五 蛇足(9/28更新)
五
携帯電話で見たのとは違う、もう一枚の交通事故の記事には、軽症だった子供は『男児』ではなく『長男』と表記されていた。
「まだ若い夫婦の片割れが亡くなったのだから、残されたほうの悲しみは相当だったろう。だというのに、たった一年二年で献花がされなくなった……弔いが行われなくなったのだから、そこには何らかの理由があったのではないかと推測できる。たとえば、独り身になった旦那の方に、新しく大事に思う相手ができたとか」
兄は一度言葉を切ると、私のプチフォッカを勝手にひとつ摘んだ。
「お前は、俺があの子供の死因に事件性があると思ったのはなぜか、と尋ねたな。その理由はこれだ」テーブルの上で自分の左手をひらひらとかざして見せ、「さっきも言ったとおり、あれの左腕にもこれと同じ痕があった。これ、煙草押し付けると出来る痕なんだよ。普通のやけど痕なら治療後はうっすら白く残るだけだが、これは違う。火のついた煙草を長時間押し付けられるから、目立つ痕が皮膚に隆起した形で残ってしまう。それを知る人間が見ればそれだと一発でわかるような代物だ。なんで俺の手に根性焼きの後があるかっつったらまァ、そりゃあ若気の至りに過ぎないんだけどな――
……ってオイ」
もう一度プチフォッカの皿に手を伸ばしたのは、私にちょっかいを出すため以外の何ものでもなかったのだろう。しかし私は兄のことなど相手にしなかった。パスタを延々かき込んでいたからだ。
「聞いてるのか」
「聞いてますッ」
答えて、ストローも使わずジンジャエールを一気。
そしてミートソースの掘削作業に戻る。
「拗ねるなよ」
「拗ねてませんッ」
「急いで食うと、服に飛ぶぞ」
「飛びませんッ」
「お前、俺の言葉否定したいだけじゃないのか」
「そんなことはありませんッ」
明らかに拗ねている私を見て、兄は困ったように笑った。
「お前は本当に幼いな」それは私を責めるような口ぶりではなかった。言ったところで仕方ないことと理解してなお発言しているかのような。「テレビやニュースで報道されることは全部現実に起きたことで、創作じゃない。いったい何年この世で生きてるんだ、そろそろわかれ」
「わかってますッ」
と答えるが、自分自身、わかっていないことは百も承知だった。理屈ではわかっていても、頭のどこかで別の世界のことに感じている。だから自分の見知ったどこかで何かがあればそれだけショックを感じるし、また、そう思っている自分がいることもわかっていて、だから余計に腹が立つのである。
「第一、何でお前が不服に思う理由があるよ。あんなガキ、お前の知り合いでもなんでもねェだろ」
「だって、なんか嫌なんですそういうの。……かわいそうじゃないですか」
「かわいそう?」
呟くように言うと、そうやって、疑問符が返ってきた。
フォークを動かす手を止めて、頷く。
「あんな最期を遂げたっていうのもそうですけど……あの子、死んだ後も、本当のお母さんを想って、ずっとあそこに立っているんでしょう。
そんなの、かわいそうです」
……なぜか、答えはすぐに返ってこなかった。
少しの沈黙、そして、
「――ああ」
しかし返ってきたそれは、不思議なことに、同意の返事ではなかった。何か合点がいったかのような、そんな声。何か別のものに言い換えるならば「成る程」もしくは「納得した」といったところか。
いずれにせよ私の言葉は、兄の予想していなかったものだったらしい。
「なんですか?」
「……いや」
上目遣いに見ると、兄は小さくかぶりを振って。
それからゆっくりと、意味ありげに、私から目を逸らした。
「そうだな、お前の言うとおりだ」
しかしこの兄と私の付き合いはそこまで短くない。それに私が気づかないわけがなかった。……気づかないふりをしたほうが良かったのかもしれないが、それができないことは兄もまた知っていただろう。だからこの人は、そういった私の性格を知っていて、敢えてそうやって、そらっとぼけるふりをしたのだ。正確には、とぼける『演技』だ。本当にやりすごしたかったなら、兄はもっと、上手くやる。
最も的確な表現をするならば、それはひどく――『ざァとらしい』。
「……まだ何か、あるんですか」
唾棄するように問えば兄は、良くぞ聞いてくれました、というような顔をした。だが吐く言葉は表情とは裏腹に、
「たいしたことじゃねェよ」
と、淡白なもの。
しかし私は、かぶりを振った。
「聞きます」
毒を食らわば皿まで、だ。
そうでなかったとしてもこの素振りからすれば、この人はそれを、私に――世間というものを本当の意味で知らない私に――話したくて仕方ないのだろう。そしてそうであるのなら兄は、私がそれを聞かないことを許さない。聞かないという選択肢を探したところで結局は無駄に終わるのだ。だからそう答えれば満足そうな表情をして、兄はまた、新しく煙草に火をつける。
そしてこう、最初に言った。
「碌でもない話だ」
二本目の煙草を唇に引っ掛け、開いた右手を肩口で開く。
「あのガキのことで、お前に言ってないことが、あとひとつある」
「……なんですか」
兄の双瞳が、まるで蛇のそれに見える。
すでに結構な量のワインを摂取しているはずなのに、そこに酒の色は一切ない。こういう瞳のことを、炯眼というのだろうか。楽しそうに笑っているがそれは、向けられる者からしたら不快以外の何でもないものだった。
私はそれを、臆さず見返す。その度胸だけは評価して欲しいと思いながら。
兄は言った。
「あれが呟いていた言葉だ」
そういえば、何かぼそぼそ言っている、はっきり言えと恫喝していたような。兄は、聞き取りにくいそれを結局、聞けたということか。
そのことを尋ねるとひとつ頷いて、
「――『どちらが幸せだっただろう』」
と、言った。
私は首を傾げた。どちらが?
「意味が、わかるか」
問う兄は、珍しく、少し硬い表情をしているように見えた。
この人が嘘をついていないのだとしたら、本当にあの子供がそう言っていたのだとしたら、あの子供があの場所で悩んでいるものは、つまるところ、幸福の二者択一。しかしあれが花瓶の前で、その選択肢として挙げているものとは?
わからない。しかしあっさり白旗を揚げるのは躊躇われた。わからないなりに考えて、なんとか搾り出したひとつの回答を口にする。それはきっと間違っているのだろうと予測しながら、けれど私には、その程度しか思い浮かばなかったのだ。
「母親の……選択ですか。どちらの母親の元で、息子として生きていたかったかと――」
「違う」予想通り、兄はかぶりを振った。「それじゃ、及第点だってくれてやれない。赤点だ」
私にもわかっていた。母親の良し悪し、そんなことはあの子供にとって、死後にまで選択に悩むほどのことではない。本当の母親の元で、虐待など知らず生きていくほうが、断然幸せであったに決まっている。あの幽霊が年端も行かぬ子供であっても、そんなことは悩むまでもなくわかっていたはずだ。
死んでしまった子供の幸せとは、何だったのだろう。死してなお、あの子は何を悩んでいるのだろう。おそらく兄は、私がその問いに答えを出せないことをわかっていた。だから、私にそれ以上の無駄な時間を与えなかった。
「最初にあそこでこいつを見たとき、俺は「他人に興味がないみたいだ」って感じのことを言っただろう」
思い出す。確かに言っていた、『こいつ、俺のこともわからないな。他人に興味がないらしい』。
「その『他人』っていうのは、俺だけじゃない。勿論お前も含むし、それに――
――この幽霊は、死んだ母親のことすら興味の範疇になかった」
今度は、それのことを「子供」と言わなかった。意味があってのことか、それともただの偶然か。
ともかくそれで、私の先ほどの回答は完全に否定された。
母親すらも。
「それは……」
「お前さァ」
どういう意味か、と尋ねようとした私の言葉を、そうやって遮った。
息を深く吸い、煙草を右手で摘んで持つと、真っ白な煙を吐く。そして続いたものは、母親の話とは到底かけ離れた質問だった。
「絶望ってしたことある?」
突然のことに、私は思わず目を丸くした。絶望――軽々しく使えばその程度の重みになり、重々しい場面で使えばやはりそれなりに厚みのある言葉。
答えようと、思考を回転させる。私が絶望したことがあるのはどんな場面だろう。待ち合わせをしているのに電車が止まったとき、財布を紛失したとき、必修講義の単位を落としたとき、――いや。
そんな言葉を使わなければならないほど重い事態に出くわしたことは、私はまだ、
「ない、と思います」
「だろうな」
それはやはり私が幼いからなのだろうか。と少し自信をなくしかけたが、兄はワインを一口啜ってあっさり言った。「俺もない」
「辞書によると絶望ってのは『すっかり望みをなくすこと。希望を失うこと』なんだそうだ。
ただ、戦争真っ只中な他国なんかはいざ知らず、この恵まれた現代日本で一切の望みが経たれる状況なんてそうあるはずがない。大学で単位落とそうと翌年再履すりゃいいだけだし、いじめを受けたならどこへなりと逃げればいい。どれだけ上司の頭が悪かろうと突然殺されやしねェし、耐えられないなら転職すりゃいいだけの話だ。金がなくても日本には生活保護なんてシステムがあるし、不治の病であったとしても、明日その治療方法が見つかることだってある……かもしれない。最後のは極論かもしれないけどな。
それでも、できる限り生きてりゃ、何かどこかに、望みってものはあるだろう。なかったとしても、望みを得る可能性というものは存在している。生きることが、できるなら。
まァとにかく、この現代日本、そうである以上は絶望なんて簡単にできるわけがない。と、俺は思う」
……兄が何を言いたいのか、わかったような気がした。
「別の新聞には轢かれた子供は『長男』と書かれていた。長男とはあの、芹見沢少年のことだ。つまりあれは、ここで母親とともに死ぬ可能性もあったということだ」
そしてそのことに、恐らくはあの子供もまた、気づいていた。
だとすればあの子供が、花瓶の前、たった一人で、何者をも見ることなく、死してなお悩んでいる、答えの出せない『二者択一』とは。
兄はその問題文を、ゆっくりと、口にした。
「ここで母親とともに轢かれて虐待を知らずに死ぬのと、それから三年間を生きることと引き換えに、虐待を受けて死ぬのと。
――『はたしてどちらが、幸せだっただろう』」
たとえどちらを選んだところで、望まない死を迎える運命だというのに。
たった五歳の子供が、たった五年間しか生きられなかった子どもが。死んだあともなお、そうやって、自分の死に方を選んでいると言うのか。
「……そんなの、」
私は言いかけて、けれど続けられるものがなく口を閉じた。思い浮かんだものはひどいだとかかわいそうだとか、そんな言葉しかなく、そんなものは吐いたところでどうしようもないのである。
だから兄は、聞こえなかったふりをして、煙草を灰皿で揉み消した。
そして何かを嘲笑うように、こう言ったのだ。
「たった五年しか生きなかったガキが、死後、自分の死に方を悩んでいる。
――あいつに与えられた三年間の猶予は、果たしてどんなもんだったんだろうな?」
*
「人間っていうのは不思議なモンだ」
冷めてしまったパスタを前に黙りこんだままでいる私へ、兄は静かに、口を開いた。
「人は、ただ自分たちに見えないだけの、単に現代科学で解明されていないだけのそれらを、恐ろしい恐ろしいと騒いで回る。だけど……」
疲労の混じった逆説と、躊躇に似た沈黙。のち続いたものは独り言のようで、――しかしひどく説教じみたものだった。
「恨みがましい表情で立ちんぼしてる奴、頭から血ィ流してる軍服の男、女の足にへばりつく子供、注射器の痕残した下着姿の娼婦紛い。俺はあんな奴らは怖くない。死んだ人間は生きてる人間を殺せない。
……俺はそんな奴らより、笑顔で嘘つく政治家だの、子供を殴る母親だの、部下を捨て駒のように使う上司だの、そんなモンの方が、よっぽど怖いと思うんだがね」
そっと視線を上げて、兄を伺う。
兄は左手で握ったワイングラスを、じっと眺めていた。
「幽霊なんざ怖かない。本当に怖いのは、生きている人間だ」
そう言う兄の瞳は冷徹で、どんな表情より兄によく似合っていた。
おしまい。
「兄の話」お付き合い頂きありがとうございました。お粗末様でございました。
夏なので少しオカルトめいた話でも、と思いましたが、全編掲載が終わるころにはすっかり秋めいてしまい、失礼をいたしました。
以前(2012年頃)に書いたものの再掲になります。
寝苦しい夜にこういう夢を観て、なかなか面白い夢を見たなと小説に起こしたのが始まりです。暫定的にキーワードを「推理」とさせて頂きましたが、初っ端から幽霊とか喋っているあたり、ノックスの十戒も守っておりませんので、推理でもないような気がします。
趣味全快で胸糞悪い作品に仕上がりましたが、ご覧下さった方のお暇潰しにでもなりましたなら幸いです。当時、同じ登場人物(「私」と兄)で他にも幾作か書いた覚えがありますので、またどこかから発掘されたら二章、三章として載せてみようかなとも思っています。
そのときはどうぞ、お付き合い頂ければ幸いです。
ありがとうございました。






