六 見えるものの話
落ち着けば、少しずつ記憶の整理ができてきた。
兄は結局、一度も私に『あれ』を見せなかった。
電話してすぐあと、救急車が到着。降りてきた隊員が手早く『それ』を回収し、去っていった。その間私は一歩も動けず、ずっと兄にしがみついていて……私が見たのは、後に残った、赤いペンキのようなそれだけ。
警察への証言も、すべて兄がやった。数日前に見たものは伏せ、ただたまたま通りかかったところにこの騒ぎが起きた、連れ――私だ――はひどく怯えてしまっている、と心底迷惑そうに言っていたのを頭の片隅に覚えている。
通報から証言まで、兄が非常に手馴れていたのが、少しだけ気になった。
*
「……美味しい」
グラスを傾けて覗き込みながら、私はぽつりと、呟いた。
空調の整えられた部屋で飲む温かい飲み物の、なんと美味しいことか。飲みやすい温度に温められたそれは、カリンと柑橘、蜂蜜の混ざった優しい味わいをしていた。
ここは、特に代わり映えのしない、普通のフレンチの店。――この店をそう兄は紹介したが、お酒の種類が妙に多いなと思った。綺麗な瓶が、カウンターの向こうにいくつも並んでいる。カウンター席に陣取っているせいで、普段の食事の席よりも、兄との距離が近い。しかしその空気に色恋めいた何かは一切なく、そんなことより兄が私の髪を弄って遊びたがるのが非常に邪魔だ。現に、細い三つ編みが既に二本も作成されている。
ちなみに私の隣の席には、先ほどの巨大プライズが鎮座中だ。他の小さなぬいぐるみは袋に収めたが、それだけは入らなかったのである。
「それはよかった」
兄がそう言った。酒の並んだ棚を眺めていたせいで、いったいどんな顔をしていたのかはわからないが。
――兄の手元には、私のものと形のよく似たグラスがある。色もよく似ているが、中身はアルコールの有無という点で大きく異なっている。この人が傾けているグラスの中身は、果実酒だ。
グラスをもう一度傾けると、冗談交じりの口調で、私に問うた。
「ご気分は晴れましたか、お嬢様」
「おかげさまで……」
しかしそれは、勿論、嘘だ。
あんなものを見たのも、あんな体験をしたのも初めてだった。聴覚からも視覚からも、実際に何を得たわけではないというのに、人の想像力というのは優秀なもので、いつの間にやら『背後にあったはずの光景』を想像している。気など、そうすぐに晴れるわけがない。数日間は思い出して気分が悪くなるだろうし、きっと、夢にも見るだろう。それでもそうやって答えたのは、なんということはない、ただの意地だ。
しかしながらこの人は、それもまた看過していた。当たり前だ、私のやせ我慢など、見破れないわけがない。だが、私の努力だけは評価してくれたらしい。それを責めるわけでなく、上げ諂うわけでもなく、ただ「そうか」と呟くように答えると、その大きな手を私の頭に乗せた。
「なんですか」
「いや……」
曖昧に語尾を濁すと、髪をかき回すように手を動かす。それがこの人の、珍しくも不器用な気遣いなのだということを、さすがの私も気づいていた。
「だけど」
その逆説は、果たしてどこにかかるものなのだろう。
飲み物から上がる湯気の、あたたかい柑橘の匂いを嗅ぎながらぼんやりと考えるけれども、答えは出なかった。
「覚えておけよ。――世の中っていうのは、こんなことばっかりだ」
兄の言う『世の中』がおかしいのか、それとも私が今まで見てきた『世の中』がお子様過ぎるのか。しかしいずれにせよ、あれは確かに『世の中』の一端だ。
だから私は成長しないといけないのだろう、と頭の片隅で思う。
少なくとも、兄がいなくても生きていけるくらいには。
さて。
温かいものを飲み、気分も少しずつ落ち着いて。そうして思い出したことを、私はぽつりと呟いた。
「お兄さん、私に嘘、つきましたね」
「嘘?」
ガチョウのコンフィが乗ったバゲットを齧りながら、兄は軽く目を見開いた。もごもご咀嚼しながら「覚えがねェな」と言うが、しかしこの人がそれを忘れているわけがないのである。片手で隣の席のぬいぐるみを撫でながら、不満に唇を尖らせた。
「とぼけないでください。お兄さん、気づいていたでしょう。……花がない、本当の理由」
不機嫌そうに言って見せると、兄は「あァ」と呟いた。誤魔化そうとしていたわけではなく、どうやら本当に忘れていたようだ。グラスの酒で口の中のものを飲み下すと、私を見た。
「嘘じゃない。俺はお前に、嘘をついたことはない。ただ、」兄は肩口で左手を開く。表情はいつもの人を食ったようなそれだった。「話さなかっただけだ」
同じことだ。わかっていて伝えなかったのなら、変わらない。しかしそれを責めたところでこの人が堪えるわけがないこともまた、わかっている。私は兄にも聞こえるような大きなため息をつくことで、憤りとか不満とか、そういったものをすべて、忘れることにした。
「つまるところあそこに花がなかったのは『まだ誰も死んでいなかったから』ですよね」
「合格、かな」
摘んだバゲットに、今度はレバーパテを塗りたくりながら、薄笑いでそう答えた。食え、と私にそれを手渡して、
「俺がお前に見せたものは、生霊だ」
「いきりょう?」
日常的に聞く言葉ではないが、知らないものではない。確か……
「……六条御息所?」
「一般人のメジャーな生霊はそれなのか?」
メジャーかどうかは知らないが。と、首を傾げて見せた。
私が思い出したのは、源氏物語の登場人物。何巻に出てきたかまでは覚えていないが、光源氏の恋人のうちの一人で、生霊を飛ばして他の恋人を殺した、そこそこ有名なキャラクターのはずだ。
「教科書に乗ってました」
「最近の大学教授は生霊学なんてものも教えるのか。驚きだ」
「いえ、高校の古典の教科書で」
「冗談だ、馬鹿」
ならば真顔で言わないで欲しい。
「確か光源氏より結構な年上だったんですよね。なんか年増だったような覚えがあります」
「まあ、当時にしちゃ結構な歳いってたろうけどな……っつっても、源氏との年の差に関してはいくつかの説があるし、誤記もあるとされている。そもそも時代が時代だからな。七歳差という説を取れば、そうでもなかろうよ」
だが現代でも、七つも年上の異性は結構な大人に見えるだろう。私に置き換えてみれば、七歳年上の異性などアラサーのオッサンで……と言いかけて、兄と自分の年齢差が確かその程度だったことを思い出し、黙っておくことにした。百害あって一利なし。
飲み物を一口。温かかったはずのそれはぬるくなってきていた。
先ほどまで兄がぐじゃぐじゃかき回していたレバーパテを、スプーンにまとめる。私としてはとても美味しかったが、兄が食べないところを見ると、どうやらこの人の味覚には合わなかったらしい。ならば私が残りを食べてしまっても問題ないだろう。掬い上げて口に入れ――ようとしたそのとき、不意に右手を掴まれた。
まったく予測していなかった感覚にぎょっとする。見れば兄の手が、スプーンを掴んだ私の手を握っていた。
「えっ?」
私の困惑は完全無視。兄はそのまま私の手ごとスプーンを引き寄せると、掬ったパテを自分の口に入れてしまった。そして、まるでゴミでも放るかのようなぞんざいさで私の手を離す。私の手の中に残った銀のスプーンには、パテは欠片も残っていない。
あっけに取られたままの私の目の前で、兄はそれを咀嚼すると、顔をしかめて「ハーブがきつい」と文句を言った。何様だ。
「むがー」
「六条御息所は、自分の生き霊が葵の上を苦しめていることを知ったとき、恐れおののいた」
怒りの声を上げたところで、兄は聞かない。淡々と話を本筋に戻し、続けようとする。私の憤りは冷めやらず、どうして人が食べようとしたものを横から――
と、言おうとして。
ふと、兄の言葉に疑問を覚えた。――六条御息所が、怯えていた?
「……自分が飛ばした生き霊なのに、怯えていたんですか?」
「よく誤解されるけどな、生き霊ってのは、式神や丑の刻参りなんかのように自らの意思で行う呪術とはまた違う。人が無意識のうちに心の底に押し込んだ感情が、当人すらも気づかぬうちに呪いへと変化したのが、生き霊だ」
兄は少し迷ったあと、果実酒をぐうっと一気に飲み干した。
空になったそれをバケットの置かれていた皿の上に置き、水の入ったグラスを手に取る。そしてそれを傾け、少しずつ果実酒のグラスに水を注いでいった。ちりちりと細い水音を立てて、果実酒のグラスに水が溜まっていく。
「だから六条御息所当人に、生き霊を作りだしたという自覚はなかった。愛しい君を心のままに愛したいがそれは叶わぬ、叶えてはならぬと自己抑制を重ね、愛しい君に寵愛を受ける姫らへの憎しみを、自身すら意識しないまま腹の底に溜め……結果、生き霊として発現させてしまった」
七分目、八分目、満杯、……そして。
張力で抑え切れなくなった水が、果実酒のグラスの縁を割り、溢れる。
「つまるところ生き霊とは、恋愛に限らず人、物、何かへ募らせた『無意識下の執着』の発現だ。執着という言葉が受け入れ難ければ変えよう、『感情』だ。そうやって募っていった感情が、やがて溢れ、流れ出し、そして現実に害を成す」
溢れた水は敷いた皿を、音もなく侵食する。ひたひた、ひたひたと満ち潮のように静かに募り、侵し、だが決して引くことはない……
「今回のあれは、それと同じだ」
水のグラスが空になって、兄は店員を呼んだ。皿とグラスを下げてもらい、また新しく酒を注文する。
カウンターの向こうから、グラスがひとつ、差し出される。兄は濃い青色のそれを受け取って、一口飲んだ。「旨い」
「最初、お前にあれを見せたとき、あの生き霊は屋上から落ち、七階あたりで消えた。つまりそれは、その時点でのあの男の『募ったもの』は、その程度のものであったということだ。……そこで留まれば、良かったんだけどな」
呟くように口を開いた兄の、空の右手が迷うように虚空で止まる。どうしたのかと思ったのもつかの間、それはすぐに机の上に置かれた煙草の箱へとたどり着いた。慣れた様子で煙草を取り出すと、やはり置いていたジッポライターで火をつける。
「あの男の生霊は、他の誰でもない、自分自身を向いていた」
地面にたどり着くにはまだ程遠かった、それほど実感のない、あやふやな感情。最初はその程度であったそれは、しかし日を追うごとに少しずつ、地面へと近づいていった。現実味を、増していった。
募った感情は、やがて現実に害を成す。
「どうしてあの人は、そこまで追い詰められてしまったんでしょう」
「んー? 知りたいか?」
相づちを打った声は、上機嫌そうではあった。
そしてやはり楽しそうに、言葉が続く。
「お前、あのビルに入ってる……」
が、すぐに止まってしまった。それから再び煙草を咥えたが、仕草はなぜか、口をふさぐそれに似ている。ゆったりと白い息を吐きながら、まだそれほど短くなっていない煙草を灰皿に押しつけた。
「……いや、なんでもない。忘れろ」
その物言いは、自分自身を戒めるようでもあった。
気にはなったが、兄が一度言わないと決めたことを言うことはそうない。言わせようとしたところで無駄な徒労に終わるだけだ。
「お兄さんは……」
あのとき、兄がケーキを食べながら呟いた言葉。あのときこの人は、ニシでもイシでもなく、『自死』と呟いていたのだということに、遅ればせながら気づいた。自死、ねェ。
七、六、五。あれが思いを募らせていく様を――追い詰められていく様を、兄はずっと、ただ傍観者として、見ていたのだ。
止めることもせず。
「あの、」
ほんの少し瞼を落とした兄の表情に、言葉にしにくい思いを覚える。あのときと同じだ。あの人が『落ちた』とき、空を見上げる兄が浮かべた笑顔――それを見たときにも覚えた、おぞましい、吐き気にも似た感情。
聞くべきか、聞かざるべきか。……一瞬、躊躇ったが。
これくらいは聞いても良かろうと、兄を見上げる。
「止めたいと、思わなかったんですか」
すると兄は、不意を打たれたように瞬きをして――困ったような笑みが、答えに混じった。
「俺にはどうにも、できなかったよ」
そうだろうか。会って一言、馬鹿なことを考えるのはやめろと言っていたら。ただ一言、くれてやったら。あの人は考えを改めていたかもしれないのに。こんな悲惨なこと、しなかったかもしれないのに。
しかし兄はかぶりを振る。ゆるゆると、諦めたように。
「人の感情ってのはそう簡単なものじゃない。あそこまで凝り固まってしまえば、なおさらだ」
お前にはわからないだろうけどな。何度目かわからないその言葉を、また聞いた。
「本当に死にたい奴は「死にたい」などと人に言わない。本当に人を呪いたいと思う奴は「呪いたい」などと人に言わない。そういうモンだろう。……だから六条御息所は、生き霊を作り出してしまったんだろうが」
「…………」
兄はそういうものを、たくさん見てきたのだろうか。世の中にはそういうものがたくさんあり、兄の手によっても、もしくは誰かの手によっても、救おうとして救えないものがたくさんあったから、そうやって、言うのだろうか?
そうなのか。……そういう、ものなのか。
納得して頷くまでには理解が至らず、横に小さく、首を傾げる。兄はこちらを見ないまま「お前はわからなくていい」と言った。しかしそれもまた、理解不足の小娘と、馬鹿にされているように感じて嬉しくない。
温いカリンジュースをぐいと呷る。冷えて甘さを増してきたそれが、ともすれば兄へぶつけてしまいそうな自己嫌悪とともに喉を落ちた。
つぎでおわる。




