四 花瓶の話
ここまでは、兄の話。
ここからは、私の話。
*
石を切り出して作った階段を下りると、その先には水が湧いている。小さな魚が泳いでいることもあるが、今はいない。
借りてきた桶で、湧き水を掬う。八割近くの量まで入れたが重すぎて運べず、諦めて半分ほどに減らした。階段を戻ると上には地蔵があって、その湯飲みに柄杓で少し水を注いだ。火のついた線香が地蔵の足元に置かれている。きっと別の墓参者が置いていったのだろう。
手を合わせてしばし拝んだあと、私はまた歩きだす。山の斜面を切り出して作ったその場所は急斜面がとても多くて、移動にも一苦労だ。「転ぶと連れて行かれるぞ」昔言われた兄の言葉が耳元で蘇る。転ぶものか。
空を見上げる。太陽照りつける、暑い夏。
罅が入っていた桶の底から水が漏れて、アスファルトに跡を作る。
桶を右手に、墓場近くのスーパーで買ってきた仏花を左手にして、道を歩く。私が兄の花瓶のことを思い出したのは、左手に握ったそれを見たからだった。
いつかの私の洞察力のなさに、ため息が漏れる。
……兄が花を当てたからくり。わかってしまえば、たいしたことではない。
照りつける暑さと桶の重みのせいで落ちていた視線を無理やり上げ、あたりをぐるりと見回す。兄が風呂敷から出したあれが、いたる墓石に置かれていた。
あれは花瓶などではなく――いや確かに花瓶ではあるけれども正確には――墓石の花立だったのだ。どこかで見覚えがあったような気がしていたのは、祖母の墓参りで見ていたからだというだけに過ぎない。
そして花立に活ける花の中で、最も一般的でよく目立つものは菊、と。花立の存在を知っている人間が花立を見、そしてあの質問をされて、無意識に菊を選ぶ確率は、おそらく低くはない。
私でなくても答えは同じだっただろうと、つまりはその程度のからくりだ。
……そうやって、私は何度、兄にひっかけられてきたのだろう。
水汲み場から最も遠い、嫌がらせのような場所に立つ墓石。私の背より高い、黒々とした御影石を、私は正面から見返した。
「来ましたよ」言ったところで、聞くわけもないが、呟いた。
死んだ人間が生きる人間に勝てるわけはないと、兄は何度も言っていた。そうやって兄は、兄の目に見えるそれらに勝ち続けていた。
ならば。
冷たい水を御影石の隣に置きながら、私は思う。
ならば今、私はこの人に勝てているのだろうか?
花を活け、雑草を取り、墓に水を掛ける。
夏の日照りの下では、それだけの動作がひどく重労働に思える。それでも時間を掛けて、私はようやくようやく掃除を終えた。
人さし指で、墓誌の文字をなぞる。太陽光で熱くなったそれの一番左に、見たことのある名前が刻まれている。しかし戒名は私の知る名前を少し変えてしまっていて、それはその名を、私の知らない他人のもののように感じさせた。
花立と菊の話を、また、思い出す。
私は、細い女の腕が私の首に伸びてくるのを、兄の催眠の中で見た。あの催眠を、兄は冗談だったと言って笑っていた。だから深く、気にすることはないのだろう。
しかし今でもわからない。
――なぜ、女の腕だったのだろう。
兄は腕としか言わなかった。それ以外の、何の指定もしなかった。だというのに私には、あの手が女のものであるとしか思えなかった。
傷も皺もなくまだ歳若い、白く細い女の腕。花立の口よりぬるりと伸び、私の首を探してなまめかしく動く裸の腕。骨張った指と整えられた爪は躊躇うように宙を彷徨った後やがて私の首を見つけて絡みつきそして固く力を込めて私の命を奪うのだ。
腕。
どこかで見たようであり、しかし思い出せないその腕の、その持ち主に、私はいつか未来に会うような気がした。
……それ以来。
兄の隣にいたときも、兄が去っていった日も、そして、兄がいなくなったこの今も。
心のどこかで、あの腕が私の背後へゆっくりと忍び寄っているような気がして、その予感はやむことがない。そしていつかあの幻のように、あの腕が、私の首を絞め殺すように思えてならない。
あれはいったい誰の腕なのだろう。そして私は、いつあの腕に出会うのだろう。
そして兄のいない今、誰が私を守ってくれるのだろう?
火の点いた線香を、香炉へ。
ジイジイと煩い蝉の声を、私は、兄のいない世界で聴く。
お終いです。
ありがとうございました。