3 マグヌスの浮気
妖しい灯と賑やかな音が漏れている扉を見つめ、セシリアは一息ついた。 意を決して軋む扉を開けると、不快な臭いが鼻に突く。 アルコールと何かが混ざったような、今まで嗅いだことのない悪臭だった。
「うっ………」と、ウルリカが小さく嘔吐く。
それと、刺すような視線。 部外者を厭う視線だ。
「マグヌスが居るって聞いたんだけど」
カウンターの向こうにいる愛想のない店員に、突慳貪に尋ねると、彼は顎で階段を差した。
「ありがとう」と言ってはみたが、聞こえているのかいないのか、無言でグラスを拭いている。 代わりに不躾な視線が彼女たちにつきまとう。
「ちゃんと、ノックしてやれよ!」
笑い声と共に聞こえてきた忠告を、セシリアたちは無視した。
嘔吐きあげてくるのを必死に呑み込み、セシリアとウルリカは互いにしっかりと腕を組み、ギシギシと鳴る階段を上がった。
いくつかの扉があったが、一つだけ閉まっている扉がある。 セシリアは軋む廊下を歩き、その扉の前に立った。
中から人の話声が聞こえてきた。 懐かしい、愛おしいマグヌスの声だ。
何を話しているのかは分からないが、相手は女のようだった。 少し高い、押し殺した笑い声が聞こえる。
セシリアの背中がゾワリとした。 嫌な予感がした。 嘔吐きも止まっていた。
何かを察したウルリカが、セシリアの腕を小さく引っ張る。 振り向いたセシリアに、ウルリカは小さく首を振るが、セシリアはその腕を振り解き、いきなり扉を開けた。
ノックをするように言われていたのに……。
派手な音を立て開いた扉の先には、想像していた姿があった。 半裸の妖艶な女性がマグヌスに跨り、マグヌスの頭を抱えているようだった。
彼の腕は………。
女性の豊かな乳房を抱え上げ、その尖に口をつけたままの彼の視線がセシリアを捉えた。
と同時に、背を向けていた女性も振り向く。
「―――あら、可愛い覗き魔ね」
弾かれたようにセシリアは駆け出した。 彼らに背を向けて。 ウルリカの慌てたように彼女を呼ぶ声と、焦ったようなマグヌスの声も聞こえたような気がした。
転がり落ちるように階段を駆け下り、一目散に逃げ出した。 その後を派手な笑い声が追いかけてきた。
*******
「―――リア、待って! セシリア!」
ウルリカの呼ぶ声が、やっとセシリアの耳に届き彼女は脚を止めた。 肩が大きく揺れ、息が苦しい事に気が付いた。
通りすがる見知らぬ人々が、訝しげに彼女たちを見ていた。
「やっと、追いついた。 待って。 ちょっと、苦しいわ」
セシリアのスカートをしっかりと握り、腰を折りながらゼェゼェと息をつくウルリカは、しばらく言葉が出なかった。
呼吸が苦しいのも、そうなのだが、何と声を掛けて良いのか迷っていた。
父親から聞いていはいた。
「戦場で滾た自身を落ち着けるために、女を抱く者もいる」と。
「それは、野生を落ち着かせるために必要な行為」だとも言われた。
ウルリカは迷っていた。 彼女自身、生命の危機を感じた事もなければ、父親の言っている言葉の意味自体を、キチンと理解している訳でもなかった。
たが、この戦地に近い場所で手伝いをしてみて、何となく感じてはいた。
ただ、その感覚でセシリアを納得させていいものか、迷っていた。
「帰ろう」
それが良い。 このまま、マグヌスと別れた方がいい。 だって、彼はセシリアに「愛してる」って言わなくなったのだもの。 きっと、そういう事なのだ。
「帰ろう」
ウルリカはセシリアの潤んだ瞳をしっかり見据え、もう一度言った。
「………」
セシリアは迷っていた。 マグヌスに怒りが湧いていた。 でも、顔を見て、彼を感じて、愛しさも溢れてきていたのだ。
「―――そうね」
絞り出すようにそう言いながらも、彼女の瞳からポロリと涙がこぼれた。
二年は長かったのだ。
(あんなに、私の事を愛してるって囁いてきたマグヌスが、たった二年で心変わりをしてしまっていた。
私はこんなにも貴方を想って、貴方を待っていたのに。 貴方は簡単に私を忘れてしまったのだわ)
悔しかった。セシリアは、悔しかった。
マグヌスからの愛の言葉を待っているだけじゃなく、自分から「愛してる」「淋しい」と、手紙に書き連ねていたら、何かが変わっていたかもしれない。
いつまでも、マグヌスを、彼の言葉を待っているだけだった自分に腹が立ってきた。
セシリアは手に触れたスカートを握りしめ、俯いた。 ポロポロと涙がこぼれた。 いろんな感情が混ぜこぜになり、セシリアは声を上げて泣いた。
*******
翌日、二人は何事も無かったかのように救護員の手伝いをしていた。
ただ、二人とも目は真っ赤で、少しアルコールの匂いがしていた。
セシリアとマグヌスの身分違いの恋は、地方紙といえど新聞に載っていた事で、一部の救護員に知られていた。
また、昨夜の騒ぎも直ぐに、面白おかしく救護員たちに伝わっていた。
むごたらしく凄惨な現場から逃げ出す事なく、踏み留まり続けていたセシリアとウルリカの二人の貴族令嬢に、少なくない数の救護員たちが好感を持っていた。
そんな彼らは、あの騒動の後に彼女たちを呼び出し『慰める会』を開いたのだ。
セシリアは彼らのそんな優しさに触れ、任期が終わるまでのあと数日、ここで踏ん張る事にしたのだ。
忙しく身体を動かしていた方が、余計な事を考えなくても済む事もあった。
ウルリカも痛む頭を抱えながら、マグヌスを吹っ切ろうとしているセシリアを、微笑ましく見守っていた。
ところが――
「セシリアって、誰?」と言いながら、場違いなドレスを着た女が、救護テントに入ってきた。 昨晩、マグヌスに跨っていたあの女だ。
テント内が凍りついた。 視線がセシリアに集まる。
「ふーん。 あなたがセシリアね」
視線を辿り検討をつけた昨晩の女は、ニヤニヤ笑いながらセシリアに近づく。
動かずにいるセシリアの腕を取り、その女はテントを出ていこうとしていた。 慌てた救護員の一人が声を上げる。
「ちょっと、あなた。 彼女は伯爵令嬢なのよ? 貴女みたいな人が、話しかけられる方じゃ………」
「だから何?」
女は言葉を遮る。
「戦地で身分も何もないでしょ? 罰でも下す? いいわよ。 明日には、みーんな屍かもしれないんだから」
クスクス笑いながら、テントを出ていく女の後をセシリアはついて行った。 自分の意思で。
心配そうに視線を寄越すウルリカに「大丈夫」と口元を動かして。




