四 結(2) (9/15更新)
2012年に書いた原稿のため、直近データは当時のものになります。
ご了承下さい。
適当な料理を注文し、店員が去っていくとまず兄は、ポケットから青い小箱を取り出した。慣れた様子で一本煙草を取り出すと、やはり慣れた様子でジッポライターを擦り、火を点ける。
「二千年統計でアメリカ八十八万、ドイツ三万、フランス一万八千。日本では統計開始の九十年が一千、直近データは約五万と五千。ただしこの数値は、近年急増したものであると捉えるべきか、告発・発覚の件数が増えているだけで実際の発生件数とは無関係であると捉えるべきかという論争がある」
蓋を閉じたライターを左手で転がしながら、兄は早口でそんなことを言った。しかしそれは、私に聞かせるための言葉ではないようだった。どちらかと言えば、思い出したことをただ呟いただけのような。
「……何のことです?」
兄は頭がいい、というよりも雑学知識が多い。それを博識と取るか瑣末主義と取るかは、兄の何を評価するかによって変わるが――その中には勿論、私の知らない知識も多い。だからそのたび私は首を傾げる。そしてそのたびに兄は、無知め、といった表情で私を見るが。
しかし今日はそうしなかった。ただ私に向け、あまり趣味の良くない笑みを浮かべた。理由はわからないが、なんとなく、下卑た感じのある表情。
煙草を咥え、深く息を吸い、私には何がいいのかわからない白い煙を心から旨そうに吐き。そしてようやく「解説を始めようか」と呟いた。――私の問いに答えることはしなかった。
兄はテーブルに肘を置き煙草を燻らせながら、どこから始めるのがわかりやすいかと悩んだあとに、
「そうだな、まずは幽霊の話をしよう」
と。
話の切り口は非常に、兄らしいものになった。
「幽霊というのは、幽霊自身の最も印象に残っている姿で現れることが多い」
「そういうものですか」
「俺は統計なんか取ったことないけどな、世間一般の通説としてはそういうものなんだそうだ。中高生なら制服だったり、当人の気に入りの私服であったり。
また、自分の死ぬとき、死んだ姿というものは、おそらくは本人に強烈な印象を与える……俺は死んだことはないから実際のところはどうだかわからんが。ともかく、そんな理由から、死亡時の服装、格好、怪我跡を有して出る幽霊というのもまた多い、らしい。というわけでたいていの幽霊の格好は、本人に印象強い……気に入りの姿、もしくは死亡時のそれである」
玩んでいたライターをポケットへ仕舞い、開いた左手で灰皿を引き寄せる。
「それではあのガキの格好はと考えたとき、後者と見るべきが妥当と俺は思う」
「どうしてですか?」
尋ねながら、兄が見た子どもの背格好を思い出してみる。歳は五、六歳程度、身長はざっと百センチ、細身、短い黒髪、緑と青のチェックのシャツ、ジーンズ、上着はなし、靴もなし、白の靴下……
「お前の最近の気に入りの服装っていうのはどういう格好だ? 挙げてみろ」
「そうですねェ、最近気に入ってるのは明るい花柄のカットソーに薄手のボーダーのパーカーと、あとベージュのロールアップのかわいいボトムがあって、それから――……あ」
私も気づいた。
「靴だ」
「ご名答」
灰を落としながら兄はそう、賛辞の言葉をくれた。
あの子どもは靴を履いていなかった。気に入りの靴下であるとでもいうなら話は別だが、無地の白い靴下に愛着があるのかどうかと言われれば、疑問の余地がある。
「確たる証拠がないから推測の域を超えないけどな、それでも死亡時の格好ではないかという仮説を立てるには足りると思う。……けど服装からわかることはそう多くないな。ざっと見て、室内で死んだっていうことがわかるくらいだ。それもオフィシャルじゃない、恐らくはプライベートな場所だ」
話し終えて、俯いていた顔を少し上げた。そうして目が合った私が不思議そうな表情をしていることに気づいたのだろう、鈍いなとでも言いたそうにため息をつき、解説を入れる。
「そう推測できる要因も、靴だ。学校でも病院でも、上靴なりスリッパなり履いてるだろうしな」
「病院でも、入院患者なら、上靴は履いてないような」
「入院患者なら寝巻きだろう、格好は」
成る程。
納得したところで、ティラミスを大きめに切って頬張る。兄は煙草を灰皿に押し付けて消すと、空いたその手でグラスを取った。
「ところで、あのガキの左腕にはちょっとした痕があった」
「あと?」
「これと似たような感じだ」兄は自分の左手甲を私にかざして見せた。
手の甲の、中央よりやや親指寄りに、何やら赤茶けた傷跡がある。いびつな円形をしていて、蚊に食われた跡よりも一回り大きいそれだが、虫刺されとは完全に色が違う。もっと色濃く痛ましい。見たことあるかと訊かれるが、考えても該当するものは出てこない。
否定の意で首を傾げると、俯いて小さく笑い「だろうな」と言った。なぜだか知らないが、兄は私がそれを知らないことを確信していたようだった。
「……厚生白書に因れば」
だというのにやはり、答えは教えてくれなかった。かざした手を引っ込めると、今度は携帯電話を取り出す。画面を撫ぜていくつか操作をし、テーブルの上に置いた。私に向けて見せる。画面には、厚生労働省のウェブサイトが表示されていた。リンクをクリックするとPDFファイルが展開して、画面が塗り替えられる。
「五歳頃の死因の構成割合として最も多いのは『不慮の事故』。次いで悪性新物質、心疾患、肺炎、脳血管疾患と続く。……白いのは、『その他』」
兄の指が、棒グラフの半分くらいを塗り、けれど順位には入らなかった部分をなぞる。
「その他って、なんだろうな」
ぽつりと呟いた。問いかけのようでもあるそれに、私は何らかの回答をすべきなのだろうか。迷ったがしかし、結局のところ何も答えなかった。沈黙を選んだことには特別深い意味があったわけではなく、単に思いつくものがなかったからである。
兄はもとより私の答えなど期待していなかったようで、さっさとそれらを消すと元の待受画面に戻してしまった。そして、画面から人さし指を離した状態で静止する。無言でそれを見つめているから、待受に何か特殊なものが表示されているのかと思ったがそうではないようで、、何かを考え込んでいるようだった。
どうしたのだろうと思っていると、不意に顔を上げた兄と目が合った。盗み見ていたような気分になって、しかし視線を逸らすのもおかしいような気がして少々居心地が悪くなる。
……そうやって私が油断していた隙に、
「あっ」
兄は皿に残っていた私のティラミスを掻っ攫うと、自分の口の中に入れてしまった。もごもご咀嚼する兄と空になった皿を交互に見、抗議をする。
「何するんですか」
「お前が変な顔してるから嫌がらせしたくなっただけだ」
そしてその言い草も非常に腹立たしく。瞬時に覚えた苛立ちを思わず表情に出してしまうと、それもまた面白かったようで、声を上げて笑う。
世の中の人間がみんなお前みたいにわかりやすければいいのにな。とまったく褒めていない褒め言葉を口にして、それから兄は、こう言った。
「ここからは、生きた人間の話をしよう」
それは、チョリソーが運ばれてきたのとほぼ同時。