一 見えるものの話
「お」
と突然兄が足を止めたから、後ろを歩く私は兄の背中に顔をぶつけることになった。
痛む鼻をさすりながら、私は兄に恨み言を言う。
「なんですかお兄さん、突然立ち止まったりして。危ないじゃないですか」
「ん、ああ」
「何かありました? かわいいわんちゃんがいたとか? それともご気分でも悪いとか? それとも私の隠れた美貌に気づいたとか? やだもうせっかく隠してたのに困りましたねぇこれを機にお兄さんが私を女として意識しちゃったら私どうしたらいいと思います?」
「まずはその無駄口を閉じればいいと思います」
「調子乗りましたすみません」
頭に拳をぐりぐり捩じ込まれながら、私は謝罪した。
――『天上天下唯我独尊』。性格の悪さを容姿の良さだけでカバーしているようなこの人のことを、私は兄と呼んでいる。しかし兄とは戸籍上の関係があるわけではなくて、知り合いの男の人という意味でなんとなく呼んでいたのが定着してしまっただけだ。
そして今日はなぜこの人と銀座の端っこなど歩いているかというと、いつもの通り、食事でもどうかというメールを兄から貰ったからである。こんな扱いをされるとわかっていて断らない私も私でどうかと思うが、兄の案内する店の料理はどこも一級品で、更に奢りと言われれば、つい応じてしまうのは大学生のさがというものだろう。断じて餌付けされているわけではない。断じて。
「で、何があったんですか」
「ううん」
拳から解放された私は、まだ痛みの滲む頭を押さえながら尋ねる。と、兄は軽く唸った後、まあいいだろう、と言った。
「しばらくやってないから、上手いこと出来るかわかんねェけど」
「は?」
「お前、あれ見えるか」
何がわからないのか。しかし兄はその主語を言わず、ただ右手の人差し指で、一点を示した。指は私の身長より高くにあり、また、指の先は斜め上を向いているから、無論のこと、ずっと追っていけば更に更に高くなる。
私がそれらしきものを見つけたのは、私たちがいる場所から、直線距離にして約十五から二十メートルほどのところにある茶色いビルの、屋上だった。七――いや、八階建てのテナントビル。建設された場所によっては高い建物に見えただろうが、このコンクリートジャングルの只中では、比較的小柄なものに見えた。
そしてその屋上に、
「あの人ですか?」
一人の男性が立っていた。顔かたちまで見てとることはできないが、短髪と着込んだスーツから男性だろうと推測する。だからそうして尋ねれば、兄はゆっくり頷いた。
「そう。見えるな」
「ハァ」
示した指を下ろさずに確認を取る兄へ、肯定の意味で相づちを打つ。と、満足そうに「ならいい」と言った。ちらりとこちらを見て、私がそれを注視していることを確認すると、兄はいつものように嫌味に笑い、
「見てろ」
「ハァ」
「あれな、」
「ハァ」
「落ちるぞ」
「ハァ……」
と、相槌を打ってから。
「……はぁ!?」
ようやく兄の言葉の異常性に気づいた。
どういうことだと頭を急回転させる。まさか言葉通りの意味ではなかろう、ということは何かの隠語か。あの人が何かの試験に失敗するとか、人気が下降するとか、話の結びがつくとか。
しかし兄のそれは比喩でも隠語でもなく、一般に使われる『落下』という意味合いのものだったらしい。私が素っ頓狂な声を上げた直後、兄の予告通り、そして言葉通りに、屋上の体はぐらりと傾いで――やがてその足が、建物から離れた。
「ひいっ……!」
私は兄に縋りついて、やがて訪れるだろう惨状のために目を固く閉じる。しかしそうしている間にも男性は落下を続け、
そして、
グシャッ――
とか、そういう音がするものだと思っていた。
転落現場など立ち会ったことがないから想像だが、そういう嫌な音がしたとかしないとかいう描写を小説か何かで読んだことがあったような気がしたのだ。
「あれ……?」
しかし。
目を瞑って五秒経ち、十秒経ち。更にしばらく待ってみるが、それらしき音は一切しない。
瞼を上げる度胸は生まれないまま、しかしこれは一体どうしたことかと悩んでいると、二度、軽く頭を叩かれた。
「目を開けろ」
苦笑を含んだ兄の声がした。「大丈夫だから」
しかし私はまだ安心できなかった。目を閉じたままかぶりを振り、
「待ってください」
「あ?」
「余裕を持ってあと五分」
「どんな落下速度だ」
小突かれた。
「いいから見ろ。何もないから」
「ない?」
痛む頭を押さえながら、恐る恐るまぶたを上げる、と。
兄の言う通り、そこには何もなかった。血の飛び散ったアスファルトも、突然の出来事に集まった野次馬も、――衝撃にひしゃげた男性の遺体も。
となると、転落したはずの男性は?
不思議に思ってあたりを見回す私に、兄は言った。
「ありゃ、霊だ」
「霊?」
「そ」
短い肯定。
この兄は、俗に言う『霊感』という奴を持っている。霊を見たりその声を聞いたりできるのだそうだ。そして兄の霊感は恐ろしく強く、そこらの人間では見えないようなものを日常的に見ているという。
しかし私は兄のような力を持ち合わせていない。幽霊なんてそう簡単に見たりはしないのに――と言いかけて、思い出す。
もしかして。
「お兄さん、『見せた』んですか」
問えば兄はニヤリと笑う。端正な顔を歪めて作る意地の悪い表情は、明らかな肯定を示していた。
兄の持つ霊感はずば抜けており、そしてその特性ゆえ、見られない人間にそれらを見せたりすることも可能だと、以前兄が語っていたのを思い出したのだ。仕組みなど知らないし、聞いたところで理解出来ようはずもないが、何にせよ兄はそんなトンデモな芸当をやってのけることができるらしい。
「久々にやったから、上手くいくかどうかわからなかったけどな。見えたなら何よりだ」
唇を尖らせてむくれるが、兄は悪びれる様子などかけらもなく、どころか「俺の腕もまだ鈍ってねェってことかな」などと満足そうに宣った。こちらは心臓が潰れそうなほどの驚きを味わったというのに。
もう一度あたりを見回してみても、やはり自殺者の遺体らしきものは見当たらない。区切られた狭い青空と、ビル街がそこにあるだけだ。人に慣れた鳩が道をほてほて歩いていき、走ってきた自転車がそれを避ける。夕暮れにはまだ遠い、平穏な午後のひと場面。物騒なものなど、何もない。
「……ん?」
しかし。
瞬間、なぜか違和感のようなものが心を掠めた。しかしそれが何かはわからない。首を捻ってみても、確たるものを考えつくことはない。兄に訊いたらわかるのかもしれないが、このふわふわしたよくわからない感覚を訊くための語彙が見つからない。
何だろう。
「さァて、寄り道は終わりだ。行くぞ」
しかし悩む私に構わず、兄はまたスタスタと歩き始めた。慌てて後を追う。慌てた拍子に、覚えていたはずの違和感はすっかり忘れてしまった。
小走りで追いつくと、兄はわざとらしく虚空を見上げて、こんなことを言った。
「そうそう、そういえば――さっきの、お前の美貌云々の話だけど」
「はい?」
突然何のことかと首を傾げるが、悩む必要もなくすぐに思い当たる。足を止めた兄に言った私の冗談のことだ。それがどうしたのだろうと、横に並んで顔を伺うと、兄はいつもの小ばかにした表情で私を見下ろした。
そして、
「そこまで完璧に隠さなくても、いいんじゃないか?」
あるなら少しは見せてみろ、などと鼻で笑うのだから、この兄はやはり性格が悪い。