運んでいる。この新作菓子も試作の段階からさんざん食べているだろうに、飽きる様子もなく美味しそうにしている。
メリルとエメリッヒは、やはり我々が一肌も二肌も脱がねばならないようだと顔を見合わせて、コレットの説得にかかった。
「定休日を作ったほうがいいとは思うんだよね?」
「はい」
「分隊長も、コレットさんが体調を崩されたと聞いて、本当に心配してたんですよ。ね?」
「す、すみません」
恐縮するコレットを見つつ、エメリッヒはクラウスに相槌を求めるが、二つ目の菓子に手を伸ばしていたクラウスは我関せずという様子だ。店のことはコレットの責任で采配すべきで、部外者が口を出すべきではないというのが彼の考えである。何か困ったことがあったり倒れるほど無理をしたりというのなら別だが、会ってみたコレットは、多少顔色が悪いものの、そこまで具合が悪いわけではなさそうだ。
コレットにも店主としての矜持があるだろう。彼女のためならいくらでも尽力するが、それが邪魔になってはいけない。
「他の菓子店だって、休みの日はあるよ。
他とずらせば、客も困らないだろ。それで客足が鈍るってほどでもないと思うし」
「我々のことを気遣ってくださるのは嬉しいですが、見回りついでに寄れますし、休憩時間もあるんですから、大丈夫ですよ」
クラウスは頼りにならないと判断したメリルとエメリッヒは、あの手この手でコレットを説き伏せようとする。目指すものは同じ。お互いの気持ちは傍から見ていればわかりすぎるほどわかる二人をくっつけるための、らぶらぶ休日デートだ。
「ほら、こういう新作菓子の試作だって、閉店してからしてるんだろ?
週一くらい定休日を作って、その日を創作とか他の店の偵察とかに使えばいいじゃないか」
「あ、そっか……」
それはコレットも常々思っていた。閉店後ではなく、朝から創作だけに時間を費やせたらいいのに、と。
「分隊長との打ち合わせも、休みをそろえれば昼間からできますよ。
体力のあり余ってるこの人と違って、コレットさんはあまり夜更かしをしないほうがいいです」
「そうそう。お肌にもよくないよ。まだ若いからわかんないかもしれないけど、将来てきめんに出るからね」
「お肌って……。
相談だって、毎回のっていただいているわけでは……」
旗色の悪いコレットは、どうしたものかと口ごもる。肌のことはともかく、エメリッヒの言い様だと、深夜に及ぶ菓子の試作のことはすっかり筒抜けのようだ。クラウスと過ごす時間は楽しく、どんなに気を付けていても、あっという間に遅くなってしまう。そういえば、閉店後にやってきて夜中に帰って行く彼のことは、ご近所さんの目にはどう映っているのだろう。今さらながらに思い至った事柄に、コレットは両頬に手をあてて赤面した。
「でもさ、試作の感想を言ってくれる人がいたほうがはかどるんだろ?」
「メリルさんとか俺とかより、分隊長のほうが的確な意見を言えるんですよね?」
「えぇ」
二人の言葉を受け、コレットは困ったように眉を寄せる。
故郷では、作った菓子の感想は同じく菓子職人である家族から得ていた。ティル・ナ・ノーグで独り立ちしてからは、これまでの経験や客の反応を見て試行錯誤を繰り返した。けれどクラウスに出会ってからは、すっかり彼に頼ってしまっている。もちろん、菓子については知識も技術もコレットのほうが格段に上だが、クラウスはクラウスでティル・ナ・ノーグの菓子に詳しく、別の大陸から来たコレットにとって貴重な助言をくれる。また、食べ手としての率直な意見を間近に聞けるのがとてもありがたい。
そんな彼に、夜中までつきあわせて仕事に支障をきたさせたり、妙な噂の的にならせたりでもしたら、とても迷惑をかける。
考えた末、コレットは週に一度ではなく隔週で、分隊と同じ日を定休日とすることにした。
「月に二回だって少ないよ」
「まぁ、まぁ、メリルさん。休む気になっただけでもいいじゃないですか」
「そうだねぇ。
じゃぁさ、早速来週休みをとりなよ。リ・ライラ・ディにはちょっと早いけど、クラウス様に街を案内してもらったらどうだい。
前、お返しがどうとか言ってただろ」
メリルが言うのは、分隊に差し入れをした返礼として、クラウスがコレットに何が欲しいかと聞いた件だ。次に会ったときまでに考えておくといいながら、なかなか決められなかった。クラウスにおすすめの菓子を買ってきてもらおうかとも思ったが、騎士団の分隊長を使い走りのようにするのは気が引けた。ならばハンカチや小物と考えたけれど、クラウスが女物の買い物をしている姿なんて想像できない。悩んだあげく、人生の先輩である隣人にどうしたものかと相談していたのだ。
「いいですねぇ。
そうそう、後で正式に依頼しようと思っていたのですが、コレットさんに差し入れ用のお菓子を作って欲しいところがあるんです」
「サン・クール寺院か」
それまで黙って聞いていたクラウスが、菓子を食べ終えてようやく反応した。
サン・クール寺院は、街の中心部に建造された、ティル・ナ・ノーグで最も大きな寺院だ。“空の妖精ニーヴ”と“海の妖精リール”の二柱を祀っており、主に街の冠婚葬祭を取り仕切っている。万物の創造主であると言われるニーヴは当然のこと、海の妖精リールも、海運を商売の要とする商人や船乗りたちに多く信仰されている。また、この寺院には孤児院が併設されていて、常時それなりの人数の子どもたちが暮らしている。長い間戦争が起こっていないアーガトラム王国ではあるが、近隣の森に生息する魔獣の襲撃や海上での事故で親を失った子どもたちが少なからずいるためだ。
「えぇ。この間訪問したときに、子どもたちにお菓子の大会で優勝したケーキが食べたいって言われたんです。一人一個のケーキを差し入れるのは無理ですが、同じ店のクッキーくらいなら、と約束してきちゃったんですよ。
お出かけするなら、ついでに届けてきてもらえませんか?
あ、経費はちゃんととってありますから、ご安心ください。騎士団宛に請求してくれれば大丈夫です」
そういうことなら無償でいいと言ったコレットに、エメリッヒは首を振る。
「ボランティアはね、ちゃんとするところはちゃんとしないと、長続きしないもんです。
俺たちは業務の一環として、半年に一度、孤児院を訪問しています。ティル・ナ・ノーグの未来を担う子どもたちに、騎士団の役割とか自分の身の守り方とかを教えるためです。そのときに、ある程度は個人の考えでサービスをしています。サービスったって、子どもたちの遊び相手くらいですけどね。
分隊長は、これが苦手なんですよ。くく……っ
顔が怖いせいか、子どもたちが逃げちゃって」
「うるさい」
たまらず肩を震わせるエメリッヒを、クラウスが一瞥して言い捨てる。コレットは大勢の子どもたちを前に困り果てるクラウスを想像してくすりと笑い、メリルもまた「ぶはっ」と吹いた。
「だから、コレットさんもお金はちゃんと請求してください。そしてもしよかったら、子どもたちと少し遊んで来てもらえると嬉しいです。いろんな大人に接することも、いい勉強になりますからね」
「わかりました」
にっこりと微笑んで請け負うコレットとは逆に、クラウスは渋い顔をしている。自慢にもならないが、子ども受けは本当に悪い。別に来週無理に自分が行かなくても、分隊のみんなで訪問するときに持っていけばいいではないかと思う。
しかし、上司の顔色を読むのに長けた男は、
「あんまり待たせたくはないじゃないですか。
孤児たちにとって、必ず守られる約束ほど貴重なものはないんです。戻ってくると信じていた親を、突然失っているんですからね。約束を果たすのは、早ければ早いほどいいです。
でも分隊もそうそう出かけていられるほど暇じゃないし、俺も来週はちょっと用事がありまして。
隊を代表して、分隊長に行ってもらえたら、すごぉく助かるんですけどねぇ」
と言った。そこまで言われては、クラウスも断ることはできない。仕方なくうなずいた。
「ってことで、お二人さん。来週よろしくお願いしますね」
「え」
「!」
リ・ライラ・ディの話をしていた。街を案内してもらったらどうだという話もしていた。そこで孤児院の差し入れの話があった。
差し入れの菓子については、コレットも了承した。クラウスは、分隊の代表として菓子を届けることを請け負った。それが、なぜ二人で出かけることに? いや、当然なのだろうか? 何かうまく言いくるめられたような……。
目元を手で覆って考え込むクラウスと、頬を染めて下を向くコレットを前に、メリルとエメリッヒはこっそりと握手をかわした。
そして迎えた休日。
コレットとクラウスは、大通りを二人で歩いていた。クラウスは隊服と大差ない黒の長衣を着て、“コレットの菓子工房”と書かれた大きな紙袋を持っている。コレットは、普段は清潔感のある白のブラウスに長いスカートで前掛けをしているが、今日はふんわりした花柄のワンピースだった。丈はひざ下ほどで、編上げのブーツを履いている。髪も下ろして、上半分を木製のバレッタで留めていた。店に出るわけではないのと、子どもと遊ぶときのことを考えて、動きやすい服装を心がけたためだ。
コレットの店からサン・クール寺院まではそれなりの距離があったが、街並みを見たり話をしたりしていたらすぐに着いてしまった。
守門と呼ばれる門衛に来訪の目的を告げ、寺院の前でしばし待つ。
初めて訪れる場所に少し緊張したコレットは、何か話そうとクラウスを振り返って、彼の表情が暗いことに気付いた。
「どうかしましたか? 荷物、重いですか?」
エメリッヒに代金はきちんと請求してくれといわれたクッキーは、正規の代金分を全て材料費に使ったため、かなりの量になっていた。
「いや……」
日頃から鍛えているクラウスにとって、菓子の重さなどなんということはない。それよりも憂鬱なのは、自分を見た途端泣きだすであろう子どもたちのことだ。
「そんなに、ですか」
「そんなに、なんだ」
クラウスは語る。初めて訪問した日に、それまで楽しそうに遊んでいた子どもたちが、自分を見て恐慌を起こし、蜘蛛の子を散らすように逃げだしたことを。次に訪問したときには、前回いきなり近づいたのが悪かったのかと思って遠巻きに見守って、しばらくしてからそっと近くの子どもの頭を撫でようとしたら泡を吹いて気絶されたことを。その次のときは、もうクラウスを見ただけで子どもたちは泣きだすようになっていたことを。
「えぇっと……」
まさかそこまでとは思っていなかったコレットは、言葉もない。確かに、コレットもはじめの頃はクラウスのことを怖そうだと思っていた。けれど定期的に菓子を買いに通ってくれるうちに次第に慣れ、菓子作りの相談をきっかけに話をするようになってからはなんとも思わなくなって、さらに髭を剃ってからは格好い……。え?
(やだ、私、何を……)
コレットの頬がかぁっと熱くなったところに、寺院の代表だという司祭がやってきた。
「やぁ、クラウス分隊長。お休みのところ、わざわざすまなかったね。
こちらが噂のコレットくんかい? 初めまして、私はホープ・ノルマンだよ。よろしくね」
「は、初めまして。よろしくお願いします」
襟を正したクラウスは、会釈をして寺院の中に入って行く。コレットも慌てて頭を下げ、人の良さそうな司祭の後をついて、子どもたちが待つ中庭へと向かった。
寺院の中庭には、大きな木が一本立っていた。そしてその下に、きらきらした瞳でこちらを見つめる子どもたちと、一人の女性がいた。
「孤児院の管理をしてくれているビアンカくんだ。
話はしてあるから、あとは彼女にきいてくれるかな」
「ありがとうございます」
仕事があるという司祭を見送り、コレットはクラウスに預かってもらっていた菓子袋を持って子どもたちの元へと向かう。クラウスはかなり離れたところで立ち止まり、それ以上は動こうとしなかった。クラウスの横を通り過ぎていった司祭も、事情はよくわかっているようで、何も言わずに苦笑していた。
そのホープ司祭が、寺院へ戻るべく太い柱を曲がったとき、団子状に固まって押し合いへし合いしている男たちに出会った。
「おや、君たちは……」
「しぃっ!」
濃い茶色の髪をした男が、口の前に人差し指を立てる。用事があって来られなかったはずの補佐官は、同様に腹痛だったり法事だったり人に言えない恥ずかしい病の治療に行ったりしているはずの分隊員たちとともに、柱の陰に隠れていた。
「おまえ動くなよ、見えないだろう」
「あぁ、分隊長、なんでそんなに離れてるんですか」
「そりゃ、子どもらに泣かれるからだろ」
「だって、せっかくコレットさんと一緒の休日なのに」
「泣かれて大騒ぎになるよりいいじゃないか」
「そうだけどさぁ」
「おまえらも声が大きい! 分隊長にばれたらどうする気だっ」
エメリッヒに潜めた声で注意を受けた分隊員たちは、ぐっと固まって首だけを柱の影から伸ばす。その先には、子どもたちに菓子を配り始めたコレットと、それを腕組みして遠くから見守るクラウスがいた。
大きな体を小さく丸めて覗きをしている男たちと、視線の先の男女を見やって、司祭はにやりと笑う。
「あぁ、そういうこと。
ふふ、人の恋路を邪魔するものは馬に蹴られると言うよ」
「邪魔じゃありません。業務上必要な内偵行動です」
クラウスたちを見つめたまましれっと答えたエメリッヒは、司祭に向かってあっちにいけと言わんばかりに手を振った。
「あ、そういう態度とるの?
いいよ、じゃぁ、おーい、クラウス分隊ちょ……むぐっ」
「あ、あんた、何するんですかっ」
両手を口にあてて叫ぼうとした司祭を、分隊員一同が取り押さえた。
「だって、君たちが私を仲間外れにするから」
「司祭様、やめてください」
「覗きがばれたら、俺たち半殺しっす」
「分隊長、怒るとめちゃくちゃ怖いんです」
「じゃ、私も交ぜてくれるかな?」
「……」
「……」
「……」
分隊員たちはお互いの顔を眺め、最後にエメリッヒを眺めた。
「あんた、暇なんですか」
「暇じゃないよ、忙しいよ」
「なら、仕事してくださいよ」
「仕事よりこっちのほうがおもしろそうじゃない」
「おもしろい、おもしろくないの問題じゃないでしょう」
エメリッヒが腰に手を当てて睨みつけると、司祭は年甲斐もなく口をとがらせて拗ねてみせた。
「へぇ、そう。交ぜてくれないんだ。なら、いいよ。
おーい! クラ……ぐへっ」
「「「「「だからやめろって!」」」」」
結局、分隊員+司祭の出歯亀たちは、柱の陰に陣取ることになった。
ティル・ナ・ノーグで最も大きな寺院の代表で、相当偉いはずのこの司祭は、かなりおちゃめな人であるようだった。
子どもたちを前に、コレットが持ってきた菓子袋を開ける。大きな紙袋の中には、小分けにしたクッキーがたくさん入っていた。おおまかに半分に分けてビアンカに渡し、配るのを手伝ってくれるように頼む。
木陰で菓子を配り始めたビアンカに、子どもたちが群がる。それを見たコレットは、集団から少し離れた場所で指をくわえる子どもを見つけ、膝を折って話しかけた。
「あなたも、いかが?」
人を押しのけてまで菓子をもらいにいけなかった子どもは、目線を合わせて優しく話しかけられて、嬉しそうに笑った。両手でクッキーを受け取ると、袋を開けて小さな口に頬張る。
「あっ、ずるい!」
「わたしもお姉ちゃんからもらいたい!」
「ぼくも!」
同じように子どもたちの輪から離れた子どもに菓子を配っていると、それに気付いた他の子どもたちが寄ってきた。わぁっと群がった子どもたちに、たちまちコレットは埋もれてしまう。
「あっ、待って! 順番! 順番に……」
腕を引かれ、菓子袋に手をつっこまれ、ワンピースの裾を踏まれてバランスを崩す。遠慮のない子どもたちに押しつぶされそうになったコレットがどうしようと焦っていると、ふわりと体が浮いた。
「「「あっ」」」
子どもたちの視線が遥か上を向く。
何が起こったのかとコレットが左右を見回すと、すぐそばにクラウスの顔があった。
「大丈夫か」
「え、あ、はい」
ぶらぶらと宙をかく足。脇の下にはクラウスの手。
菓子袋を片手に、コレットは猫の子のように抱き上げられていた。
「す、すみません。重いでしょう」
申し訳なさそうに謝るコレットに、クラウスは首を振る。その下で、ふえぇ、と声がした。大好きなお菓子を甘い香りのする優しそうなお姉さんごと取り上げられた子どもたちが、泣きべそをかいていた。
「泣かないで。大丈夫、あげるから。
でも順番に並んでくれる?」
宙に浮いたままコレットが言うと、子どもたちは菓子袋と強面の男を交互に見比べたあと、黙って一列に並んだ。
「クラウス様、降ろしてくださいますか」
コレットが頼むと、クラウスは子どもたちを一通り見まわしてからそっと降ろした。再びわぁっと群がりかけた子どもたちは、コレットの後ろに立つクラウスが身じろぎすると、びくっと体をすくめてまた黙って並んだ。
大人しくコレットから菓子をもらった子どもたちは、仲の良い子同士好きな場所に陣取って、きゃっきゃっと話をしながら楽しそうに菓子を食べ始めた。
ようやく落ち着いたことにほっとしたクラウスは、壁に寄りかかって、何人かの子どもとにこやかに話をするコレットを眺める。しばらくそうしていると、一人の子どもが歩み寄ってきた。確か、コレットが一番初めに話しかけた、集団に入れなかった子どもだ。
「おじちゃんも食べる?」
小さな手が、クッキーを一枚クラウスの前に差し出してきた。こんなことをされたことのないクラウスは、どうしたらいいのかわからず戸惑う。
「いらないの?」
子どもの丸い瞳が、くるりと動いて自分を見つめてくる。その菓子は子どものためのものなのだから、自分で食べればいいと思うクラウスだったが、断ったら泣くだろうかとも思って答えに迷う。クラウスが考えている間も、子どもは差し出した手をひっこめなかったので、ひとまずコレットを見習って膝をつき、できるかぎり子どもと目線を近づけるようにした。
「ん」
子どもはクラウスの顔の前にクッキーを突きつけてきた。これは受け取らないわけにはいかないと、手の平を出す。
「だめ。あーんして」
ぷぅっと頬を膨らませた子どもは、手を後ろに回してクッキーを隠してしまう。
あーん? あーん、とは?
子どもの意図がわからないクラウスは、顔に疑問符を浮かべて眉根を寄せる。
「あーん、よ?」
子どもが、大きく口を開けて見せる。なるほど、と思ったクラウスは、子どもの真似をして口を開けた。
小さな手が、クッキーを一枚、クラウスの口の中に放り込んだ。クラウスが咀嚼すると、子どもはコレットに見せたような嬉しそうな笑顔になった。
「おじちゃん、抱っこ。さっきのお姉ちゃんみたいに」
菓子袋の口を縛ってポケットに入れた子どもが、クラウスに向かって手を広げる。内心今にも泣きだすのではとおののきながらも、クラウスは子どもを抱き上げて肩にのせてやった。
「うわ、高ぁい!」
クラウスの肩の上で子どもが歓声をあげる。耳元で聞こえた甲高い声に、クラウスはぎょっとした。さっき、つい持ち上げてしまったコレットも軽いと思ったが、この子どもなどは乗せているかいないかわからないほどの重さで、不安定な重心といい、か細い手足といい、未知の生き物のようだ。
「ねぇ、歩いて?」
子どもがクラウスの髪をつんつんと引っ張る。要望に応えて、体を支えながら数歩歩いてやると、さらに右の方向へ髪を引っ張られた。
「あっち」
どうやら右へいけということらしい。馬の手綱のように髪を引っ張られながら、子どもが指示する方向へ歩く。そこには、コレットをはじめ、たくさんの子どもたちが集まっていた。
「みんな、見て! すごいでしょう!」
クラウスの肩に乗った子どもが誇らしげに言う。クラウスたちに気付いた他の子どもが「おお」と驚きの声をあげる。コレットとビアンカは、目を丸くして子どもを見上げていた。
「おじさん」
子どもが髪を引く。今度は下かと、ゆっくりしゃがんで降ろしてやった。途端にその子は他の子どもに取り囲まれ、賞賛の声を浴び、感想を聞かれていた。興奮した様子でそれに答える子どもは、集団に入れずに指をくわえていたのとは別人のようだった。
「ぼくも」
一人の子どもが、クラウスの裾を引いた。膝をついて肩に乗せようとすると、別の子どもも腕につかまってきた。それをきっかけに、このおじさんは怖くないようだとみた子どもたちが群がりはじめる。一人は背中によじのぼり、一人は膝の上に乗ろうとする。腕には二~三人の子どもがしがみついて、たちまち子どもの山ができた。
たまらず、クラウスが子どもたちを乗せたまま立ち上がる。
「きゃあっ」と歓声が上がった。
肩車をする子、腕にぶら下がる子、足にしがみついていたが、ころんと転げ落ちる子。大丈夫かと覗き込めば、体が傾いだせいで他の子まで落ちそうになり、「きゃあぁ」「うわっ」「あはははは!」「もっと、もっと!」と大騒ぎになった。クラウスが脳天に響く高い声に眉をしかめていると、落ちた子どもは、懲りずにまた足に登ってきた。
「くすくす……」
一部始終を見ていたコレットが、口元に手を当てて笑う。初めに肩に乗せた子どもは、今はビアンカの腕に抱かれ、肩車をした子に手を振っていた。
寺院の中庭に笑い声が響く。クラウスにとって初めての経験で、なぜこんなことになったのかいまいち理解できないが、誰も泣くことなくコレットが楽しそうにしているならいいと思った。
穏やかな風景は、柱の陰に居る男たちにも幸せな気分を運んできた。
「うわぁ、分隊長、よかった……」
「すげぇ。コレットさんの菓子の力はすげぇよ」
「ここ来るたびにさぁ、分隊長、悲しそうな顔してたんだよなぁ」
「もう大丈夫だな。ほんとよかった」
子どもたちとの交流を切り上げたクラウスとコレットが、門に向かって歩き出す。大股で歩くクラウスの後ろを、コレットが一生懸命ついていっている。
「いいものを見せてもらったよ。君たちもまだついていくのかい?」
ホープ司祭は、肩のあたりを揉みながら、にこにこしている。
「そりゃそうですよ。」
「我らが分隊長のためですからね」
「最後まで見届けないと」
エメリッヒを筆頭に、分隊員たちは真面目な顔でうなずいてみせる。
「いいなぁ。あとで結果を教えてくれたまえ」
心底うらやましそうにする司祭に別れを告げ、エメリッヒたちはクラウスを追うべく寺院を出た。