一 起
「そういえば、お兄さん」
と私が呟いたのは、ガードレールに括られたペットボトルを見たからだった。
「ん?」
私の呟きを聞きとめて、前を歩く兄が肩越しに振り返った。
今は夕方、夜七時に少し足りない。空を見上げればほんのり暗い空があり、少しずつ日が短くなってきたのを感じる。
兄からメールが来たのは本日、ちょうど四限の講義が終わったときだった。さて帰ろうかと荷物をまとめていたところへ「仕事終わりに時間があるので、夕飯でもどうか」と誘いをもらい、こうして新宿まで出てきたのである。
駅前で待ち合わせをして合流し、さて何を食べようかとあてもなく歩いていたところに『それ』を見つけた。
目の前の信号はちょうど赤になったところで、立ち止まった兄と肩を並べる。
「なんだ」
「いえ、たいしたことじゃないんですけど」
断るようにそう言うと、兄はフンと鼻を鳴らして「下んねェ話なら聞かん」と愛想なく答えた。
仕事で何かあったのかは知らないが、どうやらあまり機嫌がいいわけではないらしい。そういうときにわざわざ呼び出さないで欲しいと思うわけだが――なんにせよ。こういうときのこの人に、本当に『たいしたことのない』話をすると、怒りの矛先が私に向くことを経験上知っていた。だから、
「いや、やっぱなんでもな」
「言いかけてやめんな」
しかし辞退もまた、兄の怒りに触れてしまうようだった。
――『天上天下唯我独尊』。
そんな言葉が似合うこの人のことを、私は「兄」と呼んでいる。とはいっても血縁上、戸籍上私と関係があるわけではない。知り合いの男の人、という意味でなんとなく呼んでいたのが定着してしまっただけだ。
兄というひと。この人の容姿は、そこらのモデルや俳優よりもはるかに優れている。癖のない黒髪と切れ長の焦げ茶の瞳、すらりと高い背丈と、非常にバランスの整った風貌だ。人ごみを歩けば声をかけられ、駅前で芸能スカウトやファッション雑誌の取材の依頼を受けたこともあるとかないとか。整形でもしているのかと疑いたくなるような完璧な顔立ちだが、いわく完全な自前らしい。外見だけなら、この人に勝てる者はなかなかいないだろう。
……だというのに。
この兄、非常に、性格が悪い。
自分の気に食わなければ容赦なく殴るし、文句があれば隠さず言う。この外見に惹かれて近づいて、その毒に泣きを見た女性は少なくない。
そしてこの人、容貌のほかに、群を抜いて優れている点がもうひとつあるのだが――それはさておき。
「それ見て思い出したんですけどね」
話さなければ兄は百パーセントの確率で怒るのだ。だったら少しでも救済の可能性のあるほうを選ぼうと、私は白いガードレールを右手で指した。
兄の視線がそれを追う。そこは、交差点の四つ角のひとつ。ガードレールの支柱の一本には、ペットボトルが一本、細い針金で縛りつけられていた。ペットボトルには水が満たされ、まだ真新しい切花が挿さっている。そしてその真下には、缶ジュースと線香が置かれていて……それらが示すものは、つまり。
けれど私が話したいのは、ここで死んだどこかの誰かのことではなかった。
「この間、大学の近くの交差点で幽霊が出る、って話を聞いたんです」
「幽霊?」
少しずつ信号待ちの人が増えてきて、やがてペットボトルは人の足に遮られ見えなくなった。私は小さく首を縦に振る。
「そうです。……聞きます?」
「いいからさっさと言え」
上目遣いで尋ねると、兄はあごをしゃくって先を促した。先ほどと口調はそう変わらないが、それでも怒ってはいないようだ。そして続けろと指示するあたり、その話に興味を持ったのだろう。ハイ、と返事して、その噂について話し始める。
「大学の友達から聞いた話なんですけど、二ヶ月前あたりから、学校の近くの交差点で男の子の幽霊が出る、っていう噂があるらしいんです。その交差点のガードレールに、さっきのペットボトルと同じような感じで花瓶が結び付けられてるらしいんですが、夜、何も活けられてないそれをじいっと見ている男の子がいるそうで。
通りかかった人たちが、いったい何をしているのかと不思議に思って、男の子に、どうしたのって尋ねるとですねェ――その真っ赤な目と耳まで裂けた口をぐるりと向けて『僕の為に花を活けておくれよおおおおおおおおおおおあ痛ァ!」
「話盛んな」
容赦なく脳天に拳固を落とされて思わず頭を抱えるが、しかし兄は心配などするような人ではない。悲鳴を上げる私に冷ややかな視線を向け、
「で」
「……時間も時間だし、子供が一人でいるなんておかしいでしょう。だから、どうしたのって声をかけると、こちらも見ることもなく、ただすうっと消えていくらしいです」
痛いのは痛いが、誇張したのは事実なので文句も言えない。文句を言ったところでもう一発食らうだけだろう。だから今度は素直にそう締めくくると、兄はふうん、と鼻を鳴らした。
「『らしい』が多いな」
腕組みをし、ぼそりと言う。
と同時に、信号が青に変わった。人の波が一斉に動き始めて、私たちもそれと一緒に歩き出す。
文句をつけられたように感じて、私は思わず唇を尖らせた。
「だって私が実際に見たわけじゃないですもん。全部友達情報です。
そもそもその交差点自体、私は通学路じゃないんでそう行かないですし。花瓶があることだって、その話聞いて初めて知りましたよ」
「その交差点、具体的な場所わかるか」
しかし兄は私の言い訳など聞きもしない。聞くわけがない。いつの間にやら取り出していた携帯電話の画面を眺めながら、そんなことを問うてきた。そして文句を言ったところで、拳が落ちてくるくらいの役にしか立たない。不満ではあるが、大人しくその質問に答える。
「どこ……ええと、学校の近くで、番地はわからないけど、公園のあるところです。カリガネ公園って言ったかな、でっかいパンダの滑り台がある公園ですけど、知らないですよね」
「ああ、あそこか」
御苑や恩賜公園のような大きな施設ならまだしも、カリガネ公園は子供が遊ぶような小さなそれだ。知るわけはないだろうと思いながら駄目もとで言ってみると、意外にも兄は、合点がいったかのように頷いた。
横断歩道を渡り終えると、兄の足が左折を選んだ。それが意識的にかそれとも無意識にかはわからないが、自然と私もそれを追って左に進むことになる。
「知ってるんですか」
「世田谷のあそこだろ。二年くらい前までその近くに住んでた。……けど、花瓶なあ」
眉根を寄せ呟いて、思い出すように虚空を見る。顎に手を添え、変だな、と首を傾げた。
「ありゃあ俺が住んでた頃からあったぞ」
「えっ」
予期しなかった言葉に、私は思わず声を上げた。
「本当ですか」確認に尋ねると兄は「嘘ついてどうするよ」と呆れたように答える。
「確か俺が引っ越すより一年くらい前だったから、今からだいたい三年前か。交通事故で、女性が一人亡くなったな。そのときに遺族が設置したんだったような気がするが……」
最後まで聞かずとも、言いたいことはわかった。
「じゃあそれは、男の子のために置かれてる花瓶じゃない、ってことですか」
「少なくともガキの幽霊が眺めるにはおかしいってェのは確かだな。もし俺の記憶違いでそのとき死んだのがガキだったとしても、三年も経った今になって出るのはおかしい」
「そうですよね……」
と、私が同意を答えたそのとき。
話し始めてから少しずつ遅くなっていた兄の歩みが、遂に止まった。
「あ」
――まずい。
これは、非常にまずい状態だ。
恐る恐る兄を見やれば、顎に手を当て俯いて、見方によってはどことなく物憂げな様子。外見『だけなら』誰しも認める兄のその格好は非常に絵になっていたが――残念ながら兄の内面も知る私には、それは見惚れるどころか嫌な予感の種にしかならない。
どうやら私の話は、兄の好奇心に触れてしまったらしい。
話題の矛先を変えようと、私は慌てて早口でまくし立てる。
「っそ、そんな感じで私の学校のちょっと不思議な噂話でした! さ、さあてお兄さんそんなことより何食べましょうかこのまま行くと新宿高島屋ですけど上階のレストラン街がいいですかねっ私的におすすめなのは欧風料理のお店なんですけどォ――」
「行くぞ」
しかしすべては遅かった。
私の努力は意味をなさず、兄はそもそも私の話など聞かずに回れ右をする。携帯電話を操作しながら、ずかずかと大股で、来た道を引き返し始めた。
「お、お兄さんっ」
こうなってしまったら、私にできる抵抗はない。慌てて兄の背中を追った。体格上兄より歩幅の狭い私は、半ば駆け足で後を着いていくことになる。
せっかく渡りきった信号が点滅する中、私たちは急いで横断歩道を戻っていく。
……どこに「行く」のかなど、聞かなくてもわかりきったことだった。そして、この人の下した決定にどんな文句を言ったところで無駄だということもまたよくわかっていて、だから私は、別のことを兄に尋ねた。
「ちょっとお兄さん、夕飯はっ?」
「ンなもん後だ、後」
それもまた、聞かなくてもわかっていたことではあったが。
時計は今、ようやく七時を回ったところ。
(続く)