四 見えるものの話
性格の悪い我が兄だが、時間にはそこそこ正確だ。『仕事が長引いた』以外の理由で、待ち合わせに遅れることはほとんどない。
ただこの日は珍しいことに、時間になっても待ち合わせ場所に姿を現さず、約束の時間から五分ほど経った頃ようやく「二十分ほど遅れる」というメールが届いた。明日は雨かな、と思いながら近くの店をぐるりと見て回り、十五分ほどしてから戻る。兄はもう到着していて、私を見つけるなり目を吊り上げた。
「遅い」
だが今回に関しては、当方、文句を言われる筋合いはない。
「二十分遅れるって言ったのはお兄さんです」
「ハチ公は飼い主が帰って来るまでその場で待ち続けたぞ」
「ここは銀座ですよ」
「場所を語ってるんじゃない」
小突かれた。が、それほど硬い拳ではない。
どうやらそれほど怒っているわけではないらしい。もしくは、遅れたことに多少なりと引け目を感じているか。兄はそれ以上そのことについて何も語らず、スタスタと歩き出した。私は慌ててそれを追う。
そしてまた珍しいことに、兄は黒い大きなヘッドフォンを首にかけていた。それの接続端子は、ジーンズのポケットに繋がっている。
「けど、お兄さんが時間に遅れるなんて、珍しいですね」
「こいつが見当たらなくてな」
横に着いて歩きながら言うと、兄は左側の人さし指の先で、ヘッドフォンをカツカツと叩いてみせた。しかしヘッドバンド型の大柄なそれもまた、兄が使用するにしては珍しいアイテムだ。いつもはカナル型のそれを使っているが、今日はそういう気分なのだろうか。もしくは、いつものイヤホンが壊れて、しぶしぶそれを使っているか。――前者はともかく、後者だとすれば、訊けば機嫌を損ねるだろう。ならばその話題に触れるのは得策ではない。そう考えて、私はそれを問うのをやめた。
代わりに、別のことを尋ねる。
「それでお兄さん、今日は何食べさせてくれるんですか?」
すると、兄の視線がこちらを向いた。しかし私を見下ろすその表情は、どこか呆れたようなそれであり。
そしてやはり呆れたような色を有した声音で、私にこう言う。
「お前が興味あるのは食欲だけか」
「ええと」
首を傾げて、考えて。
「……人間関係を円滑に進めるためには、『お兄さんご本人にも興味あります』とか言った方がいいんですかね」
「言わなくていいし言われたところで嬉しくもねェ」
だと思った。
「一応夕飯は行きたい店がある。予約要らねェトコだから、夕飯時より少し早めに行くぞ」
「はい」
「ところでお前」
「はい?」
「ヘビメタとハードロックどっちが好きだ」
「は?」
前触れも関連性もない突然の問いに、私は思わず声を上げ、瞬きをした。何か裏の意味がある質問とも思えないし、問うた理由も不明だが、取り敢えず答えを考える。
が。
ヘビーメタルとハードロック。
「……何が違うんですか?」
「どっちでもいいか」
しかし兄は勝手にそう結論づけると、ヘッドフォンの先、携帯電話を取り出して弄り始めた。
そのふたつのジャンルに贔屓のアーティストでもいるのだろうか。しかし、だとしたらなんだと言うのだろう。この人が私に自分の気に入りの曲を聴かせて「いい曲だろう」などと言うところなど到底想像できなかったし、世の高校生カップルがよくやっているような、一組のイヤホンを各々片耳ずつ入れて曲を聴くなんていう甘ったるくてへどが出そうな芸当を、兄とやりたいともまた、思わない。――やろうとしたところで、ヘッドフォンの形状的に無理があるけれど。
というかそのふたつの違いは何なのか本当に教えてほしい。ギターがあるかないかとか? そんなことを考えながら兄の後ろを歩いていると、
「お」
と声を上げて兄が突然立ち止まったから、私は兄の背に思い切り鼻をぶつけることになった。
痛む鼻をさすりながら、私は兄に恨み言を、
「どうしたんですかお兄さん、いきなり立ちどま――」
言いかけて。
「……ん?」
はた、と止まった。
銀座のコンクリートジャングルの一角で、突然立ち止まる兄に抗議の声を上げる私という現状に、もやんとした奇妙な何かを感じる。こういう感覚をなんというのだったか。そう、あれだ――
デジャ・ヴ。
日本語でいうところの既視感というやつだ。そしてそれは決して気のせいや勘違い、及びそれに類するようなものではなく、私は確かに数日前、似たようなシチュエーションを体験していた。
となるともしや、ビルの上には。数メートル先、八階建ての茶色いビルの屋上を見上げると、
「……いた」
やはりスーツ姿の男性が立っていた。
夕暮れにはまだ遠い銀座の午後。茶色いビル、見上げる兄、ぶつかる私と、屋上の男性――幽霊。先日よりも若干ビルに近くはあるが、時間も状況も、完璧だ。伺うと兄は、感情の見えない顔でぼんやりとそれを見上げていた。なぜか小さな声で、感慨深げに「ああ」と呟いたが、どうやらそれは私に聞かせるためのものではないようだった。
それがやがて、兄がよく浮かべる、性格の悪いあの笑みに歪む。……しかし今のそれは、いつも私に見せるものとは何かが違っているような気がした。いつものそれよりも、なんと言うか、なんと言ったらいいのか。正しい言葉は思い浮かばないけれど。
さて、今度はこの人は、いったい何を思ってあの霊を私に見せているのだろう。真意を問おうと、改めて兄を見る。
が、私が言葉を吐くより一瞬早く、
「ここまでかな」
と、兄が言った。
「は?」
「ここから先は俺の領分だ。お前はやめとけ」
ヘッドフォンを首から外して右手に握り、こちらを向いて斯く言うが、私には何のことやらさっぱり理解できない。勝手に霊を見せておきながら、やめろだの何だのと――別に見せろとせがんだ覚えもないと言うのに。
「というわけで、お前、退場」
「何ですかそれ、どういういぎにゅうっ!?」
言葉尻は奇声に消えた。どういう意味かと問おうとしたのだが、兄は相変わらず私の言葉を最後まで聞かない。それ以上何を答えもせずに、ただ持っていたヘッドフォンを私に被せた。
突然大音量のロックだかメタルだかが耳に響いて、思わず悲鳴を上げる――より一瞬早く、兄が無理矢理私を振り向かせて力一杯抱きしめた。片腕を私の背に回し、もう片腕で私の頭を固定したから、どうにも身動きが取れなくなる。これは抱擁というよりも、拘束だ。
少女漫画のヒロインならば目から星でも飛ばしながら「やだ何突然、ドキドキしちゃう!」とか思うのだろうが、生憎とそんな可愛らしい性格もボキャブラリも持ち合わせていない私は、目を白黒させながら「何をとち狂ったんだこの人は」と思うのが精一杯だった。
窮屈なときがどれだけ続いたか、具体的な時間はわからない。それほど長くはなかったはずだが、しばらく後ようやく腕が緩んで、その隙に私はやかましいヘッドフォンを取り外した。顔を上げて兄を見上げ、抗議をしようとするが、
「ちょっとお兄さ」
「もう少し黙ってろ」
「も゛っ」
また頭を抱え込まれて喋れなくなる。
そのまま兄は私の背に回していた腕を解いた。解放してくれるのかと思いきやそうではなく、空いたその手でポケットから携帯電話を取り出したのが、碌に自由にならぬ視界の端に見えた。プッシュは意外と短く、兄は慣れた様子で手早く携帯電話を操作し耳に当て――
言ったことばは、あまりにも。
非日常のそれだった。
「もしもし、救急車一台。ビルから人が転落」
「……は……?」
聞いた私の口から漏れたそれは、酷く間抜けで、そして、力無いものだった。
目の前が、ぐるりと回ったような錯覚に襲われる。
――兄は今、何を言った?
「住所は――」
そこから先は、聞いていなかった。
人が落ちた。その一言が頭の中を巡る。
首は自由にならないので、視線だけを兄の顔に向けると、見慣れた鳶色の瞳は私の背後の一点を見つめていた。その先を追うのは躊躇われたし、そもそも手を離してくれないのだから不可能だったが。しかしそれでも、そこに何があるのかは容易に想像がついた。
人が。
幽霊でも、幻視でもなく。
現実の。
足から力が抜けそうになって、思わず兄にしがみついた。頭を抱えていた腕が移動して、私の肩を支える。
兄が一一九に告げた言葉の非現実さに、脳がぐらぐらする。
人が落下。
それはつまり、
私の背後に、
今、
人の、
「振り返るなよ」
意識が飛びそうになった瞬間、声がして、気絶するのは免れる。
しかし肯定の返事はできなかった。その指示に抗いたかったわけではなく、単に、喉が震えて声が自由にならないのだ。だから首を大きく縦に振ると、携帯電話を握ったままの兄の手が、私を撫でた。その手は、兄にしては珍しく優しかった。
「き、」
「ん?」
引き攣る喉を必死に開ける。聞き返す声も妙に優しくてこの人らしくない。私の掠れた声を聞き取ろうと、兄が顔を寄せるのがわかった。
「き、きゅう、救命、救命措置を、」
あとから考えれば、よくぞそこまで考えが回ったと思う。だが落ち着きが戻ったと言うには程遠かった。
本当に冷静だったなら、そんなことを言うわけがない。
「ああ」
そして兄は、私と違って落ち着いていた。
「無駄だよ」
八階建てビルディングの屋上から一切の衝撃緩和なしにアスファルトへ落下した人間には、何をしても助からないと気づいていた。
じゃかじゃか、じゃかじゃかと首元から聞こえるヘッドフォンの音洩れが、異様に間抜けなものに感じる。震えの止まらない両手で必死に兄の胸元を掴んだまま、私は兄の言葉を聞いた。
「我々にできる活動はした。あとは救急車の到着を待つだけだ」
来たところで遅いだろうがな、と呟いた。