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兄の話  作者: なみあと
Ⅰ 兄の話
6/23

四 結(3)  (9/21追加)




 空調の関係だろうか。

 不意に寒気を覚えて、私は持っていたパーカーを着込んだ。しかしそれでも冷房過多な感覚は消えず、頼んだパスタが来る気配もないので、ドリンクバーから温かい紅茶を持ってくる。

 席に戻ると兄はチョリソーを黙々と食べていた。席に戻るやいなやカップへスティックシュガーを三本放り込んだ私に呆れたような表情をしたが、私の甘党を知っているからか、それに関して何かを言うことはなかった。

「さて」

 チョリソーを嚥下すると、兄は紙の束を取り出した。先ほど図書館でコピーした新聞記事だ。A4用紙で印刷されているから、いくつかの記事は途中で切れている。私が見たユキヒョウの写真も半分ほどしか印刷されておらず、双子だった彼らは無残にも一頭だけになっていた。

 兄はテーブルの上でそれらを並び替えると、また取り上げた。私からは新聞記事は見えなくなる。

「続きを話すとしよう。

 あの子供が幽霊として出始めたのは二ヶ月前だな。だから俺は図書館で、二ヶ月前の新聞記事を探した。あとついでに、三年前の交通事故の記事についても軽く見てきた。これだ」

 コピー用紙の束から二枚を選んで、テーブルの上に置く。うち一枚には欄外の日付が印刷されていた。何かペンを寄越せというので、板書に使っている多色ペンを鞄から取り出して渡すと、うち赤を選んで小さな記事に丸をつけた。「これと、これ」白黒の新聞紙に赤色のインクはよく目立つ。

 ペンは兄がそのまま所持。代わりにその、印をつけたコピー用紙を私に向けて差し出した。内容はどちらも同じで、三年前の交通事故。うち一枚は携帯電話で見た画面とまったく同じ記事だった。

 ……ふと、疑問を。

「ハイ先生」

「誰が先生だ」

 手を上げて発言したところ、丸めたコピー用紙で頭を叩かれた。

 スパン、といい音がしたが痛みはそれほどない。兄と呼ばれるのは良くて先生は駄目という理屈もよくわからないが、訊きたいことはそれではない。質問をすること自体を否定するわけではないようで、だから私はことばを続けた。

「二ヶ月前に亡くなった男の子の記事を二ヶ月前の新聞に探すっていうのはわからないことではないです。……だけど、新聞記事になるようなことで亡くなったとは限らないというか……男の子の死因に、事件性があるとは限らないんじゃないですか。

 確かにこの頃の年頃の子は水難とか交通事故とか、そういった事故で亡くなる子も多くいます。けど、病気で亡くなる子も同じくらいいたような気がします。さっきお兄さんが携帯で出したグラフ、『不慮の事故』に次いで多かったのは『悪性新物質』と『心疾患』だったでしょう。悪性新物質って、つまりは癌ですよね。

 そういう、事件性のあるなしで死因を区別したら、たぶんない方が圧倒的……とは言えなくても、そちらの方が比較的多数を占めるんじゃないかなと思うんですけど」

 自分の伝えたいことをなるべく整理して伝えられるよう、言葉を探り探り発言する。すると兄は感心したように「一応お前なりに考えながら話を聞いてるんだな」と言った。やはり褒め言葉になりきっていないそれであったが、一応、頭を下げる。

「その点については後々解説してやるから、ちょっと待っとけ。……とにかく俺は、この時点で、この子供の死因には事件性があると睨んでいた。大きな記事になるかどうかは疑問の余地があったけどな、新聞の片隅くらいには載るんじゃないかと思っていた」

「はぁ」

 生返事。兄の頭の中など悟れようがないし悟りたくもないが、頭のいいこの人のことだ、おそらく私の短見に対する答えくらいは用意してあるのだろう。

 答えを急くほどの質問ではない。私は兄の話の続きを待った。

「ところで、新聞とは何か」

「ええと、――束にしとくとトイレットペーパーとかもらえる、」

「お前は馬鹿か?」

 真顔で訊かれた。冗談なのに。

「辞書には確か、『社会の出来事について事実や解説を広く伝える定期刊行物のこと』とでも書かれていたはずだ。――新聞倫理要綱から言うなら『新聞は歴史の記録者であり、記者の任務は真実の追究である』ってところか」

 ボールペンの尻でカツカツと新聞記事を叩きながら、兄はそう言った。

「あ、それ知ってます。『報道は正確かつ公正でなければならず、記者個人の立場や心情に左右されてはならない。論評は世におもねらず、所信を貫くべきである』」

「その通り」

「この間、報道論の講義で習いました」

 胸を張ると、

「一般常識だ馬鹿」

 と一蹴されたので、以後は指示されるまで黙って話を聞くことにする。

「とにかく新聞とは、個人や企業の偏見を交えない公正な視線から作られるもので、その時々の社会の出来事について書かれるものだということだ。その理屈から言えば新聞記事とは、それにまつわる何かが起こる――もしくは起こり得たからこそ、作成される。ここまではいいか」

「はい」

「ならいい。……で、だ」

 また数枚のコピー用紙をテーブルに広げた。うち一枚に、半分になったユキヒョウの写真が載っている。

「複数の都道府県、或いはブロックをカバーする一般新聞には、地域版と呼ばれるページがある。地域ごとのニュースを掲載するページだな」

 コピー用紙の角を指さした。四角く囲われた中に大きく書かれた文字は『都民版』。私がそれを見ていると、赤ペンがまた丸を描いた。今度は『都民版』の下、小さく書かれた『都内版編集室』の文字とその住所。

「地域版ってェのは、朝日は約百七十、読売は……、いくつだったか。確か百を超えるくらいはあったような。ともかく県庁所在地にある主要な局で、それらを該当地域のニュースに差しかえて紙面を作成する。つまるところ地域版の記事とは、その地域で、それにまつわる何かが起こる、もしくは起きたからこそ作成されるわけだ」

 前述の文章にひとつ、言葉がついた。――『その地域で』。

「ここでひとつ問題を出そう」

 言って兄は、コピー用紙の端っこの記事に赤丸をつけた。

「この記事はどうして都民版に載った?」

「ええと……」

 そうやって、兄の指し示した記事。

 それはあの、かわいらしいユキヒョウの記事だった。



■ユキヒョウの双子産まれる

 世田谷区の黒磯動物園は18日、園内で飼育中のユキヒョウ「ミル」の赤ちゃんが生まれたと発表した。黒磯動物園によると――途切れて読めない――飼育係長は「双子の赤ちゃんが健康に育つように見守っていきたい」と話している。



 黙読。コピーの範囲可能外に行ったところが多かったのか、それほど長くなかったので、すぐ読み終わった。途中が切れているけれども、内容は把握できる。そしてこれがなぜ記事として書かれたのかと問われたならば、

「都内の動物園で、双子のユキヒョウが産まれたからですね」

「そういうことだ。――じゃあ次。これ」

 次に指した見出しは『首都地震における防災対策――都が方針発表』。先ほどのより少し長めで、それに伴い紙面スペースも広い。都が防災対策を進めていること、電力の供給がストップする自体を想定したエネルギーの確保等も視野に入れ、新方針を元に新しく防災対応指針を作成していることが書いてあった。

 この記事がなぜ作られたかと問われたら、都が防災対応指針を新しくするから……と答えかけて、違うと気づいた。正答は、おそらくもっと大きな事項。都が方針を変えなくてはならなくなったその理由とは、現行のそれでは不十分だと証明されたからだ。すなわち、

「……東日本大震災が発生したから、ですかね」

「大正解」

 花丸をくれてやろう、とぐりぐりペンを動かした。兄の描いた適当な赤い花が、見出し『防災対策』の文字の上に踊る。ついでとばかりにその下に、達筆ではあるが雑な字で「よくできました」と書きつけた。私は小学生か。

「表面だけで答えを出さずもう一歩踏み込んだその考え方は良かったな。いいか、次もそれと同じように深読みしろ。次で最後だ」

 カチン、と音がした。多色ボールペンの、ペン先を仕舞った音だ。

 そして兄は、今度は青のインクを選ぶ。

 新しく出したその色で、また、同じように丸をつけた。

「最後の問題だ。

 ――これはなぜ、書かれた?」

 指し示された記事は、防災対策の記事に、若干、毛色の似たものだった。

「これは……」

 兄の握ったペンの先。私はそれを、目で追った。



■地域で防ぐ児童虐待――世田谷区に見る取り組み

 世田谷区は27日、世田谷区役所にて学生ボランティアと地域児童の交流会を開催した。世田谷区では、大学等の教育機関との連携を活用し「学生ボランティア派遣事業」という試みを行っている。区内の大学から学生ボランティアを募り、月に2度、子供の話し相手、学習支援などを行うという事業である。権威、脅威、指導などといった上からの視点を感じさせないため、親子ともに安心して利用できるという声が多い。また、世田谷区では子育てテレホンなどの育児支援も行っており、育児環境に様々な視点から重層な関係性を作成することを目指している。



 載っている写真は、私と同じくらいの年頃の男性が、小さな女の子に微笑みかけているものだった。何を喋っているのか知らないが、とても楽しそうである。

 世田谷で行われている虐待防止の取り組み。これがなぜ、新聞記事になったか。考えるまでもない、世田谷区で学生ボランティアが活動を行っていることの広報的役割。……しかし、それでは兄は、私に合格を与えないだろう。「深読みをしろ」と言ったばかりだ。

 記事から目を上げて兄を見ると、兄は私の答えを待っていた。何が楽しいのか、笑いを噛み殺しているようなその表情。

 ――思いついた推論が、あった。

「これは……」

 けれど私はそれを言わなかった。もっと正確な物言いをするなら、言いたくなかった。言ってしまうのは、まるで兄の策略に嵌っているようだったし、それに――

 だから代わりに別の可能性を考えて、口にした。

「……世田谷区が、虐待の防止に力を入れ始めたから、でしょうか」

「違う」

 しかし兄は、即座にきっぱりと否定した。

 あの、嫌な笑顔で。

「世田谷区は平成十九年度から、『児童虐待のないまち世田谷をめざして』をスローガンにして、地域主体のあらゆる取り組みを行っている。力を入れ始めたがためにこうして記事になったのだというなら、今更だ」

 しかしその答えが間違っているだろうことは、なんとなく予想がついていた。だから兄にそうやって否定の裏づけをされても、がっかりとか落胆とか、そういった感情は覚えなかった。

「だったら……都民版で、児童虐待に関する連載を行っているとか。それなら――」

「却下だな」

 テーブルに広げられたコピー用紙が、一枚増えた。それは私が今眺めている新聞の、一日前の日付。私が思いつく安易な発想は、兄にとってはすべて事前に思いつく程度の代物であったらしい。だから逃げ道として搾り出した小さな可能性すら、そうやって簡単に切り捨てる。

「次の回答は?」

「…………」

 兄の言葉に、私は答えられなかった。いや、正確には私自身、もっとしっくりいく、自然に落ち着く案を、すでに思いついていた。けれどそれは――。

 そして兄はきっと、私のその感情すらも看過していた。

 だから回避しようとする私を追い詰めるように、言葉を続けたのだ。

「もっと広く考えろ。現在はじまったわけでもない取り組みがどうして記事になったのか。どうして記事のサブタイトルが『世田谷区に見る取り組み』なのか。どうして目黒や杉並や練馬では駄目だったのか。……いいや、その記事だけじゃない。俺はこれが最後の問題だと言っただろう。もっと広い視点だ――『俺たちは今、何の話をしている?』」

 ……そんなこと。

 そんなこと言われなくとも、想像はついていた。けれどそれはなんというか、私の中で認めるのが嫌で、そんなものは。

 別のもっと、平和的な答えが欲しかった。

「タイムアップだ」

 だけど兄はそれを許さなかった。

 兄はそう言って、浅学で無知な私が別解を探し出すよりも早く、答えを提示したのである。

「取り返しがつかないレベルの児童虐待事件が、世田谷で起こったからじゃないのか」



 喉の渇きを覚えたが、喉にへばりつくような温く甘ったるい紅茶を飲みたいとは思わなかった。もっと苦味のある何かであるなら良かったが、残念ながら私の手元にそれはなく、兄のワインなどもっと欲しいと思えなかった。

 つまるところ、あの男の子の死因とは。

「……納得、できませんッ」

 しかし私は否定した。

 少々大きな声で言ったはずのそれは、しかし掠れてしまっていた。他の客の喧噪も相まって、あたりに響くこともない。兄の表情を変えるにもまったく足りず、特別な意味は何もなさない。

 兄は腕を組んで、私を見返した。いつものように、横柄な態度で。

「なら言ってみろ。どこが足りない」

 ゆとり大学生の私が博識家である兄に噛みついたところで、答えは見えている。けれど言わずにはいられなかった。あそこにいるのは私にとってはどこの誰だか知らない子供だ、しかしそれでも、そんなものが原因だなんて、思いたくはなかった。

 私にとってそういう事件はあくまでもニュースの中にあるものであって、それが直接的であれ間接的であれ、私の身近な何かや何処かや誰かに起きていいものではなかったのだ。――私たちがただ面白おかしく話すだけの下らない噂話に、笑いながら怖い怖いと騒ぐための与太話に、そんな惨い『裏』などあっていいわけがなかった。

「だって、――世田谷で児童虐待死亡事件が起きただなんて、誰も言っていません。そんなこと、どの記事にも書いてありません。起きたとしてもあの子が世田谷に住んでいたとは限りません。あの子の死因がそれであったなんて、確定できる証拠がありません。お兄さんの推論にはすべて証拠がないです、インサフィシエントリーです、空論です!

 ……それに、そうです。そもそも、それが男の子の死因であったからと言って、その男の子の幽霊があの交差点に出没するという事由の答えにはなっていませんッ」

 荒らいだ声で、感情で、私が思いつくすべての反論をぶつけると。

「成る程?」

 小首を傾げた兄の答えは、一文字一文字を区切って言うようなそれだった。

 私がそれらの穴を指摘することをわかっていたような、意地の悪い物言い。そして実際、この人はそれを予測していたのだろう。もしくは話す中で、最後私にそれを指摘させるために、敢えて穴として残していたか。

「言いたいことは、それだけか」

 肯定はせず、ただきゅっと唇を閉じて待つ私に、兄は笑ってこう言った。

 それは非常に端的な、一言。

「とどめだ」

 兄は、握っていた最後の一枚をテーブルに広げ、赤丸をつけた。

 そして隣に、携帯で見たのと同じ、交通事故の記事を置く。

 ……私は、何も言えなくなった。

 二つの記事を見比べれば、そこには言い逃れのできない証拠があったのだ。

「まったくの無関係とするには、珍しい名字だろう?」

 ――新聞の薀蓄など語らず、最初から、それを見せればよかったのに。

 性格の悪い兄は、性格が悪い故に、最後に取っておいたのだ。




■幼児暴行・死亡事件――傷害容疑の母親逮捕

 5歳の長男に暴行し、怪我をさせたとして、警視庁世田谷署は9日、東京都世田谷区風見、無職、芹見沢夢子容疑者(30)を傷害容疑で逮捕した。亡くなった長男である尊君は夫の連れ子であり、夫は長期出張で家を空けることが多かったという。芹見沢容疑者は「血の繋がらない子をかわいがれなかった」「懐いてくれないので腹が立った」と容疑を認めているという。心肺停止状態の尊君を世田谷区の病院に運び込み、死亡が確認された。病院側が虐待を疑い、警察に通報した。






 こちらで「結」終了となります。

 次回更新「蛇足」で完結です。よろしければどうぞお付き合いください。


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