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兄の話  作者: なみあと
Ⅳ 花瓶の話
21/23

二 花瓶の話






「目を閉じろ」

 言われるがままにそうする。眼前に、瞼の裏の薄暗闇が広がった。

 五感のひとつがなくなって、他の感覚が研ぎ澄まされる。今まで気にならなかった周囲のざわめきが大きくなって、空調が一段階強められたような肌寒さを覚える。

 その中で、兄の声が聞こえた。

「目を閉じたまま、覚えている限りでなるべく詳細に、周りの風景を思い出せ。テーブル、紅茶、コーヒー、絵画……」

 円形の、木目調のテーブル。それを挟むように、私と兄が向かい合っている。私の手元には紅茶の入ったグラス。その横にはシロップのポットがあり、兄の目の前にはコーヒーの入ったカップ。テーブルの向こうでは兄が腕組みをして私を見ている。壁にはだいたい二十センチ四方程度の大きさの風景画が飾られている――

「……それから、テーブルの上に、さっきの花瓶がある」

 兄の言葉で、私の思考の中、テーブルの上に花瓶が現れた。銀色の、安っぽい、なぜか既視感を覚える、あの花瓶。口には何も挿しておらず、空いたままになっている。ぽっかりと空いた口の中は暗く、中は見えない。

 私がそれを覗き込んでいると、兄が言った。

「なんでもいい。お前が、それに似合うと思う花を一輪、買って来い」

 この銀色の花瓶に、似合う花を。

「はい」

 頷いて、私は想像の椅子から立ち上がった。並ぶテーブルと客の間を通り過ぎながら、あの花瓶にはいったい何が似合うだろうと考える。観葉植物をわき目に見ながらレジスターの横を通り過ぎ、ドアノブに手をかけた。

 ドアを押せば、ドアベルが明るい音を鳴らす。そして外に出ると、湿度の高い夏の空気が頬と腕に触れた――ような気がした。もちろん、想像だが。

「ええっと……」

「店から出たら向かって左だ。大通りに向かって進め」

 姿のない兄の声が私を誘導する。

 左手に少し行くと、大通りに出る。歩道には人通りも多く、また車道には車も多い。コンクリートジャングルのど真ん中であるそこは、空気が汚れているのが見えるような気さえする。べたつく暑さとあいまったそれは想像とはいえなんとも不快で、自然と溜め息が出た。

 太陽の照る、日陰のない歩道を想像の中で歩いていく。さて、大通りを渡るには左の横断歩道を行くか、それとも右にある陸橋を渡るか。

 そんな迷いを見抜いたように、声がした。

「信号は赤だけど、そろそろ変わりそうだ。それを待って渡れ」

 左手側に歩みを進める。横断歩道の元にはたくさんの人が信号待ちをしていた。すぐに信号が青になり、私が交差点にたどり着くときにはもうほとんどの人が横断歩道に足を踏み出している。

 私も同じように渡って、そして今度は通り沿いを右に歩いていく。携帯電話ショップとコンビニエンスストア、そしていつもシャッターの下りている内容不明な店の前を通りすぎ、

「ポストの角を右に入ると、すぐそこが『フローリア』だな」

 指示の通りに角を曲がると、その先には、花と植物の溢れ返った店が一件。




 一階の庇の上に、楕円型の看板が掲げられている。書かれたスペルはF-l-o-l-i-a、『フローリア』。この花屋には、私も来たことがあった。

 開けた入り口の右側にはガラスの棚があって、大小さまざまなプリザーブドフラワーが飾られている。少女の形をしたガラス細工の中に、赤いバラのプリザーブドフラワーが入っているのがとても可愛くて、友達への誕生日プレゼントにしたのだ。

「アルバイトらしい女性の店員が花の世話をしている。観葉植物や鉢植えの花の間を通っていくと大きなガラス戸があって、その中には多くの挿し花が飾られている」

 店の中に入ると気温は外より少しだけ涼しくされていた。それは来店者への配慮というよりはおそらく植物の管理上の問題だ。ガラス戸の中にはたくさんのバケツと色とりどりの花があって、おそらく中はもっと低温に保たれている。飾られた、種類も色も大きさもさまざまな花。この中から一輪、好きなものを選ぶ。

 さて、どれがいいだろう。――花瓶の事を思い出すと、想像の花屋の中にひとつだけ、なぜか非常に惹かれる花があった。茎はすっと長く、花は黄色い。向日葵ほど派手ではないが、こちらのほうが兄の持っている花瓶にとても似合う気がして、私はそれにすることに決めた。

 花の名前は、リンギク。

 女性に声をかけて一輪包んでもらい、会計を済ませる。

「買ったか」

「ハイ」

「ならいい。帰って来い」

 花を左手に握って、私は花屋を出た。





 来たときと同じように、またポストの角を曲がって大通りに出る。と、

「信号が青になった」

 兄の声。

 見上げると進行方向に見える自動車用信号は赤だった。ということは、私が渡るべき方は青になっているということだ。コンビニの前を小走りで通り過ぎ、横断歩道に向かう。しかし急ぐほどのことではなかったようで、まだ横断歩道が点滅する様子はなかった。速度を緩めて、白黒の上をぽてぽてと歩いていく。

 横断歩道の中央に至った頃、兄の声をした。

「信号を渡っていると、背後で何かがぶつかる音がした。ガラスが割れるような派手な音」

 ――?

 横断歩道の真ん中で、私は後ろを振り返る。そこでは、

「男性が一人倒れていた。車とバイクの事故のようで、しかしバイクの男の傷はそれほど深くなかったらしい」

 自動車の運転手が駆け寄るより早く、すぐに男性は立ち上がった。右肩に血が滲んでいるがそれほどの大怪我ではないようで、自動車の運転手と何かを話しながら携帯電話を操作している。呼ぶのは警察か、それとも救急車か。いずれにせよ人命にかかわるような大きな事故ではないようで、私は歩みを進めた。

 横断歩道を渡りきってしばらく通り端を歩き――そして、脇道に。なるべく日陰を選んで喫茶店に向かい、それほど時間はかからずに見覚えのある店の前に到着する。

 木目柄を基調とした洋風のドア。大きめのガラスのはめ込まれたそれには、金色のノブがある。脇のイーゼルには黒板が置かれていて、来店を歓迎することばと日替わりケーキの詳細、妙に上手いケーキの絵が色とりどりに記されていた。

 ドアノブに手を伸ばす。と、

「店には、なぜか奇妙な雰囲気があった」

 暑い夏だと言うのに、握ったノブはやけに冷たかった。……嫌な、寒気を覚える。

 回し、引く。乾いたベルの音が、頭上で鳴った。

 が。

 ――なぜか。

 店員が出てこない。

 店内には得体のしれない、妙な静けさがあった。気持ちが悪い。早く兄のもとに戻ってしまおうと、私は予感を振り切って早足で奥に進む。しかし、

「店の中には誰もいない」

 奥に進んでも、人の姿はなかった。がらんとしていて、客はおろか、店員もいない。

 兄すらも。

「ただ元いたテーブルにあの花瓶が置かれている」

 まるで無人の店の主ででもあるかのように、銀色の花瓶が奥のテーブルに鎮座していた。近くで見れば、やはり兄のそれだった。

 人っ子一人いない店の中で、変わったものは他になく、だからそれに手がかりを求めた私は花瓶の口を覗いてみる。銀は奥に行くにつれぼうっとした黒に変わって底は見えない。予想と反して、中には変わらず何も――

 いや。

「花瓶の中から白いものが浮いてくる。目を懲らしてみるとそこには、」

 ぽつ、ぽつぽつ、と。花瓶の闇の中から丸がゆっくりと浮かび上がってくる。ひとつだけではなく、ふたつみっつ、よっつ、大きさの違う丸が……いや。違う、丸ではない。棒だ。

 いや。棒でもない、

「腕が、」

 指だ。薄紅のマニキュアの塗られた、細く白い、女の指。指だけではない、花瓶の内を上ってくるのは手の平、手首――腕。現れたそれは花瓶の口を越えて、何かを探すようになまめかしく動き回る。

 腕はやがて私を見つけ、こちらに寄ってきた。冷たく青白い、生気のない手。やがてその指が私の前髪に触れる。恐怖に動けない私の頬を女の指が撫でていく。額、瞼、唇、顎、髪、そして私の首に到達すると腕は指を広げて掴んだ。私は慌てて両手で腕を握り引き離そうとするが、その細い腕のいったいどこにそんな力があるのか、病弱そうな見た目とはかけ離れた握力で固定されてびくともしない。首を握る力が少しずつ強くなって女の指が私にくい込む。息が細く、苦しくなって、私は朦朧とする意識の中で兄を探した。しかしやはり、見当たらない。

 霞み、視界が狭くなる。いない。兄はどこに行ったのだ。私を置いて――あの兄は。傍若無人で、身勝手で、オカルト絡みのときはいつも助けてくれる兄が。

 どこにもいない。

 涙が浮かぶのは苦しさにか痛みにか、孤独からか。

 たすけて。喘ぐが呼吸はままならず、また、答えもない。兄もいない。そのことを把握して、今更ながらようやく、腹の内に小さなひとつの可能性が芽生えた。否、とうに気づいてはいたが意識しないようにしていたそれを、私は自覚してしまったのだ。

 いいやそんなことはない、有り得てたまるかと否定しながら花瓶の腕から逃れようとするが、敵わない。鯉のように大きく口を開けて息を吸うが、取り入れられる空気は微々たるもので生まれた小さい思いが急速に大きさを増して泡のように上がってくる。もしや、いいや、そんなことが。目の前が少しずつ霞んでいき、やがて黒く白くなり、すべての色がわからなくなる。ここはどこだ。意識が薄れる。女の腕が力を増す。

 そしてやがてすべての正常な思考回路を押しのけて、認めたくないその思いだけが膨れ上がる。私は、私は、私は、まさか、私は、ここで――――

 ―――――私は、この腕に、殺





「嫌あああああああああああああああああああああああああッ!」





 絶叫が、聞こえた。




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