一 花瓶の話
携帯電話の時計を見ながら、指定された店の扉を開ける。
カランカラン、と軽快なベルが頭の上で鳴って、店員の明るい挨拶が耳に届いた。
待ち合わせの相手は、最も奥の席に陣取っていた。
こちらに視線が向いて、どうやら私に気づいたらしいその人に頭を下げて見せると、彼は片手を上げて答える。
「遅くなってすみません」
「まったくだ」
早足でたどり着き、開口一番謝罪をすると、当然とばかりにその人――親愛なる我が兄は言った。
兄が持ち上げたグラスの中には、オレンジジュースが入っていた。ストローも置かれているというのに、それの封を開けることもせず、直接口をつけて呷っている。オレンジジュースと兄、という取り合わせが私にとってあまり見ないもので、「珍しいですね」と思わず言った。
「ん?」
グラスを傾けたまま視線だけをこちらに向ける。不思議そうな視線。
私は思ったことをそのまま答える。
「お兄さん、いつもコーヒー飲んでるイメージあるんで」
すると兄は。
ジュースを飲み干し、若干荒々しい手つきでグラスをコースターの上に戻すと、私をにらんだ。
「二杯目」
理解にはそれで事足りた。
「すみませんイヤ本当」
それだけ待たせてしまったということだ。慌てて謝罪するが――この兄には珍しいことに――それ以上の文句を言うことはなかった。フン、と鼻を鳴らして笑い、「まあ、いい」などと答えるのだから、どれだけ好意的に考えても明日は豪雨か、でなければ槍だろう、と確信した。
何かいいことでも、あったのだろうか。
手を上げて呼んだウェイトレスに、私たちはホットコーヒーとアイスティーを頼んだ。
ホットコーヒーが兄の、アイスティーが私の分。了承して去っていくウェイトレスの後姿を眺めながら、兄が「そういえば」と言った。
「お前、先週誘ったとき無理だって言ったけど、何だって言ってたっけか。墓参り?」
「そうです。ちょうど泊まりで祖母の家に行ってました。……お土産はないです、ごめんなさい」
「要らねェよ」
「いえ違うんです、本当は、帰りのサービスエリアで青くてかわいくてすごい大きいイルカのぬいぐるみが売ってたんで、コレお兄さんにお土産として買ってってプレゼントしようかなあって思いはしたんですけど」
「ますます要らねェ」
「だってあのぬいぐるみお腹押すと『ぷぴゅういっ』って鳴くんですよ! お兄さんがこれ抱いて寝てたらクッソ面白いなあって思痛ァっ!」
「殴んぞ」
「もう殴ってます……」
冗談が過ぎたらしい。
――兄とは血縁があるわけではない。戸籍上の関係があるわけでもない。
元をたどればこの人は都内にあるとある店の店員で、私はそこの客だった。ちょっとしたことから顔見知りになったが、その際に「知り合いの男性」という意味で「お兄さん」と呼んでいたのが定着してしまっただけだ。
ただ我々の間には、惚れた腫れたの関係があるわけではないし、そういう変な誤解をされるのも嫌なので、そのあたりの排除には役立っているから、その呼び名を変えようという気も、今となっては、あまりない。恋愛感情もなく、血縁関係もない、ましてや友人でもない我々の奇妙な関係。
……ところでそんな兄が今日、私を呼びつけた理由はなんなのだろう。無駄話を重ねていても殴られる回数が増えるだけだと思った私は、本題を進めることにした。
だからそれを問うと、兄はひとつ頷いて、
「この間お前、俺に『本当に霊感なんてあるのか』って言っただろう」
覚えているか、と言うが、盛大に拳固を落とされたのだ。忘れるわけがない。痛みがぶり返してきたような気がして頭をさすりながら、私は唇を尖らせた。
兄は霊感を持っている。言うに、幽霊の姿を見たり喋ることを聴いたりできるらしい。私自身、兄とともにそういった特殊な事象に関わったことも何度かあり、また兄の奇妙な行為・行動を何度か見ているため、心からそれを疑っているわけではないが、いかんせん霊感とは、自分にない感覚の話だ。言いたくなってしまうのも無理はない、と思うのだが。
「それは謝ったじゃないですか」
「いや、そうじゃない。あとで、俺もあれは説明不足だったと思った」
と言いながらも、決して謝罪の言葉は口にしないのが兄らしい。
「だから今日は、実際に見せてやろうかと思ってな」
それから何やら、床に向けて体を屈ませた。テーブルに遮られて、そこに何があるのか私からはわからない。ちょうどそのとき、ウェイトレスがやってきた。注文どおり、私の前にアイスティーと、兄の前にホットコーヒーを置いて戻っていく。
そうして兄が足元から取り出したのは、ひとつの風呂敷包みだった。
薄紫を基調とする風呂敷に包まれた、縦長の何か。シルエットは一升瓶にも似ている。兄がその結び目を解くと、そこから出てきたものは、
「……花瓶?」
「そうだ」
大きさとしては三十センチほど。銀――いや、そこまでいい材質ではない。ステンレスか、もしくはアルミ。包んでいたものは気品のある風呂敷だったというのに、中身は非常に安っぽそうなそれだった。全体を通して飾り気はなく、胴の部分は膨れもなければくびれもない。口の部分が少し外に反っているのが、飾りと言えば飾りか。
けれどなぜだろう、はじめて見たような気がしなかった。どこかで見たことがあるような、不思議な感じを覚える。しかし私がそれの正体を思い出すより早く、兄はそれをまた風呂敷に戻してしまった。
「どうしたんですか、その花瓶」
しかし兄は、私の問いには答えず、ただ唇に人さし指を当ててにっこりと笑った。だがその仕草も表情も、ひどく胡散臭い。
どうせまた、阿漕な方法でも使って手に入れたのだろう。
「失礼な」
私の表情から考えを読み取った兄は、笑顔を消すと、眉間に皺を寄せてそう言った。そして、
「一晩付き合ってくれたらくれるって言うからその通りにしただけだ」
……内緒だったはずではないのか。
隠すなら最後まで隠せと言ってやりたくなる。やっぱり碌な方法ではなかった。この兄も、この兄の容姿を気に入る女も皆滅びればいいのにと思い、いやどうせならその二方で何もかもを完結させて私を巻き込まないでくれればいいのに、と考え直した。
「霊感とは何ぞや」
しかし兄にとってはどんな相手と一晩限りの関係を結んだところで、それは特筆すべきことではないらしい。私の考えなど汲もうともせず、淡々と話を続ける。
「よく誤解されるけどな、幽霊を見たりその声を聴いたりできる能力のことだけが霊感じゃない。神仏が示す感応、啓示、預言なんかの霊的なものを感じとる働きやその他もろもろ、五感以外で認知する直感的な感覚のことを言う。転じて、インスピレーションのことも指すな。聖書では神や聖霊の預言や宣託、及びそれを記す能力として扱われるが、それは別解として置いておこう。
まァ、一般的な意味で言う霊感とは、簡単に言えば「通常ならわかり得ない感覚全般」のことだ。俺にはないが、予知能力なんかも霊感の一種だな」
「へえ」
思わず声を上げる。知らなかった。
となると今回それを披露してくれようという兄は、
「普通じゃできないようなことをやってくれるってことですか」
「話が早い」
私が理解したことを知って、満足そうに、にっと笑った。
それから兄は、右手の人さし指を一本立てて、ぐるりと回すジェスチャーをする。
「『目を閉じて家の中を歩き回る』あれ、知ってるか」
「ああ、ハイ」
オカルトの一種として有名なそれを、私も一応知っていた。
目を閉じて、想像の中で家の玄関に立つ。それから玄関を開けて家に入り、家の中を一周してくるというあれだ。一周する中で人影を見たら家の中にはその人数だけ幽霊がいるとか、窓の開け閉めで霊感の有無を判別するとか、そんなものだった覚えがある。
「やったことはあるか」
「はあ……まあ。人並みには」
曖昧に、頭を掻いた。本当のところを言えば、やったこともあるし、しっかり出てきたものもある。ただそれを話しはじめたらそちらが話の本題となってしまいそうなので、適当に誤魔化したかったのだ。
――何せ私は、兄が言うところの「妙なものに好かれる」体質らしい。
私は幽霊など見える体質にないからよくわからないが、兄などは、放っておくと私の後ろに妙なものが溜まっていくのがよくわかるという。そして幽霊の見える兄にはそれがとにかく面白いらしく、そのため私を飼っている……もとい可愛がってくれているらしいのだが、それはともかく。
とにかく兄は、まあいい、と言った。内容よりも、私がそれを知っているかどうかが重要らしい。
「あれと同じようなことをしてもらう」
「ハァ」
答えながら、首を傾げた。同じようなこと?
「お前、『フローリア』って知ってるか」
フローリア。突然現実めいたことを言われて、一瞬、聞き間違いかと考えた。私の知るその単語は、
「……あの、花屋ですよねそれ。あそこの道真っ直ぐ行って曲がったところにあるやつ」
「知ってるな。ならいい」
半信半疑で言ってみたが、どうやら聞き間違いではなかったらしい。
どういうつもりかますますわからなくなっていると、兄は足元に置いた風呂敷包みを指さした。
「お前には、コレに挿す花を一輪買ってきて貰う」
つまりはパシリか。
面倒だが、この人の性格上、嫌だと言えば文句を言われるだけだろう。最終的には私が首を縦に振らなければならなくなるのだ、おとなしく従うことにした。
「わかりました。何の花がいいですか」
「なんでもいい」
返ってきたのは、非常に適当な答え。
花瓶を手に入れるにはそれなりの苦労をしたようなのに、花はどうでもいいと言うのか。つまるところ、兄が興味があるのは花瓶自体で、それの用途には興味がないのだろう。
「わかりました、行ってきます」
頷いて、鞄の手を握る。花代は返してくれるのかなあ、と腰を浮かしかけた私の頭を、兄は突然、拳で小突いた。
「馬鹿」
頭を押さえながら、驚きに兄を見る。私は何か間違ったことをしただろうか。
「お前は、なんで俺が『家の話』をしたと思っているんだ」
言われて、遅ればせながら私も気づく。
動きを止めた私へ、兄は薄く笑って、こう言った。
「花を買いにいくのは、想像の中でだよ」