一 遊園地の話
「そうだ、これ、よかったら」
私は向かいに座る兄へ、一枚の白い封筒を差し出した。
時計はようやく、夜の八時を回ったところ。
メインの皿が下げられて、残るはデザートと飲み物を待つばかりとなった。テーブルの上、差し出した封筒を無言で受け取り、何も書かれていないそれを矯めつ眇めつする兄に、私は慌てて注釈を入れる。
「あ、すみません、別にラブレターとかじゃないんです」
「わかってる」
「本当に申し訳ないんですけど、ラブレターとかじゃないんです」
「念を押さなくていい」
そんなものなら突き返す、と、それもそれで非常に失礼なことを呟いてから、兄はその長い指で、折られているだけの糊されていない封を開いた。
――兄。
性格の悪さを容姿の良さだけでカバーしているようなこの人のことを、私は『兄』と呼んでいる。とはいえ戸籍上の関係があるわけではなくて、知り合いの男の人という意味でなんとなく呼んでいたのが定着してしまっただけだ。
封筒の中から出てきたものは、二枚の長方形の紙。兄はそれの表を見て、裏返して細かい文章を読んで、そしてそれの示すものを知って――結果、眉を寄せた。
「遊園地のチケット?」
「友達から貰ったんです。バイト先で配ってたとかなんとかで」
不思議そうな兄の警戒を解くため、えへら、と笑ってみせる。
オカルト趣味で俺様根性のこの人に、気まぐれに呼び出されては無駄話を聞かされたり心霊スポットに同行させられたりしている。怖い話がそれほど好きではない私としてはそれほどいい経験はしていないが、この人は食の趣味はいいようで、毎度美味しい食事を奢ってくれる。この人自身のことはそれほど好まないが、そういう点ではどこかで礼をしておきたい、と思っていた。
……というのは建前で、本音は別にあるのだが……それはさておき。
「よかったら、使ってください」
「二つほど、訊きたいことがある」
訊きたいこと?
首を傾げると、兄はひじを机の上に置き、呆れたような表情で、人さし指を立てて見せた。
「一つ目。誰と行けっていうんだ。二つ目。俺がジェットコースターではしゃぐように見えるか」
そんなことか。
立てられた二本の指を眺めながら、左右に首を振る。
「いえ、見えませんけど」
というのは、二つ目に関する答えだ。誑しの兄のことだから、デートの相手はいくらでもいるだろうということで、一つ目の事項は無視した。
「そうじゃなくてこの遊園地、毎年、夏限定でイベントやってるんですよ。そういうのお兄さん、好きじゃないかなって思って」
「俺が?」
「そうです」
荷物入れの籠から愛用の鞄を取り出して、中からパンフレットを一部見つけると、兄に向けて差し出した。表紙に描かれたものは、蜘蛛の巣が張った館の絵をバックに、滑稽にデフォルメされた骸骨と幽霊が手招きをした絵。上のほうにはおどろおどろしいレタッチで『恐怖の館』と書かれている。
つまりはお化け屋敷である。オカルト好きのこの人なら、きっと一も二もなく食いついてくれるだろう、と思って持ってきたのだが――
しかし予想とは裏腹に、テーブルの上、私が向けたパンフレットへ、兄は一向に手を出さない。ただ呆れたような目でじっと見ている。
早く持っていってくれないかなと私が思い始めたとき、兄が片手を軽く振った。そして答えた言葉とは、思いも寄らぬことだった。
「お前が行けばいいだろう。俺は、子供騙しに興味はない」
そして一度は受け取った封筒すらも、テーブルを滑らせて返してきた。
驚いたが、しかしこちらにも事情があり、そうですかと引くわけにもいかない。胸の前で手を組んで心持ち身を乗り出し、懇願の姿勢を取る。
「じゃあ、あの、誰かお友達にでも差し上げてください。お友達がダメだったら、お兄さんが今……ええと、ご贔屓にされてる女性でもいいですし、とにかく誰でもいいですから。私の手元になければいいんです、本当にお願いします、貰ってください」
「お前が他の友達にくれてやればいいだろうよ」
「万が一にも「一緒に行こうよ!」なんてなったら駄目なんです」
思わずその光景を想像してしまい――室内の冷房はそれほど強くないというのに、寒気を覚えて肩を震わせた。私にはどうしても、それに行けない理由があるのだ。
どうかお願いしますお願いしますと頭を下げる私に、兄は面倒くさそうに口を開いた。
「そこまで言うなら受け取ってやらんでもねェけど、一体、何なんだ」
「ええと、まあ、お恥ずかしい話なんですけど」
理由が必要なら、言わないわけにもいかない。恥ずかしいが、嘘をつくほどのことではないし、ついたところで兄は見破るだろう。
この歳になって恥ずかしいが――唇を尖らせながら、小声で、言った。
「実は私、このお化け屋敷、嫌いなんです。……怖くて」
と、兄は。
――珍しく穏やかな笑顔を浮かべた。
「お兄さん今、私のこと馬鹿にしたでしょ!」
「してねェ。微笑ましいと思っただけだ」
「してるじゃないですか!」
「してねェ。ところでバカって微笑ましいよな」
「あーうー!」
馬鹿にしているではないか。
地団太を踏みたいくらいの思いに駆られるが――そんなことをしても仕方ない。諦めて、私は大きくため息をついた。俯いて、テーブルクロスの皺など眺めながら、嫌な思い出をぽつぽつ話し始める。
「別のところのお化け屋敷はだいたい大丈夫なんですよ。私もそんな子供じゃないし、お兄さんのオカルトスポット巡りのせいで怖いものにはだんだん耐性ついてきたし。だけど、ここは……私、小さい頃に一回行ったことあるんです。だけど本当に怖くって、最後なんて、泣きながら逃げ出して。それで転んで階段落ちて、足の小指の骨折ったんですよ。だから、本当に嫌な思い出ばっかりで、絶対二度と行きたくな――」
「――ぶふっ」
妙な音がして、顔を上げると。
兄は顔を背け、肩をぶるぶる震わせていた。口元は手で固く押さえられていて伺うことはできないが、それがいったいどういう感情を示しているかは瞭然だ。
驚きと怒りとが綯い交ぜになって、私は思わず目を剥いた。
「ひ、ひどいお兄さん、人の不幸を笑うなんて!」
「いや、だっておま、お前、お化け屋敷で骨折って、おま……!」
我慢できなくなったようで、腹を抱えてヒイヒイ喉を鳴らす。ここまでつぼに入ったこの人も珍しいが、今の私は珍獣を見つけた喜びよりも羞恥の方が先に立った。
「本当に、本当に怖かったんですからね! ほんっとうに、ほんっとうに、」
「わかったわかった。そこまで言うなら貰ってやる」
頬に残った笑みの名残が不満だったが、貰ってくれる、という言葉に私の怒りとその他は幾分収まった。軽く頭を下げて、お願いします、と答える。
ようやく心配事が解消される、と安堵を覚えかけたが、残念ながら話はそこで終わらなかった。
「貰ってはやる、が……気になるな」
「気になる?」
何がだろう。遊園地の場所? アトラクション?
しかしこの人が気にしたのは、そんなことではなく。私が言葉を繰り返すと、ニタリ、とまるでチシャーキャットのような、悪趣味な笑い方をした。思わず息を呑むが、兄は私の反応になど構わない。
「その『お化け屋敷』の、何がお前をそんなクソ笑える状態に――」
言葉を切り、咳払いをひとつ。
「――失礼。何がお前をそんな恐怖の状態に陥れたのか、興味がある」
本音が出たぞクソ兄貴。
「俺の勘が妙に疼くんだよな。ソレ貰ってやるから、小学生のお前がそこで何を見たのか、詳しく話してみろ。面白い話なら、礼は弾んでやるぞ」
そして兄は、テーブルの上に置いたままの白い封筒を長い指の先でトンと突いた。
欲しいものは文字通り、『何をしても』手に入れるこの人だ。金でも色でも、他のものでも、兄に払えるものならそれこそ何でも躊躇わずに払う。だから、「礼は弾む」その言葉に嘘はないのだろう。しかし私のそれは、有閑ナントカの持つ指輪や骨董やそんなものとは違い、ただの小学生の思い出である。兄の期待に沿うとは思えないが……
鳶色の瞳を、上目遣いで伺う。
この炯眼の前には、残念ながら、拒否権などないのである。
「……わかりました。ええと、私がそこに行ったのは、確か十五年前の話です――
暑い季節になったので、今年もこの物語を更新してみます。
私が2012年に書いたお話です。書き手の青さも含め、どうぞよろしくお願いします。