三 花瓶の話
ガタン。
椅子が倒れる音で、私は目を開けた。
テーブルに手をつき、肩で息を繰り返していた。同時に、呼吸のできない苦しさから開放されていることに気づく。テーブルの上に花瓶は、ない。腕もない。ただ、触れられていた感覚だけは、まだ首に滲んでいる。
嫌な脂汗が全身に滲んでいる。喉が若干痛みを感じるのは、あの腕のせいではなく、ただ単に今、全力で叫んだからだろう。
ここは。
「あははははははははっ」
聴き慣れた笑い声がして、顔を上げる。そこには兄がいて、何がおかしいのか、腹を抱えて笑っていた。
……思考が、まとまらない。
何がどうして、どうなって、私はここにいたのだったか。腕はどこに行ったのか。花瓶は。兄は? ――私が悩んでいると、
「どうかなさいましたか、お客様」
私の思考を遮って、左側から突然女の声がした。
驚いてそちらを向くと、そこには――白い腕が。
「ヒッ!」
思わず悲鳴を上げて後ずさると、兄はますます面白そうに、声を上げて笑った。そうやって笑いながら『腕』を見て兄が言うことは、
「騒がしくしてすみません、この馬鹿が紅茶を倒してしまって」
「え……」
私の声は、呆けたようなそれになった。兄の指が示す先、テーブルの足元。床を見ると、そこにはぶちまけられた紅茶と、氷と、それからグラスが転がっていた。兄は愛想の良い笑顔を作ると、告げる。「申し訳ないんですが、コレ、片付けてくれますか。あと、アイスティのお代わりをひとつ」
白い腕――いや。
きちんと見れば、それはただのウェイトレスだった。彼女は兄の言葉に、嫌な顔ひとつせず「畏まりました」と答え、私が蹴倒した椅子を戻して、アイスティをモップで片付けると、奇跡的にも割れていなかったグラスを回収して、店の奥に戻っていく。
兄がいて、人がいて、私は、ここにいる。思考回路が、少しずつ元に戻っていく。
ぼんやりと立ったままの私に、兄は顎で椅子を指し示し、言った。
「座れ」
兄は、目の前に、いた。――当然だ。
まだくらくらする頭を右手で押さえながら、元のように椅子に腰掛ける。
兄はそんな私を見ながら、悪戯っぽくこう言った。
「どうだった?」
そしてその物言いで、確信する。
理屈はどうあれ、つまり私は、また兄に苛められたということだ。
「どうもこうもっ」
顔を上げて、キッ、と兄を睨んだ。
なんともひどい悪夢のような空間だった。怖かった。腕がいた。花瓶があった。誰もいなかった。腕が。首を。絞めて。
「なんなんですかあの花瓶は! 今、花瓶から手が生えてきたんですよ! 手が――白い、青白い、女の、手がッ! にゅるって! それで、」
「落ち着け」
まだ混乱してやがるな、と呆れたように呟いた。
「それはお前の想像の中だけだ。女かどうかは俺は知らん。
今のは、催眠の一種だよ」
「……催眠?」
「お前が思い浮かべているのがお前の想像なのか俺の手引きなのか、途中からわからなくなったろう」
そう言ってまた、嫌味に笑った。あの気色悪い幻想は、現実と自分の想像と、外的要因を混同させてしまったせい――つまるところは兄の語りのせいだったということか。
本当に、この兄は――……言葉にならない感情がふつふつ湧いてくる。
しかしどうせ文句を言ったところで、謝罪の言葉は聴けないのだろう。兄がそう簡単に、頭を下げるはずがない。だがそうであるとわかっていても、兄の私に対する扱いには不満だし溜飲は下がらない。何か少しでも噛み付いてやりたいと思い、抗議か、もしくは反論のひとつもしたくなる。
だから私は唇を尖らせて、
「催眠じゃ、霊感じゃないじゃあないですか」
と、言った。
そもそもこの花屋の話は、兄の催眠技術の披露ではなくて、霊感がらみの何かを私に見せるためのものではなかったのか。これでは私は単なる苛められ損だ。いや、苛められている時点で損なのだが――この状態で終わってしまっては私には、何の得もないではないか。勉強にすら、ならない。
すると兄は、右手を肩の位置で広げて見せた。
「今のは関係ない。前から一度誰かに試してみたくてな、ちょっと思い出したからついでにやってみただけだ」
単に前からやってみたかったという理由だけで催眠をかけられ恐怖に突き落とされる私の存在価値とは、いったいなんなのだろう。今更ながら、兄の中での私の立ち位置を改善したい欲求に駆られる。
ちょうどそのときアイスティが運ばれてきて、私はそれを受け取ると一気に飲んだ。喉から胃まで冷たいものが一気に流れて、体が内側から冷やされる。
「じゃあ、霊感のってのはどうなったんですか」
「そうだな、それの話をしようか」
答えると、コーヒーカップを持ち上げて、一口啜った。すっかり冷めているだろうが、いいのだろうか。不快そうな顔をしなかったところを見ると、どうやら口を湿らせられればなんでもよかったようで、兄はもとのように受け皿へカップを戻すと、私を見た。
「俺はさっき、お前に、花を一輪買って来いと言ったな」
花。
言われて、頷く。
「ちゃんと買ってきましたよ」
私が、あの花瓶に似合うと思った花を。
すると兄は腕組みをしたまま、ひとつ頷いた。
「そうか。
じゃあ聞くが、どうしてお前は、菊の花を買ったんだ?」
「あの花瓶に似合うかなっと思ったからですけど」
正確には、兄が何でもいいからこの花瓶に似合うものを買ってこい、と言ったからだ。私は兄の命令を私なりに遂行したに過ぎない。だから、なんとも不思議なことを聞くな、と思った。似合うから、以外に理由が必要なのだろうか。何科の植物は買っては駄目、だの、何科の植物の中から選んでこい、とかいう指示があったわけでもないのに。
だがしかし。
兄はふっと息を吐くと、困ったように笑った。
しかしそこに、苛立ちはない。その表情は、例えるなら、出来の悪い妹に根気よく勉強を教える兄のようだった。
そして兄が、私に言うことは。
「お前な、ちょっとは考えろ」
「は?」
その意味がわからなくて、私は思わず聞き返した。私は何か間違ったことを言っただろうか。
「もう一度訊くぞ」
しかし兄は、言葉の真意を教えない。変わりにそうとだけ言うから、不思議に思いながらも、私は兄の質問を待った。さすればやはり、ついさっきのそれと何も変わらない、まったく同じ質問が繰り返される。
「俺はお前に、花を一輪買って来いと言ったな」
それに不思議なところは、ない。
「はい」
だから私は、先ほどと同じように、肯定をする。
確かに私は、想像の中の『フローリア』で、花を一輪買って帰ってきた。あの花瓶に似合うと思った、あの、黄色い花を。
答えれば、兄はひとつ頷いた。どうやらそれは、正しい回答だったようだ。であるとすれば、私の不正解は、次の問いに対する答え。
――そして。
兄はやはり先ほどと同じ、もうひとつの質問を繰り返した。
「どうしてお前は、菊の花を買ったんだ?」
「それは、」
この花瓶に似合いそうだったから。それ以外の理由はないと、先ほどと同じことを答えかけて、
そして、
「……あれ……?」
はた、と止まった。
突如覚えた違和感に、右手で頭を押さえる。
「あれ……」
おかしい。
私が戸惑い、制止したのを見て取ると、兄はにやりと笑って「ようやく気づいたな」と言った。答えをくれない意地悪な兄のそれを聞きながら、私は今までの会話を、すべて思い出そうとする。確か私は。
私は。
それでも足りないような気がして、念のため、想像の中で花を選び、購入してから今までのことを、なるべく詳細に、克明に思い返す。想像の中で花を買い、想像の中で腕のあれこれがあって、目を開けて、紅茶を落として、紅茶のお代わりを貰って、兄のやり口に文句を言って……だから。
だというのに。
「どうして……」
驚きに、思わず呟く。
どうして。
私の乾いた声に、兄はまた、先ほどと同じように、自分の唇にそっと人さし指を当てた。鳶色の目を細め作る蠱惑的な媚笑は、兄お得意の、女性を操るためのそれ。けれど私はそんなものに見とれたりはしなかった。ただそのなんとも胡散臭い笑顔を見返して、ぐるぐると頭の中を巡る『何故』だけを考えていた。
私はまだ、言っていない。だから兄は、まだ、知らないはずだ。
だというのに、どうして、兄は――
どうして兄は、私が買った花が菊だと知っているのだ?